kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月23日 1945シベリア抑留司令発令、ほかwikipedia抑留よりの帰還兵舞鶴港

8月23日

20260823日曜日旧暦7月11日大安(6番己巳つちのとみキシ)月齢 10.3

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 6番己巳つちのとみ日

吉方位 隠遁日 己巳つちのとみ日 北 北東 大吉 年末まであと130日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8823%E6%97%A5

8月23日の出来事

1305年 – イングランドによるスコットランド支配に抵抗したウィリアム・ウォレスが、ロンドンで処刑される[1]。

1514年 – チャルディラーンの戦い。124年間に及ぶオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシャの抗争が始まる。オスマン帝国とサファビー朝ペルシャの124年戦争の始り。

戦力 オスマン帝国 200000人 対 サファビー朝 40000人 程度

損害 戦死 オスマン帝国 1000強 サファービー朝 5000

1623年(元和9年7月27日)- 徳川家光の将軍宣下が行われる。

1927年 – サッコ・ヴァンゼッティ事件:アメリカで、強盗殺人の罪でイタリア移民のニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの死刑を執行。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令。(シベリア抑留)日本の厚生労働省は、抑留された日本人の総数を57万5000人、うち5万5000人程度が死亡したとしている[6]。(ソ連対日参戦による総被害23万人中の57000人はシベリア抑留による)

1945年-沖縄戦8月23日・米軍将校は伊東大隊長を米第10軍司令部のある嘉手納飛行場へと連れて行き、天皇の玉音放送を聞かせた。その後、捕虜となっていた八原高級参謀と面会させ、そこでソ連が参戦し日本が無条件降伏したことをなどが伝えられ、「部下に無益な死傷者を出さないよう決心しなさい」と勧告された。

国吉への帰途、米軍将校は伊東大隊長を摩文仁岳へ案内し、牛島と長両将軍の自決場所を示し、両将軍の名前が書かれた二つの白木の墓標を確認させた。伊東大隊長は、それらを北郷連隊長に報告、29日をもって武装解除と投降が決まった。《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 253-277頁より抜粋、要約》・1947年にやっと帰村を許されたが、1953年4月3日、米民政府は新規に土地を接収するため「土地収用令」を公布し、その1週間後に「銃剣とブルドーザー」で銘苅、安謝、天久の住民は再び土地を奪われた。米軍はそこに「牧港住宅地区」を建設した。住民は周辺の人口密集地に押しやられる一方、住宅地からやってくる米兵の頻繁な性暴力にも苦しんだ。<引用先原文>

1948年 – 万代橋事件: 萬代橋に花火大会の見物客が殺到し欄干が崩落[4]。死者11人。

1973年 – ストックホルムで銀行立てこもり事件発生、犯罪被害者が犯人に過度の同情や共感をよせる現象を意味するストックホルム症候群という呼称の由来となる。

2010年 – フィリピンのマニラで香港からの観光客を乗せたバスが元警察官の男にバスジャックされ、人質8人が死亡。犯人も射殺。

2023年 – ロシアの民間軍事会社ワグネルの創設者エフゲニー・プリゴジン所有のジェット機がロシアのトヴェリ州に墜落し、エフゲニー・プリゴジン含む乗員乗客10人が全員死亡した(トヴェリ州エンブラエル・レガシー600墜落事故)。

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1305年 – イングランドによるスコットランド支配に抵抗したウィリアム・ウォレスが、ロンドンで処刑される[1]。

サー・ウィリアム・ウォレス(英語: Sir William Wallace、1270年頃 – 1305年8月23日)は、スコットランドの愛国者、騎士、軍事指導者。享年35歳ころ。

イングランド王エドワード1世の過酷なスコットランド支配に対して、スコットランド民衆の国民感情を高めて抵抗運動を行い、1297年のスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍に勝利をおさめた。この戦功でスコットランド守護官(英語版)に任じられるも、1298年のフォルカークの戦いでイングランド軍に敗れたため、職を辞した。その後もエドワードの支配への抵抗運動を継続したが、1305年にイングランド軍に捕らえられ、大逆罪で有罪となり、残虐刑で処刑された。しかし彼の刑死によりスコットランドの国民感情は鼓舞され、ついにはエドワードのスコットランド支配を崩壊させるに至った[1]。

1305年8月5日、ウォレスはかつての部下だったダンバートン総督ジョン・ド・メンティス(英語版)の裏切りにあってイングランドに引き渡された[28][22][注釈 2]。

その後17日間かけてカーライル城を経てロンドンへ移送された。その道中の様々な町や村で市中引き回しにされた。エドワード1世の勝利を印象付けようという狙いだった[27]。

8月22日にロンドンへ到着したウォレスは、ロンドン塔へ送られる予定だったが、ウォレス捕縛を一目見ようと雑多な群衆が集まってきてロンドン塔までの道が塞がれたため、フェンチャーチ通りにある市参事会員の館に預けられ、そこで一晩監禁された[27]。

翌日、ウェストミンスター宮殿のウェストミンスター・ホールへ連行され、そこに召集された法廷の裁判にかけられた[27]。審理中、月桂樹の王冠を被らされて嬲り者にされた[29]。裁判官のサー・ピーター・マロリー(Sir Peter Mallorie)によりエドワード1世への大逆罪を問われたが、裁判でウォレスは「自分はイングランド王に忠誠を誓ったことはなく、彼の臣民ではないので大逆罪など犯していない」と主張した[30]。

しかし有罪判決が下り、判決後には2頭の馬の尻尾に結わえられ、平民用処刑地のあるスミスフィールドまでの8キロメートルの道を引きずられた。引きずられながら石やゴミを投げつけられた[29]。処刑場到着後、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑という残虐刑で処刑された[28][25]。遺体の首はロンドン橋に串刺しとなり、4つに引き裂かれた胴体はイングランドとスコットランドの4箇所(ニューカッスル、ベリック、パース、アバディーン)で晒し物とされた[28][29]。

エドワード1世としてはウォレスに残虐刑を課すことでスコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようという意図であったが、それは成功しなかった[22][28]。逆にスコットランド国民感情を鼓舞する結果となり、幾月もたたぬうちにエドワード1世のスコットランド支配は崩れ去ることになる[28]。

1514年 – チャルディラーンの戦い。124年間に及ぶオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシャの抗争が始まる。オスマン帝国とサファビー朝ペルシャの124年戦争の始り。

戦力 オスマン帝国 200000人 対 サファビー朝 40000人 程度

損害 戦死 オスマン帝国 1000強 サファービー朝 5000

チャルディラーンの戦い(チャルディラーンのたたかい、Battle of Chaldiran、Chaldoran あるいはÇaldıranとも)とは、1514年8月23日に、アナトリア高原東部のチャルディラーン (Chaldiran) で行われたオスマン帝国と新興のサファヴィー朝ペルシアとの戦い。

鉄砲と大砲が騎馬軍団を撃破した軍事史上大きな意義を持つ戦いである。騎馬隊と鉄砲隊の戦いということから、後の日本の長篠の戦いにたとえられる[7][8]。

1623年(元和9年7月27日)- 徳川家光の将軍宣下が行われる。

1927年 – サッコ・ヴァンゼッティ事件:アメリカで、強盗殺人の罪でイタリア移民のニコラ・サッコとバルトロメオ・ヴァンゼッティの死刑を執行。

サッコ・ヴァンゼッティ事件(Sacco and Vanzetti、サッコ・ヴァンゼッティじけん)は、1920年にアメリカ合衆国のマサチューセッツ州で発生した強盗殺人事件。冤罪(誤判)事件として議論を巻き起こした。

概要

1920年4月15日にアメリカのマサチューセッツ州で強盗殺人事件が発生した。その後イタリア移民でアナーキストのサッコとヴァンゼッティ2名が逮捕され、その後の裁判で死刑宣告されたが、当初から偏見による冤罪との疑惑があり、アメリカ国内のみならずイタリアをはじめとするヨーロッパなど各地でデモが行われるほどの大きな問題となった。

しかし1927年に死刑執行された。後に調査をおこなった行政側は1977年に冤罪であったと認定したが、司法側は冤罪を認めていない。事件は、アメリカ合衆国の歴史上の汚点とも呼ばれている。

州知事は特別委員会を設置したが、国際的な助命嘆願を棄却。委員会は判決を支持し死刑判決が再度確定した。8月23日、マサチューセッツ州ボストン郊外の刑務所で0時19分にサッコが、続いて0時27分にヴァンゼッティが電気椅子で処刑された。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦:ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令。(シベリア抑留)日本の厚生労働省は、抑留された日本人の総数を57万5000人、うち5万5000人程度が死亡したとしている[6]。(ソ連対日参戦による総被害23万人中の57000人はシベリア抑留による)

犠牲者数

ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[8]。従来、多く語られる場合の死者数は約6万人とされている。もともと関東軍の兵員が南方に移送されて大幅に減少し、それを満洲在留の民間邦人を召集して穴埋めしていったことが問題を分かりにくくしている。なお、アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという[9][要ページ番号](ただし、この数は単なる満洲引揚途上あるいは引揚待ちの死者らとの区別が不明である。)。

シベリア抑留中にソ連の軍事法廷で日本人144人が銃殺刑の判決を受けたことが判明しており、うち33人への執行が確認されている(79人のその後は不明)[93][94]。

日本の厚生労働省は2019年(令和元年)現在でも、ロシア連邦などから提供された新たな資料を基に、旧ソ連や満洲での死亡が判明した日本人の氏名等の名簿更新を続けている[95]。

1945年-沖縄戦8月23日・米軍将校は伊東大隊長を米第10軍司令部のある嘉手納飛行場へと連れて行き、天皇の玉音放送を聞かせた。その後、捕虜となっていた八原高級参謀と面会させ、そこでソ連が参戦し日本が無条件降伏したことをなどが伝えられ、「部下に無益な死傷者を出さないよう決心しなさい」と勧告された。

国吉への帰途、米軍将校は伊東大隊長を摩文仁岳へ案内し、牛島と長両将軍の自決場所を示し、両将軍の名前が書かれた二つの白木の墓標を確認させた。伊東大隊長は、それらを北郷連隊長に報告、29日をもって武装解除と投降が決まった。《「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝/Gakken) 253-277頁より抜粋、要約》・1947年にやっと帰村を許されたが、1953年4月3日、米民政府は新規に土地を接収するため「土地収用令」を公布し、その1週間後に「銃剣とブルドーザー」で銘苅、安謝、天久の住民は再び土地を奪われた。米軍はそこに「牧港住宅地区」を建設した。住民は周辺の人口密集地に押しやられる一方、住宅地からやってくる米兵の頻繁な性暴力にも苦しんだ。<引用先原文>

1948年 – 万代橋事件: 萬代橋に花火大会の見物客が殺到し欄干が崩落[4]。死者11人。

1973年 – ストックホルムで銀行立てこもり事件発生、犯罪被害者が犯人に過度の同情や共感をよせる現象を意味するストックホルム症候群という呼称の由来となる。

2010年 – フィリピンのマニラで香港からの観光客を乗せたバスが元警察官の男にバスジャックされ、人質8人が死亡。犯人も射殺。

2023年 – ロシアの民間軍事会社ワグネルの創設者エフゲニー・プリゴジン所有のジェット機がロシアのトヴェリ州に墜落し、エフゲニー・プリゴジン含む乗員乗客10人が全員死亡した(トヴェリ州エンブラエル・レガシー600墜落事故)。

チャットgpt先生の8月23日のエッセイ

8月23日という日付を眺めていると、そこには「正しい者が勝つ」という歴史観よりも、むしろ「配置された力が、次の局面を決める」という現実が繰り返し現れる。

1305年、ウィリアム・ウォレスはロンドンで処刑された。スコットランドの抵抗運動を恐怖によって終わらせようとしたイングランド側からすれば、指導者を捕らえ、公開の場で処刑し、その身体まで政治的な標識として利用することには合理性があった。反乱の中心人物を消せば、組織の指揮系統は崩れ、周囲の人間は損得を計算し直す。

しかし、ここで重要なのはウォレス個人の英雄性ではない。

政治的な支配において、個人を消すことと、その個人が存在することで形成された構造を消すことは別問題なのである。

恐怖によって人間を従わせることはできる。しかし、恐怖が支配の正統性を補強するとは限らない。むしろ、支配する側がどれほど強制力に依存しているかを可視化してしまう場合がある。ウォレスの処刑は、一人の軍事指導者を消した。しかし、スコットランド側の抵抗を生み出した政治条件そのものを消すことはできなかった。

歴史では、この種の錯誤が何度も繰り返される。

1514年のチャルディラーンの戦いも、その意味では非常に象徴的である。

オスマン帝国とサファヴィー朝の戦力差は大きく、オスマン側は大砲と火器を運用し、サファヴィー側は騎馬戦力を中心としていた。結果として、従来型の騎馬戦術は近代的な火力の前に大きな制約を受けた。

ここで見えるのは、兵士の勇敢さではなく、技術と編成の問題である。

同じ人間でも、どの武器を持ち、どの距離で戦い、どのような指揮系統に組み込まれているかによって戦闘力は変わる。

歴史上の敗者が「弱かった」と説明されることがある。しかし、現実には、個々の人間の強弱よりも、技術・組織・補給・情報・地形・指揮命令系統といった要素の組み合わせが勝敗を決める。

長篠の戦いに比喩される理由もそこにある。

戦場では、精神論よりもシステムが強い。

そして1945年8月23日になると、歴史はまったく別の規模で同じ構造を見せる。

第二次世界大戦末期、日本軍兵士が武装解除され、捕虜となり、その後ソ連領内へ移送されていった。ここで重要なのは、戦争が「終わった」という一言では、現実の力関係の変化を説明できないことである。

国家間の戦争が終結しても、個人の立場は瞬間的には平時に戻らない。

戦場にいた兵士は捕虜となり、捕虜は収容施設へ移され、さらに労働力として利用される。国家間の交渉、軍事的必要性、輸送能力、収容能力、労働力需要などが絡み合い、個人の人生がその巨大な構造の中へ組み込まれていく。

戦争というものは、宣戦布告から始まり、降伏文書によって完全に終わるような単純なイベントではない。

戦争の終了とは、軍事的な力関係が再編される過程なのである。

沖縄戦の8月23日も同じである。

伊東大隊長が米軍側から情報を知らされ、八原高級参謀と面会し、ソ連参戦と日本の無条件降伏を伝えられ、その後、部隊の武装解除と投降が決まっていく。

ここで重要なのは、一人の指揮官の心理ではない。

情報が入ることで、意思決定の前提が変わったことである。

戦闘中の兵士にとって、敵軍がどれだけ強いかという情報だけでは足りない。自国政府がどういう状態なのか、戦争が継続可能なのか、他国が参戦したのか、上級司令部が存在するのか、補給が続くのか、降伏後に何が起きるのか。

こうした情報が意思決定を変える。

つまり戦場では、弾薬だけでなく情報そのものが戦力になる。

1945年8月23日の出来事は、「戦うか、降伏するか」という道徳的な二択として見るよりも、情報によって部隊の合理的な選択肢が変化した事例として見るほうが、構造がよく見える。

1948年の万代橋事件では、今度は群衆が構造を作る。

花火大会という一つのイベントに大量の人間が集中し、橋という物理的なインフラに負荷が集中する。個々の観客が危険を望んでいたわけではなくても、集団としては危険な状態が形成される。

ここでも個人の意図と結果は一致しない。

一人ひとりが合理的に行動していても、全体として危険な結果になることがある。

1973年のストックホルムの銀行立てこもり事件から生まれた「ストックホルム症候群」という言葉も、個人の心理を社会現象として説明しようとしたものだった。

そして2010年、マニラでは人質事件が発生する。

2023年にはプリゴジンを乗せた航空機が墜落する。

これらは一見すると、まったく違う事件である。

しかし、8月23日という日付の中に並べてみると、一つの共通項が浮かぶ。

それは「個人の意思だけでは説明できない結果」が多いことである。

ウォレスは抵抗運動という政治構造の中で処刑された。

チャルディラーンでは、個人の勇敢さより火器と組織編成が戦場を決めた。

1945年の捕虜は、国家間の軍事的力関係が変化した結果として移送された。

沖縄では、情報が指揮官の判断を変えた。

万代橋では、群衆の集中が個人の予測を超える事故を生んだ。

ストックホルムでは、極限状態に置かれた人間関係が通常とは異なる心理的反応を生み出した。

そして2023年の航空機墜落は、ロシア国内の政治と権力構造という巨大な背景なしには理解しにくい事件となった。

つまり、8月23日の歴史を通して見えるのは、「人間」よりも「人間が置かれている構造」の強さである。

歴史上の人物を英雄や悪人として分類することは簡単だ。

しかし、それだけでは再現性のある説明にならない。

なぜウォレスが抵抗し、なぜエドワード1世が公開処刑を選択し、なぜサファヴィー朝が騎馬戦力を中心に戦い、なぜオスマン帝国が火器を有効に使い、なぜ日本軍兵士が捕虜となり、なぜ群衆が橋に集中し、なぜ人質事件で異常な心理現象が発生するのか。

そこには必ず、個人を超えた条件がある。

権力。

情報。

技術。

兵站。

組織。

人口密度。

地形。

制度。

そして、その時点で誰が何を支配しているか。

現実を見るうえで重要なのは、「誰が正しかったか」より先に「誰が何を持っていたか」を確認することである。

武器を持っていたのか。

情報を持っていたのか。

人員を動かせたのか。

補給路を確保していたのか。

法的権限を持っていたのか。

通信手段を握っていたのか。

群衆を制御できたのか。

相手の選択肢を狭める能力を持っていたのか。

この視点に立つと、歴史上の出来事は少し違って見えてくる。

歴史は、意思の物語であると同時に、制約の物語でもある。

人間は自由に決断しているように見えて、実際には、その時点で利用可能な選択肢の中からしか決断できない。

そして、その選択肢を決めているのは、多くの場合、本人ではない。

国家、組織、技術、資源、情報、地理、制度、そして時間である。

8月23日の歴史が興味深いのは、時代も地域も異なる出来事の中に、この構造が繰り返し現れるからだ。

1305年のロンドンでも、1514年のアナトリアでも、1945年の沖縄でも、1945年以降のシベリアでも、1948年の新潟でも、2023年のロシアでも、人間は巨大な構造の内部で決断している。

だから歴史を見るとき、人物の言葉だけを追う必要はない。

その人物の背後にある資源を見る。

その人物が持っていた情報を見る。

その人物が動かせた人間の数を見る。

相手が持っていた強制力を見る。

そして、その時点で誰が時間を支配していたのかを見る。

そこまで見れば、歴史上の「突然の出来事」の多くは、実は突然ではなかったことが分かる。

結果は、その瞬間に生まれたのではない。

長い時間をかけて蓄積された力の差が、ある日、一つの事件として表面化しただけなのである。

8月23日は、そのことを静かに示している。

歴史を動かすのは、必ずしも最も強い個人ではない。

その時代に存在する力の配置そのものだ。

そして、その配置が変わった瞬間に、昨日まで合理的だった行動が、今日には意味を失う。

歴史とは、その変化の記録なのだ。