発心集 第五巻 第6話 少納言公経、先世の願に依って河内の寺を作る事(ショウナゴン キンツネ センゼノ ガン ニヨッテ カワチ ノ テラヲツクルコト)The Outsider Episode 52
発心集 第五巻 第6話 少納言公経、先世の願に依って河内の寺を作る事(ショウナゴン キンツネ センゼノ ガン ニヨッテ カワチ ノ テラヲツクルコト)The Outsider Episode 52

(うーーーむ。AIの進化 幾何級数的だと思いますが、相変わらず時代不明の絵を作りますねwwww。絵自体の出来はよいでしょう。だからこのままにしときますwww)
少納言 公経(キンツネ 藤原公経 能書家で歌人 康和元年1099年没 年齢不詳) という能書家(ノウショカ 書道の達人)がいた。
国司任命の儀式県召(アガタメシ正月十一日から三日間)のころに、公経は次のような宿願を抱いた。「もし県召しにおいて 上等な任国をたまわったならば、その御礼に 寺を作りましょう」と。しかしながら現実には 河内の国(カワチノクニ 大宝令においては大国の分類であったが、実のところ 利益も少なく人気もない場所であったのだろう)などというお粗末な国の守(カミ)に任命せられた。だから、彼は本意ではないと思って「こういった次第で、寺の新築はできないから 古い寺の改修でもしようか。」と思って、任国である河内に下って行った。
そうして、
河内の国についてから 其処 彼処(ソコカシコ)と見回っているときに、ある古い寺の仏像の座の下になにやら 紙切れが置いてあるのを発見した。公経がこの紙切れを開いて見てみると、「沙門公経」(シャモンコウキョウ 仏弟子の公経キンツネ の意味)と書いてある。不思議に思ってその紙切れに書いてある仔細を一層見てみた。すると、
「生まれ変わって この国の守カミになって、この寺を修理するのだ」という趣旨の願文であることがわかった。
公経は これを見て仔細を納得した。つまり、今回のすべては前世より関連付けられていたことなのである と思い知ったのである。であるから自分の希望は 本意ではないなどと思ってしまったことにつき 考えを改めて、仏に対する信心を尽くしてその寺の修理をなした ということである。くだんの願文(ガンモン)はその筆跡のさまなども 現在の彼 公経のものに少しも違わないものであったという。

(相も変わらず 絵の中の文字はデタラメですねwwwww。まあ雰囲気は出てます)
今回のはなしと同様に 伏見の修理大夫(フシミノ シュリノカミ)藤原俊綱(フジワラノトシツナ 彼が前世に俊綱シュンゴウという名の僧であったことについては『今鏡』四、九巻 『宝物集』五、『宇治拾遺物語』三、十四などにある)公も 前世に同じ名前をつけていたということである。
私も 世の人も 今眼前の生だけがすべてと思い込み 過去の生や未来の生の連続性を知らないからこそ まあ皆言語を絶する悲惨の体たらくとなっているのだ。
そう、この世の全てのことは、この世だけのこととして「有る」のではないのだ。しかしながら、普通は皆この世の眼前の生だけがすべてと思い込み、空しく名誉や目先の利益を求めて心を砕き、名利を走り求めて生きている。そうして、その浅はかな願望が叶わないと 神に文句を言ってみたり 仏に対してでさえ恨みごとを言ったりしている。まあ、こういったことはこの上なく愚かなことである。これが普通の次元のはなしだ。

その一方、一次元上昇のはなしとして、我ら発心の者においては、「宿願」というものの連続性についても心尽くして考えるべきだ。つまり、発心の者の願いというものは、過去の自分の誓願と相違ない連続性を有するがゆえに、今を生きるこのときにも願いとして実現するということを知るべきである。
(20260310世界史における未曽有の殺戮ホロコーストであった東京大空襲の日に訳す)
<訳者よりひとこと>
発心とは つまり仏道(単なる一宗教)に帰依することではないです。深い次元では。
たしかに 顕教ロゴス表面では 出家 仏門に入ることですね。
しかし
「発心」なる語の 真言秘密は、眼前のたかだか数十年の限りなく0に収束する 0を離脱し 56億7千万年の恒星級の時間軸 ∞ へ同期することです。この∞への同期ということを「太陽神と一体化する」とも、「最上位のアルゴリズム」に同期するとも、またゴータマブッダのいう「諸法無我」ともいうのですね。
そしてこれの深い原義を「発心」とみます。
一方、
世のまあごくふつうの世間の人たちや、あるいは彼らがあこがれている名家の生まれとか、学者さん、資産家さん、教育者さん、政治家さん、高級公務員のみなさん とかね。ある一定時間自身の性衝動を基本とした欲望を 短期の「禁欲」で抑圧、我慢して 必死で部分知 唯物知 つまり「試験問題」にて高偏差値をとって高い学歴や地位を得る 得てきた人たちね。つまり今眼前の繁栄を手にするために ∞ を手放し 0 に執着する人たちね。これが世間の「ふつうの人たち」ですね。「過剰適応」とも、0執着とも、微分の人とも、まあいろんな言い方ができますけどね。6とか666とかいうことですね。結局。0に執着した人は 作用反作用 原因結果でその結末も 0 無 ということです。
また、
0が80億人集まっても究極は0は0なのですね。
それを0でもたくさん集まれば何かできるって やったのが文明の構築つまり「労働集約」とか「兵力の集中」ですね。いやこれらが統治 政治・経済によっては実は何事もなしえていないのですけどね。まあ一瞬の破壊力やら、景観阻害とか、環境破壊とかは現実に なし得ているといえば 言えますか。呵々。
われらは 裸で生まれ裸で死んでいきます。このアリテイの事実を正面から見つめる。
忘れない。何度も何度も想起relegereレレゲーレする。仮にこの0に等しい一瞬の生の間に地球の全ての財物を手にしたからと言って「それが何だというのですか?」。
塵一つ持ってあの世に行けはしないのです。
発心とは この ∞ の連続性に同期を志す ということです。
であるならば、ここでの鴨長明の文章最後の言及 宿願の連続性とは この点について当時のギリギリの言語でこのことを表現しようとしたものと解します。
∞ を捨て眼前の 自身のゴミ同然のコギト0 を 拡大し全ての様に錯覚する言語を絶する 愚かさ、無明。ただ、この無明を正当とするあり様とか その集団の勢いというものは ときに一見どこまでも正しく 正統であると解する誘惑 誘蛾灯のような魅力ある光を放っていたりするのですね。数の上では間違いなく多数である この根源の 愚かさ というものについての観察と超克は文明史のいつも 常について回る根源の古くて最先端の問題であるということです。
現代は この多数であることを是とすることが政治原理 政治権力あるいは学問学術の根幹に据えられている時代ということで実は人間社会として末期的病理的段階であるとさえいえるのですね。
学問学術の徒が「進歩」「進化」なる原理を主張しますが、ことニンゲン社会や ニンゲンのありかたというものについては 退化や腐敗はあっても進化などということは 夢想、詐欺くらいに思っているのが丁度よろしいかと存じます。
以上。


