kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月22日 1944疎開船対馬丸攻撃され沈没、ほか写真wikipedia在りし日の対馬丸

8月22日

20260822土曜日旧暦7月10日仏滅(5番戊辰つちのえたつボシン)月齢 9.3

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 5番戊辰つちのえたつ日

吉方位 隠遁日 戊辰つちのえたつ日 北東 大吉 年末まであと131日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8822%E6%97%A5

8月22日の出来事

1639年 – 東インド会社により、インドにマドラス(現チェンナイ)が創設される。

1777年 – アメリカ独立戦争: スタテン島の戦い行われる。

戦争:アメリカ独立戦争

年月日:1777年8月22日

場所:ニューヨーク、スタテン島

結果:戦術的にはイギリス軍の勝利、戦略的には影響なし

損害 アメリカ独立軍 戦死行方不明300人 イギリス軍 戦死行方不明100人

1944年 – 第二次世界大戦: 対馬丸事件。学童疎開船「対馬丸」がアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、乗員乗客1418名が死亡。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 三船殉難事件。樺太からの引揚船3隻がソ連軍の潜水艦に攻撃され2隻が沈没、1700名以上死亡。

1945年 – 肥薩線列車退行事故、53名が死亡。

1945年 – 愛宕山事件: 8月15日から愛宕山に篭城していた右翼団体・尊攘同志会会員ら12人が手榴弾で自決。

1945年-沖縄戦8月22日・「最後まで敢闘せよ」… 日本の終戦後も、沖縄ではまだ戦争が続いていた。<引用先原文>・ガマの中にいた糸数 の住民は終戦も知らずに8月22日に米軍の宣撫班(日本兵)がこのガマに入ってきて、全員出るようにと言われ、住民の約50名位がガマから出て米兵に収容された。…この時ガマの中の生き残りの兵7名も一緒に出て収容されたが、トラックは住民と別々であった。糸数の住民は同日村内の百名の収容所につれて行かれ、男性はここで調べられて兵隊と防衛隊は屋嘉収容所へつれていかれた。… 戦後このガマに入った人の話しによると、ガマ内に備えられた丸太の寝台2段ベッドの上下に白骨化した遺体がたくさんあったという。《『糸数アブチラガマ(糸数壕)』玉城村 (1995年) 》・アブチラガマで8月22日に救出された日比野勝広さん証言

時折、明かりをつけ、ぼんやりと辺りを照らすと、天井から無数に下る石のつららは、その先にしずくを光らせ、気味悪く私たちに迫ってくる。辺りに転がっている多くの死体と共に、死の世界をまざまざと見せつけられた思いで、非常な恐怖におそわれ、思わず、「ふっ」と明かりを消す。もとの闇にもどると、今みた地獄図が眼に残り頭を抱えこんでしまう。<「屍と共に半年」日比野勝廣さんの証言 | 糸数アブチラガマ>・一中通信隊の元学徒

私の叔父○○は、県立一中2年生の15歳で学徒動員された。通信隊の一員として南部の激戦地を転戦させられたが、生きのびて帰ってきた。4人の姉たちの後に生まれた待望の男子で、一族から期待され大事に育てられた。わずか15歳で戦場へ駆り出され、地獄を体験した彼は、生きて帰ってきたものの戦争後遺症で精神の病にかかった。不眠症に悩み、突然自分を制御できず暴れだし、年取った親を苦しめた。叔父の面倒をみるため、戦後の祖父と祖母の生活は悲惨であった。私たち家族は、父の転勤で東村に移り住んだが、久米島に残った○○叔母の家族は、祖父母を助け、叔父の面倒をみるための苦労は言葉では言い尽くせない。「トミはその心労で命を縮めたのではないか」と母は、心を痛めていた。その後、叔父は精神病院に入院したものの社会復帰できず、病院でその生涯をおえた。<《久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争』インパクト出版 (2021) 150-151頁》>・浦添村経塚27歳の女性の証言

子供二人が爆死して以来、この時まで私はほとんど放心状態で過ごしてきておりました。子供達から流れ出た血と糊の入り混った異様なにおいが、永い間身体にこびりついていました。身体を洗っても落ちませんでした。そのにおいは、一、二か月経っても、夕暮れ時、ぼんやりしていると漂ってきました。そしてまた子供達のことを思い浮べて、涙を流してしまうという状態が続いていたのです。<「女たちの苦しみ」1945年7月27日 『地獄から天国にきた気分』 – 〜シリーズ沖縄戦〜>

1981年 – 台湾で遠東航空103便墜落事故。作家の向田邦子ら110人全員死亡。

1985年 – イギリスでブリティッシュ・エアツアーズ28M便火災事故。ボーイング737がマンチェスター空港を離陸する際左側のエンジンが爆発、機体が二つに折れて炎上し、54人死亡。

1999年 – 中華航空642便着陸失敗事故。バンコク発香港行きの中華航空機が香港国際空港上空で台風の突風に遭遇し着陸に失敗、3名が死亡。

2006年 – プルコボ航空612便墜落事故。170名死亡(全員)。

2022年 – 名古屋高速バス横転炎上事故が発生。2名死亡7人負傷。

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1639年 – 東インド会社により、インドにマドラス(現チェンナイ)が創設される。

概要

インド有数の世界都市であり、人口は700万人。2018年の都市圏人口は約1330万人であり、同国第4位である。

1996年にマドラス(Madras)から正式に改名された。和名の麻打拉薩、孟打拉沙、馬搭喇はいずれもマドラスから来ている[1]。

「南インドの玄関口」「南アジアのデトロイト」「インドの健康首都」「インド銀行業の首都」の異名を持つ。

自動車産業、情報技術産業、ビジネス・プロセス・アウトソーシング業が盛んである。

1777年 – アメリカ独立戦争: スタテン島の戦い行われる。

戦争:アメリカ独立戦争

年月日:1777年8月22日

場所:ニューヨーク、スタテン島

結果:戦術的にはイギリス軍の勝利、戦略的には影響なし

損害 アメリカ独立軍 戦死行方不明300人 イギリス軍 戦死行方不明100人

スタテン島の戦い(英: Battle of Staten Island)は、アメリカ独立戦争中の1777年8月22日に、ジョン・サリバン少将の指揮する大陸軍が、ニューヨークのスタテン島を守るイギリス軍を襲ったときの戦闘である。サリバンは予測していたように多くの捕虜を捕まえることができず、むしろ船が足りなかったために自軍の兵士約200名を捕虜に取られた。サリバンはこの襲撃に失敗したことで告発されたが、1777年の後半に開かれた軍法会議では全てが無罪になった。

1944年 – 第二次世界大戦: 対馬丸事件。学童疎開船「対馬丸」がアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、乗員乗客1418名が死亡。

対馬丸(つしままる)は、日本郵船のT型貨物船の一隻で、総トン数6,754トンの貨物船[4]。旧字体の表記は對馬丸[4]。

太平洋戦争中の1944年8月、疎開船として民間人や児童ら計約1,700名を乗せて那覇から長崎へ向かう途中、8月22日にアメリカ海軍の潜水艦「ボーフィン」からの魚雷攻撃を受け沈没し、大きな犠牲を出した[5]。

事件前後から終戦まで

対馬丸が撃沈された事件については緘口令が布かれたが、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなった。このため一時は疎開に対する反発などがあったが、1944年(昭和19年)10月10日の那覇市への空襲(十・十空襲)があってからは疎開者が相次いだ。対馬丸沈没の前後には潜水母艦迅鯨および長鯨、軽巡洋艦長良、練習巡洋艦鹿島などの艦艇も沖縄へ兵力を輸送する任務の帰途に疎開輸送を行った。沖縄からの疎開輸送には、1944年(昭和19年)7月から1945年(昭和20年)3月まで艦船延べ187隻が繰り出され、8万名以上が日本本土と台湾へ疎開した[72]。ただし、この数字にそれ以外の時期や客船や漁船などによる自主的疎開は含まれていない。

対馬丸の他に、事故やアメリカ軍の攻撃によって27隻もの各種船舶が沖縄・奄美近海に沈んだ。その多くは、嘉義丸、湖南丸、宮古丸のような定期船や、富山丸のような軍隊輸送船であった。厚生省の調査では、3月上旬までの沖縄からの187隻の疎開船のうち犠牲者を出したのは対馬丸が唯一の事例である[72]。調査外の時期の疎開船で犠牲者を出した事例としては、約70人が死亡したとみられる尖閣諸島戦時遭難事件が存在する。また、鹿児島県の徳之島からの疎開船武洲丸(日之出汽船、1,222トン)も同年9月25日に潜水艦により撃沈されており[73]、対馬丸以外で唯一潜水艦に撃沈された南西諸島からの疎開船と見られる[74]。

モ05船団、609船団、ナモ103船団で対馬丸と行動をともにした暁空丸は約1ヵ月後の9月18日[75]、節船団で門司から上海に向かう途中にアメリカ潜水艦スレッシャー (USS Thresher, SS-200) の雷撃で沈没し[76]、和浦丸は途中病院船に転じて再び輸送船に戻ったあと、1945年(昭和20年)7月20日に釜山港外で機雷に触れ座礁し放棄され後に浮揚されて韓国船コリアとなった[77]。疎開した民間人の多くは疎開先の本土(主に九州、鹿児島県や熊本県、宮崎県)や台湾で終戦を迎えている。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 三船殉難事件。樺太からの引揚船3隻がソ連軍の潜水艦に攻撃され2隻が沈没、1700名以上死亡。

三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)は、第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの疎開者を主体とする日本の緊急疎開船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦(L-12号・L-19号)からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件を指す[1]。死者1,558人、行方不明150人とされる[2]。三船遭難事件とも呼ばれる[3][4]。

備考

事件の犠牲者は1,708名とされているが、疎開の混乱時であり、きちんとした形での乗船者名簿等は作られず、正確な乗船人員は不明である。遺体が確認されていない行方不明者も相当数いるため、実際の犠牲者は更に多かった可能性がある。第二号新興丸は乗客・乗員合わせて3,219人が生きて下船したが、その数は乗員が乗船者名簿の代わりに船名を書いて乗船者に渡していた紙の数とあまり変わらなかった。しかし、魚雷による二番船倉の死者や海に流された者がかなりの数で目撃されていて、したがって事前に捕捉していた数をはるかに超えた乗船者がいたことになる[8]。

8月22日には樺太最南端の西能登呂岬南方海上においても、疎開者輸送のため樺太西岸の本斗から大泊に向けて回航中の大阪商船の貨物船能登呂丸(1,100トン)がソ連の航空機の雷撃により沈没した。

1945年 – 肥薩線列車退行事故、53名が死亡。

1945年 – 愛宕山事件: 8月15日から愛宕山に篭城していた右翼団体・尊攘同志会会員ら12人が手榴弾で自決。

愛宕山事件(あたごやまじけん)は、1945年8月15日東京都芝区(現在の港区)の愛宕山で右翼団体構成員が第二次世界大戦の日本の降伏終戦に反対して篭城した事件である。尊攘義軍事件とも。

概要

1945年(昭和20年)8月15日の昼に、日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏することが昭和天皇による玉音放送によって発表されると、降伏に反対する右翼団体「尊攘同志会」の首領・飯島与志雄ら12名が愛宕山に篭城した。飯島らは抗戦派軍人の決起を期待し、これに呼応するため日本刀や拳銃、手榴弾等で武装していた[1]。

これを知った警視庁では約70名の警官隊を動員し、愛宕山を包囲、投降を呼びかけた。飯島らは説得を拒否し立て篭り続けたため、22日午後6時頃、警官隊が発砲し突入、追いつめられた飯島らは手榴弾で自決を図り、10名が死亡、2名が捕えられた。

その他

港区の愛宕神社境内に同事件の慰霊碑がある。

1945年-沖縄戦8月22日・「最後まで敢闘せよ」… 日本の終戦後も、沖縄ではまだ戦争が続いていた。<引用先原文>・ガマの中にいた糸数 の住民は終戦も知らずに8月22日に米軍の宣撫班(日本兵)がこのガマに入ってきて、全員出るようにと言われ、住民の約50名位がガマから出て米兵に収容された。…この時ガマの中の生き残りの兵7名も一緒に出て収容されたが、トラックは住民と別々であった。糸数の住民は同日村内の百名の収容所につれて行かれ、男性はここで調べられて兵隊と防衛隊は屋嘉収容所へつれていかれた。… 戦後このガマに入った人の話しによると、ガマ内に備えられた丸太の寝台2段ベッドの上下に白骨化した遺体がたくさんあったという。《『糸数アブチラガマ(糸数壕)』玉城村 (1995年) 》・アブチラガマで8月22日に救出された日比野勝広さん証言

時折、明かりをつけ、ぼんやりと辺りを照らすと、天井から無数に下る石のつららは、その先にしずくを光らせ、気味悪く私たちに迫ってくる。辺りに転がっている多くの死体と共に、死の世界をまざまざと見せつけられた思いで、非常な恐怖におそわれ、思わず、「ふっ」と明かりを消す。もとの闇にもどると、今みた地獄図が眼に残り頭を抱えこんでしまう。<「屍と共に半年」日比野勝廣さんの証言 | 糸数アブチラガマ>・一中通信隊の元学徒

私の叔父○○は、県立一中2年生の15歳で学徒動員された。通信隊の一員として南部の激戦地を転戦させられたが、生きのびて帰ってきた。4人の姉たちの後に生まれた待望の男子で、一族から期待され大事に育てられた。わずか15歳で戦場へ駆り出され、地獄を体験した彼は、生きて帰ってきたものの戦争後遺症で精神の病にかかった。不眠症に悩み、突然自分を制御できず暴れだし、年取った親を苦しめた。叔父の面倒をみるため、戦後の祖父と祖母の生活は悲惨であった。私たち家族は、父の転勤で東村に移り住んだが、久米島に残った○○叔母の家族は、祖父母を助け、叔父の面倒をみるための苦労は言葉では言い尽くせない。「トミはその心労で命を縮めたのではないか」と母は、心を痛めていた。その後、叔父は精神病院に入院したものの社会復帰できず、病院でその生涯をおえた。<《久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争』インパクト出版 (2021) 150-151頁》>・浦添村経塚27歳の女性の証言

子供二人が爆死して以来、この時まで私はほとんど放心状態で過ごしてきておりました。子供達から流れ出た血と糊の入り混った異様なにおいが、永い間身体にこびりついていました。身体を洗っても落ちませんでした。そのにおいは、一、二か月経っても、夕暮れ時、ぼんやりしていると漂ってきました。そしてまた子供達のことを思い浮べて、涙を流してしまうという状態が続いていたのです。<「女たちの苦しみ」1945年7月27日 『地獄から天国にきた気分』 – 〜シリーズ沖縄戦〜>

1981年 – 台湾で遠東航空103便墜落事故。作家の向田邦子ら110人全員死亡。

1985年 – イギリスでブリティッシュ・エアツアーズ28M便火災事故。ボーイング737がマンチェスター空港を離陸する際左側のエンジンが爆発、機体が二つに折れて炎上し、54人死亡。

1999年 – 中華航空642便着陸失敗事故。バンコク発香港行きの中華航空機が香港国際空港上空で台風の突風に遭遇し着陸に失敗、3名が死亡。

2006年 – プルコボ航空612便墜落事故。170名死亡(全員)。

2022年 – 名古屋高速バス横転炎上事故が発生。2名死亡7人負傷。

チャットgpt先生の8月22日のエッセイ

8月22日――「終戦」という日付の裏側

8月22日という日付を歴史の中に置いてみると、ひとつの特徴が浮かび上がる。

国家が戦争を終えた日と、現場の戦争が終わった日は一致しない。

1945年8月15日、日本では玉音放送によって終戦が伝えられた。

しかし、その一週間後の8月22日になっても、戦場ではまだ人が死んでいた。

北海道留萌沖では、樺太からの引揚者を乗せた船が攻撃を受けた。いわゆる三船殉難事件である。

沖縄では、さらに事情が違った。

沖縄戦そのものはすでに大勢が決していたが、南部の壕やガマには、日本軍兵士や住民が取り残されていた。

8月22日、糸数アブチラガマでは、ようやく住民の一部が外へ出ることになった。

ここで重要なのは、「戦争が終わった」という事実と、「戦争状態から人間が脱出できた」という事実は別だった、ということである。

情報が届かなければ、終戦は現場では発生しない。

命令系統が機能しなければ、終戦は発生しない。

移動手段がなければ、終戦していても避難できない。

食料がなければ、終戦していても生存できない。

そして何より、戦場にいる人間が「戦争は終わった」と認識できなければ、戦争はその人間の行動を拘束し続ける。

これは沖縄だけの特殊事情ではない。

近代戦では、国家間の意思決定と、末端の現実との間に必ず時間差が生まれる。

国家は電報、放送、命令書によって戦争を終了させられる。

しかし、兵士や住民にとって戦争は、銃弾、食料、負傷者、敵軍、避難経路という具体物で構成されている。

その具体物は、政治的な決定だけでは瞬間的に消えない。

だから1945年8月15日と8月22日の間には、単なる七日間以上の意味がある。

そこには、

「国家の時間」と「現場の時間」のズレ

が存在している。

同じことは、対馬丸事件にも見える。

1944年8月22日、疎開船対馬丸が撃沈された。

当時の日本政府にとって、沖縄から本土への疎開は戦時政策の一部だった。

しかし、船に乗る側から見れば、それは極めて具体的な移動だった。

那覇を出て、海を渡り、長崎へ向かう。

そこに潜水艦が存在すれば、その航海は一瞬で軍事的なリスクに変わる。

つまり、政策としての「疎開」と、現場での「航海」は同じものではない。

国家が作った計画は、海上に出た瞬間から、敵の情報、護衛能力、航路、気象、通信、潜水艦の位置といった複数の変数にさらされる。

戦争とは、こうした変数を大量に抱えたシステムでもある。

8月22日に起きた出来事を並べると、それがよく見える。

1944年の対馬丸。

1945年の三船殉難事件。

1945年の沖縄の壕からの救出。

そして、戦争終結に抵抗して愛宕山に立てこもった人々。

一見すると、それぞれ別の事件である。

しかし構造として見ると共通している。

大きな政治決定が行われたあとも、下部システムは慣性によって動き続ける。

軍隊はすぐには停止しない。

船はすぐには止まらない。

避難民はすぐには帰れない。

情報はすぐには届かない。

命令はすぐには伝わらない。

そして、人間の心理や組織も、昨日までの戦争を前提にした状態から瞬間的には切り替わらない。

だから「8月15日に戦争が終わった」という表現は、国家レベルでは正しい。

しかし、社会全体の現実としては、それだけでは足りない。

8月22日は、その空白を可視化する日付として読むことができる。

戦争には、開始日と終了日がある。

だが、その間にあるのは単純なオンとオフではない。

開始の前には動員があり、終了の後には撤退、収容、帰還、遺体処理、武装解除、情報整理、生活再建がある。

つまり戦争には、

始まるまでの時間と、終わった後の時間がある。

むしろ巨大な戦争ほど、その「後処理」の方が長い。

1945年8月22日に起きたことは、そのことを端的に示している。

「終戦」という一枚の政治的なラベルを貼ってしまえば、8月15日以降は平時に見える。

しかし現場を見ると、船は沈み、人は移動し、兵士は収容され、壕から住民が出てくる。

地図上の戦争と、人間が実際に経験する戦争は、同じ速度では動かない。

8月22日という日付が重いのは、そのためだ。

戦争が終わった日ではなく、

「戦争を終わらせる」という政治的決定が、現実社会の隅々まで到達するには時間がかかることを示す日

として見ることができる。

歴史を見るとき、年月日だけを並べると、出来事は点になる。

しかし、その点と点の間にある「遅れ」「伝達」「移動」「命令」「組織」「情報」を追っていくと、歴史は構造として見えてくる。

8月15日から8月22日までの七日間。

その七日間は、戦争が終わったのに、まだ戦争の現実が残っていた時間だった。

そしてそれは、1945年だけの特殊な現象ではない。

国家の決定と現場の現実には、常に時間差がある。

8月22日は、その時間差が極端な形で表れた一日だった。