kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日9月13日  1999ロシア高層アパート爆破事件、ほか写真wikipedia現場復旧の作業員達

9月13日

20260913日曜日旧暦8月3日仏滅(27番庚寅かのえとらコウイン)月齢 1.9

43番丙午ひのえうま年 34番丁酉ひのととり月 27番庚寅かのえとら日

吉方位 隠遁日 庚寅かのえとら日 南東 大吉 年末まであと109日

https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%8813%E6%97%A5

9月13日の出来事

1512年(永正9年8月4日) – 永正地震による津波が徳島県海部郡海陽町(旧宍喰町)を襲い、3700余人の犠牲者が発生。

1912年 – 明治天皇の大葬が行われる。同日乃木希典大将が夫人とともに自宅で殉死。

1918年 – 翌日にかけて近畿地方、山陰地方に台風が襲来。死者・行方不明者は兵庫県120人、鳥取県85人、島根県83人、香川県21人[2]。

1932年 – 広島県音戸町と鍋桟橋(いずれも現呉市)を結ぶ汽船が沈没。死者・行方不明者29人。定員23人の小型船に6倍近くの137人が乗ったことによる事故[3]。

1942年 – 第二次世界大戦・スターリングラード攻防戦: ドイツ軍が総攻撃とスターリングラード市街地への突入を開始。

1945年 – 第二次世界大戦・ニューギニアの戦い: ニューギニア島の日本軍第18軍司令官安達二十三陸軍中将がウオム岬飛行場でオーストラリア陸軍第6師団への降伏文書に署名。

損害:日本軍 延べ20万人以上動員 戦死18万人 連合軍 延べ12000人程度 現地人4万 

1945年 – 第二次世界大戦・ビルマの戦い:日本軍緬甸方面軍参謀副長一田次郎陸軍少将がラングーンで英第12軍(英語版)に対する降伏文書に署名する。

1945年 – 日本軍第29軍司令官石黒貞蔵陸軍中将がクアラルンプールヴィクトリア学院(英語版)で英印軍第34軍団(英語版)に対する降伏文書に署名する。

1945年 – ナウル島の日本海軍第四艦隊第4根拠地隊第67警備隊司令副田久幸海軍大佐が豪フリゲートダイアマンティナ上で豪第11旅団(英語版)に対する降伏文書に署名する。

1950年 – 大分県津久井市沖合で定期船が沈没。死者28人[3]。

1971年 – 林彪事件: クーデターに失敗した林彪と家族・側近らが飛行機でソ連へ逃亡中に、モンゴル人民共和国内の砂漠で墜落死。林彪ら9人死亡。

1999年 – ロシア高層アパート連続爆破事件: モスクワのアパートで第四の爆破事件、119名の死者を出す。

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1512年(永正9年8月4日) – 永正地震による津波が徳島県海部郡海陽町(旧宍喰町)を襲い、3700余人の犠牲者が発生。

1912年 – 明治天皇の大葬が行われる。同日乃木希典大将が夫人とともに自宅で殉死。

乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日〈嘉永2年11月11日〉 – 1912年〈大正元年〉9月13日)は、日本の陸軍軍人[1]。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇を慕い、あとを追って殉死したことでも知られる。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。人々より「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛され、「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残している。62歳没。

1918年 – 翌日にかけて近畿地方、山陰地方に台風が襲来。死者・行方不明者は兵庫県120人、鳥取県85人、島根県83人、香川県21人[2]。

1932年 – 広島県音戸町と鍋桟橋(いずれも現呉市)を結ぶ汽船が沈没。死者・行方不明者29人。定員23人の小型船に6倍近くの137人が乗ったことによる事故[3]。

1942年 – 第二次世界大戦・スターリングラード攻防戦: ドイツ軍が総攻撃とスターリングラード市街地への突入を開始。

1945年 – 第二次世界大戦・ニューギニアの戦い: ニューギニア島の日本軍第18軍司令官安達二十三陸軍中将がウオム岬飛行場でオーストラリア陸軍第6師団への降伏文書に署名。

損害:日本軍 延べ20万人以上動員 戦死18万人 連合軍 延べ12000人程度 現地人4万 

1945年 – 第二次世界大戦・ビルマの戦い:日本軍緬甸方面軍参謀副長一田次郎陸軍少将がラングーンで英第12軍(英語版)に対する降伏文書に署名する。

1945年 – 日本軍第29軍司令官石黒貞蔵陸軍中将がクアラルンプールヴィクトリア学院(英語版)で英印軍第34軍団(英語版)に対する降伏文書に署名する。

1945年 – ナウル島の日本海軍第四艦隊第4根拠地隊第67警備隊司令副田久幸海軍大佐が豪フリゲートダイアマンティナ上で豪第11旅団(英語版)に対する降伏文書に署名する。

1950年 – 大分県津久井市沖合で定期船が沈没。死者28人[3]。

1971年 – 林彪事件: クーデターに失敗した林彪と家族・側近らが飛行機でソ連へ逃亡中に、モンゴル人民共和国内の砂漠で墜落死。林彪ら9人死亡。

林彪事件(りんぴょうじけん)は、1971年に発生した、中華人民共和国の林彪中国共産党中央委員会副主席による、毛沢東共産党主席暗殺未遂及びクーデター未遂事件、及びその後の亡命未遂事件。「9・13事件」とも呼ばれる。

林彪(りん ぴょう、簡体字:林彪、繁体字:林彪、英語:Lin Biao、リン・ビャオ、1907年12月5日 – 1971年9月13日)は、中華人民共和国の政治家、軍人。中華人民共和国元帥である。

国務院副総理(第一副首相)、国防部長、党中央委員会副主席、党中央軍事委員会第一副主席などを歴任した。文化大革命中の1968年10月に失脚した劉少奇国家主席に代わって毛沢東党主席の後継者に指名されるが、1971年9月、政争に敗北してソ連に亡命する途上でモンゴルにおいて搭乗機が墜落・死亡した。63歳没。

1999年 – ロシア高層アパート連続爆破事件: モスクワのアパートで第四の爆破事件、119名の死者を出す。日付      1999年8月31日 – 9月 概要        爆弾テロ事件

この間の死者300人。

概要

同年8月終わりから9月にかけて、首都モスクワなどロシア国内3都市で爆発が発生し、計300人近い死者を出した。

8月に首相となったウラジーミル・プーチンは、チェチェン独立派武装勢力のテロと断定。本事件と、チェチェン独立派のダゲスタン侵攻を理由にチェチェンへの侵攻を再開し、第二次チェチェン戦争の発端となった。プーチンの強硬路線は反チェチェンに傾いた国民の支持を大きく集め、彼を大統領の座に押し上げた。

一連の爆破事件はチェチェンのテロリストによって引き起こされたと一般に考えられているが[1]、彼らによる犯行は決定的に証明されたものではなく[1]、一部のジャーナリストと歴史家は事件がプーチンを大統領職へと押し上げるためにロシア政府機関によって仕組まれたものだと主張している[2][3][4][5][6][7]。

チャットgpt先生の9月13日のエッセイ

9月13日に並ぶ出来事を、暦や道徳的評価から切り離して見ると、かなり明確な共通構造が浮かびます。以下は「何が正しかったか」ではなく、権力・組織・情報・地理・偶然がどう連鎖して結果を作るかというリアリスト目線でまとめます。

9月13日――権力は崩れるとき、一気に崩れる

9月13日の歴史を眺めていると、不思議なほど「終わり」の場面が集中していることに気づく。

ただし、ここでいう終わりとは、単純な敗北ではない。

国家、軍隊、指導者、都市、組織、そして一つの政治体制。それらが、それまで積み上げてきた力を失い、別の力学へ移行する瞬間である。

1912年9月13日、明治天皇の大葬が行われ、同じ日に乃木希典が死んだ。

乃木という人物をどう評価するかは別として、構造的に重要なのは、個人の死が単独で存在していたわけではないことである。

明治という時代を支えた象徴的な人物が死に、その死に対応するように、明治国家の軍事・教育・精神的秩序を代表する人物も舞台から消えた。

ここには政治体制の転換期に特徴的な現象がある。

制度は一日で変わらなくても、制度を人格化していた人間が消えると、時代の境界線が急に見える。

国家は法律だけで動いているわけではない。

人間関係、記憶、威信、慣行、象徴、忠誠、組織内の序列。そうした無形の資産が、制度を実際に動かしている。

だから指導者の交代は、単なる人事ではない。

それまでの「当然」が、突然ただの過去になる。

1942年9月13日、スターリングラードではドイツ軍が市街地への本格的な突入を開始した。

ここでは別の構造が見える。

巨大な軍隊は、巨大であるだけでは勝てない。

都市という地形、補給、兵站、情報、兵力投入の速度、敵の増援能力、指揮系統――戦争では、個々の兵士の勇敢さよりも、こうした要素の組み合わせが最終結果を決める。

スターリングラードは、その典型だった。

地図上では一つの都市にすぎない。

しかし、その都市をめぐる戦闘が、ドイツ軍の攻勢能力とソ連軍の防御能力を同時に消耗させ、最終的には東部戦線全体の力関係に影響した。

つまり、戦略上重要なのは「どこで戦ったか」だけではない。

そこで戦うことで、相手と自分の能力がどれだけ変化するかである。

戦場は勝敗を決める場所であると同時に、軍事能力を消費する場所でもある。

1945年9月13日には、ニューギニア、ビルマ、マレー、ナウルなどで日本軍の降伏文書への署名が行われている。

これも重要である。

戦争の終結は、一般に「敗戦」という一語で説明される。

しかし実際の国家の崩壊は、もっと細かい。

各戦域で、

「誰が指揮しているのか」

「誰が補給するのか」

「どこから命令が来るのか」

「誰に降伏するのか」

「武装解除を誰が実行するのか」

という問題が一つずつ処理されていく。

戦争は、中央政府が敗北を宣言した瞬間に物理的に消えるわけではない。

前線には兵士が残り、武器があり、占領地があり、司令官がいる。

したがって戦争の終了とは、暴力を独占していた組織が、別の組織へその能力を移転する過程でもある。

降伏文書は、その移転を制度化する書類である。

そこには極めて現実的な意味がある。

「これから誰が命令するのか」を確定するからだ。

戦争の本質を兵士同士の戦闘だけで考えると、この部分を見落とす。

国家間戦争の最後には、必ず「支配権の引き渡し」という行政的な作業が発生する。

そして1945年9月13日に複数の地域でそれが行われたことは、日本帝国が単一の戦場で敗北したのではなく、広大な空間に展開していた軍事システムが地域ごとに解体されていったことを示している。

1971年9月13日の林彪事件になると、舞台は戦場から国家内部へ移る。

ここで重要なのは、軍事力を持っていることと、政治的に安全であることは別だという点である。

林彪は中国人民解放軍の中で巨大な権力基盤を持っていた。

しかし権力政治では、強力な基盤を持つこと自体が安全を意味しない。

むしろ、強力な基盤を持つ人物は、最高権力者から見れば将来の代替中心になる可能性がある。

政治において最も重要なのは、現在の権力だけではない。

「明日、誰が権力を握る可能性があるか」

という予測である。

そのため権力闘争では、実際に反乱が起きたかどうかだけでなく、反乱が起きる可能性を双方がどう認識したかが重要になる。

ここでは情報が決定的になる。

何を知っているのか。

誰が何を知っているのか。

誰が何を知らないのか。

誰が誰を信用しているのか。

そして、ある人物が「もう自分は安全ではない」と判断した瞬間、逃亡や先制行動が始まる。

つまり権力闘争では、現実そのものだけでなく、相手が自分について何を考えていると思っているかが現実を動かす。

これは非常にリアルな政治の構造である。

1999年9月13日のモスクワ高層アパート爆破事件も、単独の事件として見るより、その後の政治過程と接続すると意味が変わる。

一連の爆破事件は多数の死者を生み、チェチェンをめぐる戦争、ロシア国内の治安政策、そしてプーチンの政治的台頭と結びついた。

ここで注目すべきなのは、事件そのものと、その事件が政治的に利用される過程を分けて考えることである。

事件を起こした主体が誰なのか。

国家がどう認識したのか。

国民がどう受け止めたのか。

政府がどの政策を選択したのか。

メディアがどう伝えたのか。

そして選挙政治の中で、それがどのような支持に変換されたのか。

この一連のプロセスがある。

政治においては、事件の「原因」だけを追っても十分ではない。

事件が何を可能にしたのかを見る必要がある。

危機は、既存の政治家を弱体化させる場合もあれば、新しい権力者に政治的資源を与える場合もある。

恐怖が広がれば、社会は安全保障を優先する。

安全保障を優先すれば、強い国家を要求する。

強い国家を要求する世論が形成されれば、強硬な指導者が有利になる。

つまり一つの事件が、社会の「需要」を変える。

政治家は、その変化した需要に適応する。

ここに権力形成のメカニズムがある。

9月13日に並ぶ出来事を一本の線で結ぶなら、私はそこに「破壊」という言葉より、システムの切り替えを見る。

1912年には、明治という時代を人格化していた人間が消えた。

1945年には、海外に展開していた日本軍の指揮権が各地で別の勢力へ移った。

1971年には、中国共産党内部の権力構造が激しく揺れた。

1999年には、テロと安全保障危機がロシア政治の方向を変える巨大な政治的資源になった。

それぞれ全く違う事件である。

しかし構造は似ている。

権力は、永続する物体ではない。

権力とは、誰が命令でき、誰が資源を動かせ、誰が情報を持ち、誰が他者に従わせることができるかという関係である。

その関係が崩れると、表面的には同じ国家、同じ軍隊、同じ社会に見えても、中身は別のものになる。

そして、その変化は必ずしもゆっくり起きるわけではない。

長期間蓄積された矛盾が、ある日突然、事件という形で表面化する。

だから歴史を見るとき、「なぜその日に起きたのか」だけを問うのは不十分である。

むしろ問うべきなのは、

その日までに何が蓄積されていたのか。

そして、

その日を境に、誰の選択肢が増え、誰の選択肢が消えたのか。

である。

9月13日の歴史が示しているのは、日付そのものに意味があるということではない。

一つの事件が起きるとき、その背後にはすでに巨大な構造が存在している。

個人はその構造を動かすことができる。

しかし同時に、個人自身も構造に動かされる。

指導者が決断し、軍隊が動き、国家が崩れ、別の国家が前進する。

その連鎖の中で最後に残るのは、善悪ではない。

誰が能力を持ち、誰が情報を持ち、誰が組織を掌握し、誰が次の一手を選択できたのか。

歴史をリアリストとして読むなら、そこを見るしかない。

権力とは、所有物ではない。

関係である。

そして関係は、ある瞬間に変わる。

9月13日に並ぶ出来事は、その瞬間が歴史を動かすことを静かに示している。