kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月1日 1944ワルシャワ蜂起殲滅、ほかwikipedia兵士に火炎放射される市街

8月1日

20260801土曜日旧暦6月19日赤口(44番丁未ひのとひつじテイビ)月齢 17.7

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじイツビ 44番丁未ひのとひつじ日

吉方位 隠遁日 丁未ひのとひつじ日 南西 大吉 年末まではあと152日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%881%E6%97%A5

8月1日の出来事

1798年 – エジプト・シリア戦役: ナイルの海戦が行われイギリスが勝利、地中海の制海権を掌握。

時             1798年7月1日 – 1801年9月2日

(3年2ヶ月1日間)

場所        エジプト, レバント

結果       

オスマン・イギリスの勝利

フランスがエジプトを征服、マムルークの統治の終焉

フランスのシリアへの遠征の失敗

エジプトでのフランス統治の終了

損害 オスマンイギリス連合軍 22+3万人 死傷捕虜65000人 フランス軍 4万人中 

死傷捕虜23000人

1828年 – マダガスカル島のメリナ王国で、前王ラダマ1世の第一夫人ラナヴァルナ(英語版)が、自分より王位継承順位が上の夫の親族を皆殺しにした上で国王に即位。

1944年 – 第二次世界大戦 ワルシャワ蜂起: ポーランド地下軍とワルシャワ市民がドイツ占領軍に対して蜂起。ソ連及び西側の援助が乏しく、20万人が死亡し全市が破壊された。同年10月2日降伏。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 長岡空襲。死亡1488人。

1945年-沖縄戦8月1日・米軍は12の収容所地区に住民を強制収容し、中南部の収容所からさらに北東部の収容所に住民を移送した。この時期、捕虜が主として基地建設の労働力として使役されていたため、捕虜収容所は米軍の拠点の内外、楚辺・嘉手納、普天間、奥武山、小禄に置かれる一方、民間人収容所はできるだけ基地建設の現場から遠ざけるように北へ北へと押しやられた。<引用先原文>・米陸軍公刊報告書からの翻訳

【訳】この変更が沖縄島と伊江島にかなりの衝撃を与えた。もともとは沖縄島と伊江島にあわせて10の飛行場を建設する予定だったものが、沖縄島に18の滑走路、伊江島に4つの滑走路が計画された。5月末までに、22の滑走路のうち10が建設中であり、沖縄の基地展開計画で求められていた建設は戦闘の終わりまでに完了しなかったが、その基地建設はますます多くの地所を接収することとなり、おもに島の北部の荒れ果てた小さな区域に民間人の居住を限定することとなった。

これらの進展を懸念するあるオブザーバーは、戦術部隊が軍事施設のために沖縄島の多くを占有したため、「現住民のためのスペースは実質的にひとつも残っていなかった」と述べている。避難民に割り当てられた地域は、戦術部隊のニーズが拡大するにつれて変化し続けた。多くの地域で、避難民の絶え間ない移動が作物の植え付けを完全に妨害し、その結果、食糧事情の悪化の一因となった。民間人が地方の共同体を擁することのできないような小さな点在するポケットにどんどん追い込められていくなか、軍政府のチームはほとんどそうした民間人の状況には対処することはなかった。

… これらの民間人避難者が移送された軍政地域は、沖縄島の陸地の約10%に過ぎず、その割合のうち、おそらく半分は定住目的にはまったく不向きな土地であった。

この困難な時期を通して、沖縄県民は苦難にもかかわらず冷静で協力的であり続けた。そしてそこに苦しみと苦悩苦しみがあった。たとえば、6月22日、881人の避難者がトラックで久志に輸送されていた際、1台のトラックが数十人をのせ、その中で3人の死者、つまり2人の子供と1人の年配女性が死んだ状態で到着した。《Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. Center of Military History United States Army, Washington, D.C., 1988. P. 57-59》・読谷村牧原からヤンバルに疎開した看護師の女性の証言

こうして、隣組のみなさんと一緒に喜如嘉の集落まで下りてきました。そこで男女に分けられ、男の人達はそのまま一週間ぐらい何処かに連れていかれました。女の人達だけが、部落に残されました。しばらくして、喜如嘉の国民学校が収容所となり、そこへ移りました。そこでは配給がありましたが、その配給だけではとても足りませんでした。その後、喜如嘉は爆撃に遭わずに済んだので、戦前の綺麗な家がたくさんあって、そこにみんなが分宿するようになっていました。浦添の方々もいらしたことを覚えています。…

収容所での多くの人々の死

収容所内の病院では、喜如嘉の出身で平良※※先生という六十歳余りの医師(せんせい)が、子供達を診察しておられました。そこで、私は看護婦でしたと言ったら、「じゃ、あなた手伝いに来なさい」という事で、そこに勤めることになりました。病院では、薬品は米軍支給品で、名前も英語で書かれていたので、先生に「これは、ビタミン剤、これは何々だよ」と教えてもらいました。

子供達は、ほとんどが栄養失調でした。生きていても、皮膚に黒い斑点が出ており、肉が腐っていたのです。これは、ピンセットで取るとすぐ取れましたが、子供達も生きながらにして皮膚が腐っているという状態でした。また噛む力もなく、お腹も膨れ上がって、毎日バタバタと亡くなっていきました。大人もウシヌクブー(後頭部)がすごくへっこんでいました。見ると、体の上にかろうじて頭が付いているというぐらいで、次々と亡くなっていきました。

 毎日、多くの死体が荷車に積み上げられて、近くの浜で埋葬されていました。そんな状態が続くと、死ぬことも恐くなくなるもので、いつか自分達もこんなふうになるという気持ちで、死者に手を合わすという事もしないようになっていました。涙も出なくなり、「アイヤー、今日も亡くなられたんだねー」という状況の中で、親戚のおじいちゃん、おばあちゃん達も亡くなり、向こうの浜に埋葬されました。<読谷村史 第五巻資料編4 『戦時記録』 上.>

1953年 – 衆議院の予算審議で右派社会党の堤ツルヨ議員が「断末魔の自由党」と野次ったのに対し、自由党の有田二郎議員が「だまれパン助」と応酬。女性蔑視として問題化。

1955年 – 墨田区厩橋近辺の花火問屋で爆発事故。住民18人が犠牲となり、80名以上が負傷。

1962年 – 昭和37年台風第9号が沖縄県に接近。その後、九州西方の海上を北上して宮崎県、鹿児島県に豪雨をもたらし、死者・行方不明37人などの被害[13]。

1966年 – テキサスタワー乱射事件。死亡15名。負傷31名。

1967年 – 西穂高岳落雷遭難事故: 西穂高岳から下山中の高校生、教員合わせて46人が落雷に遭い、11人が死亡、13人が負傷した[14]。

1989年 – 神奈川県川崎市高津区の住宅地で、集中豪雨による土砂崩れが発生し、住民3人が生き埋めになる。救助活動中に再度土砂崩れが発生、消防士3人が犠牲となり、被災者は合せて死者6人、負傷者12人となった[15]。

1993年 – 鹿児島県霧島市、姶良郡で記録的豪雨(8.1豪雨)。死者23人。

2004年 – パラグアイの大型スーパー「イクア・ボラーニョス」で大火災が発生。400人以上が死亡。

2007年 – ミネアポリス高速道路崩落事故: アメリカ・ミネソタ州のミネアポリスでミシシッピ川に架かる高速道路の橋が崩落、多数の死傷者が出る。死者13人負傷者      145人

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1798年 – エジプト・シリア戦役ナイルの海戦が行われイギリスが勝利、地中海の制海権を掌握。

時             1798年7月1日 – 1801年9月2日

(3年2ヶ月1日間)

場所        エジプト, レバント

結果       

オスマン・イギリスの勝利

フランスがエジプトを征服、マムルークの統治の終焉

フランスのシリアへの遠征の失敗

エジプトでのフランス統治の終了

損害 オスマンイギリス連合軍 22+3万人 死傷捕虜65000人 フランス軍 4万人中 

死傷捕虜23000人

1828年 – マダガスカル島のメリナ王国で、前王ラダマ1世の第一夫人ラナヴァルナ(英語版)が、自分より王位継承順位が上の夫の親族を皆殺しにした上で国王に即位。

ラダマ1世は慢性的な酒の飲みすぎが原因で世を去ったと言われている[9]:42。彼の第一夫人が女王ラナヴァルナ1世(英語版)として即位した[9]:45。ラナヴァルナ1世に対する同時代のヨーロッパ人の評判はよくない。理由は彼女がキリスト教の布教を禁じ、領内にいたほとんどの西洋人を追放したためである[9]:61,74。その一方で、ジャン・ラボルド(英語版)のように宮廷に残ることを許された西洋人は事実として存在し、1836年にはイギリスに外交使節も送っている。女王の30年余りの治世は、イギリスとフランスの間でマダガスカルの主権を保つための苦闘の連続であった[11]。女王の人となりはサヴィカ(ゼブの闘牛)を好み、晩年はたびたび輿に乗って野原へ出かけ、庶民に混じって闘牛を見物したという。なお、通説では、ラダマ1世は開明的で進歩的であったのに対し、ラナヴァルナ1世は保守的で頑迷な君主であったと理解されてきたが、ラダマは1825年の時点で既に、イギリスとの同盟が実利を生まず、イギリス帝国主義がメリナ王国をモーリシャス総督の劣位において支配下に置こうとしていることに気づき、アウタルキーを志向する政策の転換を行い、ラナヴァルナはラダマの方針を引き継いだだけという説も提出されている[11]。

1944年 – 第二次世界大戦 ワルシャワ蜂起

: ポーランド地下軍とワルシャワ市民がドイツ占領軍に対して蜂起。ソ連及び西側の援助が乏しく、20万人が死亡し全市が破壊された。同年10月2日降伏。

損害

ポーランド蜂起軍

戦死 15,200

行方不明 5,200 – 6,000

戦病死 5,000

捕虜 15,000

ベーリンク第1軍団

死傷者 5,660

150,000-200,000人の民間人が死亡、70万人がワルシャワから追放

その後、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民を合わせて約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われる。しかし、イギリス政府がワルシャワのレジスタンスを処刑した者は戦犯とみなすとラジオを通して警告したため、レジスタンスへの処刑は止んだ。10月2日、国内軍はドイツ国防軍に降伏し、蜂起は完全に鎮圧された。翌日、ワルシャワ工科大学に国内軍は行進し、降伏式典の後、武装解除された。降伏した国内軍は、捕虜として収容所に送られた。しかし、武装解除に応ぜず、地下に潜伏して抵抗を続ける者も多かった。

市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。また、蜂起に巻き込まれた約200名のドイツ人民間人が国内軍に処刑されたと言われている。国内軍は1万6000人、ドイツ軍は2000名の戦死者を出した。

一連の戦闘により、ワルシャワの市街地はほぼ完全に破壊され、歴史的建造物や文書などの文化遺産の多くが失われた。ワルシャワの再建には長い年月を要することとなる。

ソ連軍の進駐

赤軍は1945年1月12日、ようやく進撃を再開。1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、赤軍はレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。

生き残った少数のレジスタンスは郊外の森に逃げ込み、ソ連進駐後は裏切った赤軍を攻撃目標とするようになった。1950年代頃まで「呪われた兵士」と呼ばれた森の反共パルチザンとして生き残り、共産政府樹立後も政府要人暗殺未遂などしばらく混乱が続いた。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 長岡空襲。死亡1488人。

被害状況

長岡空襲で焼け野原となった長岡市の中心部。表町通りから六十九銀行をのぞむ[1]。

罹災時の人口 – 74,508人(1945年7月)

爆撃機の数 – B29爆撃機125機(テニアン島第313航空団)

投下爆弾量 – 924.3トン(各種焼夷弾163,456発)

死者数 – 1,488人(長岡市確認分。2019年1月17日時点)[5]

罹災戸数 – 11,986戸

1945年-沖縄戦8月1日・米軍は12の収容所地区に住民を強制収容し、中南部の収容所からさらに北東部の収容所に住民を移送した。この時期、捕虜が主として基地建設の労働力として使役されていたため、捕虜収容所は米軍の拠点の内外、楚辺・嘉手納、普天間、奥武山、小禄に置かれる一方、民間人収容所はできるだけ基地建設の現場から遠ざけるように北へ北へと押しやられた。<引用先原文>・米陸軍公刊報告書からの翻訳

【訳】この変更が沖縄島と伊江島にかなりの衝撃を与えた。もともとは沖縄島と伊江島にあわせて10の飛行場を建設する予定だったものが、沖縄島に18の滑走路、伊江島に4つの滑走路が計画された。5月末までに、22の滑走路のうち10が建設中であり、沖縄の基地展開計画で求められていた建設は戦闘の終わりまでに完了しなかったが、その基地建設はますます多くの地所を接収することとなり、おもに島の北部の荒れ果てた小さな区域に民間人の居住を限定することとなった。

これらの進展を懸念するあるオブザーバーは、戦術部隊が軍事施設のために沖縄島の多くを占有したため、「現住民のためのスペースは実質的にひとつも残っていなかった」と述べている。避難民に割り当てられた地域は、戦術部隊のニーズが拡大するにつれて変化し続けた。多くの地域で、避難民の絶え間ない移動が作物の植え付けを完全に妨害し、その結果、食糧事情の悪化の一因となった。民間人が地方の共同体を擁することのできないような小さな点在するポケットにどんどん追い込められていくなか、軍政府のチームはほとんどそうした民間人の状況には対処することはなかった。

… これらの民間人避難者が移送された軍政地域は、沖縄島の陸地の約10%に過ぎず、その割合のうち、おそらく半分は定住目的にはまったく不向きな土地であった。

この困難な時期を通して、沖縄県民は苦難にもかかわらず冷静で協力的であり続けた。そしてそこに苦しみと苦悩苦しみがあった。たとえば、6月22日、881人の避難者がトラックで久志に輸送されていた際、1台のトラックが数十人をのせ、その中で3人の死者、つまり2人の子供と1人の年配女性が死んだ状態で到着した。《Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. Center of Military History United States Army, Washington, D.C., 1988. P. 57-59》・読谷村牧原からヤンバルに疎開した看護師の女性の証言

こうして、隣組のみなさんと一緒に喜如嘉の集落まで下りてきました。そこで男女に分けられ、男の人達はそのまま一週間ぐらい何処かに連れていかれました。女の人達だけが、部落に残されました。しばらくして、喜如嘉の国民学校が収容所となり、そこへ移りました。そこでは配給がありましたが、その配給だけではとても足りませんでした。その後、喜如嘉は爆撃に遭わずに済んだので、戦前の綺麗な家がたくさんあって、そこにみんなが分宿するようになっていました。浦添の方々もいらしたことを覚えています。…

収容所での多くの人々の死

収容所内の病院では、喜如嘉の出身で平良※※先生という六十歳余りの医師(せんせい)が、子供達を診察しておられました。そこで、私は看護婦でしたと言ったら、「じゃ、あなた手伝いに来なさい」という事で、そこに勤めることになりました。病院では、薬品は米軍支給品で、名前も英語で書かれていたので、先生に「これは、ビタミン剤、これは何々だよ」と教えてもらいました。

子供達は、ほとんどが栄養失調でした。生きていても、皮膚に黒い斑点が出ており、肉が腐っていたのです。これは、ピンセットで取るとすぐ取れましたが、子供達も生きながらにして皮膚が腐っているという状態でした。また噛む力もなく、お腹も膨れ上がって、毎日バタバタと亡くなっていきました。大人もウシヌクブー(後頭部)がすごくへっこんでいました。見ると、体の上にかろうじて頭が付いているというぐらいで、次々と亡くなっていきました。

 毎日、多くの死体が荷車に積み上げられて、近くの浜で埋葬されていました。そんな状態が続くと、死ぬことも恐くなくなるもので、いつか自分達もこんなふうになるという気持ちで、死者に手を合わすという事もしないようになっていました。涙も出なくなり、「アイヤー、今日も亡くなられたんだねー」という状況の中で、親戚のおじいちゃん、おばあちゃん達も亡くなり、向こうの浜に埋葬されました。<読谷村史 第五巻資料編4 『戦時記録』 上.>

1953年 – 衆議院の予算審議で右派社会党の堤ツルヨ議員が「断末魔の自由党」と野次ったのに対し、自由党の有田二郎議員が「だまれパン助」と応酬。女性蔑視として問題化。

1955年 – 墨田区厩橋近辺の花火問屋で爆発事故。住民18人が犠牲となり、80名以上が負傷。

1962年 – 昭和37年台風第9号が沖縄県に接近。その後、九州西方の海上を北上して宮崎県、鹿児島県に豪雨をもたらし、死者・行方不明37人などの被害[13]。

1966年 – テキサスタワー乱射事件。死亡15名。負傷31名。

概要

1966年8月1日正午、元海兵隊員で、テキサス大学の大学院生であるチャールズ・ホイットマンがテキサス大学オースティン校本館時計塔にM1カービン銃、レミントンM700狙撃ライフル等の銃器、立て籠もりのための食料等を持ち込み、受付嬢や見学者を殺害した後に同時計塔展望台に立て籠もり、眼下の人を次々に撃ち始めた。

事件の一報を受けたオースティン警察が出動するも、90mもの高さを利用した射撃に歯が立たず、警察が地下水道からタワーに侵入してチャールズを射殺するまでの96分の間に警察官や一般市民など15名の犠牲者(犯人のチャールズを含まず。当時腎臓を撃たれて重い障害が残り、後に死亡した1名と、被害者の1人の胎内にいた胎児を含めて16名ないし17名とする場合もある)、31名の負傷者を出す等、2007年4月16日にバージニア工科大学銃乱射事件が起きるまで最悪の学校銃乱射事件となった。

1967年 – 西穂高岳落雷遭難事故: 西穂高岳から下山中の高校生、教員合わせて46人が落雷に遭い、11人が死亡、13人が負傷した[14]。

事故の影響

登山中のみならず、通常の落雷事故としても一度にこれほどの死者・負傷者が出た前例はなかったため、新聞各紙が一面で報じるなど大々的に報道され、全国に衝撃を与えた。学校登山の歴史に残る大惨事であり、長野県下ではこの事故の影響で登山行事を一時的に中止、または廃止した学校も少なくない。

事故後当時は引率教員の責任を問う声も一部あったが、最終的に警察は過失責任を問わなかった。

事故の2年後に作成された調査報告書では、山岳部員ではない一般生徒を多数含む登山であるためより一層の慎重さを求められるにもかかわらず、引率教員の気象知識と経験不足から事前に引き返す判断が下せなかったことを批判している。更に過去には森林が広がっていて比較的安全とされる大滝山や蝶ヶ岳が登山先に選ばれたことがあったにもかかわらず、より難易度が高い独標である西穂高岳を選ぶケースが過去も含めて多いことにも疑問を呈している[7]。しかし、前述のように警察はこうした教員の判断にはやや疑問を呈しつつも、事故直前には下山を急ぐように動いているなど、刑事罰を問えるほどの故意・過失はなかったと判断したため、刑事処分は下されなかった[6]。

1989年 – 神奈川県川崎市高津区の住宅地で、集中豪雨による土砂崩れが発生し、住民3人が生き埋めになる。救助活動中に再度土砂崩れが発生、消防士3人が犠牲となり、被災者は合せて死者6人、負傷者12人となった[15]。

1993年 – 鹿児島県霧島市、姶良郡で記録的豪雨(8.1豪雨)。死者23人。

2004年 – パラグアイの大型スーパー「イクア・ボラーニョス」で大火災が発生。400人以上が死亡。

2007年 – ミネアポリス高速道路崩落事故: アメリカ・ミネソタ州のミネアポリスでミシシッピ川に架かる高速道路の橋が崩落、多数の死傷者が出る。死者13人負傷者      145人

ミネアポリス高速道路崩落事故(ミネアポリスこうそくどうろほうらくじこ)は、2007年8月1日にミネソタ州州都セントポールと同州最大の都市ミネアポリス間のミシシッピ川に架っていた州間高速道路35W号線(I-35W)ミシシッピ川橋が崩落した事故である。

この橋は1967年に開通し、8車線で一日に約14万台の車が往来する[3]、ミネソタ州で3番目に交通量の多い鋼鉄製トラス橋だった[4][5]。夜のラッシュ時に崩落事故が起こり、13人が死亡、145人が負傷した。国家運輸安全委員会は崩落を起こした可能性として設計不備を挙げており、薄すぎるガセットプレート[注釈 1]がリベットの列に沿って裂けてしまい、と同時に追加の重量がこの橋にかかったために崩落事故が起こったと指摘した[6]。

チャットgpt先生の8月1日のエッセイ

7月24日 構造で見る歴史――「結果は準備の総量で決まる」

歴史を眺めると、劇的な一日が世界を変えたように見える。しかし現実には、その一日は長期間積み重なった構造が限界点に達した瞬間であることが多い。

8月1日に起きた出来事を並べると、その共通点が見えてくる。

1798年のナイルの海戦は、一度の海戦で終わった話ではない。イギリス海軍は補給、航海術、艦隊運用、情報収集という長年の積み重ねを背景に地中海の主導権を握った。戦術よりも、戦略を支える継続的な仕組みが勝敗を決めた。

1828年、マダガスカルでは王位継承の競争が大量粛清へ発展した。王位とは制度であり、制度が未成熟であれば継承は個人の能力ではなく武力と恐怖で決着する。権力の移行手段を制度化できるか否かで国家の安定性は大きく変わる。

1944年のワルシャワ蜂起も、勇気だけでは結果を変えられなかった。軍事行動は補給、外交、同盟国の意思、地理的条件が揃って初めて成功率が上がる。現場の意思と外部環境が噛み合わなければ、戦術的努力は戦略的孤立に変わる。

1945年の長岡空襲、沖縄での収容政策も同じである。都市爆撃も基地建設も、個々の攻撃ではなく、兵站と輸送能力を背景にした大規模な運用で実現された。現場では悲劇として現れるが、背後には膨大な物資、工業力、輸送網、行政能力が存在している。

戦後の沖縄では住民が基地建設計画に合わせて再配置された。そこでは個人の生活よりも、軍事インフラの効率が優先された。巨大組織は感情ではなく目的関数によって動く。その目的関数が変わらない限り、現場の事情だけでは流れを止めることは難しい。

1955年の花火問屋爆発、1962年の台風災害、1967年の西穂高岳落雷遭難、1989年の土砂災害、1993年の8・1豪雨、2007年のミネアポリス橋崩落も、原因はそれぞれ異なるようで共通項がある。

危険は単独では現れない。

危険物の集中。
老朽化。
異常気象。
判断の遅れ。
設計余裕の不足。
利用量の増加。

複数の要因が同時に重なった時、事故は突然起きたように見える。

橋は崩落する日だけが問題ではない。設計時の判断、補修の優先順位、交通量の増加、追加工事、そのすべてが数十年間蓄積され、最後の荷重が引き金になっただけである。

これは国家にも企業にも個人にも当てはまる。

普段は見えない蓄積こそが結果を決める。

成功も失敗も、ある日突然始まるわけではない。毎日の選択が見えない形で積み重なり、ある一点で表面化する。

歴史が示しているのは、「運命の日」が存在することではない。

存在するのは、長期間積み上がった構造が臨界点を迎える日である。

その構造を理解する者は、一つの事件だけで判断しない。背景の補給、制度、資源、人口、工業、生産、情報、地理まで視野を広げる。

一日の出来事は歴史の答えではない。

それは長い時間をかけて書かれた計算式の、最後の一行なのである。