7月20日
20260720月曜日旧暦6月7日赤口(32番乙未きのとひつじイツビ)月齢 5.7
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 32番乙未きのとひつじ日
吉方位 隠遁日 乙未きのとひつじ日 南西 西 大吉 年末まであと164日
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8820%E6%97%A5
7月20日の出来事
1402年 – アンカラの戦い。
時 1402年7月20日、あるいは7月28日
場所 アンカラ近郊のチュブク草原
北緯40度09分 東経32度57分座標: 北緯40度09分 東経32度57分
結果 ティムール朝の勝利 オスマン帝国の空位時代の始まり
損害 不明だが ティムール軍 14万と オスマン軍 12万の激突であり、
ティムール軍は 甚大被害と考えられる。
1656年 – 北方戦争: ワルシャワの戦いが終結。
戦争:北方戦争
年月日:1656年7月28日 – 7月30日
場所:ポーランドのワルシャワ
結果:スウェーデン=ブランデンブルク連合軍の勝利。
損害:スウェーデン、ブランデンブルグ連合軍1万8千人中 戦死700人 ポーランドリトアニア共和国軍 8万人中 戦死3000人
1864年 – 南北戦争: ピーチツリークリークの戦い。
時 1864年7月20日
場所 ジョージア州フルトン郡
結果 北軍の勝利
損害 北軍 戦死1710人 南軍 戦死4796人
1866年 – 普墺戦争: リッサ海戦。
戦争:普墺戦争
年月日:1866年7月20日
場所:リッサ島沖(アドリア海)
結果:オーストリア艦隊の勝利
損害:オーストリア軍 戦死38人 イタリア軍 戦死620人
1907年 – 福岡・豊国炭鉱で爆発事故。死者365人を出す明治期最悪の炭鉱事故となる。
1944年 – 第二次世界大戦: クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らを首謀者とするヒトラー暗殺未遂事件が発生(7月20日事件)。
1945年 – 第二次世界大戦・太平洋戦争・日本への原子爆弾投下: アメリカ軍がパンプキン爆弾による原子爆弾投下訓練を開始。
1945年-沖縄戦7月20日・今帰仁の運天港は日本海軍の秘匿拠点で、第27魚雷艇隊 (白石隊) や、第2蛟龍隊 (特殊潜航艇隊 鶴田隊)、第226設営隊 (山根隊) が配備され、住民総動員で陣地構築したが、十・十空襲、また1945年3月末に激しい攻撃の標的となり、4月6日には拠点放棄、敗走し国頭支隊の指揮下に入る。白石隊と渡辺隊は北部山地を転々と移動し住民から食料を収奪、住民虐殺を繰り返した。白石隊は9月3日に投降する。宇土部隊の隊長は10月3日頃に投降した。<引用先原文>・敗残兵が食糧を求め武器を振りかざして民間人収容所を襲撃することは珍しくなかった。彼らは日本兵捕虜が収容されている屋嘉収容所などを襲撃するのではなく、手薄で粗雑な警備の民間人収容所を襲い、食糧を奪った。
南部の収容所 – 久手堅
与那原は日本軍の拠点となっており、海上特攻の拠点もおかれていた。米軍の5月21日の与那原占領の後、24日には与那原奪還を試みるも失敗し敗走。7月19日の久手堅収容所襲撃で人々を襲ったのは、彼らと思われる。<引用先原文>・砂辺→島袋→宜野座に移された北谷女性 (39歳) の証言
宜野座では、島袋よりももっと食糧難でした。一か月も経たぬうちにみんな飢え死にしそうになっていました。… おばあさんたちや子供たちから、栄養失調でつぎつぎと死んで行きました。それでも土地の人たちは、カンダバーが畑に沢山あるのに、私たちにはゆずってくれませんでしたよ。<沖縄戦証言 北谷町砂辺 – Battle of Okinawa>・11月11日、沖縄を占領している米軍は住民に密葬・洗骨の禁止令をだす。米軍は死者の遺骨まで占領する。<引用先原文>・食料なく餓死者が出る北部の収容所。食糧を探しに山に入る女性たちをさらに狙ってやってくる米兵たちがいた。<引用先原文>・北谷町砂辺出身の二十歳の女性の証言 漢那 (漢那収容所) からは、どこにも行けなかったんですよ。中川(金武村)めたりに、米軍のキャンプができていて、それから先には通れませんでした。金武や石川(旧美里村)は、食糧事情がとてもいいという噂を聞いていたんですが。漢那では、一人一週間分として米二合しか配給がありませんでした。私たちは、私とおじいさんと子供の分の配給でしたけど、それだけではとても足りないもんですから、私は毎日イモ掘り作業に出掛けていました。惣慶(伯金武村)に五名でイモ掘りに行ったとき、私だけが危険な目に逢ったことがありました。私たちがイモ掘りを畑の中でしているときでした。突然ジープに乗ったアメリカ兵が来たんですよ。<沖縄戦証言 北谷町砂辺 – Battle of Okinawa>
1969年 – アポロ計画: 「アポロ11号」が、人類史上初めて月に到達[5]「とされる」。
2003年 – 水俣市土石流災害: 豪雨により、熊本県水俣市で大規模な土石流災害が発生。19人が死亡、7人が負傷した[11]。
2012年 – オーロラ銃乱射事件: アメリカ合衆国コロラド州の映画館で銃の乱射事件が発生し、12人が死亡し、50人以上が負傷した[12][13]。
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1402年 – アンカラの戦い。
時 1402年7月20日、あるいは7月28日
場所 アンカラ近郊のチュブク草原
北緯40度09分 東経32度57分座標: 北緯40度09分 東経32度57分
結果 ティムール朝の勝利 オスマン帝国の空位時代の始まり
損害 不明だが ティムール軍 14万と オスマン軍 12万の激突であり、
ティムール軍は 甚大被害と考えられる。
アンカラの戦い(アンカラのたたかい、オスマン語: آنقره محاربهسی)とは、1402年7月20日[6][7][8]、あるいは7月28日[9])にアンカラ近郊のチュブク草原で、オスマン帝国のスルターン(君主)であるバヤズィト1世と、ティムール朝の大アミール(君主)であるティムールの間で行われた戦闘である。戦闘はティムールの勝利に終わり、ティムールが自軍に不利な場所での戦闘を回避したこと[10]、アナトリアのベイリク(君侯)から情報を得て裏工作を終えていたため[10]、戦闘でオスマン軍から離脱者が続出したこと[8][10]が勝因に挙げられている。この戦闘はティムールにとって大きな勝利であり、またオスマン帝国に空位時代(英語版)をもたらした[11]。
1656年 – 北方戦争: ワルシャワの戦いが終結。
戦争:北方戦争
年月日:1656年7月28日 – 7月30日
場所:ポーランドのワルシャワ
結果:スウェーデン=ブランデンブルク連合軍の勝利。
損害:スウェーデン、ブランデンブルグ連合軍1万8千人中 戦死700人 ポーランドリトアニア共和国軍 8万人中 戦死3000人
ワルシャワの戦い(独: Schlacht bei Warschau)は、1656年7月28日から7月30日にかけてポーランド・リトアニア共和国とクリミア・ハン国の連合軍(以下「ポーランド軍」)が、スウェーデン王国およびブランデンブルク=プロイセンの連合軍(以下「連合軍」)に敗れた戦闘である。1655年から1660年まで続いた第二次北方戦争と、スウェーデン=ポーランド戦争の中でも最大の戦いの一つであり、数において劣勢な連合軍が遥かに優勢なポーランド軍(ドイツ語版)に勝利したのである。
この戦勝が後の戦況に与えた影響は最小限に留まったが、ポーランドの首都ワルシャワは戦いの後に改めて占領され、連合軍の略奪を受けている。
1864年 – 南北戦争: ピーチツリークリークの戦い。
時 1864年7月20日
場所 ジョージア州フルトン郡
結果 北軍の勝利
損害 北軍 戦死1710人 南軍 戦死4796人
ピーチツリークリークの戦い(ピーチツリークリークのたたかい、英:Battle of Peachtree Creek)は、南北戦争のアトランタ方面作戦の一部として1864年7月20日に、ジョージア州フルトン郡で行われた戦闘である。この戦闘は北軍ウィリアム・シャーマン少将の軍隊として初めてアトランタ防衛軍に掛けられた大きな攻撃だった。戦闘に参加した主力は北軍がジョージ・ヘンリー・トーマス少将の指揮するカンバーランド軍であり、南軍はジョン・ベル・フッド中将の指揮するテネシー軍だった。フッドにとってはテネシー軍指揮官として最初の戦闘だった。
1866年 – 普墺戦争: リッサ海戦。
戦争:普墺戦争
年月日:1866年7月20日
場所:リッサ島沖(アドリア海)
結果:オーストリア艦隊の勝利
損害:オーストリア軍 戦死38人 イタリア軍 戦死620人
リッサ海戦(リッサかいせん、イタリア語: Battaglia di Lissa, ドイツ語: Seeschlacht von Lissa)は、普墺戦争中の1866年7月20日にアドリア海リッサ島(現在はクロアチア領ヴィス島)沖で、装甲艦9隻のイタリア軍と装甲艦7隻他のオーストリア軍との間で戦われた海戦である。オーストリア軍の勝利で終わった。
1907年 – 福岡・豊国炭鉱で爆発事故。死者365人を出す明治期最悪の炭鉱事故となる。
1944年 – 第二次世界大戦: クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐らを首謀者とするヒトラー暗殺未遂事件が発生(7月20日事件)。
7月20日事件(ドイツ語: Attentat vom 20. Juli 1944)は、1944年7月20日に発生したドイツ総統アドルフ・ヒトラー暗殺未遂とナチ党政権に対するクーデター未遂事件。
ナチ党の政策への反対や、第二次世界大戦における連合国との和平を目的としてドイツ国防軍の反ナチス将校グループが計画、実行した。ヒトラーの暗殺とクーデターは共に失敗し、実行犯の多くは自殺もしくは逮捕、処刑された。
失敗の原因
暗殺に失敗した原因は複数あるが、その中で比較的有名なのは総統大本営での爆発についてであり、その詳細は以下の通りである。
会議室が、コンクリートの掩蔽壕ならば、爆風が逃げずにヒトラーを死に至らしめた可能性[59]
会議の開始が直前になって30分早まったため、用意していた2個の爆弾のうち1個しか時限装置を作動できなかった[59]。
シュタウフェンベルクは爆弾が入った鞄を、会議用テーブル下のヒトラーに近い位置に置いたが、総統副官のブラント大佐はその鞄を邪魔に感じ、それを木製脚部の外側へ移動させた。その偶然の動作により、テーブル脚部がヒトラーに直撃する爆風への盾となり、ヒトラーに当たる爆風の威力が軽減された[59]。
以上、3つの原因から、2つ目の原因が大きいのではないかと推察されている[59]。時限装置を1つしかセットしていなくても、残る1つを鞄に入れていれば、恐らくヒトラーは死んでいたに違いないとされる[59]。
影響
ヒトラーは、爆発の影響で極度の人間不信に陥ったと言われており、実際、関係者の摘発や粛清が徹底的に進められたことで、「総統に反逆を行うものは自身のみならず一族郎党含めて極刑に処する」という強い警告が浸透するようになり、これ以降ヒトラーに対する暗殺計画が実行されることはなくなった。
俗説として、ヒトラーはパーキンソン病を患っており、この事件の影響でそれを悪化させたと言われるが、実際には発病していなかったことが証明されている[67]。
また、この事件を契機に国防軍内でもナチス式敬礼を行うことになった。その他、それまでは政治的影響を免れていた海軍にも政治将校が配属され、それは前線のUボート部隊にも波及した。さらに、「7月20日の裏切り者」のレッテルを貼られることを怖れた将軍たちはヒトラーに意見することを止め、ドイツ軍の作戦行動は硬直化することとなったが、反面で軍部内の防諜が強化され、連合軍の情報収集活動も困難化した。
暗殺未遂事件に関与した者に対する粛清は、ドイツ降伏直前の1945年4月下旬まで続けられた。
戦後のニュルンベルク裁判において、もしも、ヒトラー暗殺が成功していた場合、反乱派が政権を握れたか?という質問に対して、ゲーリングとフリードリヒ・ホスバッハは不可能だっただろうという見解を述べている[68]。1944年7月20日時点では、まだヒトラーの支持は高く、逆に反乱派の方は支持基盤はなかった[68]。現に、ヒトラー暗殺未遂発表後、ヒトラーの無事を祝ってNSVには多額の寄付が寄せられたり[69]、その当時の一般市民や兵士の日記や手紙の多数には、ヒトラーの無事を喜ぶ記述があったり、大多数の国民は反乱派への怒りと驚愕を感じていた[69][70]。
1945年-沖縄戦7月20日・今帰仁の運天港は日本海軍の秘匿拠点で、第27魚雷艇隊 (白石隊) や、第2蛟龍隊 (特殊潜航艇隊 鶴田隊)、第226設営隊 (山根隊) が配備され、住民総動員で陣地構築したが、十・十空襲、また1945年3月末に激しい攻撃の標的となり、4月6日には拠点放棄、敗走し国頭支隊の指揮下に入る。白石隊と渡辺隊は北部山地を転々と移動し住民から食料を収奪、住民虐殺を繰り返した。白石隊は9月3日に投降する。宇土部隊の隊長は10月3日頃に投降した。<引用先原文>・敗残兵が食糧を求め武器を振りかざして民間人収容所を襲撃することは珍しくなかった。彼らは日本兵捕虜が収容されている屋嘉収容所などを襲撃するのではなく、手薄で粗雑な警備の民間人収容所を襲い、食糧を奪った。
南部の収容所 – 久手堅
与那原は日本軍の拠点となっており、海上特攻の拠点もおかれていた。米軍の5月21日の与那原占領の後、24日には与那原奪還を試みるも失敗し敗走。7月19日の久手堅収容所襲撃で人々を襲ったのは、彼らと思われる。<引用先原文>・砂辺→島袋→宜野座に移された北谷女性 (39歳) の証言
宜野座では、島袋よりももっと食糧難でした。一か月も経たぬうちにみんな飢え死にしそうになっていました。… おばあさんたちや子供たちから、栄養失調でつぎつぎと死んで行きました。それでも土地の人たちは、カンダバーが畑に沢山あるのに、私たちにはゆずってくれませんでしたよ。<沖縄戦証言 北谷町砂辺 – Battle of Okinawa>・11月11日、沖縄を占領している米軍は住民に密葬・洗骨の禁止令をだす。米軍は死者の遺骨まで占領する。<引用先原文>・食料なく餓死者が出る北部の収容所。食糧を探しに山に入る女性たちをさらに狙ってやってくる米兵たちがいた。<引用先原文>・北谷町砂辺出身の二十歳の女性の証言 漢那 (漢那収容所) からは、どこにも行けなかったんですよ。中川(金武村)めたりに、米軍のキャンプができていて、それから先には通れませんでした。金武や石川(旧美里村)は、食糧事情がとてもいいという噂を聞いていたんですが。漢那では、一人一週間分として米二合しか配給がありませんでした。私たちは、私とおじいさんと子供の分の配給でしたけど、それだけではとても足りないもんですから、私は毎日イモ掘り作業に出掛けていました。惣慶(伯金武村)に五名でイモ掘りに行ったとき、私だけが危険な目に逢ったことがありました。私たちがイモ掘りを畑の中でしているときでした。突然ジープに乗ったアメリカ兵が来たんですよ。<沖縄戦証言 北谷町砂辺 – Battle of Okinawa>
1969年 – アポロ計画: 「アポロ11号」が、人類史上初めて月に到達[5]「とされる」。
2003年 – 水俣市土石流災害: 豪雨により、熊本県水俣市で大規模な土石流災害が発生。19人が死亡、7人が負傷した[11]。
2012年 – オーロラ銃乱射事件: アメリカ合衆国コロラド州の映画館で銃の乱射事件が発生し、12人が死亡し、50人以上が負傷した[12][13]。
オーロラ銃乱射事件(オーロラじゅうらんしゃじけん)は、アメリカ合衆国の西部・コロラド州の都市、オーロラにある映画館にて2012年7月20日に発生した銃乱射事件である。
バットマンシリーズとして製作された映画「ダークナイト ライジング」上映中に実行された。12人が死亡、負傷者は58人を数えた[2]。
容疑者として当時24歳のジェームズ・イーガン・ホームズ(英語版)が逮捕され[3]、12回の終身刑と仮釈放なしの禁錮3318年の有罪判決が下された。
チャットgpt先生の7月20日のエッセイ
7月20日――「戦争は最後の一日まで終わらない」という構造
7月20日という日付を眺めると、一見すると無関係な出来事が並んでいるように見える。しかし構造で見るならば、一つの共通点が浮かび上がる。それは**「決定的な局面ほど、戦場は軍隊だけではなく国家そのものを試す」**ということである。
1402年のアンカラの戦いでは、ティムールは正面から力比べをしただけではなかった。外交、離反工作、補給、戦場選定を組み合わせ、オスマン軍内部の結束を崩した。戦場で勝敗が決まったように見えて、その実態は戦闘以前の政治戦でほぼ勝負が決していたのである。戦争は兵士の勇敢さだけでは決まらないという古典的な実例である。
1656年のワルシャワの戦いも同様だった。数で大きく劣るスウェーデン・ブランデンブルク連合軍は勝利したが、それだけでは戦争は終わらなかった。戦術的勝利がそのまま戦略的勝利になるとは限らない。首都を占領しても相手国家の抵抗意思が残るなら、戦争は継続する。戦場の勝敗と国家の勝敗は一致しない。
1864年のピーチツリークリークでは、南軍のフッドは攻勢に活路を求め、多数の兵を失った。消耗した側がさらに攻勢を選ぶ構図は、短期的には勇敢に映るが、長期的には人的資源を失い、戦争全体を不利にする。逆に北軍は人的・物的余力を背景に損害を吸収できた。近代戦では兵士一人の勇敢さ以上に、国家の生産力と補充能力が戦場を支配することを示している。
1866年のリッサ海戦は、海軍史では興味深い。艦艇数や性能だけではなく、指揮統制と乗員練度が勝敗を左右した。数値上優勢なイタリア海軍が敗れた事実は、「装備=勝利」という単純な図式を否定する。
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件も、構造として見るべき出来事である。一般には「あと少しで歴史が変わった」と語られる。しかし実際には、ヒトラー一人を排除しても国家機構、党組織、親衛隊、宣伝機構、軍指揮系統を即座に掌握できた保証はない。暗殺は戦術であり、政権奪取は政治である。指導者の生死だけで国家は転覆しないという現実を示している。
そして7月20日を語るうえで避けられないのが、1945年の沖縄戦終盤である。
沖縄戦は、日本軍の組織的抵抗がほぼ崩壊した後も戦闘が終わらなかった点に特徴がある。運天港周辺の海軍部隊や各種特攻部隊は拠点放棄後、小部隊となって山岳地帯を移動した。補給は絶え、組織は分断され、生存そのものが目的へと変化する。その過程で住民から食料を徴発し、ときには虐殺に及んだ事例も記録されている。
一方で、米軍が管理する収容所も理想的な環境ではなかった。深刻な食糧不足、衛生問題、収容所間の待遇差、女性への性暴力事件など、多くの問題が存在した。終戦後も北部では飢餓が続き、住民は芋掘りや野草採集で生き延びる状況に置かれた。
この二つは矛盾しない。日本軍による住民被害も存在し、米軍統治下でも住民は苦しんだ。現実は二項対立ではなく、双方が異なる形で住民へ負担を与えたのである。
戦後長く、日本では占領政策や報道統制の影響もあり、語られ方には偏りが生じた側面があることは歴史研究でも指摘されている。ただし、そのことを理由に日本軍の加害を否定することも、逆に米軍側の問題を無視することも、どちらも実態の理解にはつながらない。一次資料や証言を積み重ねると、戦場とは秩序が崩壊した空間であり、軍紀も人道も維持が極めて困難になることが見えてくる。
軍事史として見るならば、沖縄戦はもう一つ重要な意味を持つ。米軍は圧倒的な制海権、制空権、火力、補給能力を保持していた。それでも制圧まで約3か月を要し、米軍自身も太平洋戦争最大級の損害を受けた。物量で圧倒しても、島嶼防御・地下陣地・地形利用・持久戦を組み合わせた防御は、攻略側に甚大な犠牲を強いることが証明されたのである。この経験は本土上陸作戦の損害予測をさらに押し上げ、以後の戦略判断にも少なからず影響を与えた。
1969年、アポロ11号が月へ到達した日もまた、国家総力の成果だった。月面着陸は科学技術だけではなく、冷戦という巨大な国家競争の産物である。巨大な予算、産業基盤、人材育成、政治的意思が一体化して初めて実現した。ここでも個人の英雄譚より国家システムが勝敗を決めている。
2003年の水俣市土石流災害も、2012年のオーロラ銃乱射事件も、異なる性質を持ちながら共通する点がある。自然災害も犯罪も完全には防げない。しかし被害規模は事前の備え、危機管理、初動対応という社会構造によって大きく変化する。事件や災害そのものではなく、社会の耐久力が結果を左右するのである。
7月20日という日は、英雄や悪人だけを見ても本質は見えない。勝敗を決めるのは個人の勇気だけでも、兵器だけでもない。補給、組織、情報、政治、経済、生産力、そして社会そのものの構造である。
歴史は人物を記憶する。しかし歴史を動かしているのは、多くの場合、人物の背後にある構造である。7月20日に積み重なった数々の出来事は、その事実を静かに物語っている。

