kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日11月8日 1519アステカ征服開始、ほかwikipediaアステカ神殿ピラミッド

11月8日

20241108金曜日旧暦10月8日大安(丙子ひのえねヘイシ)月齢 6.5

甲辰きのえたつ年乙亥きのとい月丙子ひのえね日 年末まであと53日

吉方位 南 大吉。 東 吉。

https://ja.wikipedia.org/wiki/11%E6%9C%888%E6%97%A5

11月8日の出来事

1519年 – スペインの探検家エルナン・コルテスがアステカ帝国の首都テノチティトランに進軍。メキシコ征服を開始。

1520年 – ストックホルムの血浴。スウェーデンのカルマル同盟からの独立運動を鎮圧した国王クリスチャン2世が、スウェーデン人の反乱指導者ら100名以上を捕え、翌日処刑。

1620年 – 三十年戦争: 白山の戦い。ボヘミア(現在のチェコ共和国)の首都プラハ近郊の山、白山(チェコ語名ビーラー・ホラ Bílá hora)でのハプスブルク軍勢力とボヘミアのプロテスタント貴族との間で勃発した戦闘である。時    1620年11月8日 場所    プラハ近郊ビーラー・ホラ 結果        決定的な神聖ローマ帝国の勝利 損害 ボヘミアプロテスタント軍 傭兵15000人中 戦死傷5000人 神聖ローマ帝国軍 27000人中 戦死傷2000人。

1934年 – 新潟県佐渡島沖合で朝鮮郵船の「羅南丸(1252トン)」が船倉から出火後に沈没。乗組員41人が死亡[2]

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1519年 – スペインの探検家エルナン・コルテスアステカ帝国の首都テノチティトランに進軍。メキシコ征服を開始。

スペインのアステカ帝国征服

詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「スペインによるアステカ帝国の征服」を参照

一の葦

アステカには、かつてテスカトリポカ(ウィツィロポチトリ)神に追いやられた、白い肌をもつケツァルコアトル神が「一の葦」の年(西暦1519年にあたる)に戻ってくる、という伝説が存在した。帰還したケツァルコアトルが、かつてアステカに譲り渡した支配権を回復すると信じられていた[13]。「一の葦」の年の10年前には、テノチティトランの上空に突然大きな彗星が現れた。また女神の神殿の一部が焼け落ちてしまった。その後も次々と不吉な出来事が起こった。アステカ人たちは漠然と将来に不安を感じていた[14]。そうした折であった「一の葦」の年の2年前(1517年)から東沿岸に現れるようになったスペイン人は、帰還したケツァルコアトル一行ではないかと受け取られ[15]、アステカのスペイン人への対応を迷わせることになった[16][注釈 1]。

滅亡

メソアメリカ付近に現れたスペイン人は、繁栄する先住民文化をキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに報告した。1519年2月、ベラスケス総督の配下であったコンキスタドールのエルナン・コルテスは無断で16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島沿岸に向け出帆した[19]。コルテスはタバスコ地方のマヤの先住民と戦闘を行い(セントラの戦い(スペイン語版))、その勝利の結果として贈られた女奴隷20人の中からマリンチェという先住民貴族の娘を通訳として用いた[20]。

サン・フアン・デ・ウルア島に上陸したコルテスは、アステカの使者からの接触を受けた。アステカは財宝を贈ってコルテスを撤退させようとしたが、コルテスはベラクルスを建設し、アステカの勢力下にあるセンポアラの町を味方に付けた。さらにスペイン人から離脱者が出ないように手持ちの船を全て沈めて退路を断ち、300人で内陸へと進軍した[21]。コルテスは途中の町の多くでは抵抗を受けなかったが、アステカと敵対していたトラスカラ王国とは戦闘になり、勝利し、トラスカラと和睦を結んだ。10月18日、チョルーラの虐殺(スペイン語版)が起きた。1000人のトラスカラ兵と共にメキシコ盆地へと進軍した[22]。

1519年11月18日、コルテス軍は首都テノチティトランへ到着し、モクテスマ2世は抵抗せずに歓待した[23]。コルテス達はモクテスマ2世の父の宮殿に入り6日間を過ごしたが、ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、クーデターを起こしてモクテスマ2世を支配下においた[24]。

1520年5月、ベラスケス総督はナルバエスにコルテス追討を命じ、ベラクルスに軍を派遣したため、コルテスは120人の守備隊をペドロ・デ・アルバラードに託して一時的にテノチティトランをあとにした。ナルバエスがセンポアラに駐留すると、コルテスは黄金を用いて兵を引き抜いて兵力を増やした。雨を利用した急襲でナルバエスを捕らえて勝利すると、投降者を編入した[25]。

コルテスの不在中に、トシュカトルの大祭が執り行われた際、アルバラードが丸腰のメシーカ人を急襲するという暴挙に出た(トシュカトル大祭の虐殺(スペイン語版、英語版))。コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出たモクテスマ2世はアステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう[26](これについては、スペイン人が殺害したとの異説もある)。1520年6月30日、メシーカ人の怒りは頂点に達し、コルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した。この出来事をスペイン人は「悲しき夜(La Noche Triste)」と呼ぶ。王(トラトアニ)を失ったメシーカ人はクィトラワクを新王に擁立して、コルテス軍との対決姿勢を強めた。7月7日、オツンバの戦い(スペイン語版、英語版)。

1521年4月28日、トラスカラで軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に13隻のベルガンティン船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲した(テノチティトラン包囲戦(スペイン語版、英語版))。1521年8月13日、コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼした[27]。

植民地時代の人口減少

詳細は「en:Population history of indigenous peoples of the Americas」を参照

その後スペインはアステカ帝国住民から金銀財宝を略奪し徹底的に首都・テノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した(但し、当時の検視記録や医療記録からみて、もともと現地にあった出血熱のような疫病であるとも言われている)。

その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した[28]。

1520年 – ストックホルムの血浴。スウェーデンのカルマル同盟からの独立運動を鎮圧した国王クリスチャン2世が、スウェーデン人の反乱指導者ら100名以上を捕え、翌日処刑。

「ストックホルムの血浴」

同年11月4日にクリスチャン2世はストックホルムの大聖堂で復権したトーレ大司教によって油を塗って清められ[2]、スウェーデンの法律に沿って国を統治すると宣言した。その後3日間にわたって晩餐会を開催し、11月7日、ついに虐殺は引き起こされた。クリスチャン2世は反乱の罪を赦すという声明を発し、スウェーデン側の貴族、僧侶、都市の自由市民の有力者たちを晩餐会に招いた。彼等はクリスチャン2世の言葉を信じて投降したものの、全員がストックホルムの王宮に入城すると、大扉は閉じられ、招かれた客は総て捕らえられた。クリスチャンは最初から独立派の罪を許すつもりなどなく、これを機に独立派を根絶やしにする事でスウェーデン独立運動の息の根を止めようと画策していたのだ。

翌11月8日、形ばかりの裁判によって、彼等は死刑の判決を下され、その日の内に、スウェーデンの有力者たちは次々に処刑された。その犠牲者の数は、100名を超えた。ストックホルムの大広場は大量の血の海に染まることになった。これが後に「ストックホルムの血浴」として知られる事件のあらましである。最後までクリスチャン2世の軍勢に抵抗したクリスティーナは裏切り者の売国奴として糾弾され、クリスチャン2世によって「生き埋めか火炙りか」の2択を迫られたが気絶。領地の大半をクリスチャン2世に譲る事を条件に死刑は免れたが息子2人と共にデンマークに連れ去られ幽閉された。クリスティーナの母も罪を問われ、こちらは溺死を宣告されたがこちらも領地の大半を譲る事を条件に命だけは助けられた。彼女もまた娘と一緒にデンマークに連れ去られ幽閉される事となった。

その後

クリスチャン2世はこの粛清によってスウェーデンでは最早大規模な反乱は起こらないものと思ったが、逆にこの事件はスウェーデン解放戦争(英語版)の直接の発端となった。罪を許す事を条件に降伏を受け入れたはずなのにその言葉を裏切って独立派の面々を処刑したり独立派の象徴であったクリスティーナをデンマークに連れ去って幽閉した事はスウェーデンの人々を大いに団結させる事となった。「ストックホルムの血浴」で父を殺された若年の騎士グスタフ・ヴァーサは、北部スウェーデンに逃れその地で反乱軍を組織、独立派の新指導者としてスウェーデン独立戦争を戦い抜きスウェーデンの独立を勝ち取った。この若き騎士こそ後のスウェーデン王グスタフ1世である[要出典]。

1620年 – 三十年戦争: 白山の戦い。ボヘミア(現在のチェコ共和国)の首都プラハ近郊の山、白山(チェコ語名ビーラー・ホラ Bílá hora)でのハプスブルク軍勢力とボヘミアのプロテスタント貴族との間で勃発した戦闘である。時    1620年11月8日 場所    プラハ近郊ビーラー・ホラ 結果        決定的な神聖ローマ帝国の勝利 損害 ボヘミアプロテスタント軍 傭兵15000人中 戦死傷5000人 神聖ローマ帝国軍 27000人中 戦死傷2000人。

戦闘

白山の戦い記念碑

ボヘミア諸侯は、自由のために戦うと決めた20,000人の兵を組織した。ティリー伯は自軍を2つの別の軍隊に分けた。帝国軍団とカトリック同盟軍団である。フェルディナント軍は、大した砲撃も受けずに前進した。カトリック側は、プロテスタント側の先遣隊の縮小によって早く戦いを開始した。ティリー伯と配下の400人のコサックたちは、バイエルン公が指揮する軽騎兵を移動させた。ティリーの配下は、反体制勢力が立てこもる要塞へ彼らを押し戻した。白山の戦いは大規模戦闘というよりも、小規模戦闘であった。ボヘミア側は、フェルディナント2世の傭兵軍にかなわなかったのである。実際の戦闘は1時間続いたにすぎず、それでボヘミア側は疲弊した。ボヘミア側が4000人を失ったのに対し、カトリック側は概算で800人を失っただけだった[2]。

結果

ボヘミアのプロテスタント貴族は、ドイツやトランシルヴァニアのプロテスタント貴族に対して援助を求めたが断られ、わずか半日で壊滅した。ボヘミア王フリードリヒと妃エリーザベトは亡命し、ティリー伯が入城したプラハでは暴動が鎮圧され、多くの市民はカトリック復興を歓迎した。

1934年 – 新潟県佐渡島沖合で朝鮮郵船の「羅南丸(1252トン)」が船倉から出火後に沈没。乗組員41人が死亡[2]

チャットgpt先生の11月8日のエッセイ

11月8日は、歴史の様々な節目となる出来事が刻まれた日です。特にこの日は、「征服」「粛清」「戦闘」「悲劇」というテーマが重なるかのように歴史の重要な事件が連なります。それぞれが違った土地、背景、時代で起きたものでありながらも、ある共通の性質を持つ日といえるでしょう。

まず、1519年の11月8日、スペインのエルナン・コルテスがアステカ帝国の首都テノチティトランに進軍し、メキシコ征服を開始しました。この年、アステカには、白い肌をもつケツァルコアトル神が「一の葦」の年(1519年)に戻ってくるという伝説があり、奇妙な一致がコルテスの登場と重なります。スペイン人を「帰還した神々」と誤解したアステカのモクテスマ2世は迎え入れますが、最終的にはスペインの圧倒的な軍事力と疫病により、アステカ帝国は崩壊し、彼らの豊かな文明は消えていきました。この征服は、一つの文明が消え、別の文明が残虐な方法で支配を確立していく典型的な例と言えるでしょう。

続いて、1520年の「ストックホルムの血浴」。スウェーデンの独立運動を粛清する目的で国王クリスチャン2世は、名士や自由市民をストックホルムの晩餐会に招き、突如捕え、裁判なしで処刑しました。クリスチャン2世は、一見して平和的な晩餐会の場を一転、血の海へと変えたのです。処刑された100名以上の命はスウェーデンの独立の象徴となり、後に「スウェーデン独立戦争」を引き起こす火種となりました。

また、1620年の「白山の戦い」。ボヘミアのプロテスタント貴族が、神聖ローマ帝国のカトリック勢力との抗争に敗北し、戦いはわずか1時間で決着がつきました。宗教的対立が戦争の中心に据えられ、多くの命が失われたこの戦いもまた、後のチェコの宗教と文化に複雑な影を落とすことになります。

さらに1934年、日本近海で起きた「羅南丸沈没事件」も忘れてはなりません。佐渡島沖で火災が発生し、船が沈没、41人の乗組員が亡くなりました。この事件は、日常の航海で突如として命を失う危険が隣り合わせであった時代背景を映し出しており、忘れがたい悲劇として刻まれています。

11月8日は、様々な背景の中で命が奪われた日です。国や信念、神話や戦争、海難など、その時代の人々にとって命をかけて守りたいと思うもののために人々が立ち上がり、そしてその運命に抗えずに散っていきました。共通するのは、どの事件も後の時代に大きな影響を及ぼしたということ。誰かの犠牲と痛みが、歴史の流れを変え、未来へと続く一つの「道」となったのです。

11月8日には、過去の歴史的事件を想い、私たちもまた何かを受け継いでいるのだと考えることができるかもしれません。それは、単なる過去の記憶ではなく、未来への教訓であり、選択すべき道の指針となり得るものであると言えるでしょう。