7月22日
20260722水曜日旧暦6月9日友引(34番丁酉ひのととりテイユウ)月齢 7.7
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 34番丁酉ひのととり日
吉方位 隠遁日 丁酉ひのととり日 北 西 北西 大吉 年末まであと162日
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7月22日の出来事
1802年 – ベトナムの阮福映(嘉隆帝)がハノイを攻略して西山朝を滅ぼし、新王朝阮朝を開く。
1805年 – ナポレオン戦争: フィニステレ岬の海戦。
戦争:ナポレオン戦争
年月日:1805年7月22日
場所:スペインのフィニステレ岬沖
結果:イギリスの勝利
損害:イギリス軍 戦死傷198人 フランス軍 戦死傷476人
1812年 – 半島戦争: サラマンカの戦い。
時 1812年7月22日
場所 スペイン・サラマンカ・アラピレス(英語版)
結果 同盟軍の決定的な勝利[1]
損害 イギリス スペイン同盟軍 5万人中 戦死5000人強 フランス軍 5万人中戦死6000人 捕虜7000人。
1864年 – 南北戦争: アトランタの戦い。
時 1864年7月22日
場所 ジョージア州フルトン郡
結果 北軍の勝利
損害 北軍 3641人戦死 南軍 8499人戦死
1910年 – 大阪商船の大連発の鉄嶺丸が出航直後の竹島燈台附近で沈没。死者200人以上。
1916年 – ムーニー事件。サンフランシスコで行われたデモで官憲の謀略により爆裂弾が破裂し9人死亡。犯人として労働運動の指導者トマス・ムーニーらが逮捕される。
1921年 – 第3次リーフ戦争: アンワールの戦いでスペイン軍がリーフ共和国軍に敗退。
戦争:リーフ戦争
年月日:1921年7月22日
場所:北アフリカ・アンワール周辺
結果:スペイン軍の大敗、リーフ軍の決定的勝利
損害:スペイン軍 13363人戦死 リーフ軍 1000人以下戦死
1945年-沖縄戦7月22日・1945年の沖縄戦に米軍は11の飛行場と20あまりの小飛行場を建設した。そのいくつかは日本軍の飛行場を接収し拡張したものもあるが、新たに建設したものもある。
牧港飛行場
日本陸軍の特攻用滑走路「仲西飛行場」は建設放棄された後、米軍に接収され 6月1日から牧港飛行場として再建設が開始された。後の米軍牧港補給地区となる。1946年には牧港飛行場は兵站基地化し、1968年1月8日には米国民政府が移転した。<引用先原文>・(1945年) 7月22日対敵諜報隊(CIC=Counter Intelligence Corps)からの報告によれば、日本海軍将校のワタナベ大尉(Lt.)という者が、大浦崎キャンプ[辺野古]において匿われていたということである。地元住民から構成される政治組織の一部の者達も、ワタナベ大尉の存在を認識しており(黙っていようと)合意していたということである。(翻訳・保坂廣志)
彼は軍人として捕まることを恐れ、民間人を装って辺野古大浦崎の難民キャンプにいたのだ。しかも、命令を聞く住民のグループに、くれぐれも日本軍将校であることを伏せるよう口裏合わせをし、地元民の格好をしてかくまってもらっていた。《三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史』 集英社 (2020/2/22) 》・私らは、女性ばっかりでしたので、こわくなって、みんな一緒に、木の繁みの中へ逃げ込んで様子をみていました。アメリカ兵三人のうち、一人が上半身、はだかになって、銃は持ったまま、娘を追いかけ回わして、つかまえては、また歩けと背をついて娘が逃げだすと、また銃を置いて、追いかけ回わしてはつかまえるということをくりかえしておりました。二人のアメリカ兵は、丘の上の方から、それをじっとみつめていました。その娘は、「アヤーヨ、アヤーヨン(お母さん、お母さん!)」と泣き叫びながら、逃げまわっておりましたので、私は、それをきくと助けてあげたいが私たちもみんな女ばっかりだからどうにもならないでしょう、と心の中でそういいました。私たちが、ひそんでいるところからは、見えないところへ追い込んだかと思うと、突然「ズドーン」という鉄砲の音がしたので、娘を強かんするつもりで、あんなに追いかけているものと思っていたら、殺してしまったんだと思い恐ろしくなって、島の東側の海岸近くにある「グスク(城跡)」の方へ逃げて、夕暮れまで、みんな隠れていました。<戦争証言「ある娘の虐殺事件」中部離島『沖縄県史』 – Battle of Okinawa>
1954年 – キャセイ・パシフィック航空機撃墜事件。乗客13名のうち10名死亡。
1999年 – 中華人民共和国政府が法輪功を全面禁止。
収監数百万人 死者4000人以上 臓器移植流用疑い。
2007年 – フランス東部グルノーブル近郊の山道で、ポーランド人巡礼者ら60人を乗せたバスが川のほとりに転落し炎上、26人が死亡した[10]。
2011年 – ノルウェーのオスロとウトヤ島で連続テロが起こり、77名が犠牲となる。(ノルウェー連続テロ事件)
2018年 – アフガニスタンの首都カブールの空港で、副大統を狙った自爆テロと思われる爆発があり、11人が死亡、14人が負傷した[11]。
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1802年 – ベトナムの阮福映(嘉隆帝)がハノイを攻略して西山朝を滅ぼし、新王朝阮朝を開く。
阮朝
阮朝(げんちょう、グエンちょう、ベトナム語:Nhà Nguyễn / 茹阮)は、1802年から1945年にかけて存在したベトナムの王朝である。1887年10月17日から1945年3月10日にかけて、フランス領インドシナの一部としてフランスの支配下にあった。
日中戦争が激化すると、日本軍は大南から蔣介石率いる国民政府への輸送ルート(いわゆる援蔣ルート)を遮断すべく、フランス領インドシナに進駐した(仏印進駐)。日本軍が駐屯を続ける中、フランス領インドシナ政府による統治も継続された。1945年3月11日、日本軍はインドシナ政府の武力制圧作戦を発動(明号作戦)、保大帝はフランスからの独立を宣言した(ベトナム帝国)。しかし、まもなく訪れた日本の敗戦により、社会主義勢力主導のベトナム八月革命が起こり、8月30日には順化の皇宮で退位式典を行い保大帝は退位(英語版)、ここに143年に及ぶ阮朝は滅亡することとなった。保大帝はベトナム国元首を経て1955年にフランスへ亡命し、以降一族はフランスに居住している。
嘉隆帝(かりゅうてい[1]、ベトナム語: Gia Long đế (ジャーロン・デー))は、阮朝(現在のベトナム)の初代皇帝(在位: 1802年 – 1820年)。諱は阮福映(げん ふくえい[1]、グエン・フック・アイン、ベトナム語: Nguyễn Phúc Ánh、「阮福映」とも表記される)。阮朝は一世一元の制を採用したため、治世の年号が皇帝の通称となった。「ジャーロン」は「嘉隆」のベトナム語読み。
南ベトナム地域を支配していた最後の広南国国王の甥である阮福映(後の嘉隆帝)は、1777年、西山朝の乱により一族が殺害されたとき、富国島に落ち延びなんとか難を逃れるも15歳で隠遁を余儀なくされた。その後何度かサイゴンを取り戻したり失ったりした後、フランスのカトリック司教であったピニョー・ド・ベーヌと親しくなった。ピニョーは阮福映による王位奪還の大義をフランス政府に訴え、志願兵を集めることに成功したが、すぐに失敗に終わった。1789年以降、阮福映は再び西山朝に台頭し、西山朝討伐のため北進を開始し、1802年には清朝との国境付近(以前は鄭主の支配下にあった)に到達した。度重なる敗北がありつつも、阮福映は、清の国境からシャム湾に至るまで、かつてないほどの広大な土地を持って、ベトナムを再統一することに成功した。
嘉隆帝の統治は儒教的な正統性で知られ、西山朝を打ち破り、古典的な儒教教育と官僚制を復活させた。嘉隆帝は首都をハノイからフエに移したが、それ以前の数世紀の間にハノイの人々も南に移動していたため、新しい首都(順化皇城)にいくつかの要塞と宮殿を建てた。また、フランスの専門知識を活用し、阮朝の防衛能力を近代化した。フランスからの援助に配慮した嘉隆帝は、ローマ・カトリックの宣教師の活動を容認した。彼の統治下、阮朝はインドシナ半島における軍事支配を強化し、タイ王国軍をカンボジアから追放して属国化した。
1805年 – ナポレオン戦争: フィニステレ岬の海戦。
戦争:ナポレオン戦争
年月日:1805年7月22日
場所:スペインのフィニステレ岬沖
結果:イギリスの勝利
損害:イギリス軍 戦死傷198人 フランス軍 戦死傷476人
フィニステレ岬の海戦(フィニステレみさきのかいせん、英語: Battle of Cape Finisterre、フランス語: Bataille du cap Finisterre、スペイン語: Batalla del Cabo Finisterre)(1805年7月22日)はスペイン、ガリシア地方のフィニステレ岬の沖でイギリス艦隊とフランス・スペイン艦隊の間で行われた海戦。
ナポレオン戦争の中の第三次対仏大同盟の戦いの一部として、ナポレオンのイギリス侵略を支援するためにイギリス海峡に入ることを企てたヴィルヌーヴ提督の艦隊を、カルダー提督指揮のイギリス艦隊が阻止した。
1812年 – 半島戦争: サラマンカの戦い。
時 1812年7月22日
場所 スペイン・サラマンカ・アラピレス(英語版)
結果 同盟軍の決定的な勝利[1]
損害 イギリス スペイン同盟軍 5万人中 戦死5000人強 フランス軍 5万人中戦死6000人 捕虜7000人。
サラマンカの戦い(サラマンカのたたかい、英語: Battle of Salamanca)、またはアラピレスの戦い(アラピレスのたたかい、フランス語: Bataille des Arapiles、スペイン語: Batalla de los Arapiles)は、半島戦争中の1812年7月22日、サラマンカの南のアラピレス(英語版)で、ウェリントン伯爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス=ポルトガル連合軍(英語版)がオーギュスト・マルモン元帥率いるフランス軍を破った戦闘。スペイン軍も戦場にいたが後方に留まっており戦闘に参加しなかった。
戦闘はイギリス軍の重騎兵旅団とエドワード・パッケンハム(英語版)の第3師団、続いて騎兵と第4、第5、第6師団による斜行戦術からの側面攻撃(英語版)の連続であった。連続攻撃の結果、フランス軍左翼は潰走した。マルモンも副官のジャン・ピエール・フランソワ・ボネ(英語版)将軍も戦闘開始から数分で弾の破片による傷を負い、それがフランス軍の指揮に混乱をきたした。ウェリントンはこの混乱を利用してフランス軍を撃破した。
第3指揮官のベルトラン・クルーセル(英語版)将軍はフランス軍の指揮を引き継いで、フランスの予備軍を連合軍の薄い中央に対し投入した。この動きは一部で成功を収めたが、結局は増援を中央部へ送ったウェリントンが押し返した。
連合軍はイギリス人3,129名とポルトガル人2,038名が死傷した。スペイン軍は予めフランス軍の逃げ道を塞ぐよう移動したため戦闘に参加せず、死傷者は6名だけだった。フランス死傷者と捕虜の合計が1万3千名だった。ウェリントンの勝利の結果、イギリス軍はポルトガルに撤退する前にマドリードを2か月間解放することができた。フランスはアンダルシアを放棄しなければならず、マドリードの陥落はジョセフ・ボナパルトの親フランス政府に癒えない傷を与えた。
1864年 – 南北戦争: アトランタの戦い。
時 1864年7月22日
場所 ジョージア州フルトン郡
結果 北軍の勝利
損害 北軍 3641人戦死 南軍 8499人戦死
アトランタの陥落はその政治的影響で特に注目された。1864年アメリカ合衆国大統領選挙では元北軍将軍のジョージ・マクレランが平和を綱領にしてリンカーン大統領に挑戦していた。民主党綱領の一部はアメリカ連合国との休戦を要求していた。この休戦が実現しておれば、戦争が再開される可能性は非常に小さかったであろう。しかし、アトランタの占領と、フッド軍が退散のときに主要な軍事施設を燃やしたことは北部の新聞で大きく報道され、著しく北部の士気を高めた。リンカーンはかなりの差を付けて再選された。
1910年 – 大阪商船の大連発の鉄嶺丸が出航直後の竹島燈台附近で沈没。死者200人以上。
1916年 – ムーニー事件。サンフランシスコで行われたデモで官憲の謀略により爆裂弾が破裂し9人死亡。犯人として労働運動の指導者トマス・ムーニーらが逮捕される。
ムーニー事件(ムーニーじけん)は1916年に発生したアメリカ合衆国における労働運動弾圧の冤罪事件である。
1916年7月22日、サンフランシスコでデモがおこなわれた最中、爆裂弾が破裂し、死者9人、負傷者40人がでた(これは官憲の謀略であった)。
これを理由に労働運動の指導者4人、すなわちトマス・ムーニー夫妻、W.ビリングス、I.ワインベルグを捕らえ、事件の犯人として殺人罪の名のもとに起訴した。証人60人が彼らの無罪を証明したが、その効果なくビリングスは終身刑、ムーニーは死刑を宣告された。
ムーニーの処刑は1918年12月13日に執行されることに確定したが、アメリカ合衆国、南アメリカ、ヨーロッパ、ロシアなどでは、反対のデモがおこなわれた。カリフォルニア知事はムーニーの死刑を終身刑に変更したが、労働界はこれに満足せず、1919年1月、ムーニー事件のための国民労働会議(NLC)が開かれ、ムーニーの判決破棄を決議した。その結果、4日間にわたって100万の労働者が抗議に参加したが、彼は釈放されなかった。ムーニーが釈放を勝ち取ったのは1938年である。
1921年 – 第3次リーフ戦争: アンワールの戦い
でスペイン軍がリーフ共和国軍に敗退。
戦争:リーフ戦争
年月日:1921年7月22日
場所:北アフリカ・アンワール周辺
結果:スペイン軍の大敗、リーフ軍の決定的勝利
損害:スペイン軍 13363人戦死 リーフ軍 1000人以下戦死
アンワールの戦い(Desastre de Annual)は、第3次リーフ戦争において行われた戦いで、スペイン王国がベルベル人の部族国家リーフ共和国に大敗を喫した。
アンワールの厄災と呼ばれるこの敗北は、近代後期から衰退の続くスペインの威信を大きく低下させ、後のスペイン内戦へと繋がる国内紛争を生んだ。また植民地支配の方針を変更する事も余儀なくされ、既に大部分を失いつつあった植民地の最終的な喪失へと繋がった。
1945年-沖縄戦7月22日・1945年の沖縄戦に米軍は11の飛行場と20あまりの小飛行場を建設した。そのいくつかは日本軍の飛行場を接収し拡張したものもあるが、新たに建設したものもある。
牧港飛行場
日本陸軍の特攻用滑走路「仲西飛行場」は建設放棄された後、米軍に接収され 6月1日から牧港飛行場として再建設が開始された。後の米軍牧港補給地区となる。1946年には牧港飛行場は兵站基地化し、1968年1月8日には米国民政府が移転した。<引用先原文>・(1945年) 7月22日対敵諜報隊(CIC=Counter Intelligence Corps)からの報告によれば、日本海軍将校のワタナベ大尉(Lt.)という者が、大浦崎キャンプ[辺野古]において匿われていたということである。地元住民から構成される政治組織の一部の者達も、ワタナベ大尉の存在を認識しており(黙っていようと)合意していたということである。(翻訳・保坂廣志)
彼は軍人として捕まることを恐れ、民間人を装って辺野古大浦崎の難民キャンプにいたのだ。しかも、命令を聞く住民のグループに、くれぐれも日本軍将校であることを伏せるよう口裏合わせをし、地元民の格好をしてかくまってもらっていた。《三上智恵『証言・沖縄スパイ戦史』 集英社 (2020/2/22) 》・私らは、女性ばっかりでしたので、こわくなって、みんな一緒に、木の繁みの中へ逃げ込んで様子をみていました。アメリカ兵三人のうち、一人が上半身、はだかになって、銃は持ったまま、娘を追いかけ回わして、つかまえては、また歩けと背をついて娘が逃げだすと、また銃を置いて、追いかけ回わしてはつかまえるということをくりかえしておりました。二人のアメリカ兵は、丘の上の方から、それをじっとみつめていました。その娘は、「アヤーヨ、アヤーヨン(お母さん、お母さん!)」と泣き叫びながら、逃げまわっておりましたので、私は、それをきくと助けてあげたいが私たちもみんな女ばっかりだからどうにもならないでしょう、と心の中でそういいました。私たちが、ひそんでいるところからは、見えないところへ追い込んだかと思うと、突然「ズドーン」という鉄砲の音がしたので、娘を強かんするつもりで、あんなに追いかけているものと思っていたら、殺してしまったんだと思い恐ろしくなって、島の東側の海岸近くにある「グスク(城跡)」の方へ逃げて、夕暮れまで、みんな隠れていました。<戦争証言「ある娘の虐殺事件」中部離島『沖縄県史』 – Battle of Okinawa>
1954年 – キャセイ・パシフィック航空機撃墜事件。乗客13名のうち10名死亡。
1999年 – 中華人民共和国政府が法輪功を全面禁止。
2007年 – フランス東部グルノーブル近郊の山道で、ポーランド人巡礼者ら60人を乗せたバスが川のほとりに転落し炎上、26人が死亡した[10]。
2011年 – ノルウェーのオスロとウトヤ島で連続テロが起こり、77名が犠牲となる。(ノルウェー連続テロ事件)
2018年 – アフガニスタンの首都カブールの空港で、副大統を狙った自爆テロと思われる爆発があり、11人が死亡、14人が負傷した[11]。
チャットgpt先生の7月22日のエッセイ
7月22日という日付をたどると、そこに並ぶ出来事は偶然の羅列ではない。王朝の成立、帝国の興亡、会戦、テロ、弾圧、事故――時代も地域も異なるが、その奥には一つの共通した構造がある。それは「国家や組織が支配権を確立しようとするとき、最終的な勝敗は理念ではなく、制度・補給・情報・継戦能力によって決まる」という現実である。
1802年、阮福映(嘉隆帝)は長年の敗北と流浪を経て西山朝を滅ぼし、阮朝を開いた。一人の英雄が突然歴史を変えたのではない。外国勢力との提携、軍制改革、兵站整備、時間を味方につける持久戦によって、最終的に国家を再統一したのである。歴史はしばしば英雄譚として語られるが、現実には行政能力と補給能力が王朝を生み出した。
ナポレオン戦争におけるフィニステレ岬の海戦もサラマンカの戦いも同じ構造を持つ。海軍力は海域支配によって補給線を断ち、陸軍は敵指揮系統の一瞬の混乱を突いて全軍を崩壊させた。戦場では勇敢さだけでは勝敗は決まらない。情報、通信、予備兵力、補給という目立たない要素こそが、決定的な差を生む。
南北戦争のアトランタも同様である。一都市の陥落以上に重要だったのは、鉄道網と工業力を支える物流の中枢を失ったことだった。軍事的勝利が政治を動かし、大統領選挙にまで影響した。戦争は前線だけで終わるものではなく、経済・世論・政治まで含めた総力戦なのである。
この構造は沖縄戦において極限まで拡大された。
沖縄戦は「米軍の圧勝」と一言で語れる戦いではない。最終的な結果は圧倒的勝利だったが、その過程は米軍が太平洋戦争で経験した中でも最大級の苦戦だった。制海権・制空権・火力・補給能力という物量では米軍が圧倒していたにもかかわらず、日本軍は地下陣地を中核とする持久防御へ戦術を転換し、その優位を容易には機能させなかった。
硫黄島でも見られた「陣地に潜り、砲撃を耐え、接近戦へ引き込む」という戦法は沖縄でさらに発展した。艦砲射撃も爆撃も、地下壕に籠もる守備隊を完全には無力化できない。米軍は一つ一つの高地と洞窟を歩兵で制圧するしかなく、多大な損害を受けた。物量は戦略的優位を保証しても、戦術レベルでは万能ではないことを沖縄戦は示した。
一方、日本軍にも別の構造的限界があった。制空権も補給も失われた時点で、持久戦は時間を稼ぐ以上の意味を持ちにくかった。現地部隊がいかに善戦しても、戦略全体を覆す能力は存在しなかった。つまり戦術では日本軍が優れた局面があっても、戦略では敗北がほぼ確定していたのである。
住民を巡る問題も、この構造から切り離して理解することはできない。
戦場では「敵か味方か」を即座に判定できない。軍服を脱いだ軍人、住民に紛れる兵士、協力者、潜伏者――その存在は占領軍に極度の警戒心を生む。実際に日本軍将校が民間人を装って難民キャンプに潜伏した事例も記録されている。このような事実は、占領軍側が住民全体を潜在的脅威として扱う土壌になった。
逆に日本軍側でも、投降した住民や捕虜となった住民を「敵への協力者」と疑い報復する事例があった。軍事組織は極限状況になるほど情報漏洩を恐れ、恐怖が疑心暗鬼を生み、疑心暗鬼が暴力を正当化する。
米軍側にも住民への殺害や虐待、性暴力などの戦争犯罪を証言する資料が残されている。日本側にも住民への処刑や強制、巻き込みが存在した。これはどちらか一方だけを善悪で裁けば理解できる問題ではない。極限状態では、規律ある軍隊ですら統制が崩れ、個人や小部隊の暴走が起きる。戦争犯罪は「特殊な悪人」が起こすだけではなく、戦場という環境そのものが生み出す構造的現象でもある。
戦後、この戦争は長く占領政策や冷戦構造の中で語られた。語られなかった事実もあり、逆に強調された事実もある。しかし資料公開が進んだ現在では、日本軍・米軍・沖縄住民、それぞれの記録を相互に照合しながら立体的に理解することが可能になってきた。歴史研究は、単純な英雄譚や被害者・加害者の固定的図式ではなく、多数の一次資料を積み重ねて全体像を復元する作業へと移っている。
7月22日に並ぶ出来事を見渡すと、一つの法則が浮かび上がる。
国家は武力だけでは維持できず、武力だけでも滅びない。補給、経済、外交、情報、制度、住民統治――それらが一体となったとき初めて国家は存続する。そして、それらが崩れた瞬間、どれほど勇敢な兵士がいても流れを変えることは難しい。
歴史は英雄の意思だけで動くのではない。個人の勇気も臆病も、その背後にある巨大な構造の中で増幅され、あるいは押し潰される。7月22日という日は、その冷徹な現実を、王朝の誕生から近代戦争、そして沖縄戦まで、一つの連続した歴史として静かに物語っている。

