11月6日

20261106金曜日大安(21番甲申きのえさるコウシン)旧暦 9/27 月齢 26.5

43番丙午ひのえうま年 35番戊戌つちのえいぬ月 21番甲申きのえさる日

吉方位 隠遁日 甲申きのえさる日 南 南西 大吉 年末まであと55日

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%886%E6%97%A5

11月6日の出来事

1868年(明治元年9月22日) – 戊辰戦争: 会津藩が降伏し、会津戦争が終結。年月日:(旧暦)慶応4年閏4月20日 – 明治元年9月22日 (グレゴリオ暦)1868年6月10日 – 1868年11月6日 場所:陸奥国(現在の福島県)結果:新政府軍(官軍)の勝利

損害 新政府軍 7万5千人中 戦死傷僅少 会津軍 9千5百人中 戦死 2977人。

1972年 – 北陸トンネル火災事故: 北陸本線の北陸トンネルで列車火災事故が発生。乗客29人、乗務員1人が犠牲になった[3]。

2016年 – 2016年アメリカ合衆国大統領選挙の投票が行われ、ドナルド・トランプが当選。

2024年 – 2024年アメリカ合衆国大統領選挙の投票が行われ、ドナルド・トランプが当選。

—————————————————  

1868年(明治元年9月22日) – 戊辰戦争: 会津藩が降伏し、会津戦争が終結。年月日:(旧暦)慶応4年閏4月20日 – 明治元年9月22日 (グレゴリオ暦)1868年6月10日 – 1868年11月6日 場所:陸奥国(現在の福島県)結果:新政府軍(官軍)の勝利

損害 新政府軍 7万5千人中 戦死傷僅少 会津軍 9千5百人中 戦死 2977人。

概要

文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、新撰組を配下にするなどして尊皇攘夷派志士の取り締まりを強力に推進し、禁門の変においても幕府方の中核として、尊皇攘夷派の排除を行った。

鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した松平容保は、明治新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って、自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、それを察知していた新政府側でも、会津の恭順姿勢を信用してはいなかった。

慶応4年(1868年)3月11日、江戸城が無血開城され(江戸開城)、慶喜が水戸藩で謹慎すると、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府の矛先は、佐幕派の重鎮として敵視されていた容保に向けられる。

追討を命じられていた仙台藩・米沢藩など、東北諸藩は会津に同情的で、会津赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成して結束を強めた。奥羽14藩では会議を開いて、会津藩と庄内藩の赦免嘆願を目的として、新政府の奥羽鎮撫総督・九条道孝に嘆願書(閏4月12日)を提出したが、後述の会津の回答書を受けて東征大総督府下参謀・林通顕による「会津は実々死謝を以ての外に之これなく」という基本方針は既に決定しており[2]、朝廷へ直接建白を行う(太政官建白書)も認められることはなかった。

奥羽越藩同盟の結成時点(白石会議)では、赦免嘆願を目的としていたが、会津が明治新政府の通達(4月25日)に対して罪を認めず、謝罪を拒否する回答書(閏4月15日)を示した事[3]と、明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が、仙台藩士によって殺害された事件から、戦争に傾くことになる。

処遇

会津が降参するにあたり、会津藩士らは主君・松平容保が「素衣面縛」即ち罪人のように縄で縛られた状態で引きずり出され辱められるのではないかと危ぶんだが、板垣は藩主としての体面を保たせ「輿」に乗った状態で城から出て降伏する事を許した。この事に会津藩士らは感激した[5]。さらに「降伏した以上は、我ら等しく王民(日本の臣民)である」として、会津藩の罪を減ずるよう「寛典論(穏便なる処遇を求める嘆願)」を上奏。その趣意は「これからは海外諸国と対峙せねばならず、過酷な処分によって後世に遺恨を残し、日本民族統合の障壁になってはならない」とするものであった。また「有能な人材は、積極的に政府へ登用すべき」との意見を述べた。これに対して木戸孝允らは「厳罰論(厳しく処分すべきとする意見)」を唱え[注釈 6]、処遇問題に総督府内で意見対立があった。本来ならば、勅許の無き日本領土の割譲 [注釈 7]は万死に値する罪であったが、結局は会津攻略戦の主将である板垣が言うのならばと、意見が容れられ、家老が詰腹を切る事を条件に、藩主・松平容保の切腹や藩の改易処分を逃れ、減封処分が下る。さらに会津藩が斗南藩へ減石転封となった時は、板垣は藩士らが貧する様を見て特別公債の発給を書面で上奏している。板垣は会津攻略戦の官軍側・主将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であったため、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。また、自由民権運動も東北地方では福島県を中心として広がりを見せることになった[6]。

脱走兵

旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。

会津藩が降伏したことで、今まで藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、会津世直し一揆が起きた[7]。

戦場での残虐行為等について

石井孝の『戊辰戦争論』(1984年)には「政府軍は、征服者の常として、ずいぶん略奪・暴行を演じたようである」との記述がある。一方、石井が同書の中で引用している、英国医師ウィリアム・ウィリスの報告書の中には、「両軍の戦闘が熾烈を極めたにもかかわらず、ミカドの軍隊は、捕虜をかなり寛大に取扱ったようだ。これに対して、会津藩の軍隊は、ミカドの軍隊の兵士たちばかりか、捕えた人夫たちまでも殺したといわれる。この話の確証として、4日間も雪の中に倒れていて、両足の機能を失った一人の人夫に会ったことを私はここに記しておきたい。その人夫は、もし会津藩の兵士に捕まっていたならば、酷い死に目に遭わされていただろう、と私に語った」「そのほか、私は、会津若松で、世にも悲惨な光景を見た。たくさんの死体が堀から引き上げられた。彼らは、両手を背中にうしろ手に縛られ、腹を深く切り裂かれていた。私は会津藩の軍隊の兵士たちの、残酷行為の物語をいろいろと耳にした。長岡では、彼らは、ミカドの軍隊の病院にいる負傷者や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。会津藩の軍隊の兵士たちは、退却して行く途中で女たちを強姦した。家々に盗みに入り、反抗する者は、みな、殺害した」「ミカドの軍隊も、会津藩の軍隊に負けず劣らず、残酷・残虐であった。会津の国で、ミカドの軍隊は、各地で略奪し、百姓の道具類までも盗んだという話を聞いた。これらの話は事実だろうか?どちらにしても、両軍の戦闘が会津若松に近づくにつれて、残酷・残虐の度合いが増していったことだけは疑いない事実である。」[8] との記述がある。

1972年 – 北陸トンネル火災事故: 北陸本線の北陸トンネルで列車火災事故が発生。乗客29人、乗務員1人が犠牲になった[3]。

北陸トンネル火災事故(ほくりくトンネルかさいじこ)は、1972年(昭和47年)11月6日未明に福井県敦賀市の北陸本線(現在のハピラインふくい線)敦賀駅 – 南今庄駅間[注釈 4]にある北陸トンネル(総延長13,870m)で発生した列車火災事故[16]。

火災対策の不備により、乗客乗員に多数の死傷者を出す大惨事となった。

事故概要

1972年(昭和47年)11月6日、午前1時8分から9分にかけて、福井県敦賀市の日本国有鉄道(国鉄)北陸本線「北陸トンネル」下り線を走行中の大阪発青森行き下り急行「きたぐに号」(501列車・15両編成)の食堂車喫煙室から火災が発生し、同列車は敦賀口から5.3km付近の北陸トンネル内で緊急停止した[17]。乗務員らの手によって消火作業が行われたが鎮火の見通しが立たず、規程に従って火災車両の切り離しを2か所で実施したが、作業完了までに約40分を要した[18]。火災車両の切離し完了後に列車を運転再開してトンネル内から脱出させようと試みられたが、その矢先に火煙を媒介とした架線とトンネル壁面間(または樋間)の放電短絡によって送電停止に陥ったことで列車を動かすことができなくなり[15][19]、自力走行によるトンネル内からの脱出は不可能になった[15]。

送電停止の影響によって約760人の乗客乗員は、その多くは猛煙が充満した暗闇のトンネル内に留まり救助を待つか、またはトンネル出口へ向けて徒歩で自力避難せざるを得なくなった[15]。一部の乗客は、北陸トンネル内に緊急停車していた上り列車や救助要請により出動した救援列車により救出された[15]。

国鉄および消防当局による救助活動は、敦賀口と今庄口の両側坑口から、また一部は斜坑から実施されたが、猛煙に阻まれいずれも難航した[20]。総延長約14kmという長大トンネルの中間部で発生した車両火災であるため、直接的な消火活動は一切できず、自然鎮火を待つしかなかった。火災発生から約8時間半後の午前9時30分ごろに火災は自然鎮火により収まったが、全ての乗客乗員をトンネル内から救出するのに約10時間半を要した[21][22]。

火災事故の結果、食堂車1両が全焼し、客車1両が部分焼損した[15]。人的被害は、一酸化炭素中毒などで30人が死亡、煙を多量に吸い込んだ影響により714人が重軽傷を負い、国鉄の車両火災事故において最大級の惨事となった[23]。火災事故から1週間が経過してから北陸トンネル内で乗客1人が死亡したまま置き去りにされていたことが発覚し、改めて国鉄の不手際に世間の非難が集中した[24][25]。

火災の原因は、食堂車喫煙室に設置されたソファ下の電気暖房器具・配線接続部の締め付け不良による異常過熱から床材が炭化して漏電が起こり、グラファイト化現象が発生して木製の床板が発火したためだった[9]。火災を起こした食堂車は、難燃性能が極めて低く、床材は一部を除いて木製であり、また内装材やテーブル、椅子などの装備品は可燃物だったことから延焼拡大の一因となった[26]。

2016年 – 2016年アメリカ合衆国大統領選挙の投票が行われ、ドナルド・トランプが当選。

2024年 – 2024年アメリカ合衆国大統領選挙の投票が行われ、ドナルド・トランプが当選。

チャットgpt先生の11月6日のエッセイ

11月6日――敗北の処理、事故の構造、勝者の再登場

11月6日という日付を歴史から拾い上げると、三つの異なる出来事が浮かび上がる。1868年の会津藩降伏、1972年の北陸トンネル火災事故、そして2016年と2024年のアメリカ大統領選挙におけるドナルド・トランプの勝利である。

時代も国も、出来事の性質も異なる。しかし、これらを構造として眺めると、共通する論点が見えてくる。組織が追い込まれたとき、誰が決定権を持ち、誰が損失を引き受け、何が次の時代に残るのか。

歴史は、勝者の名前を記録する。一方で、その勝利を成立させた条件や、敗者が負担した費用、組織の内部で発生した問題は、時間の経過とともに見えにくくなる。

一 会津降伏――戦争の勝敗と戦後処理は別の問題である

1868年11月6日、会津藩は新政府軍に降伏し、会津戦争は終結した。

戊辰戦争において、会津藩は旧幕府側の主要勢力として新政府軍と対峙した。京都守護職を務めた松平容保と会津藩は、幕末の政治対立の中で明確な立場を取り、その立場が新政府成立後の敵対関係にも持ち越された。

ここで重要なのは、軍事的な勝敗と、政治的な決着が同じものではないという点だ。

戦争は兵力、兵站、地理、同盟関係、指揮系統によって決まる。しかし、戦争が終わった後の処遇は、別の計算で決まる。旧勢力をどこまで解体するのか。指導者をどう扱うのか。残存する人材を排除するのか、それとも新しい統治機構に組み込むのか。

これらは軍事作戦の延長ではなく、支配体制を安定させるための政治的な判断である。

会津藩の降伏後、藩は処分を受け、領地と石高を失い、藩士たちは生活基盤の再構築を迫られた。斗南への移住は、その変化を象徴する出来事だった。敗北の費用は、降伏した瞬間に消えたわけではない。むしろ、軍事的な抵抗が終わった後に、身分、土地、職業、地域社会という日常生活の基盤へと移っていった。

一方、戦後処理をめぐっては、厳罰を求める立場と、処分を緩和して旧勢力を新体制に取り込もうとする立場が存在した。会津攻略に関わった板垣退助が寛大な処遇を求めたとされることは、戦争に勝つことと、勝った後の統治を成立させることが別の課題だったことを示している。

旧敵を徹底的に排除すれば、短期的には支配を明確にできる。しかし、人材と地域の能力を失い、反発を長期化させる可能性がある。反対に、旧勢力を一定程度受け入れれば、統治資源を確保できる一方、旧体制の影響力が残る。

つまり、戦後処理とは、報復か寛容かという単純な選択ではない。新しい権力が、将来の統治コストをどう配分するかという問題なのである。

会津の敗北は、戦場だけで完結しなかった。敗者の生活再建、地域の再編、旧勢力の人材活用という形で、その後の日本社会に接続していった。

二 北陸トンネル火災――安全は、個人の注意ではなく設計で決まる

1972年11月6日未明、北陸本線の北陸トンネル内で、急行「きたぐに」の食堂車から火災が発生した。

トンネル内で列車が停止し、消火作業や火災車両の切り離しが行われたものの、煙の拡大と送電停止によって避難は困難になった。死者30人、負傷者714人という大きな被害が生じた。

この事故を、火災が起きたという一つの事象だけで理解すると、核心を見失う。

出発点は、電気暖房器具の配線接続部の不具合による異常過熱だったとされる。しかし、異常過熱が発生することと、多数の死傷者が生じることの間には、いくつもの段階がある。

発火する。燃え広がる。列車が停止する。煙が充満する。電力供給が途絶える。避難経路が限られる。救助活動が制約される。

一つひとつの段階が次の段階につながり、最終的に被害が拡大した。

ここには、設備、車両構造、運行規程、通信、避難手順、救助体制という複数のシステムが関係している。しかも、それらは独立して動くわけではない。ある部分の障害が、別の部分の機能まで奪うことがある。

長大トンネルは、通常の運行時には効率的な輸送インフラである。しかし、火災が発生すれば、煙の排出や避難、外部からの消火活動に大きな制約が生じる。平常時に合理的な設備が、非常時には別の性質を持つ。システムの性能は、正常に動いているときだけで評価できない。

この事故が示すのは、安全性とは、故障をゼロにする能力だけではなく、故障が起きた後に被害をどこまで限定できるかという設計の問題でもあるということだ。

部品の品質を高めても、事故の可能性を完全には排除できない。だからこそ、燃えにくい材料、異常を早期に検知する仕組み、迅速な電源制御、避難誘導、救助へのアクセスなど、複数の防護層が必要になる。

そして、防護層は存在するだけでは足りない。実際の事故条件で機能しなければ意味がない。

大規模な組織ほど、現場の担当者が全体を制御できない。車両の設計者、保守担当者、運行管理者、現場乗務員、救助機関は、それぞれ異なる情報と権限を持っている。そのため、個々の担当者が規程に従っていても、組織全体として十分な対応ができるとは限らない。

事故の分析で問うべきなのは、誰がその場で何を間違えたかだけではない。そもそも、どのような故障が想定され、どこまで対策され、異常時に誰が何を決められる構造だったのか。

事故は一瞬で起きる。しかし、その被害の大きさは、事故が起きる前から積み重なっていた設計上の条件に左右される。

三 トランプの再登場――政治は政策だけではなく、支持連合の再構築で動く

2016年11月6日ではなく、正確には同年11月8日にアメリカ大統領選挙の投票が行われ、ドナルド・トランプが勝利した。2024年も投票日は11月5日であり、トランプは翌6日未明に勝利を確実にしたと報じられた。したがって、11月6日という日付との関係では、両選挙とも投票日そのものというより、結果をめぐる政治的な節目として捉えるのが適切である。

トランプの政治的な復帰を理解するには、個人の発言や政策だけを見るのでは不十分だ。

選挙は、候補者の人気を測るだけのイベントではない。地域、所得、学歴、産業構造、文化的な帰属意識、既存政党への評価など、異なる利害を持つ集団を一つの支持連合にまとめる競争である。

候補者は、その連合を形成するために、何を争点にするかを選び、どの集団に優先順位を与え、どのような言葉で不満を政治的な要求へ変換するかを決める。

トランプの政治的な特徴の一つは、既存の政治制度や専門家、従来型の報道機関への不信を、自らの支持者をまとめる力に変えてきたことだ。移民、貿易、国境管理、産業雇用、国家主権といった争点は、それぞれ独立した政策分野でありながら、既存の政治運営への不満を束ねる役割も果たした。

2016年の勝利は、民主党政権の継続を予想していた政治環境に大きな変化をもたらした。そして2024年の勝利は、トランプが一時的な反既存政治の現象だけではなく、敗北と政権交代を経ても支持基盤を再構築できる政治勢力であることを示した。

ここで注目すべきなのは、政治家個人の一貫性よりも、支持連合の持続性である。

政治家が再び勝つには、既存の支持者を維持するだけでは足りない。前回の政権運営に対する評価、経済環境の変化、対立候補への不満、投票参加率、各州の選挙制度など、複数の条件が組み合わさる必要がある。

また、選挙で勝つことと、政策を実行することも別の課題だ。選挙は権限を獲得する手続きであり、政権運営は議会、官僚機構、司法、州政府、民間企業、国際関係との調整によって決まる。選挙で形成した期待を実際の成果に変えられるかどうかは、別の能力を要求する。

支持者の期待が大きいほど、政権は成果を求められる。一方、選挙時の連合は必ずしも利害が一致した集団ではない。減税を求める層、保護主義を求める層、移民政策の厳格化を求める層、財政規律を重視する層が、すべての政策で同じ方向を向くとは限らない。

したがって、選挙の勝利は、政策の実現を保証するものではない。それは、異なる利害を持つ集団から一定期間の決定権を委ねられたという意味を持つにすぎない。

政治の実力は、勝利の瞬間だけでなく、その後の利害調整と実行過程に現れる。

四 三つの出来事に共通する構造

会津藩の降伏、北陸トンネル火災、トランプの再選。この三つを同列の事件として扱うことはできない。しかし、組織と権力の動きを考える材料としては、共通する視点がある。

第一に、表面に現れた結果と、その結果を生み出した構造は異なる。

会津藩の敗北は、戦場における軍事力の差だけで説明できない。政治的な孤立、同盟関係、戦争の長期化、兵站の制約が関係していた。北陸トンネル事故も、発火だけで説明することはできない。被害を拡大させた設備と避難の条件があった。トランプの勝利も、個人の知名度だけではなく、支持連合と選挙制度、政治不信、争点設定の組み合わせによって成立した。

第二に、組織が直面する損失は、必ずしも決定権を持つ主体が引き受けるわけではない。

戦争の方針を決める指導層と、敗戦後に生活基盤を失う人々は同じではない。鉄道の安全設計や運行規程を決める組織と、事故現場で危険にさらされる乗客も同じではない。選挙で政策の方向を決める政治家と、その政策の影響を受ける人々の利害も一致するとは限らない。

決定権、情報、責任、損失がどこに配分されているか。この配置を見なければ、組織の実態は把握できない。

第三に、危機への対応能力は、危機が起きた後に突然生まれるものではない。

会津藩の戦後処理は、戦争終結後の統治方針に左右された。北陸トンネル事故の被害は、事故前に整備されていた安全対策と、非常時に機能する仕組みに左右された。政治においても、選挙後の政権運営能力は、選挙前から存在する人材、組織、制度、政策構想に依存する。

危機が発生してから対応を考える組織と、発生する可能性を前提に仕組みを設計している組織では、結果に差が出る。

第四に、勝利や成功は、それ自体では長期的な安定を保証しない。

戦争に勝っても、戦後の統治に失敗すれば政治的な不安定さが残る。平常時に高い輸送能力を持つ設備でも、非常時の対応が不十分なら大きな損失を生む。選挙に勝っても、政策を実行できなければ支持連合を維持できない。

結果を出す能力と、結果を持続させる能力は別物である。

結び――歴史を見るとは、決定の背後にある仕組みを見ることだ

11月6日に関係するこれらの出来事は、異なる時代における組織の限界を浮かび上がらせる。

会津藩は、戦争に敗れた後、政治的な処遇と社会的な再編に直面した。北陸トンネルでは、一つの火災が設備、運行、避難、救助という複数の機能に波及し、多数の犠牲につながった。トランプの政治的な復帰は、選挙で権力を獲得することと、その権力を実際の政策に変えることの間に距離があることを示している。

ここから導けるのは、歴史を善悪の物語として読む必要はないということだ。

見るべきなのは、誰が決定したのか。どのような情報に基づいて決定したのか。選択肢は何だったのか。失敗した場合の損失は誰に及ぶのか。そして、その結果を修正できる仕組みはあったのか。

個人の能力は重要だが、個人だけで結果のすべてを説明することはできない。制度が情報を遮断すれば、優秀な人材がいても判断を誤る。設計が脆弱なら、現場の努力だけでは被害を防げない。支持連合が不安定なら、強い選挙結果を得ても政策の実行は難しい。

逆にいえば、構造を把握すれば、表面的な勝敗だけでは見えないものが見えてくる。

歴史の本当の論点は、誰が勝ったかだけではない。勝利を可能にした条件は何か、その費用を誰が負担したか、そして同じ結果を再現できる仕組みが残ったかどうかである。

日付は出来事を並べる。しかし、構造を読み解くことで初めて、出来事は現在にも通用する分析材料になる。