11月1日

20261101日曜日赤口(16番己卯つちのとうキボウ) 旧暦 9/22 月齢 21.5

43番丙午ひのえうま月 35番戊戌つちのえいぬ月 16番己卯つちのとう日

吉方位 隠遁日 己卯つちのとう日 東 中吉 東 中吉 年末まであと60日

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%881%E6%97%A5

11月1日の出来事

1512年 – ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画が公開される。

1755年 – ポルトガルでリスボン大地震が発生。津波と火災による死者10万人。

1790年 – エドマンド・バークが『フランス革命の省察』を出版。同書中でフランス革命が失敗に終わることを予言。

『省察』には、「時効の憲法」などバーク哲学の主要概念が述べられており、文明社会・法の支配・伝統・慣習・相続・世襲制度・偏見、教会などの中間組織、私有財産権の擁護が主張されており、それらを破壊するフランス革命への非難がなされている。また理性主義・平等主義・民主主義などへの反駁もなされている。

1805年 – ナポレオン戦争・1805年オーストリア戦役: ナポレオン軍がオーストリアに侵攻。

時             1805年–1806年

場所        中央ヨーロッパ, イタリア, 大西洋

結果       

フランスの勝利

プレスブルクの和約

フランス帝国の統治の強化

ライン同盟の形成

神聖ローマ帝国の解体

数ヶ月後の第四次対仏大同盟の形成

被害者数  対仏同盟軍 死傷者65000人 捕虜70000人 フランス軍 死傷者 57,050名 捕虜 5,000名 死傷者合計双方で10万人以上

1916年 – 第一次世界大戦: 第九次イゾンツォの戦い。年月日:1916年11月1日 – 11月4日 場所:イゾンツォ川、西スロベニア 結果:オーストリア=ハンガリー軍の勝利(イタリア軍攻勢失敗) 損害 イタリア軍 戦死傷39000人 オーストリアハンガリー軍 戦死傷 33000人。

1920年 – 明治神宮創建。鎮座祭に群衆が殺到し、死傷者38人が生じる事故も発生[1]。

1955年 – ユナイテッド航空629便爆破事件。死亡45人(全員)。

1955年 – 北海道赤平市の茂尻炭鉱でガス爆発事故。死者71人[6]。

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1512年 – ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画が公開される。

1755年 – ポルトガルでリスボン大地震が発生。津波と火災による死者10万人。

11月1日はカトリックの祭日(諸聖人の日(万聖節))であった。当時の記録では、揺れは3分半続いたというものや、6分続いたというものもある[6]。リスボンの中心部には5m幅の地割れができ、多くの建物(85%とも言われる)が崩れ落ちた。即死した市民は2万人とされる。生き残ったリスボン市民は河川敷や港のドックなどの空き地に殺到した(狭い土地で無計画に都市開発が行われたために建物が密集し、市街には広場がなく狭い路地が入り組んでいた)が、やがて海水が引いていき、海に落ちた貨物や沈んでいた難破船が次々にあらわになった。地震から約40分後、逆に津波(押し波)が押し寄せ、海水の水位はどんどん上がって港や市街地を飲み込み、テージョ川を遡った[7]。15mの津波はさらに2回市街地に押し寄せ、避難していた約1万人の市民を飲み込んだ。津波に飲まれなかった市街地では火の手が上がり、火災旋風となって、その後5日間にわたってリスボンを焼き尽くした。

当時リスボンは27万5,000人の人口を数えたが、最大で9万人が死亡した。モロッコでも津波などで1万人が死亡したとされるが、記録がはっきりしておらず、続く11月18日から19日に起こった一連の地震の被害も合わさっている可能性もある[10]。

宰相のセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(のちのポンバル侯爵)は王室同様に地震を生きのびた。彼は地震直後「さあ、死者を埋葬して生存者の手当をするんだ」と命じたと伝えられる[11]。彼は、後年ポルトガルに君臨したときと同様の実用主義をもって、すぐさま救命と再建に取りかかった。彼は消火隊を組織し、市街地に送って火災を鎮め、また疫病が広がる前に数千の遺体を処理するよう軍隊に命令した。教会の意見や当時の慣習に反し、遺体ははしけに積まれてテージョ川河口より沖で水葬された。廃墟の町に無秩序、特に略奪が広がるのを防ぐため、街の周囲の丘の上に絞首台が作られ、30人以上の人々が処刑された[12]。軍隊は街を包囲して強壮な者が街から逃げるのを防いだが、これにより廃墟の撤去に多くの市民を駆り出すことができた。震災直後は物資不足が問題となったが、まもなくリスボンに在住していた貿易商などの外国人によってヨーロッパ各地に震災の被害が報告されたため、彼らを支援するための物資がリスボンに集まり、復興物資を確保することができた。

1790年 – エドマンド・バークが『フランス革命の省察』を出版。同書中でフランス革命が失敗に終わることを予言。

エドマンドバーク

生誕        1729年1月12日

 アイルランド王国、ダブリン

死没        1797年7月9日(68歳没)

グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国

イングランドの旗 イングランド、ビーコンズフィールド

時代        18世紀の哲学

地域        西洋哲学

イギリス

学派        イギリス経験論、懐疑主義

啓蒙思想

功利主義

古典的自由主義、保守主義

研究分野                 法の支配、コモン・ロー

政党政治、議会制、政治哲学 美学

バーク哲学において、人間の知力などというものは、祖先の叡智が巨大な山のように堆積している古来からの〈制度〉には及ばない、矮小で欠陥だらけのものとの考えがある。それゆえ「理性主義」、すなわちデカルト的な人間の理性への過信を根源的に危険視し、慎慮を提起する。言い換えれば、個々の人間を多くの間違いを冒す不完全な存在とみなす、謙抑な人間観に基づいている。

文明社会が人間の知力で設計されたものでない以上、仮に、文明の政治経済社会に人間の知力や理性に基づく「設計」や「計画」が参入すれば、その破壊は不可避となり、個人の自由は圧搾され剥奪されるとする[要出典]。

バーク哲学の主要概念は、慎慮、偏見・固定観念、取得時効、仮定、相続・世襲、法の支配、慣習、伝統、私有財産[注 15]などである。

逆にバークが断固として拒絶した概念は、平等、人権、人民主権、抽象、理性(裸の理性)、進歩、革新・刷新、民主制、人意・人間の意向、人間の無謬性[注 16]などである。

『フランス革命の省察』(フランスかくめいのせいさつ/しょうさつ、英語: Reflections on the Revolution in France)は、エドマンド・バークの著作で、フランス革命への批判がなされている。1790年11月1日出版。保守主義の聖典、反革命の福音書とされる。

沿革

1789年11月、バークはメス県知事の息子で、パリの高等法院に籍を持つフランス人青年シャルル=ジャン=フランソワ・デュポンから手紙を受け取る。革命側の国民議会の支持者となっていたデュポンは、かつて父と共にバークを訪ねたことがあり、それ以来バークを自由の闘士として尊敬していた。そのため、自由の名に値するフランス革命と新しい祖国のため働いていることに対して手紙を求めたのである。これに対してバークがしたためた長文の手紙が、のちの『フランス革命の省察』(以下『省察』)の骨子となる。

1790年1月にバークが第2の返信をしたためている時、ユニテリアン牧師リチャード・プライスのロンドンの革命協会(ここでの「革命」はほぼ100年前の「名誉革命」を指す)における説教『祖国愛について』を読み憤激し、同年11月の『省察』の出版に至る。

この経緯は本書の副題『 – その事件(フランス革命)に関するロンドンのある協会の行為について。パリの紳士に送ろうと意図した手紙において』(and on the Proceedings in Certain Societies in London Relative to that Event. In a letter intended to have been sent to a gentleman in Paris.) に現れている。

概略

上述した誕生の経緯から、『省察』は私的書簡という形式で書かれており、冒頭において「名誉革命」の本質を明らかにしつつ、プライスへの攻撃がなされている。ここでバークはプライスの「名誉革命において、民衆は統治者を選ぶ権利を手にした」という主張に対し、権利章典を引きつつ名誉革命においてイギリスは世襲的王位継承を選択したと主張し、「フランスにおける革命」(フランス革命は現在では the French Revolution である。なおバークが本書で大文字で “Revolution” と書くとき、常に名誉革命を指している)との違いを強調している。残りの大部分はフランス革命への批判、そして革命が今後どのような経過を辿るかの予測である。

『省察』には、「時効の憲法」などバーク哲学の主要概念が述べられており、文明社会・法の支配・伝統・慣習・相続・世襲制度・偏見、教会などの中間組織、私有財産権の擁護が主張されており、それらを破壊するフランス革命への非難がなされている。また理性主義・平等主義・民主主義などへの反駁もなされている。

後半では革命が今後たどるであろう経緯を予測しており、終わりの部分では、「最終的落着を見る前にフランスは火と血によって浄化されるべき転生を通り抜けなければならない」と述べられている。

トマス・ペインは、この本に反駁する形で『人間の権利』(Rights of Man) を著した。

日本語訳

『フランス革命論』鍋島能正訳、理想社、1967年。他に同じ訳者でバーク『崇高と美の起原』

『フランス革命の省察 新装版』半澤孝麿訳、みすず書房、1997年10月。ISBN 462204918X。

元版は『エドマンド・バーク著作集 3 フランス革命の省察』 1978年。単行版1989年

『フランス革命についての省察 上』中野好之訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2000年7月。ISBN 400-3402510。

『フランス革命についての省察 下』中野好之訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2000年8月。ISBN 4003402529。

『フランス革命についての省察 ほか I』水田洋・水田珠枝訳、中央公論新社〈中公クラシックス〉、2002年12月。ISBN 978-4121600448。

『フランス革命についての省察 ほか II』水田洋・水田珠枝訳、中央公論新社〈中公クラシックス〉、2003年1月。ISBN 978-4121600462。

第II巻に「自然社会の擁護」を併収。元版は『世界の名著34 バーク』 中央公論社、1969年。

なお旧版は『世界大思想全集 社会・宗教・科学思想篇11』河出書房、1957年。

『【新訳】フランス革命の省察 「保守主義の父」かく語りき』佐藤健志編訳、PHP研究所、2011年2月。ISBN 978-4569774534。PHP文庫、2020年12月。ISBN 978-4569900940。

書簡体での原書を要約し、バークの主張を読みやすくしたダイジェスト編訳版。文庫版解説は中野剛志。電子書籍・Kindle版あり

『フランス革命についての省察』 二木麻里訳、光文社古典新訳文庫、2020年8月。ISBN 978-4334754303。電子書籍・Kindle版あり

外部リンク

ウィキソースにフランス革命の省察(英文)の原文があります。

“Modern History Sourcebook: Edmund Burke: Reflections on The Revolution in France, 1791” (英語). FORDHAM UNIVERSITY (1997年8月). 2011年9月22日閲覧。

フランス革命の省察 – プロジェクト・グーテンベルク

Hitchens, Christopher (April 2004). “Reactionary Prophet: Edmund Burke understood before anyone else that revolutions devour their young—and turn into their opposites”. The Atlantic Monthly (The Atlantic Monthly Group) 293 (3): pp. 130-138.

1805年 – ナポレオン戦争・1805年オーストリア戦役: ナポレオン軍がオーストリアに侵攻。

時             1805年–1806年

場所        中央ヨーロッパ, イタリア, 大西洋

結果       

フランスの勝利

プレスブルクの和約

フランス帝国の統治の強化

ライン同盟の形成

神聖ローマ帝国の解体

数ヶ月後の第四次対仏大同盟の形成

被害者数  対仏同盟軍 死傷者65000人 捕虜70000人 フランス軍 死傷者 57,050名 捕虜 5,000名 死傷者合計双方で10万人以上

1916年 – 第一次世界大戦: 第九次イゾンツォの戦い。年月日:1916年11月1日 – 11月4日 場所:イゾンツォ川、西スロベニア 結果:オーストリア=ハンガリー軍の勝利(イタリア軍攻勢失敗) 損害 イタリア軍 戦死傷39000人 オーストリアハンガリー軍 戦死傷 33000人。

1916年 – 第一次世界大戦: 第九次イゾンツォの戦い。年月日:1916年11月1日 – 11月4日 場所:イゾンツォ川、西スロベニア 結果:オーストリア=ハンガリー軍の勝利(イタリア軍攻勢失敗) 損害 イタリア軍 戦死傷39000人 オーストリアハンガリー軍 戦死傷 33000人。

1920年 – 明治神宮創建。鎮座祭に群衆が殺到し、死傷者38人が生じる事故も発生[1]。

鎮座祭は1920年(大正9年)11月1日に行われ、明治神宮はこの日を以て創建としている[2]。掌典長九条道実が勅使として御霊代を奉じて参向した。正午、一般人の参拝が許可された。総数50万人以上が参拝した。参拝者が殺到し混乱を来たしたため、神符や守札の授与が中止された[31]。群衆殺到により38人の死傷者も出た[32][33]。

1955年 – ユナイテッド航空629便爆破事件。死亡45人(全員)。

1955年 – 北海道赤平市の茂尻炭鉱でガス爆発事故。死者71人[6]。

チャットgpt先生の11月1日のエッセイ

11月1日——秩序は、崩壊のあとに姿を現す

1512年、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画が公開された。1755年、リスボンは大地震と津波、火災によって壊滅的な被害を受けた。1790年、エドマンド・バークは『フランス革命の省察』を出版し、革命が既存の制度を破壊した先に何が起きるのかを論じた。1805年、ナポレオン軍はオーストリアに侵攻した。1916年、イゾンツォ川では大規模な消耗戦が続いていた。1920年、明治神宮の創建に人々が殺到し、群衆事故が発生した。1955年には、航空機爆破事件と炭鉱のガス爆発が、多数の人命を奪った。

これらの出来事に共通しているのは、歴史の方向性ではない。芸術、思想、革命、戦争、都市災害、群衆、産業事故という異なる現象の背後に、人間が構築した仕組みと、その仕組みが制御できなくなる瞬間が存在することだ。

社会は、平常時には安定した構造に見える。法律があり、行政があり、軍隊があり、都市には道路や建物があり、産業には設備と手順がある。しかし、それらの安定性は絶対的なものではない。一定の条件が維持されているあいだに限って機能する、条件付きの安定である。

リスボン大地震が示したのは、都市の脆弱性だった。

建物が密集し、避難空間が不足し、狭い道路が入り組んでいれば、地震による直接被害に加えて、避難、救助、消火、物資輸送のすべてが難しくなる。津波と火災が重なれば、単独の災害に対処するために設計された仕組みは、連鎖的に機能を失う。

ここで重要なのは、災害の規模だけではない。被害を決めるのは、外部から加わる力と、それを受け止める社会の構造との関係である。

同じ地震でも、建築物の耐震性、避難経路、情報伝達、救援物資の備蓄によって結果は変わる。反対に、個々の建物が堅牢であっても、道路が塞がれ、通信が途絶え、行政の意思決定が停止すれば、都市全体としての機能は失われる。

システムの強さは、構成要素の強さの総和とは限らない。

これは都市だけでなく、国家、企業、軍隊にも当てはまる。

1790年のバークは、フランス革命をめぐって、既存の制度や慣習を急激に破壊することの危険性を論じた。彼の議論の核心には、社会制度は一人の人間の理性だけで設計されたものではなく、長い時間をかけて蓄積された経験や利害関係によって形成されている、という認識があった。

この見方を現実主義的に捉えるなら、制度の価値は、その理念の美しさだけでは測れない。

制度は、無数の人間の行動を調整し、予測可能性を生み出し、衝突を一定の範囲に封じ込める装置でもある。慣習や手続きは非効率に見えることがあるが、それらを撤去したとき、代わりに何が行動を調整するのかという問題が残る。

革命は旧制度を否定できる。しかし、旧制度を否定する能力と、新しい制度を安定的に運用する能力は別物である。

権力の所在を変更することと、社会を統治することも同じではない。旧体制を倒すために有効だった組織や論理が、新体制の維持にも有効であるとは限らない。破壊の段階では共通の敵が組織をまとめるが、建設の段階では資源配分、権限、利益の分配をめぐって内部の対立が表面化する。

革命後の混乱は、単に理想が裏切られた結果ではない。既存の調整機構を取り除いたあとに、新しい調整機構を確立するまでの空白からも生じる。

ただし、既存の制度が長く存続してきたことは、それが最適であることを意味しない。制度には、社会を安定させる機能と、既得権益を固定する機能が同居する。維持することで得られる利益と、変更しないことで発生する損失。その両方を評価しなければ、保守も改革も単なる信念の表明に終わる。

現実に問われるのは、何を残すかだけではない。何を変更し、どの機能を代替し、移行期間のコストを誰が負担するかである。

1805年のナポレオン戦争も、構造という視点から見ることができる。

軍事的な勝利は、戦場で敵を撃破することだけでは完結しない。占領地の統治、同盟国との関係、兵站、財政、行政制度の再編が伴う。軍事力によって既存の秩序を解体できても、その結果として生まれた政治的空間を維持するには、別種の能力が必要になる。

戦争に勝つ能力と、勝利を持続可能な秩序に変換する能力は異なる。

さらに、勝利そのものが次の対立を生み出す場合もある。勢力均衡が崩れれば、敗者だけでなく、勝者の拡大を警戒する第三国も行動を変える。新たな同盟が形成され、軍備が増強され、次の戦争の条件が整っていく。

一つの問題を解決した行動が、別の問題の原因になる。国家間の競争は、こうした相互作用によって進行する。

この構造は、現代の企業競争にも見られる。競合他社を市場から排除することに成功しても、その後に組織の肥大化、意思決定の遅延、顧客への対応力の低下が生じれば、勝利の成果は失われる。競争相手がいなくなることと、組織が強くなることは必ずしも一致しない。

1916年のイゾンツォの戦いは、別の問題を示している。

戦闘が長期化すると、勝敗は個々の部隊の勇敢さや一時的な戦術だけでは決まらなくなる。兵員の補充、弾薬の供給、輸送能力、地形、指揮系統、損失に耐えられる経済基盤が、戦争遂行能力を左右する。

消耗戦では、相手を上回る損害を与えたかどうかだけでなく、自国がどれだけの損失を吸収し、どれだけ早く戦力を再構成できるかが重要になる。

ここでは、短期的な成果と長期的な持続性が分離する。

目の前の戦闘に勝つために大量の資源を投入すれば、その戦闘で優位に立てる可能性は高まる。しかし、投入した資源を回復できなければ、次の戦闘では不利になる。局地的な勝利を積み重ねても、戦争全体の目的を達成できるとは限らない。

組織の評価指標が短期的な成果に偏ると、全体の持続性が損なわれる。この問題は、軍事に限らず、企業の売上目標、行政の年度予算、金融機関の短期収益にも通じている。

測定しやすい成果が、必ずしも最も重要な成果とは限らないのである。

1920年の明治神宮創建では、50万人以上が参拝し、群衆の殺到によって事故が発生した。

ここでは、個々人の行動と集団全体の行動の違いが表れる。個人にとって合理的な選択であっても、多数の人間が同時に同じ方向へ動けば、全体として危険な状況が生じることがある。

前へ進むこと、早く目的地に到着すること、限られた時間内に参拝を済ませること。個々の参加者がそれぞれの目的を追求した結果、通路の処理能力を超えれば、集団の移動そのものが停止する。

問題は、個人の意思の強さではない。流入量と処理能力の不均衡である。

交通渋滞も、通信回線の混雑も、金融市場での一斉売却も、規模や仕組みは異なるものの、相互依存する行動が集中することで全体の機能が低下する現象として捉えられる。

通常時には十分に機能する仕組みも、需要が一定の閾値を超えると急激に不安定になる。しかも、参加者が多いほど、誰か一人の行動変更が全体を改善するとは限らない。

個人の合理性と、集団の合理性は別の問題なのである。

1955年のユナイテッド航空629便爆破事件と茂尻炭鉱のガス爆発事故は、技術と産業の別の側面を浮かび上がらせる。

近代産業は、危険を完全に排除することで成立しているわけではない。航空機は複雑な機械と運航手順の組み合わせであり、炭鉱は地下の地質条件や可燃性ガスなどの危険を管理しながら資源を採掘する仕組みである。

生産性を高めるほど、設備、作業員、輸送、情報、保守管理の相互依存も深まる。

この構造では、一つの故障が単独で終わるとは限らない。小さな異常が検知されず、複数の防護策が同時に機能しなくなれば、結果は急激に拡大する。意図的な破壊が加わる場合には、通常の故障を前提とした対策だけでは不十分になることもある。

安全性は、装置単体の性能だけではなく、異常の検知、情報の伝達、対応の速さ、被害の封じ込めといった複数の層によって形成される。

平常時に効率的なシステムと、異常時に強いシステムは、必ずしも同じではない。予備設備や余剰人員、複数の経路、追加の点検工程は、平常時には無駄に見えるかもしれない。しかし、それらがあることで、一部が停止しても全体の機能を維持できる。

効率を最大化する設計と、停止を防ぐ設計の間には、しばしば緊張関係がある。

1512年に公開されたシスティーナ礼拝堂の天井画は、こうした歴史上の出来事とは異なる時間軸に属している。

巨大な芸術作品は、制作の瞬間だけで価値が決まるわけではない。制作に必要な技術、資金、発注者の権力、宗教的な制度、保存環境、後世の評価が重なり、作品の価値が長期間にわたって維持される。

芸術は個人の才能によって生み出されるが、その才能が社会に残す成果は、個人の能力だけでは説明できない。

資源を投入する発注者が存在し、制作を可能にする技術があり、作品を受け継ぐ制度があり、後世の人間がそれを評価する。個人の創造性と社会の仕組みが接続されることで、作品は一時的な成果を超えた存在になる。

ここでも、生成する能力と、維持する能力は別である。

建造することと保存すること。権力を獲得することと統治すること。敵を倒すことと平和を維持すること。制度を破壊することと代替制度を運用すること。

歴史には、前者の成功が後者の成功を保証しない例が繰り返し現れる。

11月1日の出来事を並べると、そこに単純な進歩の物語を見いだすことは難しい。人間は高度な芸術を生み出し、政治制度を構築し、巨大な軍隊を動かし、都市と産業を発展させてきた。同時に、それらの仕組みは、災害、競争、集団行動、故障、権力の集中によって機能不全に陥ってきた。

発展によって能力が増す一方、相互依存が深まることで、新たな脆弱性も生まれる。

複雑な仕組みほど、平常時には高い効率を発揮できる。しかし、異常が起きた際には、問題がどこまで波及するのかを予測しにくくなる。専門化が進めば、個々の担当者の能力は高まる一方、全体を見渡せる人間は限られる。中央集権化によって意思決定を速められる一方、中心が停止したときの影響は大きくなる。

こうした問題に対して、理念だけで答えを出すことはできない。制度の維持にも変更にもコストがあり、どの選択にも利益と損失が伴う。必要なのは、何が機能しているのか、どこに負荷が集中しているのか、何が失われれば全体が停止するのかを把握することだ。

歴史の転換点で問われるのは、必ずしも人間の善悪ではない。既存の仕組みがどの条件で機能し、その条件が崩れたとき、誰が、どの資源を使い、どのように次の秩序を構築するのか。

芸術の制作にも、都市の復興にも、革命後の統治にも、戦争の継続にも、この問いは存在する。

秩序は、ただ存在しているのではない。資源、制度、技術、情報、権力の配置によって維持されている。そして、その配置が環境の変化に対応できなくなったとき、秩序は揺らぎ始める。

歴史を見るということは、過去の出来事を記憶することだけではない。目の前にある安定が、どのような条件に依存しているのかを理解することでもある。

崩壊は、必ずしも外部から突然やって来るわけではない。平常時には見えなかった負荷が蓄積し、余裕が失われ、ある閾値を超えたとき、初めて表面化することもある。

安定とは、変化が起きない状態ではない。変化が起きても、仕組みが機能を維持できる状態である。

11月1日の歴史が示しているのは、秩序の永続性ではなく、その成立条件と限界である。