9月24日
20260924木曜日旧暦8月14日先負(38番辛丑かのとうしシンチュウ)月齢 12.9
43番丙午ひのえうま年 34番丁酉ひのととり月 38番辛丑かのとうし日
吉方位 隠遁日 辛丑かのとうし日 東 大吉 年末まであと98日
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9月24日の出来事
1572年 – 「ビルカバンバのインカ帝国」の君主初代トゥパク・アマルが斬首される。ピサロ スペインの樹立した傀儡帝国のトゥパク・アマル皇帝の斬首処刑。享年27歳。
1645年 – イングランド内戦: ロートン・ヒースの戦い(英語版)
日付 1645年9月24日
場所
ロートン、チェシャー
北緯53.1724度 西経2.8284度
結果 議会の勝利
損害 王党派 戦死600人 捕虜900人殺害された 国会議員 不明
1762年 – 七年戦争: マニラの戦い。スペイン植民地だったマニラを グレートブリテン軍が占拠強奪。時 1762年9月24日 – 10月6日。損害 グレートブリテン軍 一万人中 戦死傷147人。
1846年 – 米墨戦争: モンテレーの戦いが終了。メキシコ軍が撤退し休戦交渉が開始する。
戦争:米墨戦争
年月日:1846年9月21日〜9月24日
場所:ヌエボ・レオン州モンテレイ
結果:アメリカ軍の勝利 休戦の交渉とメキシコの撤退
損害:アメリカ軍 6220人中800人 メキシコ軍 10000人中395人。
1877年 – 西南戦争: 城山の戦い。西郷隆盛らが自刃し、西南戦争が終結。損害 明治政府軍 3万人中 戦死傷30人。反乱西郷軍 500人中 戦死傷500人(全滅)。西郷隆盛49歳没。
1952年 – 第五海洋丸の遭難。明神礁での噴火を観測中の海上保安庁の測量船が噴火に巻き込まれ、31名全員死亡。
1952年 – フランス海軍の潜水艦ラ・シビル(英語版)が演習中に行方不明になる。
1959年 – TAI307便墜落事故(英語版)。死亡54人、生存11人。
2015年 – サウジアラビアのメッカで群衆事故(2015年メナー群衆事故)。日付 2015年9月24日 午後9時00分(サウジアラビア標準時) 死亡者 2,411人[1]
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1572年 – 「ビルカバンバのインカ帝国」の君主初代トゥパク・アマルが斬首される。ピサロ スペインの樹立した傀儡帝国のトゥパク・アマル(外国語版は詳しい)皇帝の斬首処刑。享年27歳。
目撃者のバルタサール・デ・オカンパと修道士ガブリエル・デ・オビエド、クスコのドミニコ会の前に報告されたように、サパ・インカは群衆を黙らせるために手を挙げ、彼の最後の言葉は「コラナン・パチャカマック・リクイ・アウッカクナック・ヤワルニイ・ヒチャスキャンクタ」でした。(「パチャ・カマク、敵が私の血を流すのを目撃しなさい」)
1645年 – イングランド内戦: ロートン・ヒースの戦い(英語版)
日付 1645年9月24日
場所
ロートン、チェシャー
北緯53.1724度 西経2.8284度
結果 議会の勝利
損害 王党派 戦死600人 捕虜900人殺害された 国会議員 不明
ロートン・ムーアの戦いとしても知られるロートン・ヒースの戦いは、イギリス南北戦争中の1645年9月24日に発生しました。シドナム・ポインツが指揮する議会派は、チャールズ1世の個人指揮の下、王党派に重大な敗北を与え、大きな損失を被り、チャールズがチェスターの包囲を解くのを阻止した。
戦いの前、チャールズはネイズビーの戦いで王党派が敗北した後、スコットランドのモントローズ侯爵と連携しようとしていた。彼の試みは失敗に終わったが、両王国委員会はシドナム・ポインツに約3,000頭の馬を率いて国王を追撃するよう命じたほど破壊的だった。チャールズは、唯一残った港であるチェスターが包囲されていることを知らされた後、守備軍を救援するつもりで行軍し、マーマデューク・ラングデールの指揮下にある3,000頭の馬に市の外で野営するよう命じ、1645年9月23日に彼と他の600人がチェスター自体に向かった。その意図は包囲する議員を両側から攻撃することであり、チャールズはポインツが彼らに追いつかなかったと勘違いした。実際、彼はわずか15マイル(24km)の遅れにいたが、9月24日の未明にラングデールの部隊を攻撃するために動いた。ラングデールはポインツを追い払ったが、チェスターを包囲していた議員たちは支援軍を送り、ラングデールはチェスターに近いロートンヒースに後退し、自分の支援軍を待つしかなかった。チャールズ・ジェラードとバーナード・スチュワート卿が率いるこの部隊は彼らと合流することができず、ラングデールは代わりにポインツの部隊と増援軍の両方の攻撃を受けた。戦場から追い出され、チェスター自体で再集結しようとして失敗した後、王党派は夕暮れ時に撤退した。
王党派の死傷者は多く、スチュワートを含む600人が死亡し、900人が捕虜となった。この敗北により、チャールズはチェスターの守備軍を救出することができず、チェスターは1646年2月3日に議会議員に陥落した。
1762年 – 七年戦争: マニラの戦い。スペイン植民地だったマニラを グレートブリテン軍が占拠強奪。時 1762年9月24日 – 10月6日。損害 グレートブリテン軍 一万人中 戦死傷147人。スペイン軍 スペイン人500人+現地族9千人の9千5百人中 戦死傷500人弱。
マニラの戦い(マニラのたたかい、英語: Battle of Manila)は七年戦争中の1762年9月24日から10月6日まで、グレートブリテン王国とスペイン王国のフィリピンの首都マニラおよびその周辺における戦闘。イギリスが勝利し、当時スペインの植民地だった同地を短期間占領した。
その後
イギリスの指揮官たちは賢明にもマニラを略奪しなかったが、軍政を敷かない代わりに4百万ドルの賠償金を要求した。この莫大な賠償金でフィリピン群島は富裕なマニラとともに衰退した[6]。
マニラはその後18か月間イギリスの支配下におかれ、1763年のパリ条約を経て1764年4月にスペインに返還された[1]:57。
1846年 – 米墨戦争: モンテレーの戦いが終了。メキシコ軍が撤退し休戦交渉が開始する。
戦争:米墨戦争
年月日:1846年9月21日〜9月24日
場所:ヌエボ・レオン州モンテレイ
結果:アメリカ軍の勝利 休戦の交渉とメキシコの撤退
損害:アメリカ軍 6220人中800人 メキシコ軍 10000人中395人。
1877年 – 西南戦争: 城山の戦い。西郷隆盛らが自刃し、西南戦争が終結。損害 明治政府軍 3万人中 戦死傷30人。反乱西郷軍 500人中 戦死傷500人(全滅)。西郷隆盛49歳没。
城山の戦い(しろやまのたたかい)は、1877年(明治10年)9月24日に当時劣勢であった西郷隆盛率いる薩摩藩士族と山縣有朋、川村純義率いる大日本帝国陸軍との間で鹿児島県鹿児島府の城山で行われた西南戦争の決戦[3]。
この戦いで西郷陣営は全滅し、日本最後の内乱となった西南戦争が終結した。
背景
西郷陣営は熊本城での敗戦からわずか6週間の間に、離反者と戦闘による損失が重なり、帝国陸軍の3万に対し、戦力が約2万から約500までに縮小していた[1]。
9月23日、川村は西郷陣営に無条件降伏を要求し、また西郷を差し出すなら命は助けるが、午後5時までに返答がなければ陣地を攻撃することを予告した。 結果返答はなく、砲撃が開始され、激しい砲撃に西郷陣営は壊滅的な打撃を受けた[5]。西郷は、スナイドル銃などの限られた装備で応戦しようとするが、決定的に弾薬が不足しており、金属製の像を溶かして弾丸を作り、大工用ののこぎりで修繕するなどの手段を取らざるを得ないほどであった[3]。
西郷は大腿動脈と腹部に重傷を負い、別府晋介に担がれ、切腹を行う場所を探しながら下山した。別府は介錯として西郷の首を切り落とし、敵に見つからないように隠した[3]。しかし、急いで首を切ったため、西郷の髪の毛が残っており、その首が苦力によって発見された[2]。
西郷の死後、別府は指揮を執っていたが自決し、弾薬が不足している中残りの侍たちも刀を抜いて下山し討ち死にした。これにより西南戦争は終結した。
平民の徴兵で作られた大日本帝国陸軍の戦力が実戦で証明されたことにより、武士階級は事実上消滅した[8]。武士の敗北により、近代的な大砲や小銃の戦力が示された[9]。
1889年(明治22年)、西郷は死後恩赦された[10]。その後上野公園や鹿児島城跡にある西郷隆盛の銅像が、西郷隆盛を後世に伝えるため建造された。 西郷隆盛は市民から「悲劇のヒーロー」と呼ばれ、その行動は武士道や大和魂の誉れ高い例とされた
西郷隆盛
西郷 隆盛(さいごう たかもり、旧字体:西鄕 隆󠄁盛󠄁、1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日)は、幕末から明治初期の日本の政治家、軍人[1]。
薩摩国薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。諱は元服時に隆永(たかなが)のちに武雄・隆盛(たかもり)と名を改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。号は南洲(なんしゅう)。
西郷隆盛は生涯「敬天愛人」の言葉を大切にしていた。
現代
1938年(昭和13年)11月に、東京帝大で崇拝する人物調査が為された。1位西郷隆盛255票、2位ゲーテ132票、3位キリスト105票、4位東郷平八郎99票、5位釈迦93票、6位吉田松陰90票、7位カント85票、8位乃木希典62票、9位日蓮62票、10位野口英世58票(『日本評論』1939年5月号)[177]。
1959年 – TAI307便墜落事故(英語版)。死亡54人、生存11人。
2015年 – サウジアラビアのメッカで群衆事故(2015年メナー群衆事故)。日付 2015年9月24日 午後9時00分(サウジアラビア標準時) 死亡者 2,411人[1]
2015年メナー群衆事故(2015 Mina stampede)は、2015年9月24日にサウジアラビアのメッカ近郊の谷メナー(ミナ[2])で発生した群集事故である。
年1回のハッジ(大巡礼)に訪れていた多数の巡礼者が群衆雪崩を起こし、窒息などにより多数の死傷者を出した[3]。サウジアラビア政府は死者数を769人と発表した[3]が、その後のAP通信の集計では死者数は少なくとも2411人に上ると発表している[1][3]。1990年7月2日に聖地に向かうトンネル内で1,426人が圧死した事故を上回り、メッカ史上最悪の群集事故となった[3]。
チャットgpt先生の9月25日のエッセイ
9月24日という日付に並ぶ出来事を、善悪や英雄性ではなく、権力・兵站・地理・組織・偶然・制度の構造として読むと、かなり一貫した像が浮かびます。
9月24日――終わる側と、残る側
1572年、ビルカバンバの最後のインカ君主トゥパク・アマルが処刑された。
1645年、イングランド内戦のロートン・ヒースでは王党派が敗れ、チェスター救援の道が閉ざされた。
1762年、マニラではイギリス軍がスペイン領の中心を占領した。
1846年、モンテレイではメキシコ軍が撤退し、休戦交渉へ移った。
1877年、城山では西郷隆盛率いる西南戦争最後の部隊が壊滅した。
1952年、第五海洋丸が明神礁の噴火に巻き込まれた。
2015年、メッカ近郊のミナでは巨大な群衆事故が発生した。
一見すると、帝国、内戦、植民地戦争、近代国家、海難、群集事故という、まったく別々の事件である。
しかし構造だけを取り出してみると、共通するものがある。
人間が作った制度や組織は、最後には「現場の物理」に従わなければならない。
これは9月24日の出来事を読むうえで、かなり重要な視点になる。
権力は、中心を失うと急速に縮む
トゥパク・アマルの処刑と西郷隆盛の死には、時間も場所も政治体制もまったく違うが、構造上の共通点がある。
それは、中央の象徴を失った勢力が、急速に政治的・軍事的な存在能力を失うことだ。
ビルカバンバのインカ国家は、すでに巨大なスペイン帝国の圧力を受けていた。
西郷軍もまた、熊本城攻防戦などを経て戦力を失い、最終的には城山に追い詰められていた。
ここで重要なのは、指導者個人の勇気ではない。
組織の戦闘力は、
- 人員
- 武器
- 弾薬
- 食料
- 情報
- 補給路
- 連絡網
- 支配地域
- 外部からの支援
によって決まる。
指導者がどれほど強い意志を持っていても、これらが失われれば組織は維持できない。
西郷軍の場合、最後には弾薬そのものが不足していた。
つまり、戦争の最終段階では「理念」よりも物資の残量が組織の寿命を決める。
これは冷たい話だが、軍事史を理解するには極めて重要である。
ロートン・ヒースが示す「距離」の問題
1645年のロートン・ヒースの戦いも、英雄や敗者の物語として見るより、距離と時間の問題として読むと分かりやすい。
チャールズ1世はチェスターを救援しようとした。
ところが、戦場では「敵がどこにいるのか」「味方がいつ到着するのか」が決定的になる。
ポインツの部隊は約15マイル遅れていた。
この程度の距離は平時なら大したことではない。
しかし戦場では違う。
夜明け前に攻撃できるか。
援軍が到着する前に敵を叩けるか。
退路を確保できるか。
数時間の差が、勝敗を変える。
したがって軍事史における「距離」は、単なる地理ではない。
時間に変換された距離である。
道路一本、橋一本、山一つ、数時間の行軍速度の差が、数百人、数千人の命運を変える。
現代でもこれは変わらない。
違うのは、馬が車両になり、車両が航空機になっただけだ。
マニラでは「占領できること」と「維持できること」が別だった
1762年のマニラ占領も面白い。
イギリス軍はスペイン領フィリピンの中心部を軍事的に占領した。
しかし、占領したからといって、それがそのまま恒久的支配になるわけではない。
ここには帝国経営の基本的な問題がある。
取ることと、維持することは別の能力である。
敵の首都を落とす能力。
占領軍を維持する能力。
現地行政を動かす能力。
税を徴収する能力。
補給する能力。
反乱を抑える能力。
本国から増援を送る能力。
これらは全部違う。
マニラは最終的にスペインへ返還された。
つまり、一時的な軍事的優位が、そのまま長期的な政治支配に変換されたわけではない。
これは近代以降の戦争でも繰り返される。
戦場で勝つことと、政治的に勝つことは同じではない。
モンテレイでは「勝った側」が交渉を選んだ
1846年のモンテレイの戦いも同様である。
軍事的にはアメリカ軍が優勢になった。
しかし戦争というものは、敵を全滅させることだけが目的ではない。
相手の抵抗能力を低下させ、
「これ以上戦うより交渉した方が安い」
という状態に持っていけば、軍事作戦としては目的を達成できる。
ここでは戦争が、単純なゼロか百かではなく、
軍事力 → 政治的圧力 → 交渉
という連続したプロセスになっている。
だから「勝利」と「降伏」は必ずしも同じではない。
戦争の途中で休戦が成立するのは、双方がコストを計算した結果でもある。
兵士一人を失うこと。
弾薬を一発使うこと。
遠征軍を数か月維持すること。
都市を占領すること。
それぞれにコストがある。
国家は最終的には、そのコストと得られる利益を比較する。
城山――武器体系が変われば、社会構造も変わる
9月24日の中で、特に大きな歴史的意味を持つのが城山である。
西南戦争は、単純に「西郷軍と政府軍の戦い」ではない。
もっと大きく見ると、
旧来型の武装集団と、近代国家が編成した大量動員型軍隊との衝突
だった。
政府軍は徴兵制を基礎とした巨大な人的資源を持ち、近代的な銃砲・兵站・通信・指揮系統を組み合わせていた。
西郷軍には戦闘経験のある士族が多数いた。
しかし個々の兵士の戦闘能力だけでは、国家組織全体の能力に対抗できなかった。
ここで起きていたのは「侍が弱かった」という話ではない。
戦争を支えるシステムそのものが変わったのである。
刀を持った個人の武勇より、
- 工業生産
- 弾薬供給
- 徴兵
- 会計
- 輸送
- 通信
- 医療
- 統一指揮
の方が、長期戦では圧倒的な意味を持つようになった。
これは軍事革命というより、国家そのものが戦争装置になった瞬間と見る方が近い。
そして、1952年の第五海洋丸
ここで9月24日の景色が戦争から海へ移る。
第五海洋丸は明神礁の噴火を観測中、噴火に巻き込まれた。
これは戦争とは違う。
敵もいない。
政治的な勝者もいない。
しかし構造的には似ている。
人間は自然を観測し、予測し、管理しようとする。
だが、観測対象そのものが人間の想定を超える規模で変化すると、観測する側が危険区域に取り込まれる。
ここで重要なのは、「自然が怖い」という感想ではない。
観測するためには対象へ近づかなければならない。しかし近づくほどリスクが増える。
これは科学活動の根本的なジレンマでもある。
情報を得るためには、現場に入る必要がある。
しかし現場に入ること自体が危険になる。
ミナの群衆事故――個人ではなく「流れ」が人を動かす
2015年のミナの群衆事故は、さらに別の種類の構造を見せる。
数十万人、場合によってはそれ以上の人間が、同じ時間帯、同じ場所、同じ目的で移動する。
この規模になると、個人の判断だけでは現象を説明できない。
人間一人なら、
「止まろう」
「戻ろう」
「横へ避けよう」
という判断ができる。
しかし密集状態では、それができなくなる。
前の人が進む。
後ろの人が押す。
横の人間も動く。
一人の身体の動きが、隣の人間へ伝わる。
そしてある密度を超えると、群衆は個人の集合ではなく、一つの物理的な流体に近い挙動を示す。
この段階では、個人の善意や注意力だけでは事故を止められない。
必要なのは、
- 動線設計
- 入場規制
- 時間差
- 出口設計
- 情報伝達
- 警備配置
- 密度管理
といった構造的な制御である。
ここでも「人間の意思」より「システムの設計」が前面に出てくる。
9月24日に繰り返されるもの
こうして並べると、9月24日の出来事には奇妙な共通項がある。
インカ帝国。
王党派。
スペイン帝国。
メキシコ軍。
西郷軍。
海上保安庁の観測船。
メッカの巡礼者。
主体は全く違う。
だが、最終的に彼らを拘束したものは似ている。
個人の意思を超える構造である。
軍隊なら兵站と戦力差。
帝国なら距離と統治能力。
都市なら地理。
船なら自然環境。
群衆なら密度と動線。
そして国家なら、人口・産業・財政・通信・輸送という巨大な基盤。
人間は歴史を作る。
しかし、人間が作った歴史は、最後には構造によって人間自身を拘束する。
西郷がどれほど戦い続けようとしても、弾薬がなければ戦闘能力は維持できない。
チャールズ1世がチェスターを救おうとしても、援軍との距離を消すことはできない。
マニラを占領しても、遠隔地を永久に支配するには別のコストが必要になる。
観測者が火山を研究しても、噴火そのものを止めることはできない。
巡礼者一人一人が冷静でも、群衆密度が限界を超えれば、個人の意思だけでは流れを止められない。
だから9月24日は、「誰が正しかったか」という日ではない。
むしろ、
「どの構造が、最後まで残ったのか」
を見る日である。
歴史上、敗者は必ずしも能力が低かったわけではない。
ただ、彼らの持っていた能力が、時代の要求する構造と噛み合わなくなったことがある。
逆に勝者も、必ずしも個々の人間が優れていたから勝ったわけではない。
より多くの人間、物資、情報、資金、時間、輸送手段を組織化できた側が、最終的に優位に立つ。
そして自然災害や群集事故になると、そもそも「勝者」という概念さえ消える。
残るのは、条件と結果の連鎖だけだ。
9月24日に刻まれた出来事を構造として読むなら、そこに見えるのは英雄譚ではない。
帝国も、王朝も、軍隊も、群衆も、観測船も、すべて同じ物理法則の上に置かれている。
意志は出発点になれる。
しかし、結果を決めるのは、しばしば意志の外側にある構造である。
それが9月24日という一日に、何世紀にもわたって繰り返し現れている。

