kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月26日 1346クレシーの戦い、ほか写真wikipedia対峙する両軍

8月26日

20260826水曜日旧暦7月14日友引(9番壬申みずのえさるジンシン)月齢 13.3

43番丙午ひのえうま年 33番丙申ひのえさる月 9番壬申みずのえさる日

吉方位 隠遁日 壬申みずのえさる日 西 大吉 年末まであと127日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8826%E6%97%A5

8月26日の出来事

1071年 – マラズギルトの戦い。セルジューク朝トルコ3万と東ローマ帝国7万の戦い。トルコの圧勝。東ローマ帝国衰亡の原因。

損害 セルジューク朝軍 僅少 東ローマ帝国 戦死8000人弱 捕虜4000人弱

1346年 – 百年戦争: クレシーの戦い。イングランド12000とフランス騎士軍30000の戦い。イングランド長弓隊の圧勝。戦術の書き換えの事件。騎士の没落。

損害 イングランド 僅少1000弱 フランス20000弱で壊滅

1600年(慶長5年7月18日)- 伏見城の戦いが始まる。関ヶ原の戦いの前哨戦。西軍豊臣40000と東軍1800の伏見城籠城部隊の戦い。1800の全滅。豊臣の圧勝。

1813年 – ナポレオン戦争: ドレスデンの戦いがはじまる。ナポレオン軍100000とオーストリア+ロシア+プロイセン200000の大会戦。ナポレオン軍の勝利。

損害 フランス軍死傷10000人 連合軍死傷38000人

1862年 – 南北戦争: 第二次ブルランの戦いが始まる。北軍60000と南軍50000の戦い。

損害 北軍死傷10000人 南軍死傷20000人強。

1945年-沖縄戦8月26日・英米の艦隊が徹底した空爆で先島群島の封じ込めをおこなうなか、 日本軍の一大軍事拠点となっていた宮古島の3万の日本軍将兵と6万人の住民は、マラリアと飢餓により絶望的な死の淵に追いつめられていた。8月26日、米国海兵隊2,000人を乗せたLSTが漲水港に入り、日本軍の武装解除にあたった。<引用先原文>・終戦後の8月26日、アメリカ軍が上陸し宮古島の進駐が始まります。キャノン准将の閲兵を受ける宮古島守備の海軍将兵たち。宮古島にはおよそ(日本兵)2万8700人が守備に当たりましたが、2600人余りが戦死、そのほとんどがマラリアや栄養失調でした。

この映像は、9月24日に撮影された宮古島の様子です。日本軍の武装解除で集められた兵器。無数の爆弾が野積みにされています。こちらは、何もない野原に建てられた収容所のテント。この後、宮古島は12月8日にアメリカ海兵隊が軍政を施行しますが、これは沖縄本島、八重山と分割された統治で、互いの往来が厳しく制限されました。<65年前のきょうは1945年9月29日(土) – QAB NEWS Headline>・大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊 (特務隊) とは、米軍上陸前に各離島に潜伏し、諜報・防諜・宣伝活動等を行い、常に沖縄戦の選挙を大本営へ送信するとともに、状況によっては住民を遊撃戦闘員に仕立て上げ、米軍の後方かく乱を行うことを主任務とする部隊である。さらに『陸軍中野中学校』(中野校友会) には、「米軍に占領されてしまってからも、可能な限り潜伏して諜報活動を行い、その報告を無線によって本部 (大本営) に直接報告する」と記されており、彼らの任務は、沖縄戦況の報告以上に、米軍占領後の諜報活動が重要とされていたと考えられる (p.184)

1945年8月大本営がポツダム宣言を受諾した後も、剣隊は山中に潜伏していた。彼らは最低でも3年間北部やんばるの山中に潜伏する計画だったという。宮城 (註・当時16歳) は次のように述べる。

「私らは通信隊だから武器はあったが使うということはなかった。私らの任務はアメリカに占領されても部隊がなくなっても、3ヶ年は生き延びて地下に潜ってでもやりなさいと言われていた。川上カンパンから逃げ帰った時、(北一郎隊長が戦死していたので) 堀内さんが代行になっていた。堀内さんが「3年は頑張ろう」と言っていた。だから彼らは私たちを家に返さなかったですよ。任務がそのまま続行。護郷隊は解散しているが、私らは最後まで解散しなくて、だいたいは大湿帯 (集落) にいた。しかしもう食料がなくなった。それと戦況がね。もう日本は負けたという宣撫工作もあって、そういうので私らもそろそろ解散しようということで判断して(1945年) 11月か12月に解散した。めいめい家に帰りなさいと。《『陸軍中野中学と沖縄戦~知られざる少年兵「護郷隊」』川満彰 (吉川弘文館, 2018) 》・ヤンバルの一ツ岳に剣隊 (隊長北一郎) の補助兵として潜伏していた宮城康成 (当時17歳)は「暗号書といって柳行李に梱包されてぎっしり詰まったものを持って」「 (大本営に) モールス信号で1日4回連絡」をとっていた、と述べている。 宮古島に潜伏していた野村精一(中野学校出身)は「実際に(無線)が機能しているかわからなかった」と述べ、戦後、大本営で無線を受領した同期に確認すると「『無線は届いたが、何が書いているのさっぱりわからなかった』と言われた」と述べている。 大本営のお粗末さが際立つ。沖縄戦で陸軍中野学校出身者総数42人中7人が戦死した。<川満彰「戦後75年沖縄戦研究の視点2・中野学校出身、住民を監視・虐殺や防諜活動に関与」(沖縄タイムス) – Battle of Okinawa>・沖縄県大宜味村出身、16歳で護郷隊に召集された平良邦雄さん

護郷隊1,001人のうち160人が戦死した。生き残った隊員も、秘密部隊だったため軍人恩給などは一切なかった。「ぼくたちは操り人形だった」と何度も口にした。「どうしたら戦争が終わるかなんて考えられず、目の前のことしか考えられなかった」。ひたすら上官の命令に従うしかなく、「命令はしょっちゅう変わった」という。<あしたの島 沖縄復帰50年>:東京新聞 TOKYO Web・沖縄の土地を接収し、日本のゼネコンが受注し、安価な沖縄の労働者を利用して建設する、こうした米軍基地建設の構造は占領時代から定着したものだった。日本の戦後のゼネコンは、米軍占領下の沖縄での基地建設でアメリカの建築工法などを学びつつ膨大な利益を上げ、戦後の経済復興を支えたが、肝心の沖縄は、土地と安価な労働力を供給するのみで取り残されていくことになる。<引用先原文>・49年12月、米軍基地建設に向け、46人の技術者が沖縄に降り立った。鹿島建設、間組、大林組。いずれも本土の建設大手10社の社員で、翌年からの本格的な基地建設に向けた測量と設計のために、連合国軍総司令部(GHQ)が選抜したメンバーだった。<沖縄の米軍基地建設で儲かる日本のゼネコン ~ 「米基地工事に本土企業 圧倒的資金で次々受注」(沖縄タイムス) – Basically Okinawa>

1962年 – 昭和37年台風第14号が三重県に上陸。滋賀県、福井県を通過して日本海へ抜けた後に温帯低気圧となった。死者・行方不明者11人[1]。

1966年 – ナミビア独立戦争はじまる。時     1966年8月26日 – 1990年3月21日。

南アフリカからのナミビア独立。損害累計 政府軍2000人強 独立軍11355人

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1071年 – マラズギルトの戦い。セルジューク朝トルコ3万と東ローマ帝国7万の戦い。トルコの圧勝。東ローマ帝国衰亡の原因。

損害 セルジューク朝軍 僅少 東ローマ帝国 戦死8000人弱 捕虜4000人弱

マラズギルトの戦い(マラズギルトのたたかい、トルコ語:Malazgirt Savaşı、ギリシア語: Μάχη του Μαντζικέρτ Mache tou Manzikert)は、1071年8月26日に、アナトリア東部のマラズギルト(Malazgirt)で、東ローマ帝国とセルジューク朝との間で戦われた戦闘。セルジューク朝が勝利をおさめ、東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスは捕虜となった。

戦闘が行われた地名について、東ローマのギリシア語文献はアルメニア語の「マンツィケルト」(Mantzikert)[3]を転写した「マンヅィケルト」「マンジケルト」(Μαντζικέρτ, Mantzikert)なる表記で記しており、日本の世界史の教科書ではこちらで呼ばれる場合が多い。

1346年 – 百年戦争: クレシーの戦い。イングランド12000とフランス騎士軍30000の戦い。イングランド長弓隊の圧勝。戦術の書き換えの事件。騎士の没落。

損害 イングランド 僅少1000弱 フランス20000弱で壊滅

概要

クレシーの戦いではエドワード3世率いる少数のイングランド軍(約1万2千人)がフィリップ6世率いるフランス軍(約3万 – 4万人)を打ち破った。歴史家はこの戦いを騎士道華やかなりし時代の終焉の始まりを告げるものだったと位置づける。戦場は保存されて観光名所となっている。

戦闘

クレシーの戦いでの接近戦

まずフランス軍のジェノヴァ人の傭兵で構成されたクロスボウ部隊が射撃を行い、戦闘が開始された。対するイングランド軍は、ウェールズ人の自由農民で構成されたロングボウ部隊が応射し、射撃戦となった。フランス軍はイングランド歩兵の恐怖を煽るために、クロスボウ部隊の攻撃に合わせて楽器を打ち鳴らしたが、その目論見は脆くも崩れ去った。本来、直接照準における水平射撃では射程、威力、命中精度に勝るクロスボウであったが、上向きの射撃となったことで、効果が大きく減殺された。一方のロングボウ部隊は上方からの射撃であり、地理上の優位があった。

また、エドワード1世の時代より時間をかけて鍛え上げられてきたロングボウ部隊は練度も高く、クロスボウに比べて扱いの難しいロングボウを完璧に使いこなしていた。ロングボウは間接照準で上方に向かって打ち上げることにより射程の点でクロスボウに勝った。また1分間に1、2発程度しか発射できないクロスボウと、1分間に6 – 10発と速射性能で大きくまさるロングボウとの差は明白で、クロスボウ部隊は散々に打ち負かされた。 また一説には、フランス軍が出撃準備の整っていないクロスボウ部隊を強制的に(脅して)出撃させ、そのため大盾で身を隠すことの出来ないクロスボウ部隊はロンクボウの一斉射撃に混乱し、崩壊したとも言われる。

劣勢となったフランス軍だったが、怯むことなく重騎兵部隊による突撃戦術を敢行する。退却しようとしていたクロスボウ部隊は後方から迫った味方の騎士に薙ぎ払われ、踏み潰された。自然の傾斜と人工の障害、そして雨による不安定な地盤によって重騎兵部隊の進行は妨げられ、その突撃の威力は減少した。ある者はロングボウに貫かれ、ある者は落馬して圧死し、それでもなおフランス軍は幾度となく突撃を繰り返し、正面の歩兵部隊に猛攻を仕掛けるが、イングランド軍の陣形を崩すことができず、両側面から矢を射掛けられて負傷者が続出した。夕暮れになってついにフィリップ6世は自軍の退却を命じ、クレシーの戦いは終結した。

1600年(慶長5年7月18日)- 伏見城の戦いが始まる。関ヶ原の戦いの前哨戦。西軍豊臣40000と東軍1800の伏見城籠城部隊の戦い。1800の全滅。豊臣の圧勝。

開戦の経緯

豊臣秀吉の死後、大老・徳川家康は上杉景勝が、豊臣政権に対して反逆を企てたとして会津征伐を決定。慶長5年6月18日に伏見を立ち東国へ向かった。

一方、大坂城にいた前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行は7月17日に、家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を発布した。

これに先立つ7月15日の時点で家康の家臣鳥居元忠らが在城する伏見城は籠城を開始しており[1]、反家康の立場を明らかにした西軍はこれに対する攻撃を準備する。

守る城側の兵力は城兵1800人に大坂城西の丸から移動してきた500人を加えた計2300人[2]。

戦いの状況

本格的な戦闘は19日から開始され、当初は籠城側が打って出て前田玄以、長束正家らの屋敷を焼き払うなどするが、以降は攻め手が昼夜問わず大小の鉄砲を打ちかけ[3]、さらに22日には宇喜多秀家勢が加勢する[4]など圧力を強める。攻め手は築山(小山)を築いてそこに大筒・石火矢を設置したり、堀を埋めるなどするが十分に防御された城は容易に落ちなかった[5]。 しかし孤立した城は8月1日昼ごろに落城[6]。鳥居元忠は鉄砲頭鈴木孫三郎(鈴木重朝)に討ち取られ[7]、他に内藤家長、内藤元長 父子・松平家忠・上林竹庵ら以下800人が討ち死にした[8]。

この伏見城攻防戦の様子を近隣の郷民たちは小栗栖の山から見物している[9]。

戦後の影響

この戦いは、9月15日に行われることになる関ヶ原本戦の前哨戦であり、伏見城に10日以上もの期間をかけたため、美濃・伊勢方面に対するその後の西軍の展開が大きく遅れる要因となったとする説がある。

1813年 – ナポレオン戦争: ドレスデンの戦いがはじまる。ナポレオン軍100000とオーストリア+ロシア+プロイセン200000の大会戦。ナポレオン軍の勝利。

損害 フランス軍死傷10000人 連合軍死傷38000人

ドレスデンの戦い(ドレスデンのたたかい、独:Schlacht von Dresden、1813年8月26日 – 8月27日)は、ナポレオン戦争における最大規模の戦闘の一つである。ドイツ東部のドレスデン近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世麾下のフランス軍は、オーストリア帝国・ロシア帝国・プロイセン王国による第六次対仏大同盟軍を破り、フランス軍の勝利に終わった。しかし、ナポレオンの勝利は完全なものではなかった。この戦いではフランス軍は追撃に失敗し、数日後に行われたクルムの戦いにおいてヴァンダムの軍団が包囲され降伏した。

1862年 – 南北戦争: 第二次ブルランの戦いが始まる。北軍60000と南軍50000の戦い。

損害 北軍死傷10000人 南軍死傷20000人強。

第二次ブルランの戦い(だいにじブルランのたたかい, 英: Second Battle of Bull Run, 南部での呼称は第二次マナサスの戦い, 英: Battle of Second Manassas)は、南北戦争の東部戦線の一部であり、1862年8月28日から8月30日[1]に戦われた。南軍の将軍ロバート・E・リーの北バージニア軍によって、北軍のジョン・ポープ少将のバージニア軍に対抗して遂行された攻撃的作戦の頂点をなすものであり、1861年に同じ場所で戦われた第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い)よりもはるかに大きな規模と戦力で戦われた。

1945年-沖縄戦8月26日・英米の艦隊が徹底した空爆で先島群島の封じ込めをおこなうなか、 日本軍の一大軍事拠点となっていた宮古島の3万の日本軍将兵と6万人の住民は、マラリアと飢餓により絶望的な死の淵に追いつめられていた。8月26日、米国海兵隊2,000人を乗せたLSTが漲水港に入り、日本軍の武装解除にあたった。<引用先原文>・終戦後の8月26日、アメリカ軍が上陸し宮古島の進駐が始まります。キャノン准将の閲兵を受ける宮古島守備の海軍将兵たち。宮古島にはおよそ(日本兵)2万8700人が守備に当たりましたが、2600人余りが戦死、そのほとんどがマラリアや栄養失調でした。

この映像は、9月24日に撮影された宮古島の様子です。日本軍の武装解除で集められた兵器。無数の爆弾が野積みにされています。こちらは、何もない野原に建てられた収容所のテント。この後、宮古島は12月8日にアメリカ海兵隊が軍政を施行しますが、これは沖縄本島、八重山と分割された統治で、互いの往来が厳しく制限されました。<65年前のきょうは1945年9月29日(土) – QAB NEWS Headline>・大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊 (特務隊) とは、米軍上陸前に各離島に潜伏し、諜報・防諜・宣伝活動等を行い、常に沖縄戦の選挙を大本営へ送信するとともに、状況によっては住民を遊撃戦闘員に仕立て上げ、米軍の後方かく乱を行うことを主任務とする部隊である。さらに『陸軍中野中学校』(中野校友会) には、「米軍に占領されてしまってからも、可能な限り潜伏して諜報活動を行い、その報告を無線によって本部 (大本営) に直接報告する」と記されており、彼らの任務は、沖縄戦況の報告以上に、米軍占領後の諜報活動が重要とされていたと考えられる (p.184)

1945年8月大本営がポツダム宣言を受諾した後も、剣隊は山中に潜伏していた。彼らは最低でも3年間北部やんばるの山中に潜伏する計画だったという。宮城 (註・当時16歳) は次のように述べる。

「私らは通信隊だから武器はあったが使うということはなかった。私らの任務はアメリカに占領されても部隊がなくなっても、3ヶ年は生き延びて地下に潜ってでもやりなさいと言われていた。川上カンパンから逃げ帰った時、(北一郎隊長が戦死していたので) 堀内さんが代行になっていた。堀内さんが「3年は頑張ろう」と言っていた。だから彼らは私たちを家に返さなかったですよ。任務がそのまま続行。護郷隊は解散しているが、私らは最後まで解散しなくて、だいたいは大湿帯 (集落) にいた。しかしもう食料がなくなった。それと戦況がね。もう日本は負けたという宣撫工作もあって、そういうので私らもそろそろ解散しようということで判断して(1945年) 11月か12月に解散した。めいめい家に帰りなさいと。《『陸軍中野中学と沖縄戦~知られざる少年兵「護郷隊」』川満彰 (吉川弘文館, 2018) 》・ヤンバルの一ツ岳に剣隊 (隊長北一郎) の補助兵として潜伏していた宮城康成 (当時17歳)は「暗号書といって柳行李に梱包されてぎっしり詰まったものを持って」「 (大本営に) モールス信号で1日4回連絡」をとっていた、と述べている。 宮古島に潜伏していた野村精一(中野学校出身)は「実際に(無線)が機能しているかわからなかった」と述べ、戦後、大本営で無線を受領した同期に確認すると「『無線は届いたが、何が書いているのさっぱりわからなかった』と言われた」と述べている。 大本営のお粗末さが際立つ。沖縄戦で陸軍中野学校出身者総数42人中7人が戦死した。<川満彰「戦後75年沖縄戦研究の視点2・中野学校出身、住民を監視・虐殺や防諜活動に関与」(沖縄タイムス) – Battle of Okinawa>・沖縄県大宜味村出身、16歳で護郷隊に召集された平良邦雄さん

護郷隊1,001人のうち160人が戦死した。生き残った隊員も、秘密部隊だったため軍人恩給などは一切なかった。「ぼくたちは操り人形だった」と何度も口にした。「どうしたら戦争が終わるかなんて考えられず、目の前のことしか考えられなかった」。ひたすら上官の命令に従うしかなく、「命令はしょっちゅう変わった」という。<あしたの島 沖縄復帰50年>:東京新聞 TOKYO Web・沖縄の土地を接収し、日本のゼネコンが受注し、安価な沖縄の労働者を利用して建設する、こうした米軍基地建設の構造は占領時代から定着したものだった。日本の戦後のゼネコンは、米軍占領下の沖縄での基地建設でアメリカの建築工法などを学びつつ膨大な利益を上げ、戦後の経済復興を支えたが、肝心の沖縄は、土地と安価な労働力を供給するのみで取り残されていくことになる。<引用先原文>・49年12月、米軍基地建設に向け、46人の技術者が沖縄に降り立った。鹿島建設、間組、大林組。いずれも本土の建設大手10社の社員で、翌年からの本格的な基地建設に向けた測量と設計のために、連合国軍総司令部(GHQ)が選抜したメンバーだった。<沖縄の米軍基地建設で儲かる日本のゼネコン ~ 「米基地工事に本土企業 圧倒的資金で次々受注」(沖縄タイムス) – Basically Okinawa>

1962年 – 昭和37年台風第14号が三重県に上陸。滋賀県、福井県を通過して日本海へ抜けた後に温帯低気圧となった。死者・行方不明者11人[1]。

1966年 – ナミビア独立戦争はじまる。時     1966年8月26日 – 1990年3月21日。

南アフリカからのナミビア独立。損害累計 政府軍2000人強 独立軍11355人

ナミビア独立戦争(ナミビアどくりつせんそう)は、1966年から1990年まで続いた独立戦争で、南西アフリカ人民機構(SWAPO)を中心としたアフリカ民族主義勢力が南アフリカのアパルトヘイト政府からの南西アフリカ(ナミビア)の独立を求めて戦った。南アフリカ国境戦争と密接な関係にあったほか、北隣のアンゴラで起こっていたアンゴラ独立戦争(1961年~1975年)やアンゴラ内戦(1975年~2002年)とも密接な関係にあった。

チャットgpt先生の8月26日のエッセイ

8月26日という日付を並べてみると、奇妙なほど似た構図が繰り返されている。

1071年のマラズギルト、1346年のクレシー、1600年の伏見城、1813年のドレスデン、1862年の第二次ブルラン。いずれも表面的には「戦い」である。しかし、戦史として眺めると、勝敗を決めているのは単純な兵力差ではない。

むしろ重要なのは、軍隊が置かれている構造だ。

クレシーでは、フランス軍は兵力で優勢だった。しかし、地形、射撃速度、部隊運用、指揮統制が組み合わさり、数の優位を戦闘力へ変換できなかった。騎士の突撃という、それまで有効だったシステムが、地形と長弓という別のシステムによって無効化された。

伏見城も同じである。攻撃側は圧倒的な兵力を持っていたが、少数の籠城側を短時間で排除できなかった。城という防御構造は、兵力差を圧縮する。攻撃側が必要とするのは「何万人いるか」ではなく、包囲、砲撃、補給、指揮、時間をどう組み合わせるかだった。

その時間そのものが、関ヶ原へ向かう西軍にとってのコストになった。

ここに戦争のリアリズムがある。

戦争では、敵を倒しただけでは十分ではない。勝利によって得たものと、そのために失った時間、兵力、輸送能力、政治的余地を差し引かなければならない。局地戦で圧勝しても、その勝利が次の戦場に到達する能力を削っていれば、戦略的には高くつく。

ドレスデンも象徴的だ。ナポレオンは大軍を破った。しかし、そこで決定的な戦争終結まで持っていけなかった。追撃に失敗し、後続の戦闘でフランス軍は打撃を受ける。

つまり「勝った」という事実と、「戦争全体で優位になった」という事実は別物である。

これは国家間戦争だけの話ではない。

1945年の宮古島を見ると、さらに露骨になる。

戦争が終わった後も、戦争の構造はすぐには消えない。軍隊は命令系統によって動く。命令が停止されても、組織の末端にまでその停止が伝達され、各人がそれを現実の行動へ変換するまでには時間差がある。

しかも、そこには「戦争が終わった」という政治的現実と、「自分たちにはまだ任務がある」という組織内部の現実が同時に存在する。

沖縄の離島に残された部隊や少年兵、通信要員の記録は、この時間差を示している。

大本営が戦争を終了させても、山中にいる一兵士にとっては、昨日まで存在した命令体系が突然消滅するわけではない。通信網が機能しているのか、上級司令部が何を把握しているのか、敵がどこまで進出しているのか、自分たちの部隊が解散したのかすら、末端には正確に届かないことがある。

これは精神論ではなく、組織論である。

巨大な組織ほど、中心から末端まで情報が届くには時間がかかる。そして戦争のように通信、輸送、指揮系統が破壊される環境では、その遅延が極端になる。

だから戦争末期には、国家としては「終了」しているのに、局地的には「継続」しているという奇妙な状態が発生する。

宮古島で起きたことも、その延長線上に置ける。

そして戦後になると、今度は軍事力そのものではなく、基地、土地、建設、労働力、資金という別の構造が前面に出てくる。

ここでも重要なのは、誰が善で誰が悪かという話ではない。

占領下の沖縄には巨大な需要が発生した。軍事拠点を建設する必要があり、そのためには土地、技術者、建設会社、労働力、資材、輸送が必要だった。本土の建設企業がそこへ入り、基地建設という巨大な公共需要を通じて資本と技術を蓄積する。

一方、沖縄側には土地と労働力が供給される。

この関係を眺めれば、戦後復興と基地建設が完全に別々の現象ではなかったことが見えてくる。ある地域の軍事的な位置づけが、別の地域の企業や産業に市場を提供する。

戦争と経済は、しばしば切り離して語られる。しかし現実には、軍事力は巨大な資源配分装置でもある。

1966年に始まったナミビア独立戦争も、単純な「独立派対政府軍」という二項対立だけでは捉えにくい。

南西アフリカという地域をめぐって、南アフリカの安全保障、アンゴラの内戦、冷戦下の米ソ対立、周辺国の利害が重なった。現地の戦闘は、その上に形成された巨大な地政学的構造の一部分だった。

ここでも、戦場だけを見ると全体像を失う。

8月26日に並ぶ戦争を通して見えてくるのは、「強い軍隊が勝つ」という単純な法則ではない。

勝敗を決めるのは、兵力を戦闘力に変換できるか、戦闘力を戦略目標に変換できるか、そして戦略的勝利を政治的成果に変換できるかである。

兵士一人の勇敢さより、補給線のほうが戦争を左右することがある。

将軍の才能より、通信網のほうが重要になることがある。

戦場での勝利より、その後に残る時間、資金、人的資源、占領能力のほうが重要になることもある。

そして国家が戦争を終わらせても、組織と地域社会に残った構造は、翌日から消えるわけではない。

歴史を見るとき、戦闘そのものに目を奪われると「誰が勝ったか」で話が終わる。

しかし構造から見るなら、問いは変わる。

誰が、どの資源を持っていたのか。

その資源を実際の能力へ変換できたのか。

誰が時間を消費し、誰が時間を獲得したのか。

勝利によって何を得て、何を失ったのか。

そして戦争が終わった後、その勝敗によって形成された資源配分が、誰の利益として残ったのか。

8月26日に並ぶ出来事は、千年近い時間を隔てながら、この一点でつながっている。

歴史を動かすのは、戦場で鳴る一発の銃声だけではない。

その銃声を撃てる場所まで兵士を運ぶ輸送力、弾薬を供給する産業、命令を伝える通信網、戦場を維持する財政、そして戦争後の土地と資本を誰が握るか。

表面では戦闘が起きている。

その下では、もっと巨大なシステムが動いている。

戦争史を見るということは、結局、そのシステムの動きを見ることなのだ。