今日という日10月5日 1943関釜連絡船・崑崙丸撃沈ほか、写真wikipedia唯一全景写真
10月5日
20261005月曜日旧暦8月25日友引(49番壬子みずのえねジンシ)月齢 23.9
43番丙午ひのえうま年 34番丁酉ひのととり月 49番壬子みずのえね日
吉方位 隠遁日 壬子みずのえね日 南 大吉 年末まであと87日
https://ja.wikipedia.org/wiki/10%E6%9C%885%E6%97%A5
10月5日の出来事
1789年 – フランス革命: ヴェルサイユ行進。パリの主婦らがヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王ルイ16世をパリに連行。
1813年 – 米英戦争: テムズの戦いで米軍勝利。場所 オンタリオ州チャタム近く
結果 アメリカ軍の決定的勝利 イギリスと大陸軍バックのインディアン部族の代理戦争 損害 イギリスインディアン軍 1千3百人中 戦死傷降服500人 アメリカインディアン軍 3千8百人中 戦死傷45人。
1864年 – インドのコルカタがサイクロンで破壊される。死者6万人。
1943年 – 第二次世界大戦: 関釜連絡船・崑崙丸が米艦の雷撃を受けて沈没。衆議院議員2人を含む544人が死亡。乗員(旅客と乗組員)655名中、死者行方不明者583人にのぼった。
1948年 – トルクメニスタンでマグニチュード7.4の大地震。数万人が死亡。
1965年 – 釧路市立共栄小学校の6年生が、炊事遠足で訪れた同市新富士海岸で不発弾の爆発に巻き込まれ、4名が死亡、30数名が重軽傷を負う。
————————————————-
1789年 – フランス革命: ヴェルサイユ行進。パリの主婦らがヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王ルイ16世をパリに連行。
ヴェルサイユ行進(ヴェルサイユこうしん、フランス語:la marche des femmes sur Versailles)は、フランス革命の際、1789年10月5日、女性を中心としたパリ市民がヴェルサイユ宮殿まで行進し、フランス王国国王ルイ16世をパリに連行した事件である。別名「十月事件」「十月行進」。
1813年 – 米英戦争: テムズの戦いで米軍勝利。場所 オンタリオ州チャタム近く
結果 アメリカ軍の決定的勝利 イギリスと大陸軍バックのインディアン部族の代理戦争 損害 イギリスインディアン軍テカムセ指揮1千3百人中 戦死傷降服500人 アメリカインディアン軍 3千8百人中 戦死傷45人。
テムズ川の戦い(Battle of the Thames /ˈtɛmz/)は、モラヴィアンタウンの戦いとも呼ばれ、1812年の米英戦争でテカムセの南軍とその同盟国イギリスに勝利したアメリカ軍である。それは1813年10月5日に、チャタム近くのアッパーカナダで行われました。イギリス軍は戦闘の結果、オンタリオ州(五大湖周辺)南西部の支配権を失った。テカムセは殺され、彼の同盟は大部分が崩壊した。
・アメリカ兵は、お土産を手に入れるために、死んだインディアンの一部に頭皮を剥ぎ、皮を剥いだ。[17]
1864年 – インドのコルカタがサイクロンで破壊される。死者6万人。
1943年 – 第二次世界大戦: 関釜連絡船・崑崙丸が米艦の雷撃を受けて沈没。衆議院議員2人を含む544人が死亡。乗員(旅客と乗組員)655名中、死者行方不明者583人にのぼった。
崑崙丸(こんろんまる Konron maru)は鉄道省の関釜航路の鉄道連絡船。天山丸型の第2船で、最後に建造された関釜連絡船である。船名は、中国西部の崑崙山脈に因む。
太平洋戦争(大東亜戦争)で最初に犠牲となった鉄道連絡船であり、当時、鉄道連絡船の就航以来最初の大事故であった。
沈没
竣工から2週間後の4月12日に運航を開始した「崑崙丸」だったが、半年後の10月5日1時15頃、下関から釜山に向け航行中、沖ノ島の東北約10海里(北緯34度14分 東経130度09分[5])付近でアメリカ海軍の潜水艦「ワフー」の雷撃を受けた。「ワフー」が放った魚雷は左舷後方部手荷物室付近に命中し、「崑崙丸」は左舷に傾斜、約4分後[5]に棒立ちとなった後に船尾から沈没した[1]。
「崑崙丸」は陸軍の部隊を乗せて10月4日22時30分に出航する予定だったが、軍用列車が遅延して到着しないため、23時に出航した。そのため、乗客は479名のみで定員に対して少なかったが、深夜で就寝していた乗客が多く、雷撃で船内が停電したことも重なり、乗員(旅客と乗組員)655名中、死者行方不明者583人にのぼった。夜が明けてから、「天山丸」と、「徳寿丸」、「昌慶丸」、「壱岐丸」による生存者の捜索が行われたが、当時は低気圧の通過で風速10-20mの暴風が吹くなど荒天で、沈没から半日近く経過したこともあって捜索は捗らず、夕方までに4隻が収容できた生存者は乗客479名中28名と乗組員165名中21名、乗船していた警察官や警備隊員11名中3名のみだった[1]。
「崑崙丸」の沈没は、鉄道連絡船で最初の戦争の犠牲であった。利用者の多い関釜航路での大惨事に政府も隠蔽できないと判断し、10月7日18時30分、鉄道省は「崑崙丸」撃沈の事実を発表した。「崑崙丸」が撃沈されたことによって関釜航路の夜間航行は不可能になり、10月8日以降、関釜航路は駆逐艦の護衛を伴う昼間航行に限られ、旅客は軍人と公務員、それらに準じる緊急用務者のみ、貨物も手荷物と軍需品、新聞のみに制限された[1]。
この事件で海軍は激怒し、逃走ルートとして予想された津軽海峡と宗谷海峡の対潜警備が強化された。そして「ワフー」は「崑崙丸」撃沈から一週間を経ない10月11日に、宗谷海峡で発見され撃沈された。
1948年 – トルクメニスタンでマグニチュード7.4の大地震。数万人が死亡。
1965年 – 釧路市立共栄小学校の6年生が、炊事遠足で訪れた同市新富士海岸で不発弾の爆発に巻き込まれ、4名が死亡、30数名が重軽傷を負う。
チャットgpt先生の10月5日のエッセください
10月5日――「中心を動かす日」
10月5日の歴史を並べてみると、そこには奇妙な共通項がある。革命、戦争、災害、輸送船の撃沈、不発弾事故。表面的には互いに無関係な事件だが、構造として見ると、いずれも「人間が置かれた環境のなかで、既存の配置が一気に変わる瞬間」を記録している。
1789年のヴェルサイユ行進は、その典型だ。
パリの女性たちはヴェルサイユへ向かい、最終的に国王ルイ16世一家をパリへ移動させた。ここで重要なのは、単に「民衆が怒った」という話ではない。権力の所在地そのものが動いたことである。
ヴェルサイユは王権の象徴であり、王がそこにいる限り、政治的な中心もそこにあった。しかし行進によって王がパリへ移されると、王権は物理的にも民衆と政治空間の中へ引き戻された。
政治では、建物よりも「誰がどこにいるか」が重要になる。
権力は制度だけで成立しているわけではない。兵力、食料、金融、通信、交通、群衆、行政機構など、複数のインフラの上に成立している。そして、それらの配置が変われば、同じ国王でも実際の権力環境は変わる。
革命とは、しばしば理念の変化として語られる。
しかし現場では、人間・物資・情報・武力の配置変更として進行する。
1813年のテムズの戦いも同じ構造を持っている。
アメリカ軍がイギリス軍とテカムセ率いる先住民同盟軍を破ったことで、アッパーカナダ西南部における軍事的な勢力配置が変わった。特にテカムセの死は、単に一人の指導者が戦場で失われたという以上の意味を持つ。
同盟は、理念だけでは維持できない。
指導者、兵站、軍事的成功、相互利益、情報伝達、敵に対する抑止力。そのどれかが崩れれば、連合体は急速に縮小する。
テムズの戦いの後、テカムセの同盟は大きく崩れた。
つまり戦争の結果を決めるのは、戦場で何人倒したかだけではない。戦闘によって、その後の政治的選択肢がどれだけ消滅したかである。
そして10月5日の歴史には、もう一つ別の「中心の移動」がある。
それが災害である。
1864年のコルカタのサイクロンでは、巨大な自然現象によって都市の社会インフラが破壊され、多数の死者が出た。1948年のトルクメニスタン地震も同様だ。
ここでは人間の政治的意思は関係ない。
しかし結果として起きることは、革命や戦争と似ている。
道路が使えなくなる。建物が使えなくなる。行政機能が止まる。通信が途絶える。食料や水の供給が乱れる。人間が依存していたネットワークが切断される。
つまり災害とは、自然現象そのものというより、自然現象が既存の社会システムに入力されたときに発生する巨大な再配置として理解できる。
同じ地震でも、人口密度、建築基準、都市構造、通信網、医療能力、行政能力によって結果は変わる。
自然は平等に揺らす。
しかし被害は平等には発生しない。
その差を生むのは、地盤だけではなく、社会が事前に積み上げていた構造である。
1943年10月5日の崑崙丸沈没は、さらに別の意味で「構造」を露呈させる。
下関から釜山へ向かっていた鉄道連絡船が、アメリカ海軍潜水艦ワフーの雷撃を受け、短時間で沈没した。
ここで注目すべきなのは、船そのものよりも交通網が戦争によって軍事空間へ変化していたことだ。
平時ならば、関釜航路は人と物を移動させるインフラである。
しかし戦争になると、同じ船、同じ航路、同じ港が別の意味を持つ。
輸送路は補給線になる。
商船は軍事的目標になりうる。
港湾は兵站拠点になる。
鉄道は軍隊を動かす装置になる。
つまり戦争とは、軍隊同士が戦うだけではない。社会全体の交通・物流・通信ネットワークが軍事的な意味へ転換される現象でもある。
崑崙丸の沈没後、関釜航路の夜間航行ができなくなり、運航条件が変更された。これは一隻の船が失われたという話にとどまらない。
一つの攻撃が、航路全体の運用方式を変える。
これが戦争の本質的な部分である。
敵を一隻沈めることより、その結果として相手の交通システム、物流、時間、護衛能力、運航効率を変化させることのほうが、長期的には大きな意味を持つ場合がある。
そして1965年の釧路では、不発弾という過去の戦争の残骸が、20年以上後になって民間社会に作用した。
ここにも時間差がある。
戦争は終わっても、戦争によって生成された物質が消えるとは限らない。
爆弾、地雷、毒物、破壊された建築物、変更された国境、人口移動、産業構造、軍事基地、行政制度。
戦争の終了と戦争の影響の終了は同じではない。
むしろ歴史を長い時間軸で見ると、戦争とは終了後も社会に残留する巨大な初期条件を作る行為だと分かる。
10月5日の出来事を並べると、ここに一つの線が見えてくる。
ヴェルサイユ行進では、権力の中心が動いた。
テムズの戦いでは、軍事的な勢力配置が動いた。
コルカタでは、自然によって都市システムが破壊された。
トルクメニスタンでは、地殻変動が社会インフラを破壊した。
崑崙丸では、交通網が戦争によって軍事空間へ変わった。
釧路では、過去の戦争が不発弾という形で現在に残った。
つまり10月5日の歴史は、個々の事件の羅列として見るより、**「システムの配置が変わる日」**として見ると理解しやすい。
歴史を動かすのは、必ずしも大きな思想ではない。
食料が足りない。
群衆が移動する。
軍隊が一つの地点から別の地点へ移動する。
指導者が戦場から消える。
船が沈む。
港が使えなくなる。
都市が壊れる。
通信が途絶える。
そして、それまで当然だと思われていたネットワークが機能しなくなる。
その瞬間、人々は別の選択を迫られる。
ここにリアリズムの視点がある。
国家や組織を動かしているのは、理念だけではない。位置、距離、時間、物資、輸送能力、情報、武力、人的資源、そして偶然である。
政治家がどのような声明を出しているかを見るだけでは、政治の全体像は見えない。
どこに軍隊がいるのか。
どこに食料があるのか。
どの港が使えるのか。
どの道路が生きているのか。
誰が通信を握っているのか。
誰が輸送能力を持っているのか。
誰が人を動員できるのか。
そして、何が突然失われる可能性があるのか。
これらを見たほうが、実際に何が起こりうるのかを把握しやすい。
10月5日の歴史が面白いのは、英雄や悲劇の物語としてだけではない。
その背後に、人間社会を成立させているインフラの脆弱性と、権力配置の可変性がはっきり現れているからである。
平時には、社会の構造は見えない。
電車は来る。
船は港に着く。
食料は店に並ぶ。
通信はつながる。
行政は機能する。
人々は自分の生活を続ける。
しかし戦争、革命、災害、事故が発生すると、それまで背景だったインフラが前景に出てくる。
そして初めて分かる。
社会を支えているのは、抽象的な「国家」や「社会」ではなく、無数の具体的な接続である。
10月5日の出来事は、その接続が切れた瞬間、あるいは別の方向へ接続し直された瞬間の記録である。
歴史とは、出来事のカレンダーではない。
配置が変わった結果として、次の選択肢が変わっていく過程である。
10月5日は、そのことをかなり鮮明に示している。

