kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月30日 1995ボスニアヘルツェゴビナ空爆開始、ほか写真wikipedia廃墟のサラエボ国立図書館

8月30日

20260830日曜日旧暦7月18日赤口(13番丙子ひのえねヘイシ)月齢 17.3

43番丙午ひのえうま年 33番丙申ひのえさる月 13番丙子ひのえね日

吉方位 隠遁日 丙子ひのえね日 東 南 大吉 年末まであと123日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8830%E6%97%A5

8月30日の出来事

1363年(至正23年7月21日) – 鄱陽湖の戦いが始まる。明建国の朱元璋とライバル陳友諒チンユウリョウとの実質決戦。朱元璋はこれを下し、明建国に近づく。

損害 朱元璋軍 20万のうち戦死7000人 陳友諒軍60万のうち斬首2000人その他死亡数えきれずという壊滅的敗北。

1590年(天正18年8月1日) – 徳川家康が江戸城に入城[1]。入城日は、後に八朔御祝儀の日になる。

1615年(元和元年7月7日) – 江戸幕府が武家諸法度を発布。

1721年 – ユリウス暦のこの日(グレゴリオ暦においては9月10日)、ニスタット条約の締結により大北方戦争が終結。

戦争:大北方戦争

年月日:1700年2月22日 – 1721年9月10日

場所:北東ヨーロッパ

結果:スウェーデン側の敗北、帝政ロシアの成立

損害:20年で

双方で 各20万人程度合計三十数万人の戦死 病死 

1757年 – 七年戦争: グロース=イェーゲルスドルフの戦い。プロイセン王国対ロシア帝国

損害 プロイセン25000中死傷5000人 ロシア75000中死傷5400人。

1813年 – クリーク戦争ミムズ砦虐殺: クリーク族インディアンの一派「レッド・スティックス」がアラバマ・モービルのミムズ砦を襲撃し住民を虐殺。クリーク族インディアンレッドスティクスがミムス砦を襲撃し、白人と白人の仲間のインディアン住人を虐殺。

損害 レッドスティクス750人中戦死100人 白人他兵士500人程度中戦死捕虜517人

1862年 – 南北戦争: リッチモンドの戦いが始まる。8月29日から30日の戦闘 南軍の完勝。損害 北軍戦傷5353人 南軍戦傷451人。

1945年-沖縄戦8月30日・…1945年8月30日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。昭和天皇が日本の敗戦を告げた玉音放送から15日後のことだった。(中略)… マッカーサーと幕僚たちは8月29日にマニラからバターン号(C54輸送機)で沖縄の読谷飛行場に着き、翌30日、… 厚木飛行場に向かって飛び発った。この日は朝から快晴で、空は澄みきっていた。午後2時5分、2分間隔で着陸していた輸送機群に続いて、バターン号が舞い降りてきた。タラップが降ろされ、コーンパイプをくわえたマッカーサーが、一歩一歩踏みしめるかのように降りてきた。その姿は、役者が大見得を切るふるまいにも似て、自信に満ちたものだった。《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 58-59頁より》・30日に飛来したのはC54約150機、進駐兵力1200名であった。輸送機は3分ごとに規則正しく着陸したという。単純に考えて1時間に20機、全機が到着するのに7時間半から8時間近くかかる。途中マッカーサーの着陸で中断するから、9時間以上かかったことになる。1日中基地は爆音に襲われていた。将兵とともに、「ニューヨーク・タイムズ」、INS、UPAPなどの記者・写真班・放送員たち80人のほか、イギリス、オーストラリア、支那(当時)、フィリピンの記者・写真班22人、合計120人の報道関係者も沖縄から到着した。《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 219頁より》・日本に第一歩を印したマッカーサー一行は、日本側が用意したオンボロ自動車に乗った1200名の第8軍兵士を従えて、厚木から横浜に向かった。マッカーサー用には年代物のリンカーン・コンチネンタルが用意されていた。ご一行は横浜までの24キロをのろのろと進んだ。沿道には武装した日本兵が、背中を向けて警備に当たっていた。故障車なども出たため、目的地のホテル・ニューグランドまでは2時間近くもかかった。《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 60頁より》・日本国内の捕虜収容所全体での捕虜の死亡率は約10%であった。死亡原因のほとんどは、栄養失調、過労、衛生状態の悪さなどからくる病気・衰弱死であり、捕虜収容所での待遇は過酷であったと言わざるを得ない。… 国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計31,418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3,500人が死亡している。<POW研究会 POW Research Network Japan | 研究報告 | 日本国内の捕虜収容所>・日本軍は第二次大戦にあたり、予想をはるかに上回る数の捕虜をとらえた。その数は計13万1405人である(民間人抑留者を含めない)。死亡者は3万5756人、死亡率は27.1%。<中尾知代「研究ノート(2)捕虜と原爆 ―連合軍捕虜解放と原爆使用の是非―」(2020)>・1939年(昭和14)現在、南洋群島の日本移民は7万7,257人で、うち沖縄県移民は4万5,701人を数え、これは全体の59.2%をしめました。

移民の世紀

日本は第1次世界大戦の1914年、サイパン島を含む南洋群島を占領し、その後、国際連盟から委任統治を託された。1921年に国策会社の南洋興発が設立され製糖業などを担うと、沖縄からも移民が急増し1942年までに約5万5千人に達した。だが太平洋戦争中の1944年7月7日、サイパンの日本軍は米軍との地上戦で全滅。テニアン、グアムなども奪われ各地に建設された飛行場から日本本土への本格爆撃を許し、敗戦は決定的になった。多くの県出身者も犠牲になり、南洋群島で戦死した一般邦人約15,000人のうち、約13,000人を占めた。<キーワード沖縄戦(5)サイパン陥落 | 沖縄タイムス>・1972年、沖縄の施政権が日本に返還される。しかしそれは沖縄が望んでいた「復帰」とは程遠いものであった。

のぞんでいた「沖縄復帰」とは

沖縄は日本に復帰しました。しかし私が思うに、完全復帰になってないですよ。私たちが望んだ復帰というのは、米軍基地がなくて戦争もない、そんな世の中にしようということです。私は、アメリカ(基地)がいるあいだは、いつか戦争が起こるんじゃないかなと心配しているんです。そのうえ国が辺野古に新基地をつくろうとしているでしょ。新基地がつくられると、そこも戦争の足場になってしまうんですよ。本土防衛のために沖縄が戦場になったんですが、次に戦争が起こったら以前の戦争よりひどいことになるんじゃないかなと思うんです。こりゃ、食いとめるために頑張らないといけないと思うんですね。<OKINAWA 2015 語り継ぐ者 兼城賢清さんの証言(完全版) – VICE>

1974年 – 三菱重工爆破事件。8人死亡、376人負傷[4]。

1995年 – ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争: NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆が行われる。NATO史上最大規模の航空作戦で、第二次世界大戦以降ではヨーロッパ最大規模の空爆となった[7]。

1992から1995で 死傷20万人 難民200万人の発生。今日の欧州混沌の原因の一つ。この空爆はその戦闘上最大の規模のものである。

2021年 – アフガニスタンから米軍が完全撤退。アメリカ史上最長となる2001~2021の20年間の戦争が終結した[12]。アフガニスタン タリバーンの勝利。米国の威信失墜。損害 多国籍軍50万人(政府軍40万人)中 死傷政府軍66000人+多国籍軍2500人+民間人47000人タリバーン 10万人中 戦死51191人。

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1363年(至正23年7月21日) – 鄱陽湖の戦いが始まる。明建国の朱元璋とライバル陳友諒チンユウリョウとの実質決戦。朱元璋はこれを下し、明建国に近づく。

損害 朱元璋軍 20万のうち戦死7000人 陳友諒軍60万のうち斬首2000人その他死亡数えきれずという壊滅的敗北。

鄱陽湖の戦い(はようこのたたかい)は、1363年の中国で起こった朱元璋と陳友諒の間の湖上戦。この戦いで陳友諒は戦死し、朱元璋は西方の憂いを無くした。

1363年(至正23年7月21日) – 鄱陽湖の戦いが始まる。明建国の朱元璋とライバル陳友諒チンユウリョウとの実質決戦。朱元璋はこれを下し、明建国に近づく。

損害 朱元璋軍 20万のうち戦死7000人 陳友諒軍60万のうち斬首2000人その他死亡数えきれずという壊滅的敗北。

1590年(天正18年8月1日) – 徳川家康が江戸城に入城[1]。入城日は、後に八朔御祝儀の日になる。

1615年(元和元年7月7日) – 江戸幕府が武家諸法度を発布。

1721年 – ユリウス暦のこの日(グレゴリオ暦においては9月10日)、ニスタット条約の締結により大北方戦争が終結。

戦争:大北方戦争

年月日:1700年2月22日 – 1721年9月10日

場所:北東ヨーロッパ

結果:スウェーデン側の敗北、帝政ロシアの成立

損害:20年で

双方で 各20万人程度合計三十数万人の戦死 病死 

概要

当初、北方同盟はピョートル1世のロシア、フレデリク4世のデンマーク=ノルウェー、アウグスト2世(強健王)のザクセン=ポーランド=リトアニアから構成されていた。フレデリク4世とアウグスト2世はスウェーデンに敗れて1700年と1706年に脱落したが、1709年に再加入している。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(ハノーファー選帝侯)兼イギリス王ジョージ1世(ゲオルク1世ルートヴィヒ)は1714年にハノーファーとして同盟に加入し、1717年にはイギリスとして参戦した。また1715年にはブランデンブルク=プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が参加した。スウェーデン側ではカール12世のスウェーデンを始め、ホルシュタイン=ゴットルプ公領が、1704年から1710年の間にスタニスワフ・レシチニスキの下にポーランドとリトアニアの諸侯が、1708年から1710年にはコサックのイヴァン・マゼーパがそれぞれ参戦した。オスマン帝国は一時期スウェーデン王カール12世を庇護してピョートル1世に対して介入した。

戦争は、デンマーク=ノルウェーによるホルシュタイン=ゴットルプ、ザクセン=ポーランド=リトアニアによるスウェーデン領リヴォニア (en) そしてロシアによるスウェーデン領イングリアに対する三方面からの攻勢で始まった。スウェーデンはトラヴェンタールとナルヴァでデンマークとロシアの攻撃を撃退し、アウグスト2世への反攻ではリトアニア、ポーランドからザクセンへと追撃し、アルトランシュテット条約で敗北を認めさせ、彼を退位させた。 一方、ピョートル1世はスウェーデンのバルト地方を奪取し、この地にサンクトペテルブルクを建設してバルト海への出口を固めた。 カール12世はピョートル1世と対するべく、ザクセンからロシアへ戻ったが、ロシア遠征はポルタヴァでのスウェーデン主力軍の壊滅とカール12世のオスマン帝国領ベンデルへの逃亡で終わった。 ロシア軍の追撃はオスマン帝国軍の介入によってプルト川(プルト条約)で頓挫した。

ポルタヴァの戦い後、当初の北方同盟が再建され、その後ハノーファーとプロイセンが加盟した。バルト海の南と東のスウェーデン軍残余は追い払われ、スウェーデン領土は連合国によって分割された。スウェーデン本国は西からデンマーク=ノルウェー、東方からはロシアに侵入された。デンマークの攻撃はヘルシングボリの戦い (en) で撃退されたが、ロシアはフィンランドを占領し (大いなる怒り) 、スウェーデン海軍と沿岸要塞に深刻な打撃を与えた。カール12世はノルウェーに戦線を開いたが、1718年にフレデリックスハルド (en) で戦死した。

戦争はスウェーデンの敗北で終わり、ロシアがバルト海における新たな列強国となり、ヨーロッパ政治における新しい重要なプレーヤーとなった。正式な講和はスウェーデンとハノーファー、プロイセンとは1719年のストックホルム条約、デンマークとは1720年にフレデリクスボー条約、ロシアとは1721年にニスタット条約がそれぞれ結ばれている。 これによって、スウェーデンはフィンランド、ズンド海峡、スウェーデン領ポメラニア (en) の北部を除くすべての領土を割譲させられ、 ホルシュタイン=ゴットルプ公領との関係は断たされた。ハノーファーはブレーメン=フェルデン (en) を獲得し、ブランデンブルク=プロイセンはオーデル川河口域を併合し、ロシアはバルト海地方をデンマークはシュレースヴィヒ=ホルシュタインを確保している。スウェーデン絶対君主制はカール12世の死によって終焉し、自由の時代(Frihetstiden)が始まった。一方、ロシアはスウェーデンのバルト海における覇権を奪い取り、ヨーロッパにおける列強の一員となり、また、この戦争で獲得した地に新都サンクトペテルブルクを建設し、1721年、元老院と宗務院がピョートル1世に皇帝(インペラトル)の称号を贈りロシア帝国となった[3]。

1757年 – 七年戦争: グロース=イェーゲルスドルフの戦い。プロイセン王国対ロシア帝国

損害 プロイセン25000中死傷5000人 ロシア75000中死傷5400人。

グロース=イェーゲルスドルフの戦い(グロース=イェーゲルスドルフのたたかい、英語: Battle of Gross-Jägersdorf)は七年戦争中の1757年8月30日、ステパン・フョードロヴィチ・アプラクシン(英語版)陸軍元帥率いる多数のロシア軍がハンス・フォン・レーヴァルト(英語版)陸軍元帥率いる少数のプロイセン軍に勝利した戦闘。戦術的勝利にもかかわらず、アプラクシンはケーニヒスベルクに進軍せず、戦闘が終わるとすぐに撤退した[2]。

1813年 – クリーク戦争ミムズ砦虐殺: クリーク族インディアンの一派「レッド・スティックス」がアラバマ・モービルのミムズ砦を襲撃し住民を虐殺。クリーク族インディアンレッドスティクスがミムス砦を襲撃し、白人と白人の仲間のインディアン住人を虐殺。

損害 レッドスティクス750人中戦死100人 白人他兵士500人程度中戦死捕虜517人

戦いの後と近代の歴史

ミムズ砦史跡

アメリカ合衆国国家歴史登録財

ミムズ砦でのレッド・スティックスの勝利が、アメリカ合衆国南東部のフロンティア全体に恐慌を広げ、開拓者たちは政府の行動を要求し、逃亡した。戦闘後の数週間で、テンソーとトンビッグビー地区人口の約半分にあたる数千人がその開拓地を遁れてモービルに向かい、500人しかいなかったモービルは彼らを迎えるのに苦闘した[26]。レッド・スティックスの勝利はインディアンによる最大級の成果であり[27]、この虐殺は、クリーク族内の内戦から、アメリカ合衆国とアッパー・クリーク族のレッド・スティックス戦士の間の戦争に変わったことを意味した[28]。

1862年 – 南北戦争: リッチモンドの戦いが始まる。8月29日から30日の戦闘 南軍の完勝。損害 北軍戦傷5353人 南軍戦傷451人。

リッチモンドの戦い(リッチモンドのたたかい、英:Battle of Richmond)は、南北戦争中盤の1862年8月29日から8月30日に、南軍のハートランド攻勢(ケンタッキー方面作戦)の一部として、ケンタッキー州リッチモンド郊外、現在ではブルーグラス陸軍補給庫となっている場所周辺で行われた戦闘である。この戦闘は、南北戦争の中で南軍による最も完璧な勝利と言われることがある。

南北戦争の歴史家シェルビー・フットはスミスが「この戦争全体でも北軍と南軍のどの将軍が成し遂げたよりもカルタゴ軍が、ローマの大軍を包囲殲滅したカンナエの戦いに匹敵するものをケンタッキー州で成し遂げた」と記した[2]。

1945年-沖縄戦8月30日・…1945年8月30日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。昭和天皇が日本の敗戦を告げた玉音放送から15日後のことだった。(中略)… マッカーサーと幕僚たちは8月29日にマニラからバターン号(C54輸送機)で沖縄の読谷飛行場に着き、翌30日、… 厚木飛行場に向かって飛び発った。この日は朝から快晴で、空は澄みきっていた。午後2時5分、2分間隔で着陸していた輸送機群に続いて、バターン号が舞い降りてきた。タラップが降ろされ、コーンパイプをくわえたマッカーサーが、一歩一歩踏みしめるかのように降りてきた。その姿は、役者が大見得を切るふるまいにも似て、自信に満ちたものだった。《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 58-59頁より》・30日に飛来したのはC54約150機、進駐兵力1200名であった。輸送機は3分ごとに規則正しく着陸したという。単純に考えて1時間に20機、全機が到着するのに7時間半から8時間近くかかる。途中マッカーサーの着陸で中断するから、9時間以上かかったことになる。1日中基地は爆音に襲われていた。将兵とともに、「ニューヨーク・タイムズ」、INS、UPAPなどの記者・写真班・放送員たち80人のほか、イギリス、オーストラリア、支那(当時)、フィリピンの記者・写真班22人、合計120人の報道関係者も沖縄から到着した。《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 219頁より》・日本に第一歩を印したマッカーサー一行は、日本側が用意したオンボロ自動車に乗った1200名の第8軍兵士を従えて、厚木から横浜に向かった。マッカーサー用には年代物のリンカーン・コンチネンタルが用意されていた。ご一行は横浜までの24キロをのろのろと進んだ。沿道には武装した日本兵が、背中を向けて警備に当たっていた。故障車なども出たため、目的地のホテル・ニューグランドまでは2時間近くもかかった。《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 60頁より》・日本国内の捕虜収容所全体での捕虜の死亡率は約10%であった。死亡原因のほとんどは、栄養失調、過労、衛生状態の悪さなどからくる病気・衰弱死であり、捕虜収容所での待遇は過酷であったと言わざるを得ない。… 国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは約130ケ所に及ぶ。その一方、途中で閉鎖されるものもあり、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計31,418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3,500人が死亡している。<POW研究会 POW Research Network Japan | 研究報告 | 日本国内の捕虜収容所>・日本軍は第二次大戦にあたり、予想をはるかに上回る数の捕虜をとらえた。その数は計13万1405人である(民間人抑留者を含めない)。死亡者は3万5756人、死亡率は27.1%。<中尾知代「研究ノート(2)捕虜と原爆 ―連合軍捕虜解放と原爆使用の是非―」(2020)>・1939年(昭和14)現在、南洋群島の日本移民は7万7,257人で、うち沖縄県移民は4万5,701人を数え、これは全体の59.2%をしめました。

移民の世紀

日本は第1次世界大戦の1914年、サイパン島を含む南洋群島を占領し、その後、国際連盟から委任統治を託された。1921年に国策会社の南洋興発が設立され製糖業などを担うと、沖縄からも移民が急増し1942年までに約5万5千人に達した。だが太平洋戦争中の1944年7月7日、サイパンの日本軍は米軍との地上戦で全滅。テニアン、グアムなども奪われ各地に建設された飛行場から日本本土への本格爆撃を許し、敗戦は決定的になった。多くの県出身者も犠牲になり、南洋群島で戦死した一般邦人約15,000人のうち、約13,000人を占めた。<キーワード沖縄戦(5)サイパン陥落 | 沖縄タイムス>・1972年、沖縄の施政権が日本に返還される。しかしそれは沖縄が望んでいた「復帰」とは程遠いものであった。

のぞんでいた「沖縄復帰」とは

沖縄は日本に復帰しました。しかし私が思うに、完全復帰になってないですよ。私たちが望んだ復帰というのは、米軍基地がなくて戦争もない、そんな世の中にしようということです。私は、アメリカ(基地)がいるあいだは、いつか戦争が起こるんじゃないかなと心配しているんです。そのうえ国が辺野古に新基地をつくろうとしているでしょ。新基地がつくられると、そこも戦争の足場になってしまうんですよ。本土防衛のために沖縄が戦場になったんですが、次に戦争が起こったら以前の戦争よりひどいことになるんじゃないかなと思うんです。こりゃ、食いとめるために頑張らないといけないと思うんですね。<OKINAWA 2015 語り継ぐ者 兼城賢清さんの証言(完全版) – VICE>

1974年 – 三菱重工爆破事件。8人死亡、376人負傷[4]。

1995年 – ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争: NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆が行われる。NATO史上最大規模の航空作戦で、第二次世界大戦以降ではヨーロッパ最大規模の空爆となった[7]。1992から1995で 死傷20万人 難民200万人の発生。今日の欧州混沌の原因の一つ。この空爆はその戦闘上最大の規模のものである。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア ヘルツェゴビナふんそう、セルビア・クロアチア語:Рат у Босни и Херцеговини/Rat u Bosni i Hercegovini)は、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦で、ボスニア紛争[1]、ボスニア戦争(英: Bosnian War)ともいう。

およそ3年半以上にわたり全土で戦闘が繰り広げられた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。

民族浄化

詳細は「民族浄化」を参照

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、各交戦勢力が各々の民族の勢力圏を拡大することを目的としており、「陣取り合戦」の様相を呈していた。このような中で、支配地域から不安要因を取り除く目的で、自勢力の支配下に住む異民族を排除し、勢力圏を民族的に単一にするための民族浄化が行われた。

手段としては各種の嫌がらせや差別的な待遇、武器の没収、家屋への侵入・略奪・破壊、資産の強制接収、暴行・拷問・強姦・殺人によって、その地域から退去せざるを得ない状況に追いやる方法や、強制追放、強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族を地域から取り除く方法がとられた。

従軍可能年齢にある男性は各地で虐殺や強制収容の対象とされた。

2021年 – アフガニスタンから米軍が完全撤退。アメリカ史上最長となる2001~2021の20年間の戦争が終結した[12]。アフガニスタン タリバーンの勝利。米国の威信失墜。損害 多国籍軍50万人(政府軍40万人)中 死傷政府軍66000人+多国籍軍2500人+民間人47000人タリバーン 10万人中 戦死51191人。

アフガニスタン紛争

アフガニスタン紛争(パシュトー語: د افغانستان کورنۍ جګړه‎)とは、2001年から2021年にかけてアフガニスタンで勃発した紛争である。 この紛争、または戦争ではアメリカ軍やそれに支援されたアフガニスタン・イスラム共和国新政府と、ターリバーンやアルカーイダなどの武装勢力が争った。

結果として、一時的には米英軍と北部同盟が勝利し、アフガニスタンのターリバーン政権は崩壊して降伏し[21]、また、アメリカ同時多発テロ事件を起こした被疑者で行方不明となっていたアルカーイダのウサーマ・ビン・ラーディンはその後米軍により発見され、殺害された[22]。

また、ターリバーン政権崩壊後の同国では、ボン合意に基づき国連主導での国づくりや復興、民主化が行われ、暫定政権から新政府が成立した[23]。

しかしその後、同国の治安は極端に悪化し[24]、ターリバーンによる攻撃が続いたため、アメリカとターリバーンの和平合意であるドーハ合意が締結され[25]、米軍は撤退[26]。その後ターリバーンは大攻勢をかけ、首都カーブルを陥落させ、ガニー政権は崩壊。ターリバーンが政権を掌握した[27]事で終結した。

この紛争は、ベトナム戦争(1955年 – 1975年)を約5か月上回り、米国軍事史上最長の戦争となった[28]。

チャットgpt先生の8月30日のエッセイ

8月30日――戦争の終わりが次の秩序を始める日

8月30日の歴史を並べてみると、奇妙な共通項が浮かび上がる。鄱陽湖の戦い、江戸幕府の統治体制、北方戦争、七年戦争、南北戦争、第二次世界大戦後の日本、ボスニア戦争、アフガニスタン戦争。時代も地域も異なるが、そこに繰り返し現れるのは、戦場そのものよりも、戦争によって勢力分布が変わり、その変化を新しい政治秩序が固定していく過程である。

リアリストの視点から見るなら、歴史の中心にあるのは「誰が正しかったか」ではない。誰が兵力、資源、地理、同盟、制度を掌握し、最終的にその優位を政治的な現実へ変換できたかである。

1363年の鄱陽湖の戦いは、その典型だった。

朱元璋と陳友諒の対決は、単なる一戦ではない。中国南部の広大な地域を誰が支配し、その支配を国家建設へつなげるのかという権力競争だった。陳友諒は巨大な兵力を有していたが、兵力の大きさだけで戦争には勝てない。水上戦という地理的条件、指揮統制、補給、指導者の判断、そして戦闘後に残された政治的選択肢が勝敗を決める。

巨大な軍隊を持つことと、巨大な軍隊を国家権力へ変換できることは別問題である。

朱元璋はこの戦いによって最大の競争相手を排除し、その後の明建国へ向けて戦略的自由度を得た。重要なのは、勝利そのものよりも、勝利によって次の戦争を戦う必要性を減らしたことである。

1590年の徳川家康による江戸城入城も、別の形で同じ構造を見ることができる。

戦国時代の軍事的勝利は、城を取っただけでは完成しない。敵対勢力を抑え、領土を再編し、武力を制度へ転換しなければならない。家康が江戸を政治的拠点としていったことは、その後の幕府体制を考えれば極めて重要だった。

1615年の武家諸法度は、その延長線上にある。

軍事力によって成立した政権は、軍事力だけでは長続きしない。大名の行動を制約し、政権中枢への権力集中を制度化し、各勢力が勝手に軍事的自立を追求できない構造を作る必要がある。

つまり、戦争の勝者が本当に勝つのは、戦場ではなく戦後である。

1721年の大北方戦争終結も同じである。

20年以上にわたる戦争の結果、スウェーデンはバルト海における優位を失い、ロシアが新しい大国として浮上した。ここで注目すべきなのは、戦争の目的と結果が必ずしも一致しないことだ。

ロシアにとって重要だったのは、単純な領土拡張ではない。バルト海への出口を確保し、サンクトペテルブルクを建設し、ヨーロッパの勢力均衡に参加できる国家になることだった。

つまり戦争とは、敵軍を破壊するためだけの手段ではない。

地政学的な位置を変えるための手段でもある。

七年戦争のグロース=イェーゲルスドルフの戦いも、戦術的勝利と戦略的成果が一致しない例である。ロシア軍はプロイセン軍を破った。しかし、その後の進撃を継続しなかったため、戦場で得た優位を決定的な政治成果へ転換できなかった。

ここには軍事史の重要な原則がある。

戦闘に勝つことと、戦争に勝つことは違う。

さらに言えば、戦争に勝つことと、国際秩序を変えることも違う。

1813年のミムズ砦虐殺は、局地的な戦闘がより大きな戦争へ拡大する典型例だった。局地勢力による軍事的成功がフロンティア全体の恐怖を生み、それが政府への介入要求を強め、やがて紛争の規模を変えていく。

戦争は常に、戦場だけで進行するわけではない。

一つの勝利が相手側の動員を刺激し、その動員がさらに別の勢力の参戦を促す。結果として、当初は限定的だった争いが国家間戦争へ変質する。

1862年のリッチモンドの戦いでも、局地戦の勝敗は単なる戦術問題ではなかった。南北戦争では、各戦線での勝敗が敵の政治的・軍事的能力に累積的な影響を与えた。

そして1945年8月30日。

この日は、日本における権力構造が根本的に変化していく過程を象徴する日になった。

マッカーサーが厚木飛行場に到着したこと自体は一つの出来事にすぎない。しかし、その背後には、日本が戦争によって形成してきた軍事的秩序が崩壊し、占領という新しい権力構造へ移行するという巨大な変化があった。

戦争に敗れるということは、単に軍隊が武装解除されることではない。

外交政策、軍事政策、経済政策、領土政策、さらには国内の政治制度まで、敗戦国が自律的に決定できる範囲が狭くなる。

ここで重要なのは、戦後秩序は真空状態では生まれないということである。

旧秩序が崩壊すれば、そこには必ず別の勢力が入り込む。

1945年の日本では連合国、とりわけアメリカがその位置を占めた。

そして沖縄の歴史を考えると、戦争が終わっても地政学は終わらないことが分かる。

沖縄は日本本土と東アジア大陸の間に位置し、海空軍力を展開する上で重要な場所にある。したがって、沖縄の基地問題を理解するには、政治的主張だけではなく、地理と軍事能力を見る必要がある。

国家は「重要だから基地を置く」のではない。

軍事的に重要な場所だから、各国がその場所を確保しようとする。

この原則は現在でも変わっていない。

1974年の三菱重工爆破事件、1990年代のボスニア戦争、2021年のアフガニスタンからの米軍撤退へ進むと、さらに別の構造が見えてくる。

近代国家は巨大な軍事力を持っていても、現地社会の政治構造を完全に支配できるとは限らない。

ボスニアでは、民族、領土、人口移動、武装勢力、周辺国、国際機関が複雑に絡み合った。単純に「強い側が勝つ」という構造ではない。軍事力は重要だが、誰がどの地域を統治し、どの人口を抱え、どの国際的支援を受けるかによって、軍事力の効果そのものが変化する。

アフガニスタンはさらに分かりやすい。

2001年以降、アメリカと同盟国は圧倒的な軍事力を持っていた。それでも20年後に撤退することになった。

これは「アメリカが弱かった」という単純な話ではない。

むしろ、圧倒的な軍事力を持つ国家であっても、軍事的優位を政治的支配へ変換するコストには限界があるという問題である。

敵の部隊を破壊することはできても、敵対勢力が再編成される地域社会、地形、国境、周辺国の利害、現地政府の統治能力まで軍事力だけで消すことはできない。

そして撤退後、空白になった権力空間にはターリバーンが戻った。

ここでも歴史の基本構造は変わらない。

権力の空白は長く続かない。

ある勢力が撤退すれば、別の勢力がその空間を埋める。

その意味で、8月30日に並ぶ出来事は「戦争の日」ではなく、むしろ勢力分布が変わる日として読むことができる。

鄱陽湖では朱元璋が競争相手を排除した。

江戸では家康が軍事的優位を政治制度へ転換した。

北方戦争ではロシアがバルト海の勢力均衡を変えた。

七年戦争では戦場の勝利と戦略的成果の違いが示された。

南北戦争では局地的勝利が戦争全体の構造に影響した。

1945年の日本では敗戦によって権力構造そのものが外部から再編された。

ボスニアでは民族・領土・国際介入が絡み合い、国家内部の戦争が国際秩序の問題へ変化した。

アフガニスタンでは20年間の軍事介入が終わり、撤退によって再び権力空間が再編された。

時代は変わっても、構造は驚くほど似ている。

国家間競争では、軍事力、経済力、人口、地理、同盟、情報、制度、補給能力が相互作用する。そして最終的な勝者は、単に最も強い軍隊を持つ者ではない。

自分の持つ力を、持続的な政治秩序へ変換できる者が強い。

逆に言えば、どれほど強大な軍隊を持っていても、戦争目的が曖昧で、占領後の政治構造を構築できず、現地社会を統治する能力が不足し、国内の戦争継続能力が失われれば、その軍事的優位は時間とともに減価する。

歴史を見る際に重要なのは、勝者と敗者を道徳的に分類することではない。

誰が、どの資源を持ち、どの地理を押さえ、どの同盟を形成し、どの時点で相手の選択肢を奪い、戦争後にどんな秩序を作ったのか。

この視点に立つと、8月30日の歴史は一つの大きな法則を示している。

戦争の本当の結果は、戦場の最後の一発が撃たれた瞬間には決まらない。

戦争によって生じた権力の空白を誰が埋めるのか。

軍事的勝利を誰が政治的支配へ変換するのか。

敗者が失った地域を誰が獲得するのか。

そして、新しい勢力均衡を誰が制度として固定するのか。

そこまで見なければ、歴史上の「勝利」も「敗北」も理解できない。

8月30日は、そのことを何度も繰り返し示している。

戦争とは、敵を倒す競争である以上に、戦後の秩序を誰が設計するかをめぐる競争なのである。