8月3日
20260803月曜日旧暦6月21日友引(46番己酉つちのととりキユウ)月齢 19.7
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 46番己酉つちのととり日
吉方位 隠遁日 己酉つちのととり日 北西 大吉 年末まであと150日
https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%883%E6%97%A5
8月3日の出来事
435年 – エフェソス公会議で異端とされたネストリウスに対し、東ローマ皇帝テオドシウス2世が国外追放を命ずる。ネストリウスはエジプトへ移る。
672年(弘文天皇元年/天武天皇元年7月2日) – 壬申の乱: 美濃に逃れた大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子(弘文天皇)に対し挙兵。
戦争:壬申の乱
年月日:
(元嘉暦)天武天皇元年6月24日 – 7月23日
(西暦)672年7月24日 – 8月21日
場所:美濃国、近江国、伊勢国、伊賀国、大倭国
結果:大海人皇子軍の勝利、近江朝廷の滅亡
損害:大海軍3万中 不明。大友軍3万中 壊滅。
1347年 – 百年戦争: カレー包囲戦が終結。カレー開城の際、6人の市民代表が人質となり他の市民を救う。
戦争:百年戦争
年月日:1346年9月4日 – 1347年8月3日
場所:フランス、カレー
結果:イングランド軍の勝利
1492年 – クリストファー・コロンブスがスペインから1回目の西方への航海に出発。
1916年 – 第一次世界大戦: ロマニの戦いが始まる。
戦争:第一次世界大戦
年月日:1916年8月3日から5日
場所:シナイ半島
結果:連合軍の勝利
損害:イギリス軍 1万人中 1000人戦死 オスマン帝国軍 18千人中 9200人戦死。
1945年-沖縄戦8月3日・米軍は、戦地からの戦利品をお土産として家に輸送することを許可していた。当然、兵士は沖縄各地で戦利品狩りに夢中になった。<引用先原文>・土産物には不思議な熱意が示された。もし、日本人の死への決意がたいていのアメリカ人には説明しても受け入れられないとしたら、ほとんど無価値な日本の工芸品に対するアメリカ人の情熱も、奇怪といえる。歩兵のエネルギーの一滴たりとも無駄にせず、生き残ることが要求された作戦では、いちばん恐ろしいことのひとつが土産品狩りに行くことは全員が知っていた。… 老練の兵士でも、あれほど苦しい思いをして身に付けた戦闘知識の基本原則を破った。冷静で注意深い男が、何かいいものを発見するために、洞窟に入っていく危険を冒したこともあった。(317頁)
アメリカ兵の本国宛の手紙のかなりの多くが、戦利品のこと、それが没収された時の恨みごとを書いていた。「これを手に入れるのには命懸けだったんだ。それをどこかの馬鹿者がもっていきやがった」と、… 自分の愚かさをさらけ出しているのにも気づかないで、不平をこぼしていた。前線で戦った者の多くは、後方勤務の部隊が自分たちのために宝物を盗んだと確信していた。中には禁制の武器として没収されたものや、公式に禁止されている死者の切断の証拠として没収されたものもあった。(319頁)《「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 》・アメリカ兵は、彼らの自由な時間を使って過度に「収集」に熱中していた…日本刀は最高の記念品であった。その他、珍重されたものは、日章旗、中でも特定の部隊の全員が署名した大きな旗、さらに、腹巻があり、これは愛する母親が兵士の家の近所にいる千人の女性に一針ずつの寄進を懇願したものだった。…手紙類、歯、ベルト、人骨、下着、黄色くなったスナップ写真、汚い帽子、時計、小銃、櫛、茶碗、指、液につけた指など様々だった。…それは軍隊のものでなくてもよかった。どんな質素な沖縄住民の家にも、壁に家族の写真がかけてあり、… 軍服や着物、上着をつけて写っていた。それも戦利品になった。《「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 327-318頁より》・住民が強制収容された廃墟から文物をあさる行為を、souvenir hunting 「お土産捜し」という名のもとに米軍が許容してきた結果として、沖縄戦では多くの文物が大量に米国に持ち帰られたのであるが、それは明確に、戦場での looting「略奪行為」として定義されているものである。<引用先原文>・米陸軍公刊史
一方、米軍人による土産物探しは、民間人の衣類に深刻な被害をもたらした。深刻な (収容所での) 衣類不足を報告した月に、第27師団は米軍が住宅略奪の罪を犯していると示唆した。オリバー J. チェイカ大尉「最も恥ずべき破壊行為の例…安谷屋では衣服、あらゆるものが家から投げ捨てられた。作戦の非常に早い段階で、慶良間列島の座間味村でも、土産物ハンターが第8-9分遣隊の (民間人用に村から) 回収された靴と衣類の倉庫の75%を盗んでいた」<Arnold G. Fisch, Military Government in the Ryukyu Islands, 1945- 1950; U.S. Army, Washington, D.C., 1988. p. 51. – Basically Okinawa>・沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。敗北が決定的となった後も、日本軍は戦いを続け、さらなる悲劇を生む。<沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~|NHK 戦争証言アーカイブス>
1957年 – 米軍機母子殺傷事件。1957年8月2日に茨城県でアメリカ軍機が日本人親子を死傷させた事件である。ゴードン事件ともいう[1][2]。
アメリカ側は不可抗力による事故であると主張したが、日本側の地方自治体側は操縦者による悪戯が原因であると主張し真っ向から対立した。
1975年 – パリ発イモヴセール行きのロイヤル・ヨルダン航空のチャーター便ボーイング707型機が着陸進入中にアガディール近郊に墜落、乗員乗客188名全員が死亡。(en:1975 Agadir Morocco Air Disaster)
2019年 – アメリカテキサス州にてエルパソ銃乱射事件が発生[6]。20人以上が死亡。
—————–
435年 – エフェソス公会議で異端とされたネストリウスに対し、東ローマ皇帝テオドシウス2世が国外追放を命ずる。ネストリウスはエジプトへ移る。
概説
4世紀から5世紀に入るとキリスト論の議論はアレクサンドリア総主教(総大司教)キュリロスとコンスタンティノポリス大主教ネストリオスの論争が中心になっていた。キリスト教を二分したこの論争はそもそもキリスト論をめぐって対立していたアレクサンドリア学派とアンティオキア学派の対立を源とする根の深いものであった。
ネストリオスはアリウス主義(キリストの神性否定)およびアポリナリオス主義(キリストは人間の霊を持たず神の霊しか持たない)に論駁するため、イエス・キリストの人間性と神性とを完全に独立した二つの自立存在(ヒュポスタシス)として並存していたと考えていた。ネストリオスはこの思想の表現としてマリアを「神の母」(ギリシャ語:テオトコス)というより「キリストの母」(ギリシャ語:クリストトコス)と呼ぶ方がふさわしいと主張していた。このネストリオスの教説はテオドトスの養子論と酷似していたとも評価されている[1][要ページ番号]。これに対しキュリロスは、キリストは唯一の自立存在であると強く反対した。何故なら、自立存在が本性ではなく位格側に存するのは、サベリオス主義を排斥した第1コンスタンティノポリス公会議[2]で教理確定していたためである。また、「言(ロゴス)」や「御子」のような神性を表す名詞の主語と人性を表す述語からなる命題が聖書や典礼文にも存在し、このことに関しても言及した。これをテオトコス論争という。
672年(弘文天皇元年/天武天皇元年7月2日) – 壬申の乱: 美濃に逃れた大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子(弘文天皇)に対し挙兵。
戦争:壬申の乱
年月日:
(元嘉暦)天武天皇元年6月24日 – 7月23日
(西暦)672年7月24日 – 8月21日
場所:美濃国、近江国、伊勢国、伊賀国、大倭国
結果:大海人皇子軍の勝利、近江朝廷の滅亡
損害:大海軍3万中 不明。大友軍3万中 壊滅。
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 – 7月23日(ユリウス暦672年7月24日 – 8月21日[注釈 1])に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった。
名称の由来は、天武天皇元年(672年)が干支で壬申に当たることによる。
1347年 – 百年戦争: カレー包囲戦が終結。カレー開城の際、6人の市民代表が人質となり他の市民を救う。
戦争:百年戦争
年月日:1346年9月4日 – 1347年8月3日
場所:フランス、カレー
結果:イングランド軍の勝利
カレー市民
フランス側では、カレー開城の際に6人の市民代表がエドワード3世の元に出頭して市民を救ったという以下のような話が広く知られており、ロダンはこれを元に彫像「カレーの市民」を作成し、現在もカレー市内に設置されている。ただし、イングランド側では、騎士道を重んじたエドワード3世が市民を全員処刑するつもりだったというのは在り得ない話だと否定的である。
カレーが飢餓により開城を申し出た時、エドワード3世は、これ程に抵抗してイングランドを苦しめた罰として、全市民を処刑するも身代金を取るもエドワード3世の自由とする無条件降伏を要求した。しかし、交渉に当たったウィリアム・マーニーなどの忠告により、市民を助ける代わりに主要な6人の市民が代表として、無帽、裸足で首に処刑のためのロープをまいて出頭するよう命じた。これを受けて、ユスターシュ・サンピエールを始めとした6人の市民が勇敢に名乗りを上げ、指示された通りの装いで城門の鍵を持って王の元に現れた。王は彼らの処刑を命じたが、王妃フィリッパの涙ながらの取り成しにより、彼らの命を助けた。フィリッパは彼らを丁重にもてなしカレーに帰らせた。
1492年 – クリストファー・コロンブスがスペインから1回目の西方への航海に出発。
1916年 – 第一次世界大戦: ロマニの戦いが始まる。
戦争:第一次世界大戦
年月日:1916年8月3日から5日
場所:シナイ半島
結果:連合軍の勝利
損害:イギリス軍 1万人中 1000人戦死 オスマン帝国軍 18千人中 9200人戦死。
ロマーニの戦い(ロマーニのたたかい、英語: Battle of Romani、もしくはロマニの戦い)は、第一次世界大戦中の1916年に起こった、オスマン帝国とイギリスとの戦いである。エジプトのシナイ半島の地中海沿岸、スエズ運河から23マイル東にあるロマーニの町の付近で行われた。
1916年8月3日夜、パレスチナ南部から進撃してきたフリードリヒ・クレス・フォン・クレッセンシュタイン率いるオスマン帝国軍は、ロマーニでイギリス軍守備隊を攻撃した。ロマーニは北からシナイ半島を横切ってスエズ運河へ向かうルートにあり、運河の北側からの出入りを支配する戦略的に重要な土地であった。
5日まで続いた戦闘の結果、イギリス軍の堅い守りによってオスマン軍は撃退された。そして、この後は連合軍が攻勢に出てオスマン軍はシリアまで後退させられていった。
1945年-沖縄戦8月3日・米軍は、戦地からの戦利品をお土産として家に輸送することを許可していた。当然、兵士は沖縄各地で戦利品狩りに夢中になった。<引用先原文>・土産物には不思議な熱意が示された。もし、日本人の死への決意がたいていのアメリカ人には説明しても受け入れられないとしたら、ほとんど無価値な日本の工芸品に対するアメリカ人の情熱も、奇怪といえる。歩兵のエネルギーの一滴たりとも無駄にせず、生き残ることが要求された作戦では、いちばん恐ろしいことのひとつが土産品狩りに行くことは全員が知っていた。… 老練の兵士でも、あれほど苦しい思いをして身に付けた戦闘知識の基本原則を破った。冷静で注意深い男が、何かいいものを発見するために、洞窟に入っていく危険を冒したこともあった。(317頁)
アメリカ兵の本国宛の手紙のかなりの多くが、戦利品のこと、それが没収された時の恨みごとを書いていた。「これを手に入れるのには命懸けだったんだ。それをどこかの馬鹿者がもっていきやがった」と、… 自分の愚かさをさらけ出しているのにも気づかないで、不平をこぼしていた。前線で戦った者の多くは、後方勤務の部隊が自分たちのために宝物を盗んだと確信していた。中には禁制の武器として没収されたものや、公式に禁止されている死者の切断の証拠として没収されたものもあった。(319頁)《「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 》・アメリカ兵は、彼らの自由な時間を使って過度に「収集」に熱中していた…日本刀は最高の記念品であった。その他、珍重されたものは、日章旗、中でも特定の部隊の全員が署名した大きな旗、さらに、腹巻があり、これは愛する母親が兵士の家の近所にいる千人の女性に一針ずつの寄進を懇願したものだった。…手紙類、歯、ベルト、人骨、下着、黄色くなったスナップ写真、汚い帽子、時計、小銃、櫛、茶碗、指、液につけた指など様々だった。…それは軍隊のものでなくてもよかった。どんな質素な沖縄住民の家にも、壁に家族の写真がかけてあり、… 軍服や着物、上着をつけて写っていた。それも戦利品になった。《「天王山 沖縄戦と原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 327-318頁より》・住民が強制収容された廃墟から文物をあさる行為を、souvenir hunting 「お土産捜し」という名のもとに米軍が許容してきた結果として、沖縄戦では多くの文物が大量に米国に持ち帰られたのであるが、それは明確に、戦場での looting「略奪行為」として定義されているものである。<引用先原文>・米陸軍公刊史
一方、米軍人による土産物探しは、民間人の衣類に深刻な被害をもたらした。深刻な (収容所での) 衣類不足を報告した月に、第27師団は米軍が住宅略奪の罪を犯していると示唆した。オリバー J. チェイカ大尉「最も恥ずべき破壊行為の例…安谷屋では衣服、あらゆるものが家から投げ捨てられた。作戦の非常に早い段階で、慶良間列島の座間味村でも、土産物ハンターが第8-9分遣隊の (民間人用に村から) 回収された靴と衣類の倉庫の75%を盗んでいた」<Arnold G. Fisch, Military Government in the Ryukyu Islands, 1945- 1950; U.S. Army, Washington, D.C., 1988. p. 51. – Basically Okinawa>・沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。敗北が決定的となった後も、日本軍は戦いを続け、さらなる悲劇を生む。<沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~|NHK 戦争証言アーカイブス>
1957年 – 米軍機母子殺傷事件。1957年8月2日に茨城県でアメリカ軍機が日本人親子を死傷させた事件である。ゴードン事件ともいう[1][2]。
アメリカ側は不可抗力による事故であると主張したが、日本側の地方自治体側は操縦者による悪戯が原因であると主張し真っ向から対立した。
事件の概略
当時茨城県にあったアメリカ軍水戸対地射爆場(現・ひたちなか地区)から離陸したL-22連絡機が上昇せず、滑走路東端から500mはなれた道路を自転車で走行していた親子に機体が接触し、母親(当時63歳)は胴体を切断され即死、息子(当時24歳)も腹部に重傷を負った[3][4]。
この異常な離陸についてアメリカ軍側は異常高温による熱気流が原因の不可抗力による事故であるとした。しかし、地元ではアメリカ軍のパイロットがわざと低空飛行を行い通行人を驚かしていたことが度々あったと主張し、今回の事件は同様なイタズラをしようとして不幸な結果を招いたとしていた。
幕引き
しかし、この事件は8月21日に中尉がアメリカ軍の公務中に起きたものであるとして、日米行政協定により日本側の第一次裁判権が放棄され捜査も終了した。また日本政府が東京調達局を通じて遺族側に432,044円を補償すると通知し、遺族側も了承したとして事態を収拾した[4]。
1975年 – パリ発イモヴセール行きのロイヤル・ヨルダン航空のチャーター便ボーイング707型機が着陸進入中にアガディール近郊に墜落、乗員乗客188名全員が死亡。(en:1975 Agadir Morocco Air Disaster)
2019年 – アメリカテキサス州にてエルパソ銃乱射事件が発生[6]。20人以上が死亡。
概要
発生場所は、エルパソ国際空港の南側にあるショッピングセンター街「シエロ・ヴィスタ・モール」にあるウォルマート店舗内。イヤーマフをはめAK-47シリーズの自動小銃(ルーマニア製のWASR10)を構えた男が店舗の入口から侵入し、買い物客らに銃を向けて乱射。店内は、学校の新学期に向けた買い物をする客で満員だったため被害が拡大。23人が死亡し数十人が負傷した。
通報を受けた警察は実行犯を逮捕。犯人は、エルパソから1,000キロメートル離れたダラス近郊アレン市在住の20代の白人男性であった[3][4][5]。また犯行直前には匿名掲示板の8chanに「マニフェスト」と題する予告声明を出していたことが判明している。
チャットgpt先生の8月3日のエッセイ
8月3日――勝者が秩序を書き換える日
8月3日という日を眺めると、一つの構造が繰り返し現れる。それは「戦いそのもの」ではなく、「勝敗が確定した後、誰が秩序を定義するか」という構造である。
435年、ネストリウスは異端として追放された。神学論争は教義の違いだけでは終わらない。政治権力が介入した瞬間、「正しい教義」は国家によって確定され、「異端」は思想ではなく身分になる。宗教史とは思想史である以前に、制度史でもある。
672年、壬申の乱では大海人皇子が挙兵した。後の天武天皇である。日本史では数少ない、反乱側が正統となった例である。ここで重要なのは、勝者が歴史を書き換えたことだ。もし大友皇子が勝っていれば、大海人皇子は逆賊として記録された可能性が高い。歴史とは出来事の記録ではなく、最終的な支配権の記録でもある。
1347年、百年戦争のカレー包囲戦が終結する。一年近い包囲戦は、「城壁を壊す」戦いではなく、「補給を断つ」戦いだった。中世の戦争は勇猛さよりも兵站が勝敗を決める。都市は剣で落ちるより先に、飢餓で降伏する。
1492年、コロンブスが西へ向かった。彼は新大陸を探しに出たのではない。アジアへの新航路を探した結果として未知の世界に到達したのである。歴史的大発見は、目的を達成した成功ではなく、副産物として生まれることが少なくない。
1916年、ロマニの戦いではスエズ運河防衛が焦点となった。ここでも争われたのは都市ではなく交通路だった。運河一本が帝国の物流を支配し、その物流が戦争全体を左右する。近代戦は土地よりネットワークを奪い合う時代へ移行していた。
1945年の沖縄では、戦闘終結後も別の現象が広がっていた。戦利品の収集である。前線兵士は命を懸けて物品を持ち帰ろうとし、軍はそれを規制しようとした。ここには興味深い構造がある。戦争は国家同士の戦いだが、個人にとっては「何を持ち帰るか」という経済活動でもあった。軍隊という巨大組織の中でも、人間は常に私的利益を追求する存在であり続ける。
1957年の米軍機母子殺傷事件では、事故原因を巡って日米の説明は対立した。しかし最終的には日米行政協定という制度が司法の方向性を決めた。事実認定だけではなく、どの制度が適用されるかが結論を左右する。法制度は現実の上に存在するのではなく、現実そのものを形作る。
1975年のアガディール航空事故では188人全員が死亡した。航空輸送は圧倒的に安全な交通手段である一方、一度事故が起きれば被害は極端に集中する。「低頻度・高損害」という典型例であり、現代社会はこの種のリスク管理の上に成立している。
2019年のエルパソ銃乱射事件は、現代社会の別の特徴を示した。大量殺傷そのものだけではなく、犯行前のオンライン発信が事件の一部となったことである。情報空間と現実空間は分離せず、発信・拡散・実行までが一つの連続した現象となる時代に入っている。
8月3日を貫く共通項は、「勝敗」「制度」「物流」「情報」である。
軍事力だけが歴史を動かしているわけではない。勝った側が教義を定め、法律を定め、歴史を書き、物流を支配し、情報を流通させる。その支配は戦場よりも、その後の制度設計によって長く維持される。
歴史は英雄の決断だけで動くのではない。制度を作る者、補給線を握る者、記録を書く者、情報を管理する者が、最終的な現実を形づくる。
8月3日は、その「勝利の後に始まる支配構造」を静かに映し出している日である。

