kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日2月18日  1943ゲッベルスの総力戦演説、ほか写真wikipedia演説会場スポーツ宮殿の聴衆

2月18日

20260218水曜日旧暦1月2日友引(癸亥みずのといキガイ)月齢 0.6

丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 癸亥みずのとい日 年末まであと316日

吉方位 陽遁日 癸亥みずのとい日 南東 大吉

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2月18日の出来事

1229年 – ヤッファ条約 (1229年)(英語版): 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とアイユーブ朝のスルタン・アル=カーミルが、10年間の休戦と十字軍側へのエルサレム返還で合意。

1559年(永禄2年1月11日) – 少弐冬尚が龍造寺隆信に破れ自害し、少弐氏(ショウニシ)が滅亡。
1587年 – 元スコットランド女王メアリーが、イングランド女王エリザベス1世の暗殺計画バビントン事件(英語版)に加担したことにより処刑される。
1564年 – ミケランジェロ、彫刻家、画家(* 1475年)逝去 89歳。
1874年 – 佐賀の乱: 江藤新平ら反乱軍が、佐賀城の佐賀県庁に籠もる佐賀県権令岩村高俊の部隊と戦闘し、政府軍が敗走。年月日:1874年(明治7年)2月1日 – 3月1日 場所:佐賀県 結果: 明治政府の勝利 損害:明治政府軍 戦死239人 佐賀軍 戦死173人
1942年 – 大東亜戦争戦勝祝賀第一次国民大会が日比谷公園で開催。日本軍がシンガポールを陥落させたことを受けてのもの。各地でも同様の祝賀式が開催[6]。
1943年 – ゲッベルス独宣伝相がベルリンのシュポルトパラストで行った演説で総力戦を宣言(総力戦演説)。

2003年 – 韓国大邱地下鉄放火事件(テグちかてつほうかじけん): 地下鉄車両に対する放火事件。死者192名、重軽傷者148名。

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1229年 – ヤッファ条約 (1229年)(英語版): 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とアイユーブ朝のスルタン・アル=カーミルが、10年間の休戦と十字軍側へのエルサレム返還で合意。

ヤッファ条約(しばしばヤッファとタル・アジュール条約とも呼ばれる)は、1229年2月18日に神聖ローマ皇帝でシチリア王のフリードリヒ2世とエジプトのアイユーブ朝スルタン、アル・カーミルとの間で締結された協定である。この戦いは、フリードリヒが率いた第六回十字軍の終結をもたらし、エルサレム市といくつかの他の領土をエルサレム王国に返還した。当時の王はフリードリヒの幼い息子コンラートであった。

交渉は1228年9月から1229年2月まで続いた。両君主は直接会うことはなかったが、それぞれの陣営で使節を交換した。最初はアッコンでフリードリヒ、ナブルスはアル・カーミル、後にヤッファとタル・アル・アジュールであった。交渉は悪評を避けるため、主に秘密裏に行われました。贈り物や娯楽、学問の交換も行われました。同時に、アル・カーミルは兄のアシュラフとアジアにおけるアイユーブ朝の土地再分配について交渉した。

1559年(永禄2年1月11日) – 少弐冬尚が龍造寺隆信に破れ自害し、少弐氏(ショウニシ)が滅亡。

少弐氏(しょうにし、旧字体:少貳氏)は、日本の氏族の一つ。筑前、肥前など北部九州地方の御家人・守護大名。藤原北家秀郷流と称した武藤氏の一族。

滅亡
資元の子で第17代当主を継いだ少弐冬尚は少弐氏を再興したが、龍造寺氏の謀反に対しては、家臣の馬場頼周に龍造寺氏討伐を委ね実権をなくしていく。家兼の後を継いだ龍造寺隆信もまた謀反の立場を鮮明にして、冬尚は永禄2年(1559年)、勢福寺城を隆信に攻められて自害を余儀なくされた。これにより、鎌倉時代から続く名族・少弐氏は完全に滅亡したのである。

この際、冬尚の子冬敬が出奔していることが近年の研究で明らかになっている。

少弐冬尚の弟・少弐政興は永禄6年(1563年)から馬場鑑周など旧臣の支援のもと、少弐氏再興戦を有馬晴純・波多鎮・大村純忠・多久宗利・西郷純尚などの肥前の武将達と共に、龍造寺隆信と戦う。しかし、永禄7年(1564年)に龍造寺勢の猛攻で肥前中野城に籠るも馬場鑑周は降伏する。

その後、政興は豊後の大友氏の支援を受けながらなおも隆信と戦うが、元亀3年(1572年)に隆信によって肥前を追われ、少弐氏再興の野望は潰えた。

なお、元寇で戦死した少弐資時を祭神とする長崎県壱岐市の壱岐神社において、2011年(平成23年)に少弐家の子孫が参列して祭祀が執り行われた。

1564年 – ミケランジェロ、彫刻家、画家(* 1475年)逝去 89歳。

1587年 – 元スコットランド女王メアリーが、イングランド女王エリザベス1世の暗殺計画バビントン事件(英語版)に加担したことにより処刑される。

メアリー自身は廃位ののち国を追われ、エリザベス1世の命によりイングランドで刑死したが、その子ジェームズはスコットランド王として即位し、またエリザベス1世の死後は、イングランド王位をあわせ継いだ。以後スコットランドとイングランドは同君連合を形づくり、18世紀のグレートブリテン王国誕生の端緒となった。終生未婚で、子孫を残さなかったエリザベス1世に対し、メアリーの血は連綿として続き、以後のイングランド・スコットランド王、グレートブリテン王、連合王国の王は、すべてメアリーの直系子孫である。

1568年5月、ロッホ・リーヴン城を脱走したメアリーは6千人の兵を集めて軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世の元に逃れた。メアリーはイングランド各地を転々としたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い、引退した老婦人のような静かな生活を送ることを許された。

しかし、たびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、またエリザベス廃位の陰謀に関係した。1570年にはリドルフィ事件(英語版)(ロベルト・ディ・リドルフィ(英語版)が企てた事件)、1586年のバビントン事件(英語版)(カトリックのアンソニー・バビントン(英語版)がエリザベスの暗殺を狙った事件)などである。バビントン事件の裁判ではメアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑を言い渡された。

エリザベス1世は死刑執行書への署名を渋る様子を見せたが、結局1587年2月8日、フォザリンゲイ城(英語版)のグレートホールでメアリーは処刑された。この事態を受けて、スペイン王フェリペ2世は無敵艦隊をイングランドへ派遣し、アルマダの海戦(1588年)に繋がった。


1874年 – 佐賀の乱: 江藤新平ら反乱軍が、佐賀城の佐賀県庁に籠もる佐賀県権令岩村高俊の部隊と戦闘し、政府軍が敗走。年月日:1874年(明治7年)2月1日 – 3月1日 場所:佐賀県 結果: 明治政府の勝利 損害:明治政府軍 戦死239人 佐賀軍 戦死173人

佐賀の乱(さがのらん)は、1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役[1]、佐賀戦争[2]とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。

1942年 – 大東亜戦争戦勝祝賀第一次国民大会が日比谷公園で開催。日本軍がシンガポールを陥落させたことを受けてのもの。各地でも同様の祝賀式が開催[6]。
1943年 – ゲッベルス独宣伝相がベルリンのシュポルトパラストで行った演説で総力戦を宣言(総力戦演説)。

総力戦演説(そうりょくせんえんぜつ、独: Sportpalastrede[2])は、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの旗色が悪くなり国家総力戦が必要となってきたため、1943年2月18日、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスによりベルリン・スポーツ宮殿において慎重に選ばれた大勢の観衆の前で行われた演説である[3]。

この演説はゲッベルスの行った演説の中で最も有名なものである。演説はナチス幹部によって、ドイツが深刻な状況に直面しているという最初の告白となった。ゲッベルスはドイツの存続を断言、西洋文明の存続が危ぶまれるため、長く困難が存在しても、戦争を継続するようドイツの人々に演説した。

内容
ゲッベルスは演説において3つの命題を提示した。

ドイツ軍が東部戦線で敗退すれば、ドイツが(後にはヨーロッパ全体が)ボルシェビキのものとなる事
ドイツ軍、ドイツ人、枢軸国のみにヨーロッパをこのボルシェビキの脅威から救う力がある事
危険はすぐそばにあり、ドイツは素早く、迅速に決定しなければ、手遅れになる事
ゲッベルスは「2000年に及ぶヨーロッパの歴史は危機的状況にある」と結論し、ドイツの失敗をユダヤ人のせいにした。ゲッベルスはソ連の総動員を「悪魔的である」と言及し、それを「我々が同一でなくとも、等しい方法で総力戦を戦い抜かない限り、我々はボルシェビキの脅威から逃れることはできない」と説明した。その後、ゲッベルスはそれに対応する臨時処置について演説し、実行される緊縮政策を正当化した。

演説の最後は、「さあ国民よ起て!そして嵐よ起きよ!(ドイツ語: Nun Volk, steh’ auf, und Sturm, brich los!)」という文句で締めくくられた。これはナポレオン戦争で戦死した詩人テオドール・ケルナーが書いた、「国民は起ち、嵐が起こる(ドイツ語: Das Volk steht auf, der Sturm bricht los.)」という一節を踏まえたものであった。

歴史上この演説は、当時ドイツが処々の問題に直面していたが、戦争を続けるために国家の総力を動員することを可能にしたという点で重要な出来事である。ゲッベルスはドイツは妥協も代案も考えておらず、「ドイツはただ、この厳しい戦いのみ考える」と主張した。

ゲッベルスは演説の中で次のような質問を聴衆に投げかけ、聴衆の熱狂的な「ヤー(そうだ)!」の嵐を引き出した。これにより、ドイツ人が勝利への希望を失ったという連合国の主張を否定することを試みたのである。

ゲッベルスは聴衆を慎重に選別し、会場を熱狂的なナチズム信奉者で埋め尽くしている。

演説が行われた1943年2月18日、ミュンヘンでは白いバラ運動で知られるハンス・ショルとゾフィー・ショルの2人がゲシュタポに逮捕された。

2003年 – 韓国大邱地下鉄放火事件(テグちかてつほうかじけん): 地下鉄車両に対する放火事件。死者192名、重軽傷者148名。