kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月31日 1997ダイアナ妃交通事故死、ほかwikipediaハロッズにある追悼碑

8月31日

20260831月曜日旧暦7月19日先勝(14番丁丑ひのとうしテイチュウ)月齢 18.3

43番丙午ひのえうま年 33番丙申ひのえさる月 14番丁丑ひのとうし日

吉方位 隠遁日 丁丑ひのとうし日 南 大吉 年末まであと122日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8831%E6%97%A5

8月31日の出来事

1056年 – テオドラが病死。ビザンツ帝国のマケドニア朝が断絶する。コンスタンティノス8世の三女で、ゾエの妹に当たる。

1614年(慶長19年7月26日) – 徳川家康が、豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘の「国家安康」の文字に言いがかりをつけ落慶法要を延期させる。大坂冬の陣のきっかけに。

1864年 – 南北戦争: ジョーンズバラの戦いが始まる。8月31日~9月1日。

損害 北軍6個軍団中戦死1149人 南軍 2個軍団中 戦死2700人。

1888年 – イギリスで「切り裂きジャック」による最初の殺人事件が発生。カノニカルファイヴ カノニカル・ファイブ—切り裂きジャックの犠牲者として挙げられる5人(カノニカル・ファイブ)は、メアリー・アン・ニコルズ、アニー・チャップマン、エリザベス・ストライド、キャサリン・エドウッズ、メアリー・ジェーン・ケリーである[30]。

1896年 – 陸羽地震、M7.2、死者210人。

1945年-沖縄戦8月31日・8月31日、厚木飛行場には1000名の連合軍将兵が到着し、横浜に進駐する。(308頁)

… 前日、関内に進駐した連合軍将兵の就寝は早かった。それでも山下公園に設営された幕舎には、自家発電装置による電灯が煌々と輝いていた。通信線の取り付けをはじめ設営の能率的な動きは日本人を驚かせた。

「丗一日はマッカーサー元帥をはじめ將兵全員早朝5時半には起床、7時朝食をすますと直ちに進駐第2日目の活動がはじまった。マッカーサー元帥以下高級將兵の宿泊するホテル・ニューグランドのロビーには部下に命令を傳える將校や元帥の部屋へ報告に入る参謀などがあわただしく行き交ひ、その間を縫って米英新聞記者、映画班などがカメラを両手に忙しくたち廻っている」(20・9・1『読売報知新聞』)《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 308、311-312頁より》・このマッカーサーの日本進出と前後して、他の米軍部隊と要人たちも続々と日本の土を踏んでいた。要人たちの多くは、9月2日に東京湾上の米戦艦「ミズーリ」で行われる日本の降伏調印式に参加するためである。

まず8月28日 (註・実際には8月27日) にはウィリアム・F・ハルゼー大将の米太平洋艦隊第3艦隊が、旗艦「ミズーリ」以下258隻を率いて東京湾に入った。翌29日にはチェスター・W・ニミッツ元帥(米太平洋艦隊司令長官兼太平洋方面司令長官)がグアム島から水上機で飛来し、相模湾の戦艦「サウスダコタ」に長官旗を掲げた。そして30日には第3艦隊の海兵隊が相模湾から上陸し、横須賀の海軍工廠と鎮守府を接収し、ハルゼーの勝旗を掲げた。《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 61頁より》

1949年 – キティ台風が関東地方に上陸。死者135人、行方不明25人。

1986年 – アエロメヒコ航空498便空中衝突事故発生。死者総数82(両機全員と地上15人)

1986年 – 客船アドミラル・ナヒーモフが大型貨物船「ピョートル・ワセフ」(Pyotr Vasev、1万8604トン)と衝突し沈没する。乗客・乗員1,234人中死亡432人

1987年 – タイ航空365便墜落事故。死亡83人(全員)。

1988年 – デルタ航空1141便墜落事故。死亡14人 生存94人。

1997年 – ダイアナ元イギリス皇太子妃が交通事故で死去。

1999年 – モスクワのショッピングモールでロシア高層アパート連続爆破事件の最初の爆弾テロが発生。日付             1999年8月31日 – 9月 死亡者300人以上。

1999年 – LAPA 3142便離陸失敗事故。死亡63人。生存37人。

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1056年 – テオドラが病死。ビザンツ帝国のマケドニア朝が断絶する。コンスタンティノス8世の三女で、ゾエの妹に当たる。

1614年(慶長19年7月26日) – 徳川家康が、豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘の「国家安康」の文字に言いがかりをつけ落慶法要を延期させる。大坂冬の陣のきっかけに。

1864年 – 南北戦争: ジョーンズバラの戦いが始まる。8月31日~9月1日。

損害 北軍6個軍団中戦死1149人 南軍 2個軍団中 戦死2700人。

ジョーンズバラの戦い(ジョーンズバラのたたかい、英: Battle of Jonesborough)は、南北戦争アトランタ方面作戦中の1864年8月31日から9月1日に、ジョージア州クレイトン郡で行われた戦闘である。ウィリアム・シャーマン少将が率いる北軍が、アトランタ市を守っていたジョン・ベル・フッド将軍の率いる南軍テネシー軍を市から引き離し、破壊できるようにした。

フッド軍そのものが崩れたわけではなかったが、アトランタ市は放棄され、この戦争の残り期間は北軍が占領した。アトランタ市の陥落は戦争の行方について政治的にも軍事的にも大きな影響を与えることになった。この戦闘でアトランタ方面作戦は一区切りとなった。

1888年 – イギリスで「切り裂きジャック」による最初の殺人事件が発生。カノニカルファイヴ カノニカル・ファイブ—切り裂きジャックの犠牲者として挙げられる5人(カノニカル・ファイブ)は、メアリー・アン・ニコルズ、アニー・チャップマン、エリザベス・ストライド、キャサリン・エドウッズ、メアリー・ジェーン・ケリーである[30]。

1888年8月31日の金曜日の午前3時40分頃、ホワイトチャペルのバックズ・ロウ(現在のダーワード・ストリート)でメアリー・アン・ニコルズの遺体が発見された。 生きているニコルズが最後に目撃されたのは、遺体発見の約1時間前で、ホワイトチャペル・ロード方面に歩いている彼女を、スピタルフィールズのスロール・ストリートにある共同下宿で寝泊まりしていたエミリー・ホランド夫人が目撃したというものであった[31]。 被害者の喉は2つの深い切り傷で切断されており、そのうちの1つは椎骨までの組織を完全に切断していた[32]。 膣には2回の刺し傷が見られ[33]、下腹部には深くザラザラした傷で一部が裂けており、腸がはみ出していた[34]。 腹部の両側にも同じナイフによっていくつかの切り込みが入っていた。 これらの傷はいずれも下向きに突き刺すようにして負わされていた[35]。

メディア

1888年9月8日付のペニー・イラストレイテッド・ペーパー(英語版)の挿絵。メアリー・アン・ニコルズの遺体が発見されたことが描かれている。

切り裂きジャック事件は、ジャーナリストが犯罪を扱うことに対する重要な分岐点となった[23][176]。 この事件が最初の連続殺人事件というわけではなかったが、最初に世界規模でメディアの熱狂を引き起こしたものであった。 1880年の初等教育法によって、社会的階級に関係なく学校に通うことが義務付けられた[23][176]。これにより、1888年にはイングランドとウェールズの労働者階級の多くの識字率が高まった[177]。

1896年 – 陸羽地震、M7.2、死者210人。

1945年-沖縄戦8月31日・8月31日、厚木飛行場には1000名の連合軍将兵が到着し、横浜に進駐する。(308頁)

… 前日、関内に進駐した連合軍将兵の就寝は早かった。それでも山下公園に設営された幕舎には、自家発電装置による電灯が煌々と輝いていた。通信線の取り付けをはじめ設営の能率的な動きは日本人を驚かせた。

「丗一日はマッカーサー元帥をはじめ將兵全員早朝5時半には起床、7時朝食をすますと直ちに進駐第2日目の活動がはじまった。マッカーサー元帥以下高級將兵の宿泊するホテル・ニューグランドのロビーには部下に命令を傳える將校や元帥の部屋へ報告に入る参謀などがあわただしく行き交ひ、その間を縫って米英新聞記者、映画班などがカメラを両手に忙しくたち廻っている」(20・9・1『読売報知新聞』)《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 308、311-312頁より》・このマッカーサーの日本進出と前後して、他の米軍部隊と要人たちも続々と日本の土を踏んでいた。要人たちの多くは、9月2日に東京湾上の米戦艦「ミズーリ」で行われる日本の降伏調印式に参加するためである。

まず8月28日 (註・実際には8月27日) にはウィリアム・F・ハルゼー大将の米太平洋艦隊第3艦隊が、旗艦「ミズーリ」以下258隻を率いて東京湾に入った。翌29日にはチェスター・W・ニミッツ元帥(米太平洋艦隊司令長官兼太平洋方面司令長官)がグアム島から水上機で飛来し、相模湾の戦艦「サウスダコタ」に長官旗を掲げた。そして30日には第3艦隊の海兵隊が相模湾から上陸し、横須賀の海軍工廠と鎮守府を接収し、ハルゼーの勝旗を掲げた。《図解「マッカーサー」(太平洋戦争研究会=編、袖井林二郎・福島鑄郎=著/河出書房新社) 61頁より》

1949年 – キティ台風が関東地方に上陸。死者135人、行方不明25人。

1986年 – アエロメヒコ航空498便空中衝突事故発生。死者総数82(両機全員と地上15人)

1986年 – 客船アドミラル・ナヒーモフが大型貨物船「ピョートル・ワセフ」(Pyotr Vasev、1万8604トン)と衝突し沈没する。乗客・乗員1,234人中死亡432人

事故

8月31日深夜、客船アドミラル・ナヒーモフは乗客・乗員1,234人以上を乗せ、黒海に面したノボロシースクを保養地ソチに向け出港した。その後突然激しい衝撃がアドミラル・ナヒーモフを襲い、その8分後には423人の生命を道連れに海底に沈んだ。

1987年 – タイ航空365便墜落事故。死亡83人(全員)。

1988年 – デルタ航空1141便墜落事故。死亡14人 生存94人。

1997年 – ダイアナ元イギリス皇太子妃が交通事故で死去ダイアナの死

概要

1997年8月31日未明、ウェールズ公妃ダイアナ(ダイアナ元妃)が乗車するメルセデス・ベンツ・W140(Sクラス)が、フランスのパリにあるアルマ橋トンネルで衝突事故を起こした。この事故でダイアナとエジプトの大富豪の息子であるドディ・アルファイド、運転していたアンリ・ポールの3名が死亡し、ボディーガードのトレヴァー・リース・ジョーンズが重傷を負った。

一部のメディアは、BBCが報じたように、車を追っていたパパラッチの不適切な行動が事故の一因となったと主張した[2]。1999年、フランスの調査でアルコールに酔い、さらに処方薬の影響下で高速で車両の制御を失ったポールが、事故の唯一の原因であることがわかった。彼はオテルリッツのセキュリティ副責任者であり、ホテルの外でダイアナとアルファイドを待っているパパラッチを先に追いかけていた[3]。彼の血中の抗うつ薬と抗精神病薬は、ポールの酩酊を悪化させた可能性がある[4]。一部のメディア報道によると、リース・ジョーンズはシートベルトを着用していたため生き残ったが、他の調査では、乗員は誰もシートベルトを着用していなかったことが明らかになった[5]。

ダイアナの死はイギリスをはじめとした世界各国に悲しみをもたらし、葬儀は2億5000万人が目にした[訳語疑問点]。王室は、ダイアナの死に対する反応についてマスコミで批判された。ダイアナに対する公共の関心は高いままであり、彼女の死は定期的に報道され続けている。

1999年 – モスクワのショッピングモールでロシア高層アパート連続爆破事件の最初の爆弾テロが発生。日付             1999年8月31日 – 9月 死亡者300人以上。

ロシア高層アパート連続爆破事件(ロシアこうそうアパートれんぞくばくはじけん)とは、1999年にロシアで発生した爆弾テロ事件。一部のジャーナリストや歴史家はロシア政府による自作自演の可能性を指摘している。

概要

同年8月終わりから9月にかけて、首都モスクワなどロシア国内3都市で爆発が発生し、計300人近い死者を出した。

8月に首相となったウラジーミル・プーチンは、チェチェン独立派武装勢力のテロと断定。本事件と、チェチェン独立派のダゲスタン侵攻を理由にチェチェンへの侵攻を再開し、第二次チェチェン戦争の発端となった。プーチンの強硬路線は反チェチェンに傾いた国民の支持を大きく集め、彼を大統領の座に押し上げた。

一連の爆破事件はチェチェンのテロリストによって引き起こされたと一般に考えられているが[1]、彼らによる犯行は決定的に証明されたものではなく[1]、一部のジャーナリストと歴史家は事件がプーチンを大統領職へと押し上げるためにロシア政府機関によって仕組まれたものだと主張している[2][3][4][5][6][7]。

1999年 – LAPA 3142便離陸失敗事故。死亡63人。生存37人。

LAPA 3142便離陸失敗事故はブエノスアイレスからコルドバへ向かうLAPA 3142便が1999年8月31日の20時54分(現地時刻)にホルヘ・ニューベリー空港からの離陸に失敗した事故である。運航はアルゼンチンの航空会社であるLAPAが担当していた[1]。事故機はボーイング737-204C(LV-WRZ) [1]であった。この事故で乗員乗客63人と地上の2人が死亡し、少なくとも40人が負傷した。何人かは重傷を負った[2]。アルゼンチンで発生した事故としてはアルゼンチン航空644便墜落事故(英語版)に次いで、2番目に死者が多いものとなった。

チャットgpt先生の8月31日のエッセイ

8月31日という日付を並べてみると、奇妙な共通点が浮かび上がる。

1056年、ビザンツ帝国ではテオドラの死によってマケドニア朝が断絶した。1614年には方広寺鐘銘事件が、豊臣家と徳川家の最終的な対立を戦争へ押し出す一つの契機になった。1864年のジョーンズバラでは、南軍が戦場そのものですべてを失ったわけではないにもかかわらず、アトランタが放棄され、戦争の政治的な流れが変わった。

ここで重要なのは、「8月31日に何が起きたか」ではない。

表面上は別々の事件でも、構造を見ると同じことが起きている。

体制は、その日に突然崩れるのではない。崩壊が見える形になった日が、後から歴史の日付になる。

権力構造も同じだ。

方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」は、文字そのものが徳川家を倒したわけではない。問題は、すでに存在していた豊臣家と徳川家の力関係に、ひとつの解釈が与えられたことだった。

つまり、事件を動かしたのは「鐘」ではなく、鐘を政治的な武器として使えるほど、両者の関係が緊張していたことである。

ジョーンズバラも同じだ。

北軍が南軍を完全に消滅させたわけではない。しかし南軍をアトランタから切り離し、都市を維持できない状態にした。その結果としてアトランタが落ち、南軍の戦争遂行能力と政治的立場に打撃が入った。

戦争では、戦場で相手を全滅させることだけが勝利ではない。

相手が持っている都市、交通路、補給、政治的支持、時間を順番に奪い、相手の選択肢を減らしていく。

最後に残るのが「敗北」という結果である。

1945年8月31日も、同じ構造の延長線上にある。

この時点で日本の敗戦は、すでに軍事的には決着していた。マッカーサーが横浜へ入り、米軍部隊が日本の主要施設を接収していく。9月2日の降伏文書調印を前に、日本国内にはすでに「誰がこの国の秩序を決めるのか」という現実が到着していた。

ここで注目すべきなのは、兵士の数や兵器の性能だけではない。

通信線が敷かれる。司令部が設置される。宿泊場所が確保される。港湾や飛行場が押さえられる。命令系統が構築される。新聞記者や映画班が入る。

つまり、軍事力が行政能力へ変換されていく。

戦争の勝敗は、敵兵を倒すところで終わらない。

勝者が「明日からこの場所を管理できる」という状態になった時、敗者はすでに主権の実質的部分を失っている。

1949年のキティ台風、1986年以降の航空・海難事故、1999年のLAPA3142便事故などを並べると、別の構造も見えてくる。

事故はしばしば、一つの原因によって起こらない。

小さな判断、確認不足、設計上の弱点、組織上の問題、時間的な圧力、人的ミス。そうしたものが重なり、ある一点を越えたところで「事故」という名前を与えられる。

航空機が墜落する瞬間だけを見ると、墜落は突然起きたように見える。

しかしシステムの側から見れば、突然ではない。

事故とは、複数の弱点が同じ方向に並んだ瞬間である。

8月31日の事故史が多く見えるのも、その意味では象徴的だ。

1986年のアエロメヒコ航空498便、同年のアドミラル・ナヒーモフ沈没、1987年のタイ航空365便、1988年のデルタ航空1141便、1999年のLAPA3142便。

航空機でも船でも、巨大なシステムほど「一人の失敗」だけでは説明できない。

むしろ重要なのは、失敗する人間が存在することを前提にして、それでも事故にならない構造を作れていたかである。

そして1997年8月31日、ダイアナ元妃の死は、別の意味で世界規模のシステムを露呈させた。

パリのトンネルで一台の車が衝突した。

しかし、その車を取り巻いていたのは、単なる交通環境ではない。著名人、警護、運転手、報道機関、パパラッチ、ホテル、メディア市場、群衆、そして「有名人を追いかけること自体が商業価値を持つ」という巨大な経済構造だった。

個人の死亡事故として見ると、焦点は運転手やシートベルト、速度などに集まる。

しかし構造として見るなら、もっと大きな問題がある。

なぜその車の周囲に、それほど多くの人間が集まり、なぜ危険な速度で移動する必要が生じたのか。

個々の人間の意図を追いかけるより、インセンティブを見る方が現実に近い。

人間は「正しいから」動くとは限らない。

金になるから動く。
命令されたから動く。
競争相手に負けたくないから動く。
組織内で評価されたいから動く。
政治的に有利だから動く。
市場がそれを要求するから動く。

この原理を無視すると、歴史は人物劇になる。

だが、人物を交換しても同じ現象が再発するなら、原因は人物ではなく構造にある。

1999年のロシア高層アパート連続爆破事件も、まさにそういう問題を含んでいる。

チェチェン側の犯行とする説明が存在する一方、ロシア政府機関による自作自演を疑う議論も存在する。ここで重要なのは、どちらか一方の説を簡単に採用することではない。

重要なのは、事件が政治権力にどのような利益をもたらしたかを見ることである。

爆破事件によって社会の恐怖が高まる。
恐怖によって治安への需要が高まる。
治安への需要によって強硬政策への支持が増える。
強硬政策を掲げる政治家の権力基盤が強くなる。

この連鎖が存在するなら、そこを分析する。

誰が善人で誰が悪人かという話ではない。

政治とは、しばしば「誰が正しいか」よりも、誰が何を得るのかによって動く。

8月31日の歴史を並べていくと、最終的には一つの現実に戻ってくる。

国家は、ある日突然崩壊するわけではない。

企業も、組織も、軍隊も、都市も、人間関係も同じだ。

表面上は昨日まで正常に動いている。

しかし内部では、すでに余裕が失われている。

選択肢が減っている。
資源が減っている。
信頼が減っている。
時間が減っている。
代替手段がなくなっている。

そして最後に、小さな出来事が発生する。

鐘の文字。
一つの戦闘。
一つの進駐。
一台の車。
一つの爆発。
一度の離陸失敗。

後世の人間は、その瞬間を「事件」と呼ぶ。

だが現実には、その瞬間までに構造はかなりのところまで完成している。

だから歴史を見るとき、「何が起きたのか」だけでは足りない。

見るべきなのは、

その出来事が起きる前に、誰の選択肢が減っていたのか。
誰の選択肢が増えていたのか。
誰が時間を持っていたのか。
誰が資源を持っていたのか。
そして、最後の一手を打つ必要がなくなるほど、すでに勝敗が決まっていなかったか。

8月31日という日は、そのことをよく示している。

歴史の転換点は、必ずしも派手な瞬間ではない。

むしろ本当に重要なのは、派手な瞬間の少し前にある。

人間が「まだ大丈夫だ」と思っている時点で、構造がすでに「もう戻れない」と判断している。

そして後から振り返ったとき、その日付だけが残る。

8月31日。

崩壊の日ではない。

崩壊が、誰の目にも見える形になった日である。