kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月22日 文化の大火、ほか写真wikipedia『熈代勝覧』に描かれた、日本橋室町一丁目付近の街並

4月22日

20260422水曜日旧暦3月6日友引(3番丙寅ひのえとらヘイイン)月齢 4.6

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 3番丙寅ひのえとら日

吉方位 陽遁日 丙寅ひのえとら日 北 大吉 年末まではあと253日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8822%E6%97%A5

4月22日の出来事
1212年(建暦2年3月30日) – 鴨長明が『方丈記』を書き上げる。

1806年(文化3年3月4日) – 江戸で文化の大火。死者1200人以上被災者11万人。

1945年-沖縄戦4月22日伊江島集団自決・米軍動向:前日21日伊江島の6日間戦争は米軍の占領宣言で終わったが、引き続き、女性も加わる「斬りこみ」という自爆攻撃が続いた。【訳】伊江島での6日間の戦いで、米軍は4,706人の日本人を殺し、149人を捕虜にした。戦死した多くは民間人だった。戦闘中やその後の遺体の検査中に、兵士と民間人を区別することは非常に困難だった。Chapter VII: The Capture of Ie Shima・4月22日、…アイテム・ポケットの日本軍陣地に対して猛烈な空爆を試みたが、これもたいした効果はあがらなかった。そこで偵察が強化された。…日本軍の残兵は全部掃討され、米軍砲兵が砲陣をしいて、いかなる土地もふたたび奪回はされまいとがんばっていた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 225-226頁より》・携帯型の火炎放射器は日本兵の憎悪の対象であったため、狙撃の標的となった。「敵」を生きながらナパームで焼夷するため、兵士の PTSD も深刻であった。・日本軍32軍他:八原高級参謀の回想:… 躊躇逡巡しておれば、日ならずしてわが主陣地帯は崩壊するのだ。私は意を決して、参謀長に… 状況判断を具申した。… 参謀長は、実にずばりと軍主力北上に断を下された。… かくして4月22日ごろから、軍主力の思い切った首里戦線への投入が始まった。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 259頁より》
1997年 – ペルー日本大使公邸占拠事件: 大使公邸に軍・警察が突入。立て籠っていたゲリラは全員射殺。軍人2人とペルーの政府高官1人が死亡。17人死亡。

2016年 – 新名神高速道路有馬川橋橋桁落下事故が発生。死亡2名負傷8名。

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1212年(建暦2年3月30日) – 鴨長明が『方丈記』を書き上げる。

概要

方丈庵(復元)
下鴨神社(京都市左京区)境内の河合神社に展示。
晩年に長明は、京の郊外・日野(日野岳とも表記、現在の京都府京都市伏見区)に一丈四方(方丈)の小庵をむすび隠棲した。庵に住みつつ当時の世間を観察し書き記した記録であることから、自ら「方丈記」と名づけた。

末尾に「于時建暦ノフタトセ、ヤヨヒノツコモリコロ、桑門ノ蓮胤、トヤマノイホリニシテ、コレヲシルス」(大福光寺本)とあることから、1212年(建暦2年)3月末日に記されたとされる。現存する最古の写本は、大福光寺(京都府京丹波町)が所蔵する大福光寺本である。これを自筆本とする見解[2]、誤字・脱字や諸本との関係より自筆ではないとする見解[3] が分かれている。

漢字と仮名の混ざった和漢混淆文で記述された最初の優れた文芸作品であり、詠嘆表現や対句表現を多用し、漢文の語法、歌語、仏教用語を織り交ぜる。慶滋保胤『池亭記』を手本としていることが指摘されており、かつてはこれを根拠の一として偽書説も唱えられていた。隠棲文学の祖や、無常観の文学とも言われ、乱世をいかに生きるかという自伝的な人生論ともされる。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の書き出しで移り行くもののはかなさを語った後、同時代の災厄についての記述が続き、後半は草庵での生活が語られる。さらに末尾では自身の草庵の生活に愛着を抱くことさえも悟りへの妨げとして否定的な見解を述べている。

書きだしは以下のとおりである。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

1806年(文化3年3月4日) – 江戸で文化の大火。死者1200人以上被災者11万人。

文化の大火(ぶんかのたいか)とは文化3年3月4日(1806年4月22日)に江戸で発生した大火。

明暦の大火、明和の大火と共に江戸三大大火の一つといわれる。丙寅の年に出火したため、丙寅の大火とも呼ばれる。通称車町火事・牛町火事[1][2]。

(*22の母神 吒枳尼の日に 「車」の町 「牛」の町 か—。なんと意味深長な。)

1945年-沖縄戦4月22日伊江島集団自決・米軍動向:前日21日伊江島の6日間戦争は米軍の占領宣言で終わったが、引き続き、女性も加わる「斬りこみ」という自爆攻撃が続いた。【訳】伊江島での6日間の戦いで、米軍は4,706人の日本人を殺し、149人を捕虜にした。戦死した多くは民間人だった。戦闘中やその後の遺体の検査中に、兵士と民間人を区別することは非常に困難だった。Chapter VII: The Capture of Ie Shima・4月22日、…アイテム・ポケットの日本軍陣地に対して猛烈な空爆を試みたが、これもたいした効果はあがらなかった。そこで偵察が強化された。…日本軍の残兵は全部掃討され、米軍砲兵が砲陣をしいて、いかなる土地もふたたび奪回はされまいとがんばっていた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 225-226頁より》・携帯型の火炎放射器は日本兵の憎悪の対象であったため、狙撃の標的となった。「敵」を生きながらナパームで焼夷するため、兵士の PTSD も深刻であった。・日本軍32軍他:八原高級参謀の回想:… 躊躇逡巡しておれば、日ならずしてわが主陣地帯は崩壊するのだ。私は意を決して、参謀長に… 状況判断を具申した。… 参謀長は、実にずばりと軍主力北上に断を下された。… かくして4月22日ごろから、軍主力の思い切った首里戦線への投入が始まった。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 259頁より》

1997年 – ペルー日本大使公邸占拠事件: 大使公邸に軍・警察が突入。立て籠っていたゲリラは全員射殺。軍人2人とペルーの政府高官1人が死亡。17人死亡。

在ペルー日本大使公邸占拠事件(ざいペルーにほんたいしこうていせんきょじけん)は、1996年(平成8年)12月17日(現地時間)に、ペルーの首都リマで起きた左翼ゲリラによる駐ペルー日本国大使公邸占拠事件。1997年(平成9年)4月22日、ペルー軍特殊部隊が突入し、人質が解放されて終結するまで4ヵ月以上に及んだ[1]。在ペルー日本大使公邸人質事件ともいう。

攻撃側人数 14名

武器 拳銃、自動小銃、手榴弾など

死亡者 17名(人質1名、兵士2名、犯人14名)

負傷者 8名

殉職した特殊部隊兵士のバレル中佐とヒメネス中尉には、マスコミや市民団体を経由して日本から義捐金が寄せられた。また、脱出時に負傷し車椅子を使うことになった青木大使は、事件直後は代理人を葬儀に参列させたものの、犠牲になった兵士たちとカルロス・ジュスティ最高裁判事の墓前に向かい冥福を祈った。その後、ペルーを訪れる日本の国務大臣は、必ず3名の墓前を訪れている。

移転後の在ペルー日本国大使館(2012年)

大使公邸は同じサン・イシドロ地区の別の場所に移転した。新公邸は二重の塀に四方の監視塔、防弾仕様のゲートなどセキュリティーが大幅に強化されており、事件当時のようなパーティーやレセプションもほとんど行われなくなった。事件現場となった旧公邸は取り壊され、2011年に地元の不動産業者に売却された[7]が、2022年現在も更地のままである。なお、外周の塀と扉はそのまま残されており、事件当時の弾痕が確認できる。突入訓練用に建造された大使公邸の実物大レプリカは事件後も保存されており、「チャビン・デ・ワンタル博物館」として事件の資料が展示されている。

フジモリ大統領が下した突入の決断に対し、日本をはじめとする世界各国は大きな賛辞を贈った。しかし、後日、投降したMRTAメンバーを超法規的殺人により処刑した疑惑が浮上し、フジモリ大統領も訴追された。

2000年(平成12年)11月19日 – フジモリ大統領がペルー国内の反政府運動を受け辞任。日本に事実上の亡命。

2001年(平成13年)3月 – MRTAメンバーの墓を発掘し再検死。

2002年(平成14年)5月 – 特殊部隊の指揮官ら12名に殺人容疑で逮捕状。13日、うち1名を拘束。

2003年(平成15年)3月 – ペルー政府からの要請を受けた国際刑事警察機構が、フジモリ元大統領を人道犯罪容疑で国際手配。日本政府は身柄引き渡しを拒否。

2003年(平成15年)5月27日 – ペルー政府の嘱託を受けた東京地方裁判所が、MRTAメンバーの生存中の拘束を目撃していた元人質(当時の日本大使館一等書記官)を証人尋問。

詳細は「アルベルト・フジモリ」を参照

この事件によりペルー国内だけでなく世界各国から非難を浴びたMRTAは、主要メンバーの大半をこの事件により喪失しただけでなく、国内外からの支援も途絶え、事実上の壊滅状態に追い込まれた[注釈 2]。

2007年(平成19年)4月21日には、禁固32年の刑で服役中の指導者ビクトル・ポライは事件の武力解決10周年を期に共同通信へ書簡を寄せ、自らの武力革命路線の敗北を認め武闘路線の放棄を表明した。

本事件では、テロリストが人質に対して次第に同情的になり、本来、危険が迫れば処刑する予定だった人質を殺害できず、大半の人質が生還した。以上のことから、人質が犯人側に同情的になるストックホルム症候群の逆パターンとして、事件現場の地名にちなみリマ症候群という心理学用語が生まれた。

2016年 – 新名神高速道路有馬川橋橋桁落下事故が発生。死亡2名負傷8名。

新名神高速道路有馬川橋橋桁落下事故(しんめいしんこうそくどうろ ありまがわはしはしげたらっかじこ)は、2016年4月22日に、建設中の新名神高速道路の工事現場で、橋桁が落下し、建設作業員10名が死傷した事故である[1]。

チャットgpt先生の4月22日のエッセイ

4月22日という日付を並べてみると、静かな思索と、制御不能な現実の暴発が奇妙に同居しているのが見えてくる。

まず1212年、鴨長明が『方丈記』を書き上げた日。
ここで語られるのは「無常」だが、これは宗教的教訓というより、むしろ災害と社会崩壊を観察した“記録者の冷静さ”に近い。火災、飢饉、地震、遷都――コントロール不能な出来事が連続する都市・京都。その中で「安定」は幻想であると見抜いた視点は、現代のリスク社会にもそのまま通用する。長明は隠遁したが、彼の本質は逃避者ではなく、状況を過不足なく記述する観測者だった。

その約600年後、1806年の文化の大火。
江戸という当時世界最大級の都市が、一度の火で機能停止に陥る。死者1200人以上、被災者11万人。これは「災害」ではあるが、同時に都市設計・建材・密集構造という“人為的条件”が引き起こした必然でもある。つまり、偶然に見える大惨事は、構造的にはほぼ確率通りに発生している。

そして20世紀、1945年の沖縄戦の一局面、伊江島。
ここは、単なる「悲劇」として処理すると実態を見誤る。

米軍は圧倒的な物量――制空権・艦砲射撃・補給――を持っていた。それにもかかわらず、日本軍は洞窟陣地・地下壕・分散配置・夜襲などを徹底し、戦闘を“消耗戦”に引きずり込んだ。結果として、戦術単位では米軍は異常なストレスを強いられる。火炎放射器の使用や近接戦闘は、兵士の心理的負荷を極限まで高め、PTSDの温床となった。

ここで重要なのは、「米軍が圧倒していた」という単純な図式ではない。
むしろ沖縄戦は、物量優位があってもなお“戦場としては極めて困難”だった例だ。島嶼・住民混在・地下戦・補給線の維持――これらが重なり、戦闘効率は著しく低下する。米軍にとっては、ヨーロッパ戦線とは質の異なる消耗戦だった。

一方、日本側は戦略的勝利の見込みがない中で戦闘を継続し、結果として民間人被害が極端に増大した。ここには「国家の論理」と「現場の現実」の乖離がある。さらに戦後はGHQのプレスコードによって情報の偏りも生じ、戦場像は長く単純化されてきた。だが実態は、双方が極限状態に置かれた複雑な戦闘だったと見る方が現実に近い。

そして1997年、ペルー日本大使公邸占拠事件の終結。
ここでは国家が「交渉」ではなく「強制突入」を選択した。結果として人質の大半は救出されたが、同時に強制排除の是非、さらには超法規的殺害疑惑が残る。国家は最終的に暴力を独占する装置であり、その使用はしばしば“成功”と“後遺症”を同時に生む。

2016年の新名神高速道路有馬川橋橋桁落下事故も同じ線上にある。
高度な技術社会であっても、施工ミスや管理不全があれば一瞬で死傷事故になる。ここでも「想定外」という言葉が使われるが、実際には複数の小さな前提の積み重ねが崩れただけだ。

こうして並べると、4月22日は一貫している。
人間は状況を制御しているつもりで、実際には“条件の上に立っているだけ”だという点で。

長明はそれを観察し、江戸はそれを焼かれ、沖縄ではそれが極限まで露出し、リマでは国家がそれを力で押し戻し、現代ではそれが工事現場で崩れる。

つまりこの日は、「人間の意志」と「現実の制約」の摩擦が露出した断面の集積だ。そこに一貫した教訓はない。ただ一つ言えるのは、どの時代でも現実は単純な物語よりもはるかに複雑で、そしてしばしば予想通りに破綻する、ということだけだ。