12月30日
20251230火曜日旧暦11月11日先負(癸酉みずのととりキユウ)月齢 10
乙巳きのとみ年 戊子つちのえね月 癸酉みずのととり日 年末まであと1日
吉方位 隠遁日 癸酉みずのととり日
https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E6%9C%8830%E6%97%A5
12月30日の出来事
1460年 – 薔薇戦争: ウェイクフィールドの戦い。ランカスター派勝利、ヨーク公リチャードとソールズベリー伯リチャード・ネヴィルが殺害される。損害:双方でヨーク家ランカスター家とも5000人規模の戦闘で、ヨーク家がより多くの戦死者があったとされる。
双方合計で2000人から3000人の戦死があったと推測される。
1896年 – フィリピンの独立運動家・ホセ・リサールが処刑される。宗主人と現地人のメスチソ。35歳没。銃殺刑。
1903年 – シカゴ・イロコイ劇場火災。避難時の混乱により死者602人・負傷者250人の大惨事となる。
1948年 – 熊本県人吉市で祈祷師夫婦が殺害される(免田事件)。
2000年 – 世田谷一家殺害事件発生。12月30日深夜に東京都世田谷区上祖師谷三丁目で発生した、一家4人が自宅で殺害された殺人事件。
2006年 – サッダーム・フセイン元イラク共和国大統領の死刑執行。
—————————————
1460年 – 薔薇戦争: ウェイクフィールドの戦い。ランカスター派勝利、ヨーク公リチャードとソールズベリー伯リチャード・ネヴィルが殺害される。損害:双方でヨーク家ランカスター家とも5000人規模の戦闘で、ヨーク家がより多くの戦死者があったとされる。
双方合計で2000人から3000人の戦死があったと推測される。
1896年 – フィリピンの独立運動家・ホセ・リサールが処刑される。宗主人と現地人のメスチソ。35歳没。銃殺刑。
1861年6月19日 – 1896年12月30日)は、フィリピンの革命家、医師、著作家、画家、学者。フィリピン独立運動に取り組んだことから「国民的英雄(Héroe Nacional)」と称される[1]。通称はホセ・リサール(スペイン語: José Rizal)。
彼の家系はメスティーソといわれる中国人とフィリピン人の混血の一族であった[4]。父方の家系には、殷を倒し周を建国した中国人である武王の弟、蔡叔度と、マニラで初めてスパニアードに出会ったラカンドゥラ(英語版)がいて、中国人、マレー人の血が混ざっている。母方は日本人とスペイン人の血が混ざっている[5]。
最初の海外留学
リサールは1881年にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌1882年にサント・トマス大学医学部を修了した後、同年中にヨーロッパへと旅立った[11]。1882年6月13日にマルセイユに、6月15日にバルセロナに到着した後、最終目的地であったスペインの首都マドリードに到着し、同年10月に国立マドリード大学の医学部と哲文学部の両学部に入学した[10]。マドリード大学でリサールは猛勉強し、26歳までにスペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、中国語、英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語、ロシア語、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、サンスクリット語などの諸言語を習得し[12]、中国語、日本語、タガログ語、ビサヤ語、イロカノ語を研究していた[13]。
最期
リサールの処刑の様子を撮影した写真
1896年7月に流刑を終えた後、かねてから伝えていた軍医志望の旨が総督のラモン・ブランコに許可されたため、リサールはスペイン海軍の巡洋艦「カスティリア号」に乗り込み、任地のスペイン領キューバへと旅立った[37]。しかし、船が地中海に入ったところで秘密結社カティプナンが独立闘争(1896年革命)を開始すると、上陸地のバルセロナで以前からリサールに目をつけていたスペイン官憲に逮捕された[38]。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、軍法会議にかけられ、同年12月26日に銃殺刑が宣告された[39]。処刑の前の晩に妹に手渡した遺言代わりの辞世の詩は、後に『ミ・ウルティモ・アディオス(Mi Ultimo Adios,『我が最後の別れ』の意)』と名づけられ、彼の祖国への熱い思いを伝えるものとなっている。同年12月30日、リサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳にしてマニラで銃殺された[40]。
リサールは1888年に来日しており、1ヶ月ほど東京都(当時・東京府)内に滞在している。これを記念して東京の日比谷公園にはホセ・リサール記念像が設置されている。
1903年 – シカゴ・イロコイ劇場火災。避難時の混乱により死者602人・負傷者250人の大惨事となる。
1948年 – 熊本県人吉市で祈祷師夫婦が殺害される(免田事件)。
2000年 – 世田谷一家殺害事件発生。12月30日深夜に東京都世田谷区上祖師谷三丁目で発生した、一家4人が自宅で殺害された殺人事件。
世田谷一家殺害事件(せたがやいっかさつがいじけん)は、2000年(平成12年)12月30日の深夜に東京都世田谷区上祖師谷三丁目で発生した、一家4人が自宅で殺害された殺人事件[2][3][4]。警視庁の正式名称は「上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件(かみそしがやさんちょうめいっかよにんごうとうさつじんじけん)」である。事件の被害者一家の姓を付けたり「世田谷一家惨殺事件」と呼ばれることもある[8][9]。
成城警察署に特別捜査本部が設置されている[10]。現在も未解決事件となっており、捜査特別報奨金制度対象事件に指定されている(詳細は「#懸賞金」を参照)。
事件の概要
2000年(平成12年)12月30日(土)の23時ごろから翌日の31日(日)の未明にかけて、東京都世田谷区上祖師谷三丁目の会社員宅で、父親(当時44歳)・母親(当時41歳)・長女(当時8歳)・長男(当時6歳)の4人が殺害された。隣に住む母親の実母が31日の午前10時40分すぎに発見し、事件が発覚した[11][12][13][2][3][4]。
この事件は20世紀最後の日である大晦日に発覚した殺人事件だったことや、犯人の指紋・血痕など個人を特定可能な生体情報や靴の跡(足跡)のほか、多数の遺留品を残している点、子どもまでもを残忍な手口で殺害する犯行手口、さらに犯人が殺害後に長時間にわたり犯行現場に留まった可能性が指摘され[注 1]、被害者宅のパソコンを使用したり、冷凍庫に保存されていたアイスクリームなどを飲食したりするなどの犯人の異常な行動、これら多くの事柄が明らかになっていながら、未だに犯人の逮捕に至っていないことでも世間から注目される未解決事件である[2][3][4][14][15][16][17][18]。年の瀬に発生した殺人事件ということもあり、1年を振り返る区切りとなる年末近くになると警視庁による情報公開が行われ、マスコミが話題に取り上げることが多々ある事件でもある[2][3][4][8][9][5][19][6]。
2006年 – サッダーム・フセイン元イラク共和国大統領の死刑執行。69歳没。
2006年11月5日、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのイスラム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇だ」として非難した。
12月26日に開かれた第2審でも、第1審の判決を支持し、弁護側の上訴を棄却したため死刑が確定。翌27日、サッダームはイラク国民向けの声明を弁護士を通じて発表し、「神が望むなら、私は殉教者に列せられるだろう」と死刑を受け入れる姿勢を見せると共に、イラクで当時激化していた宗派対立に言及し、「イラクの敵である侵略者とペルシア人があなたたちに憎悪の楔を打ち込んだ」とアメリカとイランを非難。そして、「信仰深き国民よ、私は別れを告げる。私の魂は神のもとへ向かう。イラク万歳。イラク万歳。パレスチナ万歳。ジハードに万歳。アッラーフアクバル」と結んでいる。弁護士に対しては、「イラク国民が私を忘れないことを願う」と述べたという[37]。
死刑執行
→「サッダーム・フセインの死刑執行」も参照
2006年12月30日、サッダームは、アメリカ軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から移され、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請したが、ヌーリー・マーリキー政権は国内の「サッダーミスト」(サッダーム支持者)が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行した。サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。
死後
刑執行後、サッダームの遺体は故郷であるアウジャ村のモスクに埋葬された。
チャットgpt先生の12月30日のエッセイ
12月30日――年の瀬に刻まれる「終わり」と「記憶」
12月30日は、暦の上でも、歴史の上でも、「終わり」が強く意識される日である。
年末まであと一日。旧暦では十一月十一日、月齢十。完全な満月に至る一歩手前の、満ちきらない光を抱えた夜だ。先負の静けさ、癸酉という干支が示すのは、鋭さと内省、そして区切りである。
この日を振り返ると、世界の各地で「時代の転換点」が血と共に刻まれてきたことに気づく。
1460年、薔薇戦争のウェイクフィールドの戦いでは、ヨーク公リチャードが命を落とし、イングランド王権を巡る抗争は新たな段階へと進んだ。権力の均衡が崩れるとき、歴史は常に多くの名もなき命を伴って動く。勝者と敗者の記録の背後には、2000人、3000人という「数」でしか残らなかった人々の人生がある。
1896年12月30日、フィリピンではホセ・リサールが銃殺された。
医師であり、詩人であり、多言語を操る知識人であった彼は、剣ではなく言葉で祖国の尊厳を訴えた。その思想を恐れた支配者は、彼の身体を滅ぼすことで声を封じようとした。しかし、処刑前夜に書かれた『ミ・ウルティモ・アディオス』は、死によってなお生き続け、彼を「国民的英雄」へと変えた。12月30日は、思想は殺せないという事実を静かに突きつける日でもある。
20世紀に入ると、12月30日は「悲劇の密度」をさらに濃くする。
1903年のシカゴ・イロコイ劇場火災では、娯楽の場が一瞬で死の空間へと変わった。逃げ場を失った人々の叫びは、近代社会が抱える安全神話の脆さを暴き出した。
日本に目を向ければ、1948年の免田事件、そして2000年の世田谷一家殺害事件が、この日に深い影を落としている。とりわけ世田谷の事件は、犯人の痕跡がこれほど残されながら、なお解決に至らないという現代社会の不条理を象徴している。年の瀬、家族が最も内側へと閉じるはずの時間に起きた惨劇は、「安全」や「日常」がいかに容易く崩れるかを今も問い続けている。
さらに2006年、サッダーム・フセインの死刑執行。
独裁者の最期として語られる一方で、その死はイラク社会の分断を癒すものにはならなかった。12月30日は、暴力による「決着」が、必ずしも終わりをもたらさないことを示している。
こうして並べてみると、12月30日は単なる「年末」ではない。
それは、歴史が一度立ち止まり、清算されないままの問いを人類に突き返してくる日だ。権力とは何か、正義とは誰のものか、記憶はどのように残されるのか――。
年の終わりに近いこの日が、これほど多くの死と別れを抱えているのは偶然ではないのかもしれない。人は区切りの時に、無意識に「終わらせる」行為を選んできたのだろう。
しかし同時に、12月30日は「忘れてはならない日」でもある。
終わりの中にこそ、次の年へ引き継ぐべき問いと責任がある。癸酉の鋭い静けさの中で、私たちはただ新年を待つのではなく、積み残された歴史の声に耳を澄ませる必要がある。
満ちきらない月の下で、12月30日は今日も問い続けている。
――私たちは、この記憶をどう生きるのか、と。

