8月4日
20260804火曜日旧暦6月22日先負(47番庚戌かのえいぬコウジュツ)月齢 20.7
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 47番庚戌かのえいぬ日
吉方位 隠遁日 庚戌かのえいぬ日 北 大吉 年末まであと149日
https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%884%E6%97%A5
8月4日の出来事
1265年 – 第2次バロン戦争: イーヴシャムの戦い シモン・ド・モンホール軍5000ほぼ全滅。一方的殺戮とされる。ヘンリー3世国王軍とシモンドモンフォール軍の戦い。国王軍は門フォール軍5000の2倍10000。モンフォールは四肢を切り刻まれた。
1578年 – アルカセル・キビールの戦い。ポルトガルがモロッコに敗れ、ポルトガル王セバスティアン1世が戦死。約5倍のスルタン軍に対峙。全滅。戦死20000以上か。
1590年(天正18年7月5日) – 北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、小田原城が開城。小田原征伐完了により秀吉の天下統一が完成。
戦争:安土桃山時代
年月日:天正18年(1590年)2月 – 7月
場所:相模国小田原、関東一帯
結果:豊臣軍の勝利 後北条氏の滅亡。
損害:豊臣軍 15万3千 小田原北条軍8万 対峙。損害不明。
1783年 – 浅間山の天明大噴火が発生。翌日にかけて溶岩流が発生し、噴出物の堆積で洪水が生じるなど関東平野一帯にも甚大な被害をもたらす。死者は1,151人、家屋の損壊は1,000棟以上[2]。
1945年-沖縄戦8月4日・8月4日、米軍は北部掃討作戦をいったん終了する。多くの地域に潜伏する敗残兵がいたが、そのほとんどが実質的な抵抗力もないと判断されたためである。敗残兵は、「国頭突破」や「日本軍再上陸」を夢見て、ただただ飢餓との戦いを続けるのみであった。<引用先原文>・65年前のきょう (8月4日) アメリカ軍はほとんどの日本兵の掃討を終えたと判断。北部地区の掃討作戦完了を宣言。しかし、その後も北部敗残兵の潜伏は続き、彼らの多くが投降に応じたのは10月初旬になってからのことです。
この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなりました。<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月4日(土)>・米軍は住民を「軍政府」(Military Government) と呼ぶ12の民間人収容所に収容し、その中に、身寄りのない子どもを収容する「孤児院」や身寄りのない高齢者を収容する「養老院」の区域を設置した。<引用先原文>・日本兵に襲撃され重傷となり胡座野戦病院に移送された女性の証言
南部の戦場から、次々と幼児だけがトラックで運びこまれた。親と死別したらしい乳幼児、放棄されて道端で泣きじゃくっていた幼児、幾日も親とはぐれて戦場をさまよい歩いていた飢えた子、裸のままベットに寝かされ、下痢をするたびに水で洗い流されているようすに胸が痛くなる。ほとんどの子どもが栄養失調と下痢のため短い生涯を閉じていった。<知念地区 久手堅収容所 ~ 日本兵の襲撃 ~ 胡座の野戦病院と孤児院 – Battle of Okinawa>・昭和高等女学校から梯梧学徒隊に動員、その後孤児院で働いた稲福マサさんの証言
着る着物、着替えもなくて裸の子どもたち。あとになって5年生見てるんですけどね。子どもたちがね、もう着替えもないんですよ。8畳ぐらいの部屋を4つに区切ってですね、マス状態に、そこに何名か寝かすわけじゃないですか。裸。この子どもたちが1人、うんこしたりしっこしたりしますでしょ。これ、一緒のマスの中にいる5、6人の子どもたちみんな汚れてしまうんです。朝は、この子どもたちに浴びせるのが最初の仕事です。それで、ご飯食べる前に一応、子どもたちきれいにして、あれしたんですけど。子どもたちはね毎日毎日、何名か亡くなっていくんですけど、それは庭にむしろと言うよりは、昔、ヌクグーというのがあったじゃないですか、大きいの敷いてたんです。暑いから子どもたちが部屋から出てきて、夜露に打たれるわけなんですよ。うたれて亡くなってるのが、毎日5、6名は亡くなっていましたね。着替える着物もない、おなかこんなですよ。もう栄養失調で。<稲福 マサさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス>・【沖縄戦の絵】「集められた小さななきがら」
米軍の捕虜となった人々のうち、家族を亡くした大勢の子どもたちが、沖縄市に残っていた赤瓦の民家に収容された。食糧もなく赤痢が流行し毎日のように子どもや障害者が栄養失調で亡くなった。朝になると子どもの遺体があちこちに転がっていて、大きなシートに集められた。沖縄市の嘉間良周辺に穴が掘られ、1か所に葬られたようだった。<集められた小さななきがら | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局>・けがの治療を受けている子どもたち。数日前まで一緒にいた親や兄弟は、彼らの目の前で、どんな運命をたどったのか。傷ついたのは、体だけではありません。沖縄戦では、孤児院は全体で11か所設置されましたが収容された子どもの実数はわかっていません。
子供はどんどん運ばれてくるものの、面倒を見る人も食糧も圧倒的に不足していて、お粥も出せず、ミルクだけの日々もあったいうことです。そのためほとんどが栄養失調による下痢を発症し、衛生状態は「豚の飼育小屋」以下だったという証言もありました。
戦後、状況が落ち着くにつれ、多くが血縁者などに引き取られて行きましたが、戦後8年たった調査ではまだ3000人が孤児院に残っていました。<65年前のきょうは1945年5月10日 – QAB NEWS Headline>
1957年 – 北海道三笠市の新幌内炭鉱で落盤事故。死者6人、重傷者2人[8]。
1957年 – 愛知県瀬戸市で住宅裏の斜面が崩落。死者・行方不明者22人、重傷者8人、住宅9戸と工場1棟が倒壊。
2019年 – アメリカオハイオ州デイトンの繁華街で銃乱射事件が発生。死者9人、負傷者27人。犯人の大学生は現場で射殺された[18]。
2020年 – 2020年ベイルート爆発事故発生[19]。死者218人。
—————-
1265年 – 第2次バロン戦争: イーヴシャムの戦い シモン・ド・モンホール軍5000ほぼ全滅。一方的殺戮とされる。ヘンリー3世国王軍とシモンドモンフォール軍の戦い。国王軍は門フォール軍5000の2倍10000。モンフォールは四肢を切り刻まれた。
イーヴシャムの戦い(Battle of Evesham)は、1265年8月4日にイングランド中南部で行われた戦いで、当時同地域に存在したイングランド王国で13世紀に巻き起こった第二次バロン戦争における主戦の1つである。「シモン・ド・モンフォールの議会」の招集[2]で知られるレスター伯シモン・ド・モンフォールを初めとする男爵たちが、父王ヘンリー3世の軍を率いる王太子エドワード(後の英王エドワード1世)に敗北し、シモン・ド・モンフォールやその子のヘンリー・ド・モンフォールなどは戦死した。イーヴシャム(英語版)はウスターシャー南東部にある地名(現マーケットタウン)である。
ルイスの戦いで王政を掌握したシモン・ド・モンフォールだったが、何人もの近しい味方の離反とルイスの戦いで捕虜にされた[3]エドワード王子の脱走により、次第に守勢に立たされるようになった。イーヴシャムで王党派と戦うこととなったモンフォールは自軍の2倍の規模の軍隊と対峙した。戦いは忽ち大虐殺に転じ、モンフォール自身も殺され、その身体は切り刻まれた。この戦いは、同時代の歴史家ロバート・オブ・グロスター(英語版)はこの顛末を「イーヴシャムの殺人であり戦闘は皆無であった」と評した[4]。
1578年 – アルカセル・キビールの戦い。ポルトガルがモロッコに敗れ、ポルトガル王セバスティアン1世が戦死。約5倍のスルタン軍に対峙。全滅。戦死20000以上か。
アルカセル・キビールの戦い(Batalha de Alcácer-Quibir)は、1578年8月4日、モロッコのアルカセル・キビールで行われたポルトガル軍とサード朝スルタン軍との戦い。モロッコ側からは、「マハザン川の戦い」という[2]。親征したポルトガル王セバスティアンは敗れ、戦死した。24歳没。
1590年(天正18年7月5日) – 北条氏直が豊臣秀吉に降伏し、小田原城が開城。小田原征伐完了により秀吉の天下統一が完成。
戦争:安土桃山時代
年月日:天正18年(1590年)2月 – 7月
場所:相模国小田原、関東一帯
結果:豊臣軍の勝利 後北条氏の滅亡。
損害:豊臣軍 15万3千 小田原北条軍8万 対峙。損害不明。
戦後処理
7月5日、滝川雄利の陣所へ赴いた氏直は、自身の切腹をもって城兵全ての赦免を願い出たが、赦免はともかく切腹は見送られた。
当初の開城・降伏の条件は
北条氏は武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。
氏直に上洛をさせる。
であったが、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁[注釈 52]に開戦の責があるものとして、この四者に切腹を命じた[71]。
7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政の3人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月10日、氏政と氏照は小田原城を出て徳川の陣所に入った。7月11日、城下の医師田村安栖の屋敷にて、石川貞清・蒔田広定・佐々行政・堀田一継・榊原康政の検視役が見守る中、兄弟の氏規の介錯により切腹した。氏規は兄弟の自刃後、自らも追い腹を切ろうとしたが果たせなかった、とも伝わる。氏直は徳川家康の婿でもあったため助命され、高野山に蟄居を命じられた。7月21日、氏直は家臣ら30名ほどを連れて出立し[73]、8月12日に高野山に入った。蟄居中の氏直はやはり富田一白と津田盛月を通し、徳川家康に対して赦免の執り成し依頼を行っている。翌年2月には早くも徳川家康を通して赦免の沙汰が伝えられ、5月上旬には大坂で旧織田信雄邸[注釈 53]を与えられ、8月に1万石が与えられた。しかし、11月に病死した。北条氏は氏規の子孫が紆余曲折の後に河内・狭山藩の大名として豊臣・徳川期と存続した。氏政と氏照の首は16日に京に送られ、聚楽第の橋に晒された[48]。5日に松田憲秀が、19日に大道寺政繁がそれぞれ切腹している。
一方、小田原城開城後も抵抗を続けていた忍城に対し、城主の成田氏長の小田原城での降伏を受けて氏長名義の使者が送られ、7月16日に開城した。その後、氏長の娘の甲斐姫が秀吉の側室となって寵愛を受けたため、氏長に下野国烏山2万石が与えられた。深谷上杉氏の本拠であった深谷城は、当主の上杉氏憲が北条に味方して小田原に詰めていたため不在の中、留守部隊を指揮した秋元長朝らが籠城抗戦を行っていたが、最終的に開城した。戦後、深谷上杉氏は所領を失ったが、秋元長朝は関東へ入封した徳川氏に仕え、関ヶ原の戦いで上杉景勝の投降を促した功により大名となり、後に子孫から老中(秋元凉朝)を輩出した。北条方に加わって豊臣軍と戦った者が江戸時代に譜代大名になった唯一の事例である。7月12日には檜原城が落城し、八王子城の残党や平山氏らが自刃しているが、彼らに小田原開城が伝わっていたかは不明である。
7月13日、秀吉が小田原城に入った。この日、徳川氏の関東転封が公表された。ただしそれ以前からこの方針は伝えられていたようであり、徳川家臣の松平家忠の日記『家忠日記』の6月20日条に「国替わり近日の由」と記されている。また、国替えの準備のために、徳川家康は家忠に本国へ一旦帰還するよう命じている。7月初頭は豊臣氏からの所々への発給文書が多いが、7月半ばごろより徳川氏発給の書状が残る。また同時期に、榊原康政や鳥居元忠らの一部の家臣には知行が申し渡されている。ただしこの時期の徳川氏の関東経営には、いまだ秀吉陣営の幕僚の手が多く加わっている。さらに徳川家臣の井伊直政や本多忠勝のそれぞれの配地の割り当てにすら、秀吉の意見が大きく関与していたと推測される書状が残る。
7月18日[注釈 54]には徳川家康が江戸城に入り、9月までには家臣らに知行が割り当てられている。8月1日は豊臣軍は宇都宮に駐屯し、以降は奥州へ向かったたが、徳川は後述される織田信雄改易の執り成しのために、7月末に宇都宮に参陣しているため、1日に戻ってきたと考えられる。伊豆国に関しては4月中に徳川氏に与えられている。
後北条氏の旧領はほぼそのまま徳川氏に宛がわれることとなった。空いた徳川旧領(三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・信濃国一部など)への国替えを秀吉に命じられた織田信雄は、この命令を拒んだたため改易され下野国烏山城に蟄居させられた。この改易により、秀吉の旧主家の織田氏は勢力を失い、北条氏を短期間に攻め滅ぼした上で国持ちの大名であり正二位内大臣の旧主家であろうとも改易できる秀吉、という実権力が確定し、同時に官位・所領の両面において、徳川家康が豊臣政権の大名として一の実力者と確定した。また前述の秀吉の裁定で、真田氏が北条氏に譲っていた上野国沼田城は真田に返還された。秀吉の怒りを買った里見義康は、徳川家康が執り成したこともあり、安房国一国は安堵されたが、上総国の所領は没収されて徳川氏に与えられた。
常陸国は一国が佐竹義宣に与えられた。この豊臣政権の御墨付きを後ろ盾として、佐竹氏は常陸中部の江戸重通や大掾清幹を滅ぼし、さらに天正19年(1591年)2月には、常陸南方の鹿島・行方両郡の南方三十三館と称される鹿島氏など大掾氏一族の国人領主を太田城に招いて謀殺するなどして常陸国内を統一を達成した。ただし徳川氏と同様に、領内の知行割には豊臣政権の干渉があり、豊臣政権に近しかった佐竹義久に多くの所領が与えられた。
上野国の沼田城は、本来ここを北条氏と争っていた真田昌幸に与えられたが、沼田領は昌幸の長男の信幸が半独立での城主とされ、同時に徳川氏の与力大名とされた。
7月16日、秀吉は小田原城を出発した。[45]秀吉はその後、奥州を平定した源頼朝に倣って、鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り鶴岡八幡宮に奉幣した。
19日に江戸城着、20日に出発。7月26日、同じく頼朝に倣って宇都宮大明神に奉幣して宇都宮城へ入城し1週間ほど滞在、関東および奥州の諸大名の措置を下した(宇都宮仕置)。その後、豊臣家の大軍勢は伊達政宗の案内により、北上し陸奥国へ向かった。
8月中の奥州仕置を終え、8月12日に会津黒川城を発した秀吉は、駿河国清見寺、22日に駿府城、掛川城、清州城などを経て畿内に向かった。
9月1日、天下を手にした豊臣秀吉は京に帰還した。[74]
1783年 – 浅間山の天明大噴火が発生。翌日にかけて溶岩流が発生し、噴出物の堆積で洪水が生じるなど関東平野一帯にも甚大な被害をもたらす。死者は1,151人、家屋の損壊は1,000棟以上[2]。
1945年-沖縄戦8月4日・8月4日、米軍は北部掃討作戦をいったん終了する。多くの地域に潜伏する敗残兵がいたが、そのほとんどが実質的な抵抗力もないと判断されたためである。敗残兵は、「国頭突破」や「日本軍再上陸」を夢見て、ただただ飢餓との戦いを続けるのみであった。<引用先原文>・65年前のきょう (8月4日) アメリカ軍はほとんどの日本兵の掃討を終えたと判断。北部地区の掃討作戦完了を宣言。しかし、その後も北部敗残兵の潜伏は続き、彼らの多くが投降に応じたのは10月初旬になってからのことです。
この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなりました。<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年8月4日(土)>・米軍は住民を「軍政府」(Military Government) と呼ぶ12の民間人収容所に収容し、その中に、身寄りのない子どもを収容する「孤児院」や身寄りのない高齢者を収容する「養老院」の区域を設置した。<引用先原文>・日本兵に襲撃され重傷となり胡座野戦病院に移送された女性の証言
南部の戦場から、次々と幼児だけがトラックで運びこまれた。親と死別したらしい乳幼児、放棄されて道端で泣きじゃくっていた幼児、幾日も親とはぐれて戦場をさまよい歩いていた飢えた子、裸のままベットに寝かされ、下痢をするたびに水で洗い流されているようすに胸が痛くなる。ほとんどの子どもが栄養失調と下痢のため短い生涯を閉じていった。<知念地区 久手堅収容所 ~ 日本兵の襲撃 ~ 胡座の野戦病院と孤児院 – Battle of Okinawa>・昭和高等女学校から梯梧学徒隊に動員、その後孤児院で働いた稲福マサさんの証言
着る着物、着替えもなくて裸の子どもたち。あとになって5年生見てるんですけどね。子どもたちがね、もう着替えもないんですよ。8畳ぐらいの部屋を4つに区切ってですね、マス状態に、そこに何名か寝かすわけじゃないですか。裸。この子どもたちが1人、うんこしたりしっこしたりしますでしょ。これ、一緒のマスの中にいる5、6人の子どもたちみんな汚れてしまうんです。朝は、この子どもたちに浴びせるのが最初の仕事です。それで、ご飯食べる前に一応、子どもたちきれいにして、あれしたんですけど。子どもたちはね毎日毎日、何名か亡くなっていくんですけど、それは庭にむしろと言うよりは、昔、ヌクグーというのがあったじゃないですか、大きいの敷いてたんです。暑いから子どもたちが部屋から出てきて、夜露に打たれるわけなんですよ。うたれて亡くなってるのが、毎日5、6名は亡くなっていましたね。着替える着物もない、おなかこんなですよ。もう栄養失調で。<稲福 マサさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス>・【沖縄戦の絵】「集められた小さななきがら」
米軍の捕虜となった人々のうち、家族を亡くした大勢の子どもたちが、沖縄市に残っていた赤瓦の民家に収容された。食糧もなく赤痢が流行し毎日のように子どもや障害者が栄養失調で亡くなった。朝になると子どもの遺体があちこちに転がっていて、大きなシートに集められた。沖縄市の嘉間良周辺に穴が掘られ、1か所に葬られたようだった。<集められた小さななきがら | 沖縄戦の絵 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局>・けがの治療を受けている子どもたち。数日前まで一緒にいた親や兄弟は、彼らの目の前で、どんな運命をたどったのか。傷ついたのは、体だけではありません。沖縄戦では、孤児院は全体で11か所設置されましたが収容された子どもの実数はわかっていません。
子供はどんどん運ばれてくるものの、面倒を見る人も食糧も圧倒的に不足していて、お粥も出せず、ミルクだけの日々もあったいうことです。そのためほとんどが栄養失調による下痢を発症し、衛生状態は「豚の飼育小屋」以下だったという証言もありました。
戦後、状況が落ち着くにつれ、多くが血縁者などに引き取られて行きましたが、戦後8年たった調査ではまだ3000人が孤児院に残っていました。<65年前のきょうは1945年5月10日 – QAB NEWS Headline>
1957年 – 北海道三笠市の新幌内炭鉱で落盤事故。死者6人、重傷者2人[8]。
1957年 – 愛知県瀬戸市で住宅裏の斜面が崩落。死者・行方不明者22人、重傷者8人、住宅9戸と工場1棟が倒壊。
2019年 – アメリカオハイオ州デイトンの繁華街で銃乱射事件が発生。死者9人、負傷者27人。犯人の大学生は現場で射殺された[18]。
2020年 – 2020年ベイルート爆発事故発生[19]。死者218人。
ベイルート港爆発事故(ベイルートこうばくはつじこ、阿: 2020 انفجار بيروت)は、2020年8月4日18時頃(現地時間)に、レバノンの首都ベイルートにあるベイルート港で発生した爆発事故[1][2][3]。
この爆発により都市の半分以上が被害を受け、218人が死亡、7,000人以上が負傷し、最大で30万人が家を破壊されて住む場所を失った[4][5]。レバノン総合治安局長は、「今回の主な爆発は、政府によって没収され、過去6年間港に保管されていた約2750トンの硝酸アンモニウムと関連している」と述べた[6]。
チャットgpt先生の8月4日のエッセイ
8月4日――勝者が秩序を書き換える日
8月4日に並ぶ出来事を眺めると、一つの構造が浮かび上がる。それは「決着がついた後の処理」が歴史を決めるという事実である。
1265年、イーヴシャムの戦い。シモン・ド・モンフォール軍は数で劣り、包囲され、戦闘というより殲滅となった。総司令官は戦死し、その遺体は切り刻まれた。同時代人が「戦闘ではなく殺人だった」と記したのは、戦術ではなく権力の回復が目的だったことを示している。反乱勢力は軍事的に消滅するだけでは足りず、象徴まで破壊されることで再起の可能性を絶たれた。
1578年のアルカセル・キビールでも構図は似ている。若きポルトガル王セバスティアン1世は遠征軍を率いたが、圧倒的兵力差の中で敗北し戦死した。この敗北は単なる会戦の失敗ではなく、王位継承問題を引き起こし、やがてポルトガルはスペイン王家の支配下へ入る。戦場で失われたのは軍隊だけではなく、国家の独立した政治体制だった。
1590年、小田原城開城もまた同じである。戦場では十五万を超える豊臣軍と八万の北条軍が対峙したが、歴史を決めたのは開城後だった。北条家当主氏直は助命される一方、氏政・氏照らは切腹となり、徳川家康は関東へ移封される。さらに奥州仕置へと続く一連の人事と領地再編によって、日本列島の政治地図そのものが書き換えられた。戦争の勝敗よりも、戦後の配置転換の方がはるかに長期的な影響を持ったのである。
1783年の浅間山天明噴火は、人間同士の戦いではない。しかし構造は共通する。噴火そのものだけではなく、その後の火砕流、泥流、河川閉塞、洪水、農地の消失が被害を拡大させた。災害は瞬間の爆発では終わらず、二次・三次の連鎖によって社会を破壊する。
1945年8月4日の沖縄も、「終わらない終戦」の一日だった。米軍は北部掃討作戦の終了を宣言したが、多数の敗残兵は潜伏を続けた。指揮系統を失った部隊は統一した軍事行動を取れず、飢餓の中で時間だけが過ぎていく。一方で民間人は収容所へ移され、孤児や負傷者が急増した。軍事的には戦闘能力が消滅していても、人道的・行政的な処理は始まったばかりだった。戦争は前線が静まっても終わらないことを示している。
1957年の炭鉱落盤事故、瀬戸市の斜面崩落も同様である。一瞬の崩壊に見えるが、その背景には地質、掘削、降雨、地盤といった長期間蓄積された条件が存在する。事故は突然起きるようでいて、構造的には長い準備期間を経ている。
2019年のデイトン銃乱射事件は数分で終結した。しかし都市機能、警備体制、社会的不安は事件後も長く残る。
2020年のベイルート港爆発も爆発そのものではなく、その前の六年間が本体だった。大量の硝酸アンモニウムが港に保管され続け、行政の停滞が積み重なった結果、一瞬で都市の半分以上が損壊した。巨大事故とは、長期間蓄積されたリスクが短時間で顕在化する現象である。
こうして8月4日を見渡すと、共通するのは「結果は瞬間に見え、原因は長期間に存在する」という歴史の法則である。
戦場では包囲が完成した時点で勝敗は決まり、その後は掃討になる。国家では王が倒れた後に体制が変わる。城が開けば領土が再編される。噴火の後に社会が崩れ、爆発の後に都市が止まり、戦争の後に行政が始まる。
歴史は決戦の日を記録する。しかし実際に時代を動かすのは、その前に積み重ねられた条件と、その後に実施される処理である。
8月4日は、その「処理」が歴史そのものになる一日として並んでいる。

