kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
古典 宗教とアウトサイダ-

発心集 第二第3話 内記入道寂心の事 The Outsider Episode15

第二第3話  内記入道寂心の事

  (ないきにゅうどう じゃくしんのこと)

村上天皇の御代(みよ)に、内記入道寂心(ないきにゅうどうじゃくしん 俗名 慶滋 保胤よししげ の やすたね 加茂氏一族 長保四年1002に六十歳で没) という人がいた。

出家前に宮中に仕えていた時から、心に仏道を望み願っており、なにかにつけて 慈悲深い人物であった。

かつてこの人物が、公文書や宮中記録作成を業務とする勤務先の大内記(だいないき)に註(しる)すべきことあつて、宮中へ出勤したときの話である。

そこの役人の詰め所の方で、涙を流して泣いて立っている女がいた。

出仕途中の彼 保胤(やすたね)は、これを不審に思って、

「なんでお前は泣いているのか。」と女に問うた。

すると、

女は、「主人の使いで、石の帯(公家くげの正装の革帯  革ベルト まあ高価なものであったのだろう)を人に借りて、持って帰る途中で、その石帯を落としてなくしてしまって見つけられないのです。」という。更に泣きながら、「主人に重く叱責されるでしょう。そのような大事なものをなくしてしまって悲しくて—。このまま帰る気にもなれず、といって、他にあてもなく。本当に私はどうすればよいのでしょうか。」と言って、更に泣いている。

彼は その女の気持ちを考えると、

「まあ、そのように困り嘆くのも、もっともなことである」とかわいそうでならなくなった。

それで、結局かれは 自分の差している石帯をはずして、その女に持たせてやった。

女は、「失くしてしまったもとの帯ではないけれども、ただ失くしてしまったと主人に申すより、この帯を持って帰ったら、もしかしたら叱られ方も軽くなるかもしれません。」と、手をあわせ感謝し、喜んで、去っていった。

さて、保胤(やすたね)は隅(すみ)の方で帯なしで、隠れていた。

しかし、朝廷の儀式が始まると、「早くこちらへ、早く、早く」と呼び出されるので、しかたなく、ひとに帯を借りて公事を勤めた。

中務の宮(なかつかさのみや)具平親王(ともひらしんのう)に文章を教授して差し上げているときも、彼 保胤(やすたね)は、少し教へ奉りては、ひまひまに目をつぶって、常に仏を念じている風であった。

ある時、かの中務宮(なかつかさのみや)より頂いた馬で、乗って参内(さんだい)しようとしたときのことである。

道の途中で、寺の堂や塔はもちろん

卒塔婆(そとば)の一本一本にまで、必ず下馬して恭しく礼拝(らいはい)していった。

また、草が見えるところどころで、馬が草を食べるためにとまるのだが、別にそれを止めもしないで好きにさせていた。

結局、あちこちに立ち寄っているうちに、早朝に家を出たのが、十五時、十六時までにもなってしまった。

お付きの馬の口をとっていた舎人(とねり)もさすがにとても不満に思って、馬をしたたかにぶったりするようになった。

これを見ていた保胤(やすたね)は、涙を流し、声を立てて嘆き悲しんだ。

いわく、「この世にたくさんいる畜生たちの中で、 縁あって飼い飼われるの間柄になったのは深き前世からの因縁があるからではないのか。ひょっとして、お前の過去世での父 母かもしれんぞ。  それをぶつなどと いかに大きな罪をつくることか!  ああ かなしいのーー」と 嘆き、大騒ぎする。

舎人(とねり)は呆(あき)れたが 主人の言うことでもあり 何も言い返さず、今日の仕事はこれまでと先に帰ってしまった。

まあ普段からこのように、慈悲深く常に仮想現実のなかの実相をみようとしていた人物であった。

だから、彼の著作である、『地亭記』(ちていき)のなかにはこう書かれている。

「この我が身は社会の人の喧騒にあっても、我が心はこの仮想の現実から一歩ひいてこの世を見る風があった。」と。

後年、齢を経てから、出家し 比叡山の横川(よかわ)に上って住んだ。

そこで、内記入道寂心(じゃくしん)として天台の法門を修学したのである。僧賀上人(そうがしょうにん  変人奇人のアウトサイダー)がまだ 横川で健在のころであったので、彼 寂心を直接教授なされた。このとき、僧賀上人は教科書『摩訶止観』(まかしかん)の冒頭一文を訓読した。

即ち「止観の明静(みょうじょう)なること、前代未だ聞かず」と。寂心は天台の法門を習い始めてから、すぐさま

「あーーーあーーー、この世の実相を観ずる止観の明晰(めいせき)にして深々(じんじん)の法門は、前代未聞です。あーーーあーーーー」と、感じ入ってしまい、師  僧賀上人のまえでも泣きになく。

これを僧賀上人は、

「どうして、まだ初学の未熟な理解のお前が、このように すぐさま泣くのか。

まあ、可愛気のない 小憎(こにく)らしい、未熟者めが!」とて、拳(こぶし)を握って寂心を打ち据(す)えた。

それで、「おまえも未熟なら、それをすぐさま殴ってしまうこのわしも未熟よの!」と、上人は、言われた。それで、お互いに気まずい雰囲気のまま、上人はその場を去られた。

しばらく時が経って、寂心は 僧賀聖人をつかまえて、改めて言った。

「今度はあのときとは違うつもりです。『摩訶止観』をご教授ください。」と。僧賀上人も、ならば、教授しよう 前回はわしも大人げなかったの、との風で 再び読み合わせがなされた。しかし、やはり前回とかわらず、寂心は大泣きに泣く。それを、僧賀聖人がまたしたたかに殴る、となって、結局テキストは先に進まず終わってしまった。

それから、日数がまた経った。寂心はまた懲りずに 僧賀聖人の機嫌のよいときをみはからって、恐る恐る教授の願いを申し出た。そして、もう決して泣くまいと決意して臨むのだが、結局また激しく泣いてしまうのだった。そして、また殴られまいとして身構えた。—-

すると、この度(たび)は僧賀聖人も涙をこぼして泣かれていた。曰く。

「おぬしは まことに法門の深く貴いことを感じて 泣いておるのじゃのう。」と。

聖人も感じられていた様子で、以後は静かに教授されたということである。

かようにして、寂心聖人は、比叡山での修行もすすみ、高徳の聖との評判がたつようになった。結果、御堂の入道、すなわち藤原道長公の受戒の師となられたりした。

寂心聖人が 臨終往生の際は、僧への読経依頼の施物として信濃の晒し布百あまりが奉納された。奉納の文(諷誦文ふうじゅぶん)には 三河の入道 寂照(じゃくしょう 次節参照)がすぐれた句を書き記している。

曰く。

いにしえの昔、中国の隋の煬帝(ようだい)が千人の僧に食事を奉納したが、そこに天台智顗(ちぎ)大師の化身(けしん)があらわれたのか、一人分の食事が足らなくなった。

今、左大臣 藤原道長公が 寂心聖人を御供養して奉納された さらし布は百千(ももち)の数に達している。

との意味の 句が記されている。

(20230806 原子爆弾投下の日の朝に 訳す。)