9月2日
20260902水曜日旧暦7月21日先負(16番己卯つちのとうキボウ)月齢 20.3
43番丙午ひのえうま年 33番丙申ひのえさる月 16番己卯つちのとう日
吉方位 隠遁日 己卯つちのとう日 東 中吉 年末まではあと120日
https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%882%E6%97%A5
9月2日の出来事
紀元前31年 – アクティウムの海戦。ローマ帝国覇権争い。オクタウィアヌス軍対クレオパトラ+アントニウス連合軍 オクタウィアヌス派の勝利。損害 オクタウィアヌス軍2万人中2500人戦死 クレオパトラアントニウス連合軍2万2千人中戦死5000人
1192年 – ヤッファ条約(Treaty of Jaffa)がリチャード獅子心王とサラディンの間で締結。第3回十字軍が終了。
戦争:第3回十字軍
年月日:1189年5月11日〜1192年9月2日
場所:レバント・シチリア島・イベリア半島・アナトリア半島
結果:ヤッファ条約を締結した。
十字軍は軍事的に勝利し、3年間の平和条約を締結した。
遠征前の状況を維持することが取り決められた。これによりムスリムのエルサレム支配と、十字軍のレバント地方に点在する十字軍国家の支配が決まった。
レバントにおける非武装の聖地巡礼者(英語版)の安全が保証された。
損害:十字軍 約7万人規模 イスラム側 アイユーブ朝4万+セルジューク朝2万の計6万人規模
詳細不明chat gpt回答によると
- 十字軍側の死者 → おおむね 5万〜10万人規模(特にドイツ軍の壊滅とアッコン攻囲戦が大きい)
- ムスリム側の死者 → 同程度、数万人規模
- 総計では 10万〜20万人程度の死者が生じた可能性が高い、というのが歴史学的な推定です。
1666年 – ロンドン大火:ロンドン橋近くのパン屋から出火。火災は9月6日まで続き、ロンドンの5分の4が焼失した[1]。意外にも死者は少なく、記録されているのは5名だったが、市民は燃え広がる火を前になすすべもなかった。
1792年 – フランス革命: 九月虐殺が始まる。1792年9月2日から数日間にわたって行われたパリの監獄での虐殺。ランヴァル公妃婦人ほか殺害された人数はパリで1300人、地方で150人といわれる。
1806年 – スイスのゴールダウで地滑り、457人が死亡。
1819年 – サン・テルモがホーン岬の南のドレーク海峡で、悪天候により損傷し沈没、644人が世界史史上初となる南極大陸での犠牲者となる。
1898年 – マフディー戦争: オムダーマンの戦い。スーダンのマフディ教徒反乱軍と宗主国英国軍の植民地戦争。英国の大勝。損害 イギリス軍1万人中戦死50人 マフディ軍5万2千中 戦死9700人負傷13000人捕虜5000人。
1935年 – レイバー・デー・ハリケーン(英語版)がフロリダ州ロングキー(英語版)に上陸し400人以上が死亡。
1935年 – 大阪府堅下村(現柏原市)平野集落にあったため池「菱尾池」が前日来の豪雨により決壊。死者9人、重傷5人、軽傷10余人。家屋の全壊6戸、倒壊16戸の被害[4]。
1945年-沖縄戦9月2日・日本の降伏調印式は1945年9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、その状況はラジオの実況中継で全世界に流された。トルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民向けのラジオ放送で演説。その中で9月2日を正式にVJデーとし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのである。したがってアメリカの第二次世界大戦の終了は1945年9月2日ということになる。<日本人だけが8月15日を「終戦日」とする | 東洋経済オンライン>・1945年9月2日、戦艦ミズーリの艦上で第二次世界大戦は正式に終結しました。歴史上最も多くの被害と戦死者を出した戦争は、このわずか23分間の式によって終結したのです。9時2分に日本の降伏文書調印式が始まりました。まずマッカーサーが行ったスピーチのあと、日本の天皇と政府の代理として重光葵外務大臣が署名を行い、続いて日本軍の大本営の代表として梅津美治郎参謀総長が署名をしました。<オアフ島パールハーバー(真珠湾)に係留されている戦艦ミズーリ記念館>・6月3日に米軍が上陸した伊平屋島とは異なり、伊是名島では、8月15日の終戦の詔書 (「玉音放送」) の後も、封鎖された島では日本の敗戦を知らされず、敗残兵らが軍当局を名乗り、住民虐殺を始めた。
陸軍中野学校の離島残置工作員「西村良雄」(本名・馬場正治) と、島にクリ舟で逃れてきた国頭支隊の数人の平山隊 (平山勝敏大尉) らが「軍当局」を名乗っており、島で青年らを組織。9月頃、少年を含む4名の住民を虐殺した。<引用先原文>・降伏文書には、ポツダム宣言の内容を誠実に履行すると書かれています。その宣言では日本の領土についてこう記されています。
「日本国の主権は本州、北海道、九州および四国ならびに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」
この日沖縄では、アメリカ軍政府の諮問機関として生まれた沖縄諮詢会が北部の収容所を視察。すでに沖縄では、日本とは違った独自の統治が動き出していたのです。<琉球朝日放送 報道制作部 Qプラス » 65年前のきょうは1945年9月2日(日)>
1978年 – カナダのバンクーバーで遊覧飛行中の水上機が海中に墜落。新婚旅行で現地を訪れていた日本人観光客ら9人が死亡[7]。
1998年 – スイス航空111便墜落事故。死亡229人(全員)。
2020年 – 鹿児島県奄美大島沖でニュージーランドから中国へ向かう貨物船が台風接近に伴う波浪の中、救難信号を出した後に沈没。乗員1人救出、43人が行方不明[12]。
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紀元前31年 – アクティウムの海戦。ローマ帝国覇権争い。オクタウィアヌス軍対クレオパトラ+アントニウス連合軍 オクタウィアヌス派の勝利。損害 オクタウィアヌス軍2万人中2500人戦死 クレオパトラアントニウス連合軍2万2千人中戦死5000人
影響
アクティウム海戦の敗北によって、アントニウスに味方していたユダヤ王ヘロデらも離反してオクタウィアヌス側へ転向した。アントニウスはエジプトに帰還するクレオパトラの船を追った。オクタウィアヌス軍から、部下を置き去りにし女を追って戦場を後にしたと嘲笑されたアントニウスは、エジプトの首都アレクサンドリアへと逃亡した。アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃した。クレオパトラ自殺は誤報であったので、アントニウスはクレオパトラの命令で彼女のもとに連れて行かれ、彼女の腕のなかで息絶えたとされる。クレオパトラもオクタウィアヌスに屈することを拒んで自殺した。コブラに身体を噛ませての死だったと伝わっている。
オクタウィアヌスは、これにより内乱の一世紀に終止符を打ち、地中海世界の統一も果たして、自らはプリンケプスとして帝政への道を開いた[要出典]。
1192年 – ヤッファ条約(Treaty of Jaffa)がリチャード獅子心王とサラディンの間で締結。第3回十字軍が終了。
戦争:第3回十字軍
年月日:1189年5月11日〜1192年9月2日
場所:レバント・シチリア島・イベリア半島・アナトリア半島
結果:ヤッファ条約を締結した。
十字軍は軍事的に勝利し、3年間の平和条約を締結した。
遠征前の状況を維持することが取り決められた。これによりムスリムのエルサレム支配と、十字軍のレバント地方に点在する十字軍国家の支配が決まった。
レバントにおける非武装の聖地巡礼者(英語版)の安全が保証された。
損害:十字軍 約7万人規模 イスラム側 アイユーブ朝4万+セルジューク朝2万の計6万人規模
詳細不明chat gpt回答によると
- 十字軍側の死者 → おおむね 5万〜10万人規模(特にドイツ軍の壊滅とアッコン攻囲戦が大きい)
- ムスリム側の死者 → 同程度、数万人規模
- 総計では 10万〜20万人程度の死者が生じた可能性が高い、というのが歴史学的な推定です。
第3回十字軍(だい3かいじゅうじぐん、1189年 – 1192年)とは、ラテン教会(英語版)下の3人の国王(フランス国王フィリップ2世、イングランド国王リチャード1世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世)により行われた聖地回復のための軍事遠征である。この遠征は1187年に聖地エルサレムがサラディンに奪還された(英語版)ことがきっかけで開催された遠征であり、遠征の主体が上述の3人の国王であったことから諸王の十字軍としても知られている[13]。
この遠征は一定程度成功したとみなされている。十字軍はアッコやヤッファ(英語版)といった重要な諸都市を再獲得し、サラディンがそれまでに征服した地域の大半を奪還することに成功したからである。ただし、十字軍が最大の目標と掲げていた聖地エルサレムの奪還を成し遂げることはできなかった。
1666年 – ロンドン大火:ロンドン橋近くのパン屋から出火。火災は9月6日まで続き、ロンドンの5分の4が焼失した[1]。意外にも死者は少なく、記録されているのは5名だったが、市民は燃え広がる火を前になすすべもなかった。
1792年 – フランス革命: 九月虐殺が始まる。1792年9月2日から数日間にわたって行われたパリの監獄での虐殺。ランヴァル公妃婦人ほか殺害された人数はパリで1300人、地方で150人といわれる。
虐殺発生の遠因
1792年8月11日、立法議会がパリ市のコミューンの圧力によりフランス国内全土の反革命容疑者の逮捕を許可し、8月17日にはこれらの犯罪者たちを裁く「特別刑事裁判所」の設置を承認した。こうしてパリの牢獄は反革命主義と看做された囚人で満員になった。8月26日にロンウィがプロイセン軍により攻略され、パリ侵攻への危機感が一挙に高まった。義勇兵の募集が行われたが、その一方で「牢獄に収監されている反革命主義者たちが義勇兵の出兵後にパリに残った彼らの家族を虐殺する」という噂も流れていた[1]。
「国王派の亡命者と外国軍とが、革命の粉砕と市民の虐殺を狙っている。内部から呼応しかねない反革命容疑者を捕らえよ」。こうして8月30日、パリ市内で家宅捜索が行われ、約3千人の容疑者が逮捕された。しかし、特別重罪裁判所は機能していない。
勃発
きっかけは革命戦争において、オーストリア軍がヴェルダン要塞を陥落させ、その敗報がパリに衝撃をもたらした際に行われた、ダントンの演説である。彼は「全ては興奮し、全ては動顚し、全ては掴みかからんばかりだ。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、大胆さ、いっそうの大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。そうすればフランスは救われるだろう!」と呼びかけた。これがテロリズムへの公然たる誘導となった。
9月2日の朝から反革命派狩りが始まり、パリ市のコミューンの監視委員会は全ての囚人を人民の名において裁判することを命じた。コミューンは防衛を固め、警鐘が乱打され、市門は閉じられた。義勇軍の編成が始まる。数日前から、「殺し屋」が集められていた。三色の記章をつけた赤い帽子をかぶり、緋色の上着を着た彼らは忠実に任務を果たした。「外国軍と示し合わせるために、牢屋の中で陰謀が企まれている。『反革命の陰謀』だ。やられる前に、やれ。」こうして、その日の午後から、民衆による牢獄の襲撃が始まった。牢獄は次々と襲われ、囚人は手当たり次第に引きずり出された。問答無用の殺害、あるいは略式裁判のまねごとの後、虐殺。一連の虐殺行為は監獄内の「人民法廷」での即決裁判の結果を受けて有罪の判決が下された囚人は殺害し、それ以外の者は無罪放免するという極端な形で行なわれた。
犠牲者
当時アベイとカルム、その他の牢獄には反革命的とされた聖職者が収容されていた。聖職者民事基本法への宣誓を拒否して囚われていた聖職者たちもいたが、政治に関係したと考えられる者は多くなかった。興奮した民衆の一群がまずアベイの牢獄(英語版)に押しかけて収容されていた23人の聖職者を殺害し、ついでカルムの牢獄(英語版)におもむき、150人の聖職者の大部分を殺害した[2]。
虐殺は数日間続いた。マリー・アントワネットと運命を共にするため帰国し、逮捕されていたランバル夫人も、無残に殺された。群集は彼女の遺骸から衣装を剥ぎ取り、身体を切断し、踏みにじった。ある一団は、その頭を槍の先に刺してタンプル塔前で王妃に見せつけるという示威行為をとった。
この結果パリ市内の牢獄は空になった。数日間吹き荒れた暴力で犠牲になったものは、推計1100人から1400人。のちになって、犠牲者の4分の3はありふれた通常の犯罪者だったことが判明。犠牲者のうち本来殺害の対象となる反革命主義の政治犯は全体の4分の1にすぎなかった。
また、似たような虐殺が、前後して各地の都市でも起こった。その犠牲者の総計は150人といわれている。
1806年 – スイスのゴールダウで地滑り、457人が死亡。
1819年 – サン・テルモがホーン岬の南のドレーク海峡で、悪天候により損傷し沈没、644人が世界史史上初となる南極大陸での犠牲者となる。
サン・テルモ(San Telmo)は、スペインの砲74門を搭載した戦列艦。1788年に進水した。
1819年、Rosendo Porlier艦長が指揮するサン・テルモは、スペイン領アメリカでの独立運動と戦っている植民地軍の増援としてカヤオ(ペルー)に向かっていたスペイン艦隊の旗艦であった。1819年9月2日、サン・テルモはホーン岬の南のドレーク海峡で、悪天候により損傷し沈没した。
乗っていた644名が死亡し、南極大陸で死んだ最初の人となった。船の残骸の一部は、リヴィングストン島に最初に到達したアザラシ猟師達によって数ヵ月後に発見された。もし、サン・テルモに乗っていた人が上陸していれば、その人達は南極大陸に到達した最初の人間といえるだろう。
1898年 – マフディー戦争: オムダーマンの戦い。スーダンのマフディ教徒反乱軍と宗主国英国軍の植民地戦争。英国の大勝。損害 イギリス軍1万人中戦死50人 マフディ軍5万2千中 戦死9700人負傷13000人捕虜5000人。
マフディー戦争
時 1881年-1899年
場所 スーダン, エジプト, ウガンダ
結果 イギリス・エジプトの勝利:
領土の
変化 スーダンがイギリス・エジプトの共同主権(英埃領スーダン)となる。
1935年 – レイバー・デー・ハリケーン(英語版)がフロリダ州ロングキー(英語版)に上陸し400人以上が死亡。
1935年 – 大阪府堅下村(現柏原市)平野集落にあったため池「菱尾池」が前日来の豪雨により決壊。死者9人、重傷5人、軽傷10余人。家屋の全壊6戸、倒壊16戸の被害[4]。
1945年-沖縄戦9月2日・日本の降伏調印式は1945年9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、その状況はラジオの実況中継で全世界に流された。トルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民向けのラジオ放送で演説。その中で9月2日を正式にVJデーとし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのである。したがってアメリカの第二次世界大戦の終了は1945年9月2日ということになる。<日本人だけが8月15日を「終戦日」とする | 東洋経済オンライン>・1945年9月2日、戦艦ミズーリの艦上で第二次世界大戦は正式に終結しました。歴史上最も多くの被害と戦死者を出した戦争は、このわずか23分間の式によって終結したのです。9時2分に日本の降伏文書調印式が始まりました。まずマッカーサーが行ったスピーチのあと、日本の天皇と政府の代理として重光葵外務大臣が署名を行い、続いて日本軍の大本営の代表として梅津美治郎参謀総長が署名をしました。<オアフ島パールハーバー(真珠湾)に係留されている戦艦ミズーリ記念館>・6月3日に米軍が上陸した伊平屋島とは異なり、伊是名島では、8月15日の終戦の詔書 (「玉音放送」) の後も、封鎖された島では日本の敗戦を知らされず、敗残兵らが軍当局を名乗り、住民虐殺を始めた。
陸軍中野学校の離島残置工作員「西村良雄」(本名・馬場正治) と、島にクリ舟で逃れてきた国頭支隊の数人の平山隊 (平山勝敏大尉) らが「軍当局」を名乗っており、島で青年らを組織。9月頃、少年を含む4名の住民を虐殺した。<引用先原文>・降伏文書には、ポツダム宣言の内容を誠実に履行すると書かれています。その宣言では日本の領土についてこう記されています。
「日本国の主権は本州、北海道、九州および四国ならびに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」
この日沖縄では、アメリカ軍政府の諮問機関として生まれた沖縄諮詢会が北部の収容所を視察。すでに沖縄では、日本とは違った独自の統治が動き出していたのです。<琉球朝日放送 報道制作部 Qプラス » 65年前のきょうは1945年9月2日(日)>
1978年 – カナダのバンクーバーで遊覧飛行中の水上機が海中に墜落。新婚旅行で現地を訪れていた日本人観光客ら9人が死亡[7]。
1998年 – スイス航空111便墜落事故。死亡229人(全員)。
2020年 – 鹿児島県奄美大島沖でニュージーランドから中国へ向かう貨物船が台風接近に伴う波浪の中、救難信号を出した後に沈没。乗員1人救出、43人が行方不明[12]。
チャットgpt先生の9月2日のエッセイ
暦情報を外して、9月2日に並んでいる出来事そのものを「権力・軍事・国家・災害・制度」の構造として見ると、かなり明確なパターンが出ています。
1. 9月2日の中心テーマは「戦争そのもの」より「戦争の帰結」
特に重要なのは、
- 31 BCE:アクティウム海戦
- 1192:ヤッファ条約
- 1792:九月虐殺
- 1898:オムダーマンの戦い
- 1945:日本の降伏文書調印
です。
単純に「戦争の日」と見るより、
既存の権力構造が崩れ、新しい支配構造へ移行する局面
が非常に多い。
アクティウム
これは単なる海戦ではなく、ローマ共和政末期の権力競争を決着させた戦い。
アントニウス+クレオパトラ側が敗北
→ アントニウス勢力崩壊
→ クレオパトラ政権崩壊
→ オクタウィアヌスが地中海世界の覇権を確立
→ 最終的にアウグストゥスとして帝政へ
つまり、
戦場での勝敗 → エリート連合の崩壊 → 政体転換
という流れです。
2. 1192年は「勝敗」より「妥協による戦争終了」
ヤッファ条約はアクティウムとは逆方向です。
十字軍は軍事的に一定の成果を得たものの、最大目標だったエルサレム奪還には失敗。
そこで、
全面勝利ではなく、勢力圏を残したまま停戦する
という解決になった。
ここが非常に重要です。
中世の長期戦では、
相手を完全に消滅させる
↓
できない
↓
支配可能な領域だけ確保する
↓
条約で固定する
という形が現れます。
したがって1192年9月2日は、
軍事的決着ではなく、軍事力によって作られた現実を外交条約に変換した日
と見るほうが正確です。
3. 1792年は「国家が敵を定義できなくなった」局面
九月虐殺はかなり性質が違います。
ここでは外国軍との戦争そのものより、
国内にいる誰が敵なのか
が問題になっています。
構造を単純化すると、
外敵の侵攻
↓
国家機構への不信
↓
「内部に敵がいる」という認識
↓
収監者=潜在的敵という扱い
↓
正規の司法機構が機能しない
↓
非公式な暴力による処理
です。
ここで重要なのは、犠牲者の全員が実際の軍事的脅威だったわけではないこと。
むしろ、
国家が「誰を拘束し、誰を裁き、誰を排除するか」という独占機能を失った
ことが核心です。
これは革命期には非常に危険な状態です。
「敵を殺す」という軍事行動より、
敵の定義そのものが拡張する
ほうが国内秩序に与える影響は大きい。
4. 1898年オムダーマンは「技術差が死傷率を決める」
ここはかなりリアリスト的に見ることができます。
提示された数字では、
- 英埃側:約1万人
- マフディー軍:約5万2千人
という兵力差がありますが、単純な兵力差だけでは説明できません。
重要なのは、
火力・射程・機関銃・砲兵・訓練・指揮統制・補給
です。
19世紀末になると、近代的な火力を持つ軍隊に対して、旧式装備と大量動員による正面攻撃を行うことの危険性が極端に高くなっています。
つまり、
人数が多い
≠ 戦闘力が高い
という典型例。
オムダーマンは、帝国主義時代の戦争における
「組織・火力・兵站の差が、人的損害を一方的にする」
という構造を非常に分かりやすく示しています。
5. 1945年9月2日は「戦争終了」以上に重要
1945年9月2日は、非常に大きな意味があります。
8月15日
→ 日本政府・国民に対する降伏意思の表明
9月2日
→ 降伏文書への署名
という違いです。
リアリスト的には、
政治的意思決定 → 軍事的実行停止 → 法的・国際的な確定
という3段階で考えると分かりやすい。
つまり9月2日は、
「もう戦わない」
という意思ではなく、
「敗北した国家が、戦勝国側の設定する国際秩序に正式に組み込まれる」
という転換点です。
アクティウムと比較すると面白いです。
31 BCE
軍事的勝利
→ 敗者側の政治秩序崩壊
→ 新しい帝国秩序
1945
軍事的敗北
→ 降伏文書
→ 占領・戦後国際秩序
約2,000年離れていますが、
「戦争の結果が政治秩序に変換される」
という基本構造は共通しています。
6. 一方、1666・1806・1819・1935・1998・2020は別系統
ここが面白いところです。
9月2日の出来事を全部「戦争の日」とまとめると、かえって見誤ります。
ロンドン大火
都市インフラと建築環境の脆弱性。
ゴールダウ地滑り
自然災害。
サン・テルモ
海洋航行・悪天候・救助能力の限界。
1935年フロリダ
巨大ハリケーンに対する防災能力の限界。
菱尾池決壊
局地的な水害・インフラリスク。
スイス航空111便
航空機事故と技術・安全管理。
2020年貨物船沈没
大型船舶+荒天+救難・航路管理の問題。
これらを並べると、もう一つの軸が見えてきます。
巨大システムは、平常時には強いが、閾値を超えた瞬間に大量の損失を発生させる。
これは戦争にも共通しています。
7. 「9月2日の出来事」を構造分類するとこうなる
| 分類 | 代表例 | 中核メカニズム |
| 権力移行 | アクティウム | 戦争による政権交代 |
| 戦争終結 | ヤッファ条約 | 軍事的現実を条約化 |
| 国内崩壊 | 九月虐殺 | 国家の暴力独占の弱体化 |
| 帝国拡張 | オムダーマン | 火力・兵站による圧倒 |
| 世界秩序転換 | 1945年降伏 | 敗戦国の国際秩序への再編 |
| 都市災害 | ロンドン大火 | 都市構造の脆弱性 |
| 自然災害 | ゴールダウ・ハリケーン | 自然エネルギーへの脆弱性 |
| 海難 | サン・テルモ | 航海能力と自然環境 |
| 航空事故 | スイス航空111便 | 複合的技術・運用失敗 |
| 海難 | 2020年貨物船 | 荒天+船舶+救難 |
かなり綺麗に、
「大きなシステムが限界を迎える日」
という共通項が浮かびます。
8. 特に面白いのは「勝者が決まる日」と「システムが壊れる日」が混在していること
アクティウムでは、
一方の政治システムが勝ち、もう一方が消える。
ヤッファでは、
双方が完全勝利できないので、勢力圏を固定する。
九月虐殺では、
国家の統制能力が内部から侵食される。
オムダーマンでは、
技術・組織格差によって一方的な戦場になる。
1945年では、
敗戦によって国家システムそのものが再編される。
災害・事故では、
自然・技術・インフラの限界がシステムを破壊する。
したがって一本の線にすると、
競争 → 限界 → 破綻 → 勝者による再編
という構造があります。
9. 死者数を見るとさらに特徴が出る
提示された数字には注意が必要です。
特に古代・中世の戦争については、兵力や死者数が現代戦ほど正確に把握できません。
したがって、
「7万人対6万人、死者10〜20万人」
のような数字をそのまま比較するより、
損失規模の桁と、どちらが戦争遂行能力を維持したか
を見るほうが有用です。
たとえばオムダーマンは典型的に、
人的損失の非対称性
が極端です。
一方、ロンドン大火は都市の大部分が焼失したにもかかわらず、記録上の死者数は非常に少ない。
ここには、
物的損害の巨大さ ≠ 人的損害の巨大さ
という重要な違いがあります。
逆に九月虐殺では、物理的破壊よりも
人的排除+政治秩序の破壊
が中心です。
10. 9月2日をリアリスト目線で一言にすると
かなり端的に言えば、
「旧秩序の維持能力が限界に達し、勝者・条約・暴力・災害などによって現実が再編される局面が集中している日」
です。
そして、31 BCE・1192・1792・1898・1945を一本につなぐなら、
①武力で決着する
②武力で決着できないので条約化する
③国家が内部統制を失う
④技術差で一方的に決着する
⑤敗戦国が新秩序に組み込まれる
という、異なる形の「秩序再編」と見るのが一番面白いです。
なお、これは「9月2日という日付そのものに歴史的な力がある」という話ではありません。365日の中から9月2日に起きた事件を拾って並べると、この日に権力移行・戦争終結・大量死・災害が目立つように見えるという観察と、実際の因果関係は分けて考える必要があります。

