kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月20日  1792対オーストリア戦開始フランス革命戦争開始、ほか写真wikipediaアルコレ橋の戦い179611

4月20日

20260420月曜日旧暦3月4日赤口(1番甲子きのえねコウシ)月齢 2.6

43番丙午ひのえうま年 29番壬辰みずのえたつ月 1番甲子きのえね日

吉方位 陽遁日 甲子きのえね日 北東 大吉 年末まではあと255日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8820%E6%97%A5

4月20日の出来事
1580年(天正8年閏3月7日) – 石山合戦: 織田信長と石山本願寺が和議。顕如が石山を退去し、戦闘行為を停止。
1792年 – フランスがオーストリアに宣戦し、フランス革命戦争が始まる。戦争:フランス革命戦争 年月日:1792年–1802年 場所:ヨーロッパ、エジプト、中東、大西洋、西インド諸島 結果:フランス側の勝利。 損害 病死者も含めて200万人以上死亡。
1939年 – アドルフ・ヒトラーの50歳の誕生日(英語版)。ナチス・ドイツがこの日を休日とし、ベルリンで大規模な軍事パレードを行う。

1945年- 沖縄戦4月20日・米軍動向:・艦隊や航空隊の前進基地と補給基地として沖縄島 伊江島の米軍基地化造成すすむ。・4月16日から伊江島に上陸した米軍は、18日には、日本軍が自壊した伊江島飛行場を米軍飛行基地として使用開始、20日には城山を完全に包囲した。4月20日正午、ブルース少将はバックナー中将に、つぎのように報告した。「わが軍は堅固きわまりない城山の敵陣地で未曾有の激戦のすえ完全にこれを包囲した」

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 171、172、173頁より》・日本軍32軍:伊川少佐、田村大尉らは、伊江城山の陣地に拠り、孤軍奮闘善戦したが、衆寡敵せず20日暁までに、ほとんど全員壮烈な戦死を遂げた模様である。… しかし敵に至当な行動をとらしめたことにより、伊江島の攻略はわが将士の貴重な犠牲と相俟って、4月20日まで遅延した。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 226頁より》(*本記事元サイトは事実は 遅延なく米軍の新基地建設が着実に進んでいたことを指摘する。そうかもしれないが 瑣末な上げ足とりにも思える。米軍に過去にない損傷を与え続けていた事実は動かせない。当の米軍記録自体がそう語るのだから。)・19日の戦闘の結果、米第24軍団の戦死傷者は、行方不明もふくめて720名に達していた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 213頁より》・呻き苦しむ重傷者や死体を残して、隊列は又、無言の行進を起した。不意打の砲撃に後方の隊が崩れ、またも中断してしまった。隊列は約500人に減っていた。《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 306-307頁より》

1999年 – コロンバイン高校銃乱射事件: アメリカ・コロラド州ジェファーソン郡のコロンバイン高校で銃乱射事件が起きる。死亡者 15名(教員1名、容疑者2名を含む学生14名) 負傷者 24名

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1580年(天正8年閏3月7日) – 石山合戦: 織田信長と石山本願寺が和議。顕如が石山を退去し、戦闘行為を停止。
1792年 – フランスがオーストリアに宣戦し、フランス革命戦争が始まる。戦争:フランス革命戦争 年月日:1792年–1802年 場所:ヨーロッパ、エジプト、中東、大西洋、西インド諸島 結果:フランス側の勝利。 損害 病死者も含めて200万人以上死亡。

戦闘および軍事関連の犠牲者
フランス軍: 約40万~50万人戦死

対仏同盟軍(オーストリア、プロイセン、イギリスなど): 約40万~50万人戦死

負傷者(戦傷・病死など): これに加えて約60万~70万人と推定

民間人の犠牲者
ヴァンデの反乱や国内紛争: 約17万~20万人死亡(戦闘、処刑、飢餓)

革命期の処刑(ギロチンなど): 約4万人(恐怖政治期に集中)

その他の戦禍や食糧不足による影響: 不確定要素が多いが、数万人~10万人規模

総計
フランス革命戦争の全期間を通じた死者数は、おおよそ100万~150万人に達すると推定されています。これは直接の戦闘死、病死、民間人の犠牲を含んだ総数です。

1939年 – アドルフ・ヒトラーの50歳の誕生日(英語版)。ナチス・ドイツがこの日を休日とし、ベルリンで大規模な軍事パレードを行う。

1945年- 沖縄戦4月20日・米軍動向:・艦隊や航空隊の前進基地と補給基地として沖縄島 伊江島の米軍基地化造成すすむ。・4月16日から伊江島に上陸した米軍は、18日には、日本軍が自壊した伊江島飛行場を米軍飛行基地として使用開始、20日には城山を完全に包囲した。4月20日正午、ブルース少将はバックナー中将に、つぎのように報告した。「わが軍は堅固きわまりない城山の敵陣地で未曾有の激戦のすえ完全にこれを包囲した」

 《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 171、172、173頁より》・日本軍32軍:伊川少佐、田村大尉らは、伊江城山の陣地に拠り、孤軍奮闘善戦したが、衆寡敵せず20日暁までに、ほとんど全員壮烈な戦死を遂げた模様である。… しかし敵に至当な行動をとらしめたことにより、伊江島の攻略はわが将士の貴重な犠牲と相俟って、4月20日まで遅延した。《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 226頁より》(*本記事元サイトは事実は 遅延なく米軍の新基地建設が着実に進んでいたことを指摘する。そうかもしれないが 瑣末な上げ足とりにも思える。米軍に過去にない損傷を与え続けていた事実は動かせない。当の米軍記録自体がそう語るのだから。)・19日の戦闘の結果、米第24軍団の戦死傷者は、行方不明もふくめて720名に達していた。《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 213頁より》・呻き苦しむ重傷者や死体を残して、隊列は又、無言の行進を起した。不意打の砲撃に後方の隊が崩れ、またも中断してしまった。隊列は約500人に減っていた。《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 306-307頁より》

嘉数 (かかず)

4月20日、米第24軍団のホッジ少将は配下の第27師団指揮官に、日暮れまでに嘉数高地を占領せよと命じた。だが、同夜から相当数の守備軍が嘉数部落付近に現れ、臼砲や機関銃で進撃中の米軍に猛烈な砲火を浴びせ、全部隊を釘づけにした。米軍は3時間もの間、腹ばいの前進を続けたが、わずかに450メートルしか進出できなかった。

《写真記録「これが沖縄戦だ」(大田昌秀 編著/琉球新報社) 114頁より抜粋》

米軍がこれから攻撃しようとする地域は、嘉数丘陵の頂上にいる日本軍の砲座からまる見えだった。そのため嘉数付近にいた米軍の1小隊は、西原丘陵220メートルに近づいた際、ものすごい砲撃をうけてその兵力の半分を失った。… 重砲弾のすごい炸裂音、雨あられのように降ってくる迫撃砲弾、そして、激しい日本軍の機関銃の音で、米兵のなかにはその日のうちに気が狂った者もかなり出てきた。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 253-254頁》


1999年 – コロンバイン高校銃乱射事件: アメリカ・コロラド州ジェファーソン郡のコロンバイン高校で銃乱射事件が起きる。死亡者 15名(教員1名、容疑者2名を含む学生14名) 負傷者 24名

コロンバイン高校銃乱射事件(コロンバインこうこうじゅうらんしゃじけん、英:Columbine High School massacre)は、アメリカ合衆国コロラド州ジェファーソン郡コロンバイン(英語版)のジェファーソン郡立コロンバイン高等学校(英語版、シンプル英語版)で1999年4月20日に発生した事件[1]。英名の「Columbine High School massacre」は直訳すると「コロンバイン高校の虐殺」となる。

同校の生徒であったエリック・ハリスとディラン・クレボルドが銃で12名の生徒と1名の教師を射殺したのち自殺した。重軽傷者は24名。アメリカの学校における銃乱射事件としては1966年に起きたテキサスタワー乱射事件の犠牲者15名に継ぐ規模であった(後に、33人が死亡したバージニア工科大学銃乱射事件が起きている)[2][3]。

チャットgpt先生の4月20日のエッセイ

4月20日という日付を並べてみると、そこに通底しているのは「決着は理念ではなく、最終的には力と持久で決まる」という、冷徹な現実だ。

1580年、石山合戦が和議で終わったとき、勝敗を分けたのは信仰でも正義でもない。織田信長が数年単位で包囲と補給遮断を続けられた、その持久力だった。籠城側の抵抗は激烈だったが、外部との接続を断たれた時点で結末はほぼ決まっていた。

1792年に始まるフランス革命戦争も同じ構図だ。自由や革命の理念が掲げられたが、実際に戦争を押し切ったのは国民皆兵と継戦能力、つまり動員力と消耗戦への適応だった。死者数が膨大になったのは、理念が強かったからではなく、国家が人間を資源として扱える規模に到達したからだ。

そして1945年の沖縄戦。ここはしばしば単純化されるが、現実はもっと複雑で、そして重い。米軍は圧倒的な物量を持っていた。制海権・制空権・補給、どれを取っても優位だった。それでも戦闘は「楽勝」にはならなかった。

伊江島や嘉数高地での戦闘を見ると、日本軍は戦略的勝利の可能性がない状況でも、地形と陣地構築、局所的火力集中によって米軍の前進を著しく遅延させている。米軍側の記録にも、前進距離が数百メートルにとどまる日や、部隊が釘付けになる状況が繰り返し出てくる。これはプロパガンダではなく、一次資料が示している現象だ。

重要なのはここからだ。米軍は苦戦した。しかし敗れなかった。なぜか。単純で、消耗を受け入れられる側だったからだ。損害を出しても補充できる。前進が止まっても火力を増やせる。時間をかければ必ず押し切れる。この「時間を味方にできる側」が最終的に勝つという構造が、沖縄では極限まで露出した。

つまり、沖縄戦は「米軍が苦戦した戦い」であると同時に、「苦戦しても勝てる側と、善戦しても覆せない側の差」が最もはっきり現れた戦いでもある。戦術的な優劣や兵士の練度・勇敢さは、戦略的条件を覆さない。その現実はかなり残酷だ。

1999年のコロンバイン高校銃乱射事件になると、国家規模の戦争とは別の形で「力の非対称」が現れる。ここでは国家でも軍でもなく、個人が一方的に暴力を行使できる状況が問題になる。装備と準備があれば、極めて短時間で大きな被害を出せる。これもまた、規模は違えど「力の偏在」が結果を決める例だ。

こうして並べると、4月20日は理想や感情よりも、構造と条件が結果を規定する事例が重なっている日だと見える。包囲、動員、補給、地形、火力、時間――どの時代でも、勝敗を決める変数は驚くほど似ている。

そして沖縄戦に戻ると、最も現実的な見方はこうなる。
「史上最大級に苦戦した上で、それでもなお勝ち切った戦い」。

この二つは矛盾しない。むしろ同時に成立する。そこにあるのは英雄譚でも単純な被害者意識でもなく、戦争というものの動かしがたい構造そのものだ。

(*gptの沖縄戦評価は 一般論に過ぎる。しかしあえてそのまま掲載しておきます)