9月12日
20260912土曜日旧暦8月2日先負(12番己丑つちのとうしキチュウ)月齢 0.9
43番丙午ひのえうま年 34番丁酉ひのととり月 12番己丑つちのとうし日
吉方位 隠遁日 己丑つちのとうし日 南東 大吉 年末まであと110日
https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8812%E6%97%A5
9月12日の出来事
紀元前490年 – マラトンの戦い(日付は諸説あり)。アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝遠征軍を撃破。マラトンからアテナイまで走って勝利を伝えた兵士の故事がマラソンの起源となる。損害 ギリシア連合軍 1万人中 戦死192人 ペルシア軍 2万人中 戦死6400人。
1683年 – 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国軍が大軍をもって神聖ローマ皇帝の居城ウィーンを攻撃するが、中央ヨーロッパ諸国連合軍に大敗。
戦争:大トルコ戦争、ハプスブルク=オスマン帝国戦争(スペイン語版、イタリア語版、英語版)
年月日:1683年7月13日 – 9月12日
場所:オーストリア・ウィーン
結果:ポーランド・オーストリア連合軍の勝利
損害 ヨーロッパ連合軍8万人中 戦死4500人 オスマン帝国 15万人中 戦死20000人。
1814年 – 米英戦争: ボルティモアの戦い。9月12日~15日。激戦の末 アメリカ軍がイギリス軍を撃退する。
時 1814年9月12日 – 9月15日
場所 メリーランド州ボルティモア
結果 アメリカ軍の勝利
損害 英国軍 5000人中 戦死傷350人弱 アメリカ軍 3000人中 戦死傷 310人。
1847年 – 米墨戦争: チャプルテペクの戦い。アメリカ軍とメキシコ軍の戦い アメリカの勝利。
戦争:米墨戦争
年月日:1847年9月12日-13日
場所:メキシコシティ連邦地区
結果:アメリカ軍の勝利
損害 アメリカ軍 1万3千人中 戦死傷862人 メキシコ軍 5千人弱中 戦死傷2600人強。
1984年 – グリコ・森永事件: 森永製菓脅迫事件。「かい人21面相」がグリコに続いて森永製菓にも脅迫状を送る。
1988年 – ハリケーン・ギルバートがジャマイカに上陸。その後メキシコに再上陸し、あわせて341名の死者を出す。
2007年 – 2007年スマトラ島沖地震。マグニチュード8.5。死者17人以上。津波による死者は居なかった。
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紀元前490年 – マラトンの戦い(日付は諸説あり)。アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝遠征軍を撃破。マラトンからアテナイまで走って勝利を伝えた兵士の故事がマラソンの起源となる。損害 ギリシア連合軍 1万人中 戦死192人 ペルシア軍 2万人中 戦死6400人。
1683年 – 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国軍が大軍をもって神聖ローマ皇帝の居城ウィーンを攻撃するが、中央ヨーロッパ諸国連合軍に大敗。
戦争:大トルコ戦争、ハプスブルク=オスマン帝国戦争(スペイン語版、イタリア語版、英語版)
年月日:1683年7月13日 – 9月12日
場所:オーストリア・ウィーン
結果:ポーランド・オーストリア連合軍の勝利
損害 ヨーロッパ連合軍8万人中 戦死4500人 オスマン帝国 15万人中 戦死20000人。
第二次ウィーン包囲(だいにじウィーンほうい)は、1683年に行われたオスマン帝国による最後の大規模なヨーロッパ進撃作戦である。オスマン軍はオーストリアの首都にして神聖ローマ皇帝の居城であるウィーンを大軍をもって攻撃したが、拙速な作戦により包囲戦を長期化させ、最後は反オスマン帝国を掲げて結集した中央ヨーロッパ諸国連合軍によって包囲を打ち破られるという惨憺たる敗北に終わり、この包囲戦を契機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィア、ロシアらからなる神聖同盟とオスマン帝国は16年間にわたる長い大トルコ戦争に突入した。その結果、歴史上初めてオスマン帝国がヨーロッパ諸国に大規模な領土の割譲を行った条約として知られる1699年のカルロヴィッツ条約締結に至った。
1814年 – 米英戦争: ボルティモアの戦い。9月12日~15日。激戦の末 アメリカ軍がイギリス軍を撃退する。
時 1814年9月12日 – 9月15日
場所 メリーランド州ボルティモア
結果 アメリカ軍の勝利
損害 英国軍 5000人中 戦死傷350人弱 アメリカ軍 3000人中 戦死傷 310人。
ボルティモアの戦い(ボルティモアの戦いのたたかい、英語: Battle of Baltimore)は、米英戦争中の1814年9月12日から15日にかけて、アメリカ合衆国メリーランド州ボルティモアでイギリス軍陸海協働軍とアメリカ軍との間に戦われた戦闘である。アメリカ軍はイギリス軍の猛攻を凌ぎ切り撤退させたことで、米英戦争を終結に向かわせる転機となった。 この戦いは、特にイギリス海軍の艦砲射撃を25時間耐え抜いたマクヘンリー砦の守備隊と、その中で砦に翻る星条旗を見て心を動かされたフランシス・スコット・キーの詩「星の煌く旗」(The Star-Spangled Banner)で有名になった。
1847年 – 米墨戦争: チャプルテペクの戦い。アメリカ軍とメキシコ軍の戦い アメリカの勝利。
戦争:米墨戦争
年月日:1847年9月12日-13日
場所:メキシコシティ連邦地区
結果:アメリカ軍の勝利
損害 アメリカ軍 1万3千人中 戦死傷862人 メキシコ軍 5千人弱中 戦死傷2600人強。
チャプルテペクの戦い(チャプルテペクのたたかい、英:Battle of Chapultepec)は、米墨戦争の1847年9月12日から13日に、メキシコシティ西のチャプルテペク城を守るメキシコ軍に対してアメリカ軍が勝利した戦闘である。
1984年 – グリコ・森永事件: 森永製菓脅迫事件。「かい人21面相」がグリコに続いて森永製菓にも脅迫状を送る。
グリコ・森永事件(グリコ・もりながじけん)とは、1984年(昭和59年)と1985年(昭和60年)に日本の阪神間(大阪府・兵庫県)を舞台に食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件。
警察庁広域重要指定114号事件。また、略して「グリ森事件」「グリ森」とも言われる。犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、かい人21面相事件などとも呼ばれる。
2000年(平成12年)2月13日に愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立してこの事件は完全犯罪となり、警察庁広域重要指定事件では初の未解決事件となった。
概要
1984年3月、江崎グリコ社長を拉致して身代金を要求した事件を皮切りに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こす。その後、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋など食品企業を次々と脅迫。現金の引き渡しにおいては次々と指定場所を変えたが、犯人は一度も現金の引き渡し場所に現れなかった。犯人と思しき人物が何度か目撃されたが逃げられてしまったため、結局正体は分からなかった。
その他、1984年5月と9月、1985年2月に小売店で青酸入り菓子を置き、日本全国を不安に陥れた。
1984年4月12日に警察庁広域重要指定事件に指定された。
2000年(平成12年)2月13日に東京・愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、すべての事件の公訴時効が成立。警察庁広域重要指定事件としては初めて犯人を検挙出来なかった未解決事件となった。
2005年(平成17年)3月に除斥期間(民法第724条)が経過し、民法上の損害賠償請求権が消滅した。
企業への脅迫状とは別に報道機関や週刊誌などに挑戦状を送りつけ、毒入り菓子をばらまいて社会一般を騒ぎに巻き込んだことで、評論家の赤塚行雄から劇場型犯罪と名付けられた[1]。同時期にこの事件と並行して話題となっていた三浦和義のロス疑惑とともに当時の世相として振り返られることも多い[2]。
事件の終息
ハウス食品事件で不審車両を取り逃がした滋賀県警本部長の山本昌二は「責任はすべて私にある。取り逃したパトカーの警察官に責任はない」と公言して1985年2月に辞意を示したがすぐには認められず、同年8月7日に辞任挨拶の記者会見後、遺書3通をのこして自宅で灯油をかぶり焼身自殺した[19]。遺書は公表されていないが[19]、一般に失態を苦にしたものと解釈されている[24]。本部長は高校卒業後巡査からの叩き上げで、当時ノンキャリア組で本部長まで上り詰めたのは全国でもわずか4人だけという人物であった[19]。
8月12日、犯人側から「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」との終息宣言が送りつけられた。理由は、その5日前に自殺した滋賀県警本部長への香典代わりというものだった。
脅迫状の届いた会社の一つであったハウス食品工業社長の浦上郁夫は、事件の終息を同社創業者で先代社長である父親の墓前に報告するため8月12日に日本航空123便に搭乗、その墜落事故で犠牲となった。
この終息宣言の後、完全に犯人の動きがなくなった。
1988年 – ハリケーン・ギルバートがジャマイカに上陸。その後メキシコに再上陸し、あわせて341名の死者を出す。
2007年 – 2007年スマトラ島沖地震。マグニチュード8.5。死者17人以上。津波による死者は居なかった。
チャットgpt先生の9月12日のエッセイ
9月12日を、暦や吉凶ではなく、挙げられた歴史的事実の「構造」から読むなら、この日はかなり明確な共通項を持っています。
9月12日――包囲が破れ、均衡が崩れる日
9月12日に並んでいる出来事を見ると、時代も地域も違うのに、妙に似た形が繰り返されている。
マラトン、ウィーン、ボルティモア、チャプルテペク。
いずれも単純な「強い側が弱い側を倒した」という話ではない。むしろ、優勢に見える側が、最後の局面で構造的な限界にぶつかるという話である。
マラトンでは、アケメネス朝という巨大な帝国の遠征軍に対して、アテナイとプラタイアの連合軍が勝った。
1683年のウィーンでは、オスマン帝国が大軍を投入し、長期間にわたって都市を包囲した。しかし、包囲する側が最後まで主導権を維持できなかった。救援軍が到着すると、巨大な攻撃側の軍事力そのものが、逆に撤退を難しくする要因になった。
1814年のボルティモアでも同じ構造が見える。
イギリス軍は軍事的に強力だった。しかし、都市を攻略する側には「攻め続けなければならない」というコストが発生する。一方、防御側には「持ちこたえればいい」という別のゲームが成立する。
戦争では、攻撃力と勝利条件は同じではない。
ここが重要である。
大軍を持つことと、相手の政治的・軍事的意思を破壊することは別問題だ。遠征軍が強大でも、補給線が長くなればなるほど、時間が敵になる。包囲する側が「相手が降伏するまで待つ」つもりでも、その間に第三者が介入すれば、包囲そのものが逆に弱点になる。
つまり、優勢は固定された資産ではなく、時間とともに減価する。
9月12日に並ぶ戦闘史は、この事実を何度も示している。
そして興味深いのが、1984年のグリコ・森永事件である。
これは戦争ではない。しかし構造だけを見ると、やはり「攻める側と守る側」のゲームになっている。
犯人側は企業を直接支配するほどの物理的戦力を持っていたわけではない。それでも、脅迫状、報道、毒入り菓子、警察との駆け引きなどを組み合わせることで、企業だけでなく、消費者、メディア、警察までゲームの中に引き込んだ。
ここでは、物理的な戦力ではなく、情報と不確実性が戦力になる。
誰が犯人なのか分からない。
次に何が起こるか分からない。
どの商品が危険なのか分からない。
どこに現金を持っていけばいいのか分からない。
つまり相手に必要以上の判断を強いる。
これは現代的な意味で非常に重要な構造だ。
組織は規模が大きくなるほど、意思決定に時間がかかる。企業はブランドを守らなければならない。警察は証拠を積み上げなければならない。メディアはニュースを報道する必要がある。
そこに不確実性を大量投入すると、攻撃者自身の資源が小さくても、相手側の組織コストを膨張させることができる。
弱者が強者を攻撃するとき、強者の強さそのものをコストに変換する。
これはウィーン包囲にも通じる。
大軍であること。
巨大な組織であること。
全国規模の企業であること。
どれも平時には強みだが、状況によっては「動きが重い」という弱点に変わる。
2007年のスマトラ島沖地震も、別の意味でこの構造を持っている。
マグニチュード8.5という巨大な地震だったにもかかわらず、津波による死者は確認されなかった。
ここでも、「規模が大きい=結果が最大になる」という単純な関係は成立しない。
結果を決めるのは、一つの数字ではない。
震源の位置、深さ、海底の変位、地形、人口分布、時間帯、避難行動。
無数の変数が連鎖して、最終的な被害を決める。
歴史も同じだ。
「大軍だったから勝つ」
「帝国だったから勝つ」
「企業だから安全」
「地震が巨大だから津波被害も巨大」
こうした直線的な因果関係は、現実にはあまり成立しない。
現実はもっと機械的で、もっと冷たい。
結果は、資源の総量ではなく、複数の条件がどの地点で接続したかによって決まる。
9月12日の歴史を並べていると、もう一つ見えてくる。
それは、勝敗が決まる瞬間と、歴史が決まる瞬間は違うということだ。
ウィーンでオスマン軍が敗れたこと自体は一つの軍事的敗北に過ぎない。しかし、その後の大トルコ戦争、そして1699年のカルロヴィッツ条約へとつながっていく。
ボルティモアの戦いも、一都市をめぐる戦闘だった。しかしマクヘンリー砦への砲撃と、それを見たフランシス・スコット・キーの詩は、後にアメリカの国歌へつながった。
一方、グリコ・森永事件は犯人が捕まらなかった。
それでも社会に残った。
つまり歴史においては、「誰が勝ったか」だけではなく、「その出来事が次に何を発生させたか」が重要になる。
事件そのものより、事件によって変化した制度、認識、行動、組織、心理のほうが長く残る場合がある。
9月12日という日付を、こうした出来事だけから眺めると、一つの原則が浮かぶ。
巨大なものは、巨大であるがゆえに無敵なのではない。
巨大な軍隊には補給という問題がある。
巨大な帝国には距離という問題がある。
巨大な企業には組織という問題がある。
巨大な社会には情報伝達という問題がある。
そして巨大な自然現象には、地形や時間という変数がある。
規模は能力を増幅する。
しかし同時に、依存関係も増幅する。
だから現実の勝敗を決めるのは、単純な「強い・弱い」ではない。
どこまで動けるのか。
どこまで待てるのか。
どれだけ情報を持っているのか。
第三者はいつ介入できるのか。
補給は続くのか。
組織内部の意思決定は機能するのか。
そして、相手より先に限界点へ到達するのはどちらなのか。
歴史を見ると、転換点はしばしば「最も強い者が最も強く攻撃した瞬間」ではなく、強者の強さが維持できなくなった瞬間に現れる。
9月12日に並ぶ戦争、事件、災害は、それぞれ全く別の物語に見える。
だが構造だけを抜き出せば、同じことを語っている。
力には必ず維持コストがある。
そして歴史を動かすのは、しばしば力の大きさではなく、そのコストが限界を超える瞬間である。

