kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月1日 1923関東大震災発生ほか、写真wikipedia地震直後の東京

9月1日

20260901火曜日旧暦7月20日友引(15番戊寅つちのえとらボイン)月齢 19.3

43番丙午ひのえうま年 33番丙申ひのえさる月 15番戊寅つちのえとら日

吉方位 隠遁日 15番戊寅つちのえとら日 東 中吉 

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%881%E6%97%A5

9月1日の出来事

1189年(文治5年7月19日) – 源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡追討のために鎌倉を出発。

最期

頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れず、その首を取るよう捜索を命じた。泰衡は、夷狄島へ逃れるべく北方へ向かい、数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵(現秋田県大館市)に逃れたが、9月3日に次郎に裏切られ、殺害された。享年35[注釈 7]。

6日、次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが、頼朝は「譜第の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして次郎を斬首した。泰衡の首は前九年の役の故実にならい、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられた。

1449年(正統14年8月15日) – 土木の変、オイラトのエセンが正統帝(英宗)を捕らえる。

戦争:明の対異民族戦争

年月日:正統14年8月15日(1449年9月1日)

場所:土木堡

結果:オイラトの勝利

損害:オイラト軍 3万人中 僅少 明軍 50万人は詳細不明だが全滅とみられる。

1790年(寛政2年7月22日) – 浦上一番崩れ。肥前国浦上村の村民19人がキリシタンとして初めて検挙。

1862年 – 南北戦争: シャンティリーの戦い。損害 北軍戦死1300人 南軍800人。

1870年 – 普仏戦争: セダンの戦い。1日、2日。プロイセン王国が完勝。フランス皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、フランス第二帝政が終焉へ。損害 プロイセン王国軍20万人中死傷9000人 フランス帝政二期軍12万中死傷17000人残り10万3千は捕虜降伏。

1923年 – 関東地震(関東大震災)発生。1923年(大正12年)9月1日11時58分[1][2]、日本時間、以下同様)に発生した関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害[注釈 1]。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害。

1939年 – 第二次世界大戦: ドイツが突如ポーランドに侵攻。これに対してイギリスとフランスが3日に宣戦し、第二次世界大戦が勃発。19390901-19450815死者総数世界全体で約4,000万~5,000万人と推定。日本のみでは、軍人・軍属が約230万人、民間人が約80万人、合計で約310万人で犠牲者の9割は1945年に発生とされる。

1939年 – T4作戦開始の署名をヒトラーが行う。死亡者総数194108中止までの死者総数は諸説あるが29万人以上とされる。

1941年 – ウクライナのオストロフでナチスがホロコースト、2500人のユダヤ人が虐殺される。

1945年-沖縄戦9月1日・大型爆撃機 B-29用の普天間飛行場建設は6月15日に開始され9月1日に完成した。(中略)米軍は住民を1年以上も収容所に強制収容したあいだに次々と軍施設を建設した。<引用先原文>・沖縄の「慰安所」は民家を接収する場合も多く、住民の多くが「慰安所」の存在を知り、または、自分の家の近くに存在する「慰安所」の「慰安婦」と交流するケースもあった。沖縄で朝鮮人「慰安婦」は、主に「朝鮮ピー」と呼ばれた。「ピー」とは中国戦線で使われた隠語で女性の性器を意味する。住民にとって、朝鮮人「慰安婦」は「風紀を紊乱」する「ピー」のような存在として見られ、日本軍の「慰安所」設置を反対したり、「強かん」を防ぐための「必要悪」として受け入れていったりした。しかし、一方、沖縄本土とは異なり、米軍の上陸がなかった離島、宮古島の住民にとって「慰安婦」は、「美しい(アパラギーミドォン(美しい女)」として見られ、親密な交流をしたケースもあった。《「沖縄戦場の記憶と慰安所」(ホン・ユンシン/インパクト出版会) / 29頁》・国立日帝強制動員歴史館が所蔵している日本のサック(コンドーム)の包装紙に「突撃一番」と書かれている。この包み紙は実物を模したものだ=国立日帝強制動員歴史館提供//ハンギョレ新聞社 『1937~40年、日本で「ハート美人」という商品名のコンドームが発売されていた当時、日本人たちはコンドームをサックと呼んだ。1941年太平洋戦争が始まる前、日本の軍部が兵士たちに女性と性的関係を持つ時に使用すると軍需品として支給した。この時コンドームの名前は「突撃一番」だった。突撃一番は当時、日帝が戦争に動員される兵士に植えた思想で、弱者である女性を人格的に待遇せずに性欲求を解決する対象に見ていた日本軍の認識を窺うことができる。<慰安婦の存在証明する「日本軍コンドーム」、釜山へ : 政治 : ハンギョレ>・米軍は日本軍の「慰安婦」を「芸者ガール」と記録した。米軍は孤児や身寄りのない高齢者を孤児院や養老院に囲い込んだが、そこで元慰安婦の女性たちが看護助手として働いていたという証言も多い。<引用先原文>*沖縄全土に慰安所約140か所と。

1983年 – 冷戦: 大韓航空機撃墜事件。ソ連の領空を侵犯した大韓航空機をソ連防空軍が撃墜し、269人全員死亡。

2001年 – 歌舞伎町ビル火災発生で44人死亡。日本で戦後5番目の大惨事に。

2004年 – ロシア・北オセチア共和国でベスラン学校占拠事件が起こる( – 3日)。人質の生徒ら千人以上が死傷。

2006年 – イランエアツアーズ945便着陸失敗事故。28人死亡。120人生存。

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1189年(文治5年7月19日) – 源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡追討のために鎌倉を出発。

最期

頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れず、その首を取るよう捜索を命じた。泰衡は、夷狄島へ逃れるべく北方へ向かい、数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵(現秋田県大館市)に逃れたが、9月3日に次郎に裏切られ、殺害された。享年35[注釈 7]。

6日、次郎は泰衡の首を頼朝に届けたが、頼朝は「譜第の恩」を忘れた行為は八虐の罪に当たるとして次郎を斬首した。泰衡の首は前九年の役の故実にならい、眉間に八寸の鉄釘を打ち付けて柱に懸けられた。

1449年(正統14年8月15日) – 土木の変、オイラトのエセンが正統帝(英宗)を捕らえる。

戦争:明の対異民族戦争

年月日:正統14年8月15日(1449年9月1日)

場所:土木堡

結果:オイラトの勝利

損害:オイラト軍 3万人中 僅少 明軍 50万人は詳細不明だが全滅とみられる。

1790年(寛政2年7月22日) – 浦上一番崩れ。肥前国浦上村の村民19人がキリシタンとして初めて検挙。

浦上一番崩れ(うらかみいちばんくずれ)とは、現在の長崎市の浦上地区で江戸時代中期に起きた隠れキリシタン摘発偽証事件である。 長崎で江戸時代中期から4度にわたって発生したキリシタン摘発事件浦上崩れの1度目。

寛政2年(1790年)に浦上村の庄屋・高谷永左衛門が自分が信仰していた円福寺(廃仏毀釈後、山王神社となる)に88体の石仏を寄付することを決めて、村人に寄進を迫ったところ、多くの人々から拒絶された。これに激怒した庄屋が反対派の村人19名をキリシタンとして告発した。ところが、証拠不十分であった上、当の庄屋による不正事件が発覚したため、事態は複雑化した。最終的に寛政7年(1795年)になって村人は放免され、彼らが円福寺の本寺にあたる延命寺に詫びの一札を入れることで事態の収拾となった。

なお、永左衛門の子孫は明治維新後に没落し、その屋敷地は浦上四番崩れ(浦上教徒事件)で迫害の後に帰還を許された浦上のキリシタンたちによって買い取られて浦上天主堂の元となった。

1862年 – 南北戦争: シャンティリーの戦い。損害 北軍戦死1300人 南軍800人。

シャンティリーの戦い(シャンティリーのたたかい、英:Battle of Chantilly、南軍の呼び方ではオックスヒルの戦い、英:Battle of Ox Hill)は、南北戦争の1862年9月1日、バージニア州フェアファックス郡で行われた戦いであり、北バージニア方面作戦を終わらせるものとなった。

1870年 – 普仏戦争: セダンの戦い。1日、2日。プロイセン王国が完勝。フランス皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、フランス第二帝政が終焉へ。損害 プロイセン王国軍20万人中死傷9000人 フランス帝政二期軍12万中死傷17000人残り10万3千は捕虜降伏。

1923年 – 関東地震(関東大震災)発生。1923年(大正12年)9月1日11時58分[1][2]、日本時間、以下同様)に発生した関東地震(関東大地震、大正関東地震)によって南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害[注釈 1]。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害。

1939年 – 第二次世界大戦: ドイツが突如ポーランドに侵攻。これに対してイギリスとフランスが3日に宣戦し、第二次世界大戦が勃発。19390901-19450815死者総数世界全体で約4,000万~5,000万人と推定。日本のみでは、軍人・軍属が約230万人、民間人が約80万人、合計で約310万人で犠牲者の9割は1945年に発生とされる。

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、英: World War II、略称:WWII)は、1939年(昭和14年)9月1日から1945年(昭和20年)8月15日[36]または9月2日[37]まで約6年にわたって続いたドイツ・イタリア・日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス・フランス・中華民国・アメリカ・ソビエト連邦などを中心とする連合国陣営との間で戦われた戦争である。また、中立国も存在した。最終的には連合国陣営の勝利に終わったが、第一次世界大戦以来の世界大戦となり、人類史上最大の死傷者を生んだ。

1939年 – T4作戦開始の署名をヒトラーが行う。死亡者総数194108中止までの死者総数は諸説あるが29万人以上とされる。

T4作戦(テーフィアさくせん、独: Aktion T4)は、1930年代後半からドイツ国で精神障害者や身体障害者に対して行われた「強制的な安楽死」(虐殺)政策である。

1939年の夏ころから開始され、1941年8月に中止されたが、安楽死政策自体は継続された。「T4」は安楽死管理局の所在地、ベルリンの「ティーアガルテン通り4番地[# 1]」(現在同地にはベルリン・フィルハーモニーがある)を略して[1]第二次世界大戦後に付けられた組織の名称である[2]。

1941年 – ウクライナのオストロフでナチスがホロコースト、2500人のユダヤ人が虐殺される。

1945年-沖縄戦9月1日・大型爆撃機 B-29用の普天間飛行場建設は6月15日に開始され9月1日に完成した。(中略)米軍は住民を1年以上も収容所に強制収容したあいだに次々と軍施設を建設した。<引用先原文>・沖縄の「慰安所」は民家を接収する場合も多く、住民の多くが「慰安所」の存在を知り、または、自分の家の近くに存在する「慰安所」の「慰安婦」と交流するケースもあった。沖縄で朝鮮人「慰安婦」は、主に「朝鮮ピー」と呼ばれた。「ピー」とは中国戦線で使われた隠語で女性の性器を意味する。住民にとって、朝鮮人「慰安婦」は「風紀を紊乱」する「ピー」のような存在として見られ、日本軍の「慰安所」設置を反対したり、「強かん」を防ぐための「必要悪」として受け入れていったりした。しかし、一方、沖縄本土とは異なり、米軍の上陸がなかった離島、宮古島の住民にとって「慰安婦」は、「美しい(アパラギーミドォン(美しい女)」として見られ、親密な交流をしたケースもあった。《「沖縄戦場の記憶と慰安所」(ホン・ユンシン/インパクト出版会) / 29頁》・国立日帝強制動員歴史館が所蔵している日本のサック(コンドーム)の包装紙に「突撃一番」と書かれている。この包み紙は実物を模したものだ=国立日帝強制動員歴史館提供//ハンギョレ新聞社 『1937~40年、日本で「ハート美人」という商品名のコンドームが発売されていた当時、日本人たちはコンドームをサックと呼んだ。1941年太平洋戦争が始まる前、日本の軍部が兵士たちに女性と性的関係を持つ時に使用すると軍需品として支給した。この時コンドームの名前は「突撃一番」だった。突撃一番は当時、日帝が戦争に動員される兵士に植えた思想で、弱者である女性を人格的に待遇せずに性欲求を解決する対象に見ていた日本軍の認識を窺うことができる。<慰安婦の存在証明する「日本軍コンドーム」、釜山へ : 政治 : ハンギョレ>・米軍は日本軍の「慰安婦」を「芸者ガール」と記録した。米軍は孤児や身寄りのない高齢者を孤児院や養老院に囲い込んだが、そこで元慰安婦の女性たちが看護助手として働いていたという証言も多い。<引用先原文>*沖縄全土に慰安所約140か所と。

1983年 – 冷戦: 大韓航空機撃墜事件。ソ連の領空を侵犯した大韓航空機をソ連防空軍が撃墜し、269人全員死亡。

大韓航空機撃墜事件(だいかんこうくうきげきついじけん、英: Korean Air Lines Flight 007、朝: 대한항공 007편 격추 사건、露: Катастрофа Boeing 747 над Сахалином)は、1983年(昭和58年)9月1日に大韓航空のボーイング747が、ソビエト連邦の領空を侵犯したためにソ連防空軍[注釈 1]の戦闘機により撃墜された事件。乗員・乗客合わせて269人全員が死亡した。

2001年 – 歌舞伎町ビル火災発生で44人死亡。日本で戦後5番目の大惨事に。

歌舞伎町ビル火災(かぶきちょうビルかさい)は、2001年(平成13年)9月1日未明に東京都新宿区歌舞伎町にある雑居ビルで起きた火災。44人が死亡し、3人が負傷する被害を出した。

日本で発生した火災としては戦後(第二次世界大戦後)5番目の被害[注 2]となった。多くの死傷者を出した原因は、ビル内の避難通路の確保が不十分であったためとされる。出火原因は放火とみられているが、現在でも未確定である(2022年7月時点[9])。

2004年 – ロシア・北オセチア共和国でベスラン学校占拠事件が起こる( – 3日)。人質の生徒ら千人以上が死傷。

2006年 – イランエアツアーズ945便着陸失敗事故。28人死亡。120人生存。

チャットgpt先生の9月1日のエッセイ

9月1日――崩れるものは、まず構造から崩れる

9月1日という日付を並べてみると、奇妙なほど同じ構造が繰り返されている。

1189年、源頼朝は奥州へ向かう。追われる藤原泰衡は逃げ場を失い、最後には身内ともいえる河田次郎に裏切られて殺される。次郎は泰衡の首を頼朝に届けるが、その功績によって助かることはなかった。むしろ「譜第の恩」を忘れた者として斬られる。

ここには、戦場の勝敗とは別の現実がある。

権力が移動すると、それまで成立していた人間関係の価値も移動する。

昨日までの忠誠は、今日の支配者から見れば裏切りになる。逆に、昨日までの敵対者が、今日の秩序にとって必要な人間になることもある。個人の感情や善悪より先に、権力構造が人間の位置を決める。

1449年の土木の変も同じだ。明の大軍は圧倒的な兵力を持ちながら、オイラト軍に敗れ、皇帝まで捕らえられた。数字だけなら「50万人対3万人」という極端な差がある。しかし、戦争では人数そのものが戦力ではない。

指揮系統、補給、地形、情報、統制、意思決定。

それらが崩れれば、大軍は巨大な集団であること以上の意味を失う。組織は、その構成員の能力を足し算したものではない。接続が切れた瞬間に、全体としての能力が急激に低下する。

1790年の浦上一番崩れも、別の意味で「構造」の話である。

村人19人がキリシタンとして告発された事件は、信仰そのものだけで説明すると本質を見失う。庄屋と村人の対立、寺院への寄進をめぐる関係、地域社会の力関係、そして告発という制度が組み合わさった結果だった。

つまり、制度は必ずしも制度本来の目的だけに使われるわけではない。

人間関係の争いに制度が接続されれば、制度は武器になる。

1870年のセダンの戦いでは、フランス軍が敗北し、ナポレオン3世が捕虜となった。軍事的敗北は、そのまま政治体制の崩壊へつながった。

国家も個人も、外から見ると一つの巨大な存在に見える。しかし実際には、いくつもの依存関係の上に立っている。

軍隊が政府を支える。
政府が軍隊を維持する。
通貨が国家への信用によって成立する。
企業が金融によって維持される。
都市が電力・水道・通信・物流によって機能する。

どこか一つが止まれば、他の部分にも影響が伝わる。

1923年9月1日の関東地震は、そのことを極端な形で示した。

地震そのものは自然現象である。しかし、被害の大きさは地震の規模だけでは決まらない。人口密度、木造住宅、火災、道路、通信、医療、行政、情報伝達など、都市を構成する複数の条件が同時に作用する。

災害とは、自然現象と社会構造の接点で発生する。

だから「大きな地震が起きた」という説明だけでは足りない。

何が倒れ、何が燃え、何が届かなくなり、何が機能し続けたのか。

そこを見ると、都市というものの実体が見えてくる。

1939年9月1日、ドイツがポーランドへ侵攻した。

ここでも、一人の政治指導者の決断だけを見ると歴史は単純になる。しかし戦争を可能にするのは、決断者だけではない。軍隊、官僚機構、産業、輸送、資源、宣伝、外交、国民動員、そして相手側の判断が連鎖して初めて戦争になる。

同じ日にT4作戦の開始に関する署名も行われた。

国家が人間を分類し、分類した人間を制度的に処理できるところまで組織化されると、殺害は個人の衝動ではなく行政機構の仕事になる。

ここで重要なのは、特殊な人間が突然現れたという話ではない。

むしろ、普通の制度が、一定の条件の下で別の目的に転用されることだ。

書類を書く。
対象を分類する。
移送する。
記録する。
命令を伝える。
費用を処理する。

個々の作業だけを見れば、どれも官僚制の日常業務に見える。しかし、それらが一方向に接続されると、巨大な結果を生む。

組織の危険性は、構成員一人ひとりの異常性ではなく、正常な手続きが異常な目的に接続されるところにある。

1945年の沖縄でも、戦争は軍隊同士の戦闘だけではなかった。

土地が軍事施設へ転用され、人々が収容され、住民生活の上に軍事インフラが構築される。軍隊が存在すれば、その軍隊を維持するための土地、輸送、食料、労働、宿泊、性、医療などの周辺システムが必要になる。

戦争は前線だけに存在するものではない。

後方に巨大な生活圏を必要とする。

そのため、軍事施設の建設や兵站の整備を追っていくと、戦争が社会全体をどのように組み替えるのかが見えてくる。

1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件も、個人の意思だけでは理解しにくい。

航空機の航路、管制、領空、軍事情報、防空体制、冷戦下の敵味方認識。

それぞれのシステムが接続し、最後に一機の航空機と269人の命に結果が集中した。

2001年の歌舞伎町ビル火災も同じである。

44人が死亡した原因を「火事」と一言で済ませることはできない。雑居ビルという用途、避難経路、管理状態、設備、出火原因、そこにいた人々の位置関係が重なって、一つの事故が大惨事になる。

2004年のベスラン学校占拠事件も、2006年のイランエアツアーズ945便事故も、表面的にはまったく異なる事件である。

しかし、構造を見ると共通点がある。

人間は、複雑なシステムの末端にいる。

そしてシステムが正常に動いている間、その構造は意識されない。

飛行機は飛ぶ。
都市では電気がつく。
学校では授業が行われる。
行政は書類を処理する。
軍隊は命令を伝える。
国家は国境を管理する。

ところが、どこかが切れた瞬間、人間は初めて自分が巨大な構造の中にいたことを知る。

9月1日に並んでいる出来事には、こうした「崩壊の瞬間」が多い。

城郭の権力構造が変わる。
大軍の指揮系統が崩れる。
村落共同体の関係が崩れる。
帝国の軍事体制が崩れる。
都市インフラが破壊される。
国際秩序が戦争へ移行する。
官僚機構が殺害の装置へ転換される。
航空管制と軍事判断が衝突する。
建物の安全構造が破綻する。
危機管理が機能しなくなる。

つまり9月1日を眺めると、歴史とは「偉人が何をしたか」の一覧ではなくなる。

もっと冷たいものが見えてくる。

人間は、自分が置かれている構造を完全には選べない。

そして構造は、平常時には見えない。

見えるのは、壊れたときだけだ。

だから現実を見るなら、「誰が悪かったのか」だけを追うより、「何がその行動を可能にしたのか」を見るほうが強い。

誰が命令したのか。
誰が命令を実行できたのか。
誰が利益を得たのか。
誰が情報を持っていたのか。
誰が情報を持っていなかったのか。
どこに権限が集中していたのか。
どこに代替手段がなかったのか。
どの段階で撤退できなくなったのか。

この問いを重ねると、事件は人物伝からシステム分析へ変わる。

そして、そこで初めて歴史は現在に近づく。

2026年の社会も、基本構造は変わらない。

国家、企業、金融、通信、物流、エネルギー、コンピューター、人工知能。

一見すると、それぞれ独立した巨大システムに見える。しかし実際には相互依存している。

一つが止まれば、別の場所に影響が出る。

重要なのは、「何が起きるか」を予言することではない。

何が止まると、次に何が止まるのか。

そこを把握しておくことだ。

歴史上の大事故や戦争を眺める意味も、そこにある。

過去の人間が愚かだったから起きた、と考えるのは簡単だ。

しかし、それでは何も学べない。

むしろ見るべきなのは、合理的に動いている人間たちが、合理的な判断を積み重ねた結果として、全体では破局へ到達する場合があるという事実である。

構造は、人間の意図を超える。

だから9月1日に残る教訓を一つに絞るなら、「危機に備えよ」でも「歴史を忘れるな」でもない。

もっと単純で、もっと現実的なものになる。

平常時に見えない構造ほど、壊れたときの影響が大きい。

歴史を見るとは、事件を覚えることではない。

その事件が起きるまで、何がどのようにつながっていたのかを見ることだ。

そして、つながりが切れた瞬間に、誰が動けて、誰が動けなくなったのかを見る。

9月1日は、そのことを何度も繰り返している。

日付そのものに意味があるのではない。

同じ日付に偶然集まった出来事を構造として並べると、人間社会の弱点が見えてくる。

崩壊は、突然始まるように見えて、実際にはその前から構造の内部で進んでいる。

歴史とは、その瞬間を後から記録したものなのだ。