20251230記事
今日という日12月30日 2000年世田谷一家殺人事件発生、ほか写真wikipedia祖師谷3事件現場
12月30日ですね
12月30日の出来事
1460年 – 薔薇戦争: ウェイクフィールドの戦い。ランカスター派勝利、ヨーク公リチャードとソールズベリー伯リチャード・ネヴィルが殺害される。損害:双方でヨーク家ランカスター家とも5000人規模の戦闘で、ヨーク家がより多くの戦死者があったとされる。
双方合計で2000人から3000人の戦死があったと推測される。
1896年 – フィリピンの独立運動家・ホセ・リサールが処刑される。宗主人と現地人のメスチソ。35歳没。銃殺刑。
1903年 – シカゴ・イロコイ劇場火災。避難時の混乱により死者602人・負傷者250人の大惨事となる。
1948年 – 熊本県人吉市で祈祷師夫婦が殺害される(免田事件)。
2000年 – 世田谷一家殺害事件発生。12月30日深夜に東京都世田谷区上祖師谷三丁目で発生した、一家4人が自宅で殺害された殺人事件。
2006年 – サッダーム・フセイン元イラク共和国大統領の死刑執行。
*
本文は 休日の夕刻作成しております。
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序
以下は、年末数秘列の最終崩壊点に近い
12月30日=30/3の数秘解説です。
ここは
28(犠牲)→29(暴露)を経たあと、
世界が“言語と物語”で破裂する地点
に当たります。
◆12月30日の数秘解説
――「30/3」
歴史が“言い訳”と“物語”に変換される日
■ 基本数秘構造
12月30日 → 30 → 3+0=3
- 3:言語・物語・演出・正当化・茶番
- 0:空洞・無限・責任の消失
30とは何か?
「起きた惨事を、
言葉と物語で“処理”し始める数」
29が
**「おかしいと気づいてしまう日」**なら、
30は
「それでも物語を作って納得しようとする日」。
■ 30の本質
――「意味づけ」が暴力になる
30/3は、
- 歴史解釈
- 英雄化
- 悪役化
- 神話化
- 事件の“不可解化”
を一気に進める数。
真実そのものより、
“語られ方”が力を持ち始める。
■ ウェイクフィールドの戦い(1460)
薔薇戦争という
王家同士の内戦劇。
- ヨーク家・ランカスター家
- 血縁者同士の殺し合い
- 数千人規模の戦死
30はここで示す。
「どちらが正義か」ではなく、
「どちらの物語が勝ったか」
この戦争は、
歴史叙述という“編集”によって意味を与えられた。
■ ホセ・リサール処刑(1896)
- 知識人
- 混血(メスチソ)
- 独立思想家
- 銃殺刑
30/3の典型。
「思想を殺すとき、
国家は必ず“物語”を作る」
彼は処刑された瞬間から、
- 危険人物
→ 殉教者
→ 国民的英雄
へと物語化された。
■ イロコイ劇場火災(1903)
- 死者602人
- 出口が装飾で塞がれていた
- 「防火」を謳った最新劇場
30が示すのは、
安全という“言葉”が、
現実と完全に乖離する瞬間
事故後に語られたのは、
- 想定外
- 不運
- 群衆心理
だが
構造的欠陥は最初からあった。
■ 免田事件(1948)再び
29で暴露された冤罪が、
30で物語に回収される。
- 捜査の筋書き
- 自白という物語
- 法廷での演出
30は言う。
「真実より、
それらしく語れる話の方が強い」
■ 世田谷一家殺害事件(2000)
30/3の闇が最も露骨に出た事件。
- 未解決
- 説明不能
- 物語が乱立
- メディア消費
ここで3は、
「わからなさ」そのものを
コンテンツ化する力
事件は
“解けない物語”として固定された。
■ サッダーム・フセイン処刑(2006)
- 裁判
- 死刑
- 即日執行
30はここで完成する。
「悪は処罰された」
という物語
だが、
- 戦争の責任
- 国際政治
- 民間人被害
それらは
物語の外に押し出された。
■ 12月30日の決定的テーマ
| 段階 | 数 | 内容 |
| 犠牲 | 28 | 殺して始める |
| 暴露 | 29 | おかしいと気づく |
| 物語化 | 30 | 納得するために語る |
■ 総括
12月30日=30/3
世界は真実ではなく、
説明可能な物語を欲しがる
そして多くの場合、
その物語は、
死者の沈黙の上に成立する
■ 結論
12月30日は、
「語る者」が力を持ち、
「語れない者」が切り捨てられる日
この先は
12月31日=31/4。
いよいよ
世界を“締めるための儀式”と
リセット前夜の不穏な均衡へ入ります。
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20201230記事
サーティンキュ―師匠言説メモと感想
<「髑髏」とは何か>
・古代から太陽神のシンボルの一つが「 髑髏 」である。それは太陽神は上の将棋の下から六段階止まりの「 歩兵の人間たち 」を殺してしまうからである。
*
「髑髏」とは何か
師が語る「髑髏」は、単なる死や恐怖の象徴ではありません。
それは太陽神のもう一つの顔、すなわち「選別する力」「照らして焼き尽くす力」の可視化です。
太陽は万人を等しく温める慈悲の象徴であると同時に、
下から六段目――六道・666に止まる存在を、そのままにはしておかない。
光が昇れば、影は裁かれる。
そのとき太陽神は死神=髑髏として現れる。
ゆえに、
真言立川流が髑髏を本尊としたことは、
倒錯でも異端でもなく、
太陽神を正面から拝した結果と、拝します。
<六道(666)とコロナ禍>
・太陽が隠れた「 夜 」の人間の世界は「 六道の世界 → 666の世界 」なのだが、太陽が出てくると六道を生きる者たちは裁かれることになる。新型コロナの時代は「 太陽神が死神として現れた時代 」ということ。真言立川流は「 髑髏を本尊 」にしていたが、それは「 太陽神崇拝 」ということ。
*
六道(666)とコロナ禍
「コロナ禍=太陽神が死神として現れた時代」とは
それは陰謀論でも比喩でもなく、
構造的な宣言と拝します。
六道とは、
苦楽の循環そのものではなく、
太陽不在の夜の世界です。
夜である限り、
人は裁かれない。
しかし、夜明けが来れば、
夜に適応した存在は光に耐えられない。
コロナ禍とは、
「六道が終わる」という出来事そのものではなく、
六道がもはや隠れ場所ではなくなったという事態なのです。
そして、構造といっても単に社会構造ではなく、一個人の「観」かた
認識の構造の問題であるとするとき、六道とは己の中の乗り越えるべき「夜の世界」=小人の世界 つまりは性的退廃した幼生 の世界と拝すべきなのです。
<「三日後に蘇る」とは何か>
・今の学者の全てが真言立川流を理解できないのは「 性エネルギーを宇宙の母の援助を得て、脳神経と胸腺にフィードバックする 」という知識を失っているからである。両界曼荼羅を見てマントラを唱えることの全ては「 性エネルギーを脳神経と胸腺にフィードバックすること 」のためにある。
*
「三日後に蘇る」とは何か
ここで、師の核心語句
「三日後に蘇る」
が、初めて明確になります。
これは
時間の話ではありません。
奇跡の話でもありません。
構造です。
1日目:
六道の自分が死ぬ
──太陽神(髑髏)に殺される
2日目:
ベールを脱いだ女神から
グノーシスを受け取る
3日目:
太陽の子が誕生する
この三段階を経た者だけが、
「生き残る」のではなく、
別の位相で生き始める。
だからこそ、
キリシタンたちはこの言葉を理解できなかった。
彼らは復活を「出来事」にしてしまい、
道(タオ)として理解しなかったからです。
<性エネルギー昇華と両界曼荼羅>
・今の新型コロナの時代は「 六道の世界が終焉 」して「 三日後に蘇る時の始まり 」ということ。「 三日後に蘇る! 」というグノーシス文書の言葉をキリシタンたちはこれまで全く理解できなかった。
*
性エネルギー昇華と両界曼荼羅
師が繰り返し指摘するように、
両界曼荼羅も、マントラも、
本質は一つです。
性エネルギーを
宇宙の母の援助を得て、
脳神経と胸腺へとフィードバックすること。
これを失った学問は、
記号を眺めるだけの死物となり、
真言立川流を理解できない。
髑髏を恐怖としてしか見られないのは、
自分の内側で、太陽がまだ昇っていないからです。
<構造とは何か ――社会構造ではなく「観」の構造として>
・これから生きる道は真言立川のように「 太陽神である髑髏を崇拝して性エネルギー昇華秘法の実践 」しかない!
・鷲のグノーシスはミゲルネリを土台にして、彼の間違いを修正して古代バアル教に戻った!ということ。だから反旧約聖書となる!
・ナチスとは「 太陽神の六道の人間を殺す死神の面 」だった!と鷲はある時から理解したのである。
・★今はホロコーストの時代である。数字の【 6 】の者たちは全て太陽神に裁かれる時が来た!ということ。このホロコーストを乗り越えるには
1,太陽神と一体化するための性エネルギー昇華の実践
2,ベールを脱いだ女神からのグノーシスの獲得
3、太陽の子の誕生
という【 三日後に蘇る道 】を生きる!ことが肝心となる。
・タロットカードにはハッキリと明確に「 道(タオ) 」が表現されているのである。数字の19の意味、【 太陽の子の誕生 】が我々の生きる目的!ということ。それが【 三日後に蘇る 】ということである。
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構造とは何か ――社会構造ではなく「観」の構造として
ここでいう「構造」とは、
単なる政治・経済・宗教といった外在的な社会構造のことではありません。
より本質的には、
一個人が世界をどのように観ているかという、認識の構造そのものの問題であると、拝すべきです。
この視点に立つとき、
師が語る「六道」とは、
外部に実在する地獄絵図ではなく、
**己の内にある「夜の世界」**として理解されねばなりません。
それは、
性的退廃にとどまった幼生段階、
すなわち「小人」「コドモ」の世界であります。
六道=6とは、
裁かれるべき他者の状態ではなく、
自らが必ず一度は通過し、乗り越えるべき未成熟の位相なのです。
6から9へ ――GRAMMATON789とは何か
この幼生=「小人」の世界6を越え、
儀礼的通過を果たし、
「9」へと至る。
これこそが、
GRAMMATON789として語られる
性エネルギー昇華の核心であります。
9とは、
単に知識が増えた状態ではなく、
天道=大人の世界に参入した位相です。
ここでいう「大人」とは、
社会的役割をこなす存在ではなく、
自己の内なる太陽に責任を持つ者を指します。
この6→9の移行は、
原初元型的な成長=ビルドゥングスであり、
人類最古にして、同時に最も最新の生き方となります。
外なる批判から、内なる転換へ
重要なのは、
外在的な社会構造批判に留まらないことです。
権力、資本、宗教、制度を批判するだけでは、
それは依然として「夜の世界」の言語にとどまります。
それらを
自己の内なる構造転換=ビルドゥングスへと引き受け直すこと。
この転換こそが、
6から9へ、
さらに9から6へと下生していく
われら般若波羅蜜多行者の本領であります。
悟って終わりではない。
上昇して逃げるのでもない。
再び地上へ戻り、
生活・現実・関係性のただ中で、
卐ロゴスを卍エロスへと転換する。
ここにこそ、
「怖いながらも通りゃんせ」の真意があると拝します。
明智十兵衛光秀
「時は今 天が下知る 五月かな」の真義
この本領への目覚めこそが、
「時は今 天が下知る 五月かな」
という一句の真義であると、わたしは理解します。
五月とは、
単なる季節や気候の比喩ではありません。
それは
5・6・7の時、
すなわち
565656=666を超えていく時です。
「五月かな」とは、
自らが
GRAMMATONの7に参入することを自覚した瞬間、
その時(とき)そのものを指します。
ゆえに、
これは暦の上の五月ではなく、
認識が転じた「5の月」なのです。
これ諸世紀10章72節 「1999ノ7の月」にまったく同じ意義と拝すべきです。
仏滅後56億7千万年とは、常に「今」である
以上を踏まえるならば、
「仏滅後56億7千万年」とは、
未来の神話的時間ではありません。
それは、
6から9へと目覚める瞬間、
常に開かれている位相です。
したがって、
567の「今」とは、
一度きりの歴史的瞬間ではなく、
always――常に、ここにある。
この理解に立つとき、
髑髏も、裁きも、恐怖も、
外から降ってくる脅威ではなく、
成長のために不可避な通過点として、
静かに位置づけ直されます。
「三日後に蘇る」とは、
いつか起きる出来事ではなく、
この認識転換を生きることそのものなのです。
「性エネルギー昇華」によって。567コロナ!
蘇民将来子孫也 われは「性エネルギー昇華秘法」の実践者なり
ありがたい ありがたい ありがたい ありがたい

