9月10日
20260910木曜日旧暦7月29日大安(24番丁亥ひのといテイガイ)月齢 28.3
43番丙午ひのえうま年 34番丁酉ひのととり月 24番丁亥ひのとい日
吉方位 隠遁日 北 北東 北西 大吉 年末まであと112日
https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8810%E6%97%A5
9月10日の出来事
1573年(天正元年8月14日) – 小谷城救援から離脱した朝倉義景軍を織田信長軍が捕捉。追撃戦で斎藤龍興らを討ち取り壊滅させる。(刀根坂の戦い)損害 織田軍3万人中 戦死僅少 朝倉軍2万中 戦死3000人。
1622年(元和8年8月5日) – 長崎でカトリック教徒55名が処刑。(元和の大殉教)。
火刑25人。斬首30人。
1813年 – 米英戦争: エリー湖の戦い。英国海軍史上初の全面敗北で、英国軍はデトロイトを放棄[1]。
1858年 – ジョージ・サールが小惑星「55パンドラ」を発見。
1961年 – イタリアグランプリでヴォルフガング・フォン・トリップス(フェラーリ)がジム・クラーク(ロータス)と接触事故、死者14名の大惨事となる。
1976年 – ザグレブ空中衝突事故。ユーゴスラビア・ザグレブ上空で航空機同士が空中衝突。双方の乗員乗客176人全員死亡。
1977年 – フランスで最後のギロチンによる処刑が行われる。
2001年 – BSE問題: 日本初の牛海綿状脳症(狂牛病、BSE)に感染した恐れのある乳牛が千葉県で発見されたと農林水産省が発表。21日に感染を確認。
————————————————–
1573年(天正元年8月14日) – 小谷城救援から離脱した朝倉義景軍を織田信長軍が捕捉。追撃戦で斎藤龍興らを討ち取り壊滅させる。(刀根坂の戦い)損害 織田軍3万人中 戦死僅少 朝倉軍2万中 戦死3000人。
刀根坂の戦い
13日、大嶽砦の陥落を知った義景は形勢を判断。織田軍総勢3万に対し、朝倉軍は2万。朝倉勢は前述のように主力重臣らを欠いた上、戦意も低く、勝ち目がないことを悟った義景は撤退を決断した。
朝倉軍が撤退を開始するや、信長は本隊を率い、自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃した。しかし織田方の先手武将達は、あらかじめ下知を受けていたにもかかわらず信長より遅れてしまい後に信長より叱責を受けたが、佐久間信盛がこれに反論を行ったため信長の怒りを買っている。
元々近江出兵に際し家中の意思統一も成されず、織田方の内部懐柔工作などで戦意もない朝倉軍は、退却戦の混乱に織田軍の攻撃を受けて皆殺しにされた。義景は疋田城への撤退を目標とし、経路である刀根坂に向かったが、ここでも信長自らが率いる織田軍の追討を受けた。余呉から刀根坂、敦賀にかけての撤退中、朝倉軍は織田軍に押され、織田方の記録に拠れば3,000人以上(但し「武将38人、兵3,800人」などと、誇大な数字であることを感じさせる記録ではある)と言われる死者を出した。朝倉軍もある者は踏み止まり、ある者は反転して織田方を押し戻すなど果敢に奮闘したが、北庄城主朝倉景行や当時17歳の朝倉道景といった一門衆を含め、山崎吉家、斎藤龍興、河合吉統など大名・朝倉氏本家の軍事中核を成していたであろう武将が多数戦死した。
織田軍は翌14日まで朝倉軍を徹底的に追撃した。これにより朝倉軍の近江遠征軍、つまり朝倉本家の直属軍勢と部将はほぼ壊滅した。義景は手勢のみを率い、一乗谷へ帰還した。
1622年(元和8年8月5日) – 長崎でカトリック教徒55名が処刑。(元和の大殉教)
元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)とは、江戸時代初期の元和8年8月5日(1622年9月10日)、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件である[1]。日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。
この事件後、江戸幕府による弾圧はさらに強化されていく。
また、平戸オランダ商館員やイエズス会宣教師によって詳細が海外に伝えられたため、26聖人の殉教や京都の大殉教と並んで日本の歴史の中で最もよく知られた殉教事件の1つとなっている。
火刑
その内訳は、火刑された者が25名であった。
その中にはイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭9人と修道士数名が含まれていた。イエズス会員カルロ・スピノラ神父もそのうちの1人であり[3]、彼は数学と科学に精通し、慶長17年(1612年)に長崎で日本初の月食の科学的観察を行って緯度を測定したことで知られている。
斬首
また、残る30人は斬首となった。
斬首された者の中には、日本人だけでなくスピノラをかくまったことで逮捕・処刑されていたポルトガル人ドミンゴス・ジョルジの夫人・イサベラと彼の忘れ形見である4歳のイグナシオもいた。
1813年 – 米英戦争: エリー湖の戦い。英国海軍史上初の全面敗北で、英国軍はデトロイトを放棄[1]。損害 英軍 戦死傷130人以上降服300人以上 アメリカ軍 戦死傷100人以上。
1858年 – ジョージ・サールが小惑星「55パンドラ」を発見。
1961年 – イタリアグランプリでヴォルフガング・フォン・トリップス(フェラーリ)がジム・クラーク(ロータス)と接触事故、死者14名の大惨事となる。
1976年 – ザグレブ空中衝突事故。ユーゴスラビア・ザグレブ上空で航空機同士が空中衝突。双方の乗員乗客176人全員死亡。
1977年 – フランスで最後のギロチンによる処刑が行われる。
ギロチンは一見残酷なイメージだが、導入の経緯、および絞首刑との比較から、欧州ではむしろ人道的な死刑装置と位置づけられており、使用されなくなったのは比較的近年のことである。フランスでは死刑制度自体が廃止される1981年9月までギロチンが現役で稼動していた。フランスで最後にギロチンによって処刑されたのは、女性を殺害した罪に問われた、ハミダ・ジャンドゥビというチュニジア人労働者であり、1977年9月10日にフランス最後の死刑執行人(ムッシュ・ド・パリ)であるマルセル・シュヴァリエによって刑が執行された。これがフランスでギロチンが公式に使用された最後の例である。
ドイツ
ドイツ帝国(1871年 – 1918年)で1872年に改良型のギロチンが採用されて以来、ヴァイマル共和政(1919年 – 1933年)に至るまで手斧による死刑と併用されていた。ナチス・ドイツ成立後の1937年にヒトラー直々の命令でギロチンによる処刑に統一され、ギロチンによる処刑への統一以前の1933年からナチス崩壊の1945年にかけては16,500人がギロチンによって処刑され史上最多を極めた。その中には、白バラ抵抗運動のゾフィー・ショルやハンス・ショルら、政治犯も多人数含まれている。
ナチス政権下においては、ヨハン・ライヒハートという執行人によって2,948件のギロチン処刑が執行されているが、これは1870年から1977年までのフランスでの処刑件数よりも多いという。皮肉にも、3,000人近い人間に死刑命令を出したナチス高官は戦後に戦犯としてライヒハートによって処刑されている。
ナチス崩壊以後西ドイツ成立までもギロチンによる処刑は継続され、1949年に死刑制度が廃止されて同年処刑された強姦殺人犯が最後の執行となった。
東ドイツでもギロチンが使用されていたことが報告されていたが、1970年代には廃止されたとみられる。 なお、同国は1987年に死刑を廃止した。
ベルギー
フランス革命の時代にフランスに併合されるとフランス領としてフランスの法律によるギロチンによる死刑が制定され、独立後も1977年9月10日に行われた最後の死刑執行まで使用され続けた。
2001年 – BSE問題: 日本初の牛海綿状脳症(狂牛病、BSE)に感染した恐れのある乳牛が千葉県で発見されたと農林水産省が発表。21日に感染を確認。
牛海綿状脳症(うしかいめんじょうのうしょう、英語: Bovine Spongiform Encephalopathy, 略語: BSE)は、牛の脳の中に空洞ができ、スポンジ(海綿)状になる感染症(プリオン病)である。「ぎゅうかいめんじょうのうしょう」とも読む。一般的には狂牛病(きょうぎゅうびょう, Mad Cow Disease)として知られ、1986年にイギリスで初めて発見された[1]。
羊のスクレイピーや、鹿の慢性消耗病 (CWD)、他、ヒトのクロイツフェルト・ヤコブ病 (Creutzfeldt-Jakob disease, CJD) などを総称して伝達性(伝染性)海綿状脳症(Transmissible Spongiform Encephalopathy, TSE)と表記される場合もある。
家畜伝染病予防法によって指定されている監視伝染病の一つ。
症状
この病気を発症した牛は、群れから離れたり痙攣を起こすなど異常な行動を取るようになり、その後、音や接触に対して過敏な反応をするようになる。病状がさらに進むと運動機能に関連する部位も冒されて立てなくなるなどの症状を示す。
原因
イギリスで発生したのは、飼料として与えた汚染肉骨粉が感染源と考えられている。なお、日本での発生原因は完全には解明されていないが、肉骨粉と同時に牛用代用乳がその原因として疑われている[2]。
ウイルスなど核酸を有した病原体による病気ではなく、プリオンと呼ばれるタンパク質のみで構成された物質が原因だとする見解が主流であるが、有力な異論・異説も少数ながらあり、プリオン原因説は完全な定説とはなっていない。健康体の牛などの体内には正常プリオン蛋白が発現しているが、BSEの原因となるプリオンは、正常プリオン蛋白とは立体構造が異なる異常プリオン蛋白から構成されている。
異常プリオン蛋白は、二次構造や細胞内局在において、正常プリオン蛋白とはかなり違った性質を示す。たとえば、正常なプリオンにはαヘリックス構造が多く含まれるのに対して、異常プリオンではβシート構造が多くなっている。この異常プリオン蛋白により構成されたプリオンが人工飼料などを介して、ウシやヒトの体内に入ると、徐々に正常プリオン蛋白が異常プリオン蛋白に変えられていってしまう。この仕組みについては未解明な部分も多い。
2008年9月11日、アメリカ合衆国農務省(英語略:USDA)動物病センター(英語:National Animal Disease Center/UADC)[3]で研究を行った、カンザス州立大学のユルゲン・リヒト(Jurgen Richt)教授は、BSEの病原体である異常プリオンは、外部から感染しなくとも牛の体内での遺伝子の異変によって作られ、BSEを発症する例につながると発表した。この発表は2006年アラバマ州でBSEを発症した約10歳の雌牛の遺伝子の解析から、異常プリオンを作る異変が初めて見つかったことによる。ヒトでも同様の異変が知られ、クロイツフェルト・ヤコブ病を起こす[4]。
チャットgpt先生の9月10日のエッセイ
9月10日――崩れる瞬間は、いつもその前から始まっている
9月10日に並ぶ出来事を眺めると、時代も場所もまったく異なる事件が、一つの構造の上に乗っていることに気づく。
1573年の刀根坂では、朝倉義景の軍が撤退を始め、織田信長の軍がそれを追撃した。1622年の長崎では、55人のキリスト教徒が処刑された。1813年のエリー湖では、アメリカ側がイギリス側の海軍力を破り、戦場の主導権を奪った。20世紀に入ると、イタリア・グランプリとザグレブ空中衝突事故で、巨大なシステムの中に組み込まれた人間が一瞬の事故によって死ぬ。そして1977年には、フランスでギロチンによる最後の死刑が行われた。2001年には日本でBSE感染牛の存在が公表され、その後、食料供給システム全体が問題になっていく。
これらは「善悪」の話として並べるより、巨大なシステムがどこで限界を露呈するかという視点から見ると、かなり明瞭になる。
刀根坂の戦いで決定的だったのは、戦場で突然、朝倉軍が弱くなったことではない。
すでに戦う前から、軍の内部には問題が積み重なっていた。
織田軍は総勢3万。対する朝倉軍は2万とされる。しかし兵力差だけで勝敗が決まったわけではない。朝倉側では主力となる重臣を欠き、家中の意思統一も十分ではなく、さらに織田側からの懐柔工作も作用していた。
つまり、数字としての「2万」は存在していても、それがそのまま「2万の戦闘力」になるわけではない。
軍隊の強さは、兵士の人数を単純に足したものではない。
指揮系統、情報共有、士気、補給、撤退路、命令への服従、部隊間の連携。これらが一定水準で機能して初めて、人数が戦力になる。
逆に言えば、そこが壊れた瞬間、巨大な数字は急速に意味を失う。
撤退はその典型である。
攻撃側は前進する方向が一つであるのに対し、撤退する側は「逃げながら組織を維持する」という難しい作業を要求される。後方部隊は前方の状況を知らず、前方部隊は後方の圧力を把握できない。命令は遅れ、隊列は乱れ、個々の判断が増える。
そして一度「撤退」が「敗走」に変わると、戦闘そのものよりも組織崩壊の速度が支配的になる。
刀根坂で起きたことを構造的に見れば、織田軍が単純に「強かった」というより、朝倉軍の持っていた軍事組織としての余力が、撤退という最も脆弱な局面で一気に失われた、と見るほうが実態に近い。
ここで重要なのは、崩壊は崩壊した瞬間に始まったのではないということである。
その前に、すでに組織の内部で少しずつ始まっている。
これは1622年の長崎にも別の形で現れる。
元和の大殉教では、江戸幕府の統治機構が宗教集団を取り締まり、最終的に55人が処刑された。
ここで重要なのは、55人が殺されたという一点だけではない。
その背景には、幕府が国内の人間・情報・交易・宗教・外国勢力を一つの統治構造の中で管理しようとしていた事情がある。
統治者にとって問題なのは、ある個人が何を信じているかだけではない。
その人物が誰と接触しているのか。
どこから情報が入ってくるのか。
外国勢力との関係はどうなっているのか。
既存の支配体系とは別のネットワークが形成されていないか。
つまり宗教は、信仰という個人的領域だけでなく、当時の政治構造から見れば人間を結びつけるネットワークでもあった。
権力が警戒するのは、思想そのもの以上に、既存の指揮系統とは別のネットワークが形成されることである。
この構造は、近代になっても消えない。
1813年のエリー湖の戦いも、表面的には海戦である。しかし戦争において海軍力とは、艦船の数だけではない。
船、砲、乗員、補給、造船能力、港湾、情報、指揮能力。
どれか一つが欠ければ、数字上の艦隊は実際の戦力にならない。
そしてエリー湖での勝敗は、単なる一戦の勝敗を超えて、デトロイトの放棄につながった。
戦場で優位を取ることと、戦争全体で優位に立つことは違う。
しかし戦略上重要な場所で一度、補給や移動の自由を失うと、その一敗が次の撤退を生み、その撤退がさらに次の不利を生む。
歴史上の大敗には、しばしばこの「連鎖」がある。
一つの事故、一つの敗北、一つの判断だけで全てが決まるわけではない。
システムの一部分が失われ、それによって別の部分が機能しなくなり、その結果さらに別の部分が失われる。
これが大規模な組織の崩壊である。
20世紀の9月10日は、この構造が軍事以外の領域でも露出する。
1961年のイタリア・グランプリでは、ヴォルフガング・フォン・トリップスとジム・クラークの接触事故によって大惨事が発生した。
ここで興味深いのは、自動車レースが「個人の技量」の競争であると同時に、極端に高度な技術システムの上に成立していることである。
速度が上がるほど、人間の反応時間は短くなる。
機械の性能が上がるほど、失敗したときのエネルギーも大きくなる。
観客を含めてシステム全体が高速化すると、一つの接触が複数の人間に影響する。
つまり技術の進歩は、能力だけを増やすのではない。
失敗したときの被害半径まで拡大する。
1976年のザグレブ空中衝突事故は、さらに極端である。
二機の航空機が空中で衝突し、176人全員が死亡した。
航空機は、個々の乗員が好きなように操縦する乗り物ではない。
管制、航法、通信、手順、機器、航空会社、空港、国家の航空行政など、多数の要素が連動して成立している。
だから航空事故を「操縦士のミス」とだけ説明すると、構造を見落とす。
航空というシステムが高度化するほど、事故原因も単純な一人のミスから、複数の条件が重なった結果として現れるようになる。
これは現代社会全体に共通する特徴である。
便利になった社会ほど、一つの製品やサービスの背後に存在する人間の数が増える。
その結果、成功するときには誰が成功させたのか分からないほど滑らかに動く一方、失敗すると「どこで何が起きたのか」が非常に見えにくくなる。
そして1977年9月10日、フランスではギロチンによる最後の死刑が執行された。
ここには別の種類の「技術の終わり」がある。
ギロチンは単なる殺人装置ではない。
近代国家が刑罰を制度化し、死刑執行を一定の手続きに組み込む過程で登場した装置でもある。
処刑を個人の腕力や偶然に委ねるのではなく、標準化し、再現可能な手順にする。
これは近代社会が得意としてきたことでもある。
製造も、戦争も、行政も、医療も、交通も、刑罰も、可能な限り「人間個人の判断」を減らし、手順と装置に置き換えていく。
ところが、制度そのものが変われば、その装置は不要になる。
ギロチンが消えたのは、刃物として突然性能が悪くなったからではない。
それを必要とする制度がなくなったからである。
この点で、1977年のギロチンは「古い技術が新しい技術に負けた」という話ではない。
技術は制度に従属している。
制度が変われば、技術の意味も消える。
そして2001年のBSE問題は、さらに現代的な構造を示している。
一頭の牛に異常が見つかった。
しかし問題は、その牛だけでは終わらない。
牛は飼料を食べる。
飼料は製造される。
牛は農家で飼育される。
食肉は加工される。
流通業者が運ぶ。
店頭に並ぶ。
消費者が購入する。
行政が検査する。
つまり、一頭の牛は巨大な食料システムの末端に存在している。
そこで異常が見つかると、「この牛は安全か危険か」という問題だけでは済まない。
どの飼料が使われたのか。
どこから来たのか。
同じ飼料を食べた牛は何頭いるのか。
流通した食品はどこにあるのか。
検査体制は機能していたのか。
原因は何なのか。
そして、原因が完全に分からない段階でも、社会は意思決定を迫られる。
ここで現代社会特有の問題が生まれる。
システムが巨大になるほど、原因を完全に理解してから行動することが難しくなる。
リスクが見えてから原因を探すのでは遅い場合がある。
しかし原因が分からないまま対応すれば、過剰反応になる可能性もある。
だから現代の行政や企業に求められる能力は、単純な「正解を知る能力」ではない。
不完全な情報の中で、どこまで動くかを判断する能力である。
9月10日に並ぶ事件には、こうした共通した構造がある。
刀根坂では、軍事組織の内部統合が崩れ、撤退が敗走へ変わった。
長崎では、国家が異なる人的ネットワークを統治構造の外部に置くことを許さなくなった。
エリー湖では、海上戦力の一部が失われることで、地域全体の戦略状況が変化した。
自動車と航空機の事故では、高度化した技術システムが持つ巨大なエネルギーが、わずかな異常によって人命を巻き込んだ。
ギロチンは、制度が消えれば高度に標準化された技術でさえ消滅することを示した。
BSEでは、一頭の牛の異常が、飼料・畜産・食品・流通・行政・消費者という巨大なネットワーク全体に波及した。
時代は違っても、構造は似ている。
人間は単独ではなく、システムの中で力を持つ。
そしてシステムは、正常に動いているときにはその存在を意識させない。
軍隊が正常なら、兵士は命令に従い、補給は届き、部隊は隊列を維持する。
航空機が正常なら、乗客は何も考えずに空を移動する。
食品流通が正常なら、消費者は一頭の牛がどこで生まれ、何を食べ、どの施設を通過したかなど知らない。
行政が正常なら、制度の存在そのものを意識しない。
ところが、どこか一箇所で異常が起きると、それまで隠れていた構造が突然見える。
事故とは、単なる破壊ではない。
それまで見えなかったシステムを可視化する現象でもある。
だから歴史を見るとき、事件そのものだけを見ると本質を逃しやすい。
「誰が勝ったのか」
「誰が死んだのか」
「誰が悪かったのか」
だけではなく、
「何がその結果を可能にしたのか」
「どの条件が重なったのか」
「どこから崩れ始めたのか」
「一つの出来事が次に何を壊したのか」
を見る必要がある。
9月10日に記録された事件群は、まさにそのことを示している。
歴史は突然変わるように見える。
しかし実際には、突然変わったように見える瞬間までに、無数の条件が積み重なっている。
刀根坂の敗走も、空中衝突も、食料システムの危機も、制度の終焉も、表面だけを見れば「その日に起きた出来事」である。
だが構造を見るなら、その日は結果が表面に現れた日でしかない。
崩壊は、崩壊した日に始まらない。
そして同じように、制度の終焉も、その制度が最後に使われた日に始まったわけではない。
一つのシステムが限界に達するとき、その兆候はずっと前から内部に存在している。
歴史を見るということは、事件の日付を覚えることだけではない。
その日付の背後にある、**「なぜその日に、それが起きるところまで来ていたのか」**を見ることである。
9月10日は、その視点から見ると、戦争、国家、技術、事故、刑罰、食品という別々の歴史が、実は同じ原理で動いていることを静かに示している。

