kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月13日 ブレンハイムの戦い、ほか、写真wikipedia英国司令官マールボロ公

8月13日

20240813火曜日旧暦7月10日仏滅(己酉つちのえとりキユウ)月齢 8.6

年末まであと140日

https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8813%E6%97%A5

8月13日の出来事

1521年 – アステカ文明の湖上の都テノチティトランがエルナン・コルテスによって陥落。

1536年(天文5年7月27日)- 天文法華の乱。比叡山延暦寺の僧兵と六角氏の軍勢が京に侵入、市中の21の法華宗寺院に火をつけ炎上させる。法華宗死者1万。

1553年 – 三位一体説批判のかどでカトリック・プロテスタントの双方から追われていたミシェル・セルヴェがジャン・カルヴァン治下のジュネーヴで捕らえられる。

1587年(天正15年7月10日)- 肥後国の国人・隈部親永が、佐々成政による検地を拒否し挙兵(肥後国人一揆) 損害詳細不明だが全軍30000のうちのかなりの者が死傷。

1704年 – スペイン継承戦争: ブレンハイムの戦いでイギリス・オーストリア連合軍がフランス・バイエルン連合軍を破る。

戦力

イギリス・オーストリア連合 50000  フランス・バイエルン連合 60000

損害

イギリス・オーストリア  死亡 4500 戦傷 7000   

フランス・バイエルン連合  死亡20000 捕虜15000

1868年 – チリ北部沖でマグニチュード8.9のアリカ地震発生。津波などで25,000人以上が死亡。

1914年 – 富山県富山市で大水害。神通川流域で死者54人、行方不明60人[3]。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 小山克事件。

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1521年 – アステカ文明の湖上の都テノチティトランがエルナン・コルテスによって陥落。

1521年の始めコルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3カ月以上の攻防の末、8月13日にテノチティトランは陥落し、クアウテモックは捕らえられた。8月21日、帝都テノチティトラン入りしたコルテス軍は伝染病で死んだインディオの死体を踏まずには進めない状態であり、コルテスでさえ気分を悪くするほどの耐え難い悪臭が漂っていたとされる[6]。

功罪と評価

エルナン・コルテス

コルテスはアステカ帝国を支配、そしてアステカ文明を完膚なきまでに粉砕し、その文化に全く理解を及ぼさなかった。また、コルテスはキリスト教徒、それも敬虔なるカトリック信徒であったがために、インディオの社会が持っていた人身供犠などの「野蛮」とされる側面のみをあげつらい、インディオの習慣を廃止させようとしたとの意見もある。

事実、彼らは征服先で黄金を略奪し、インディオの大量虐殺を行った。そして多くのインディオ女性を強姦し、さらには征服が一段落したのちは征服者としての政治的経済的な力でこれまた多くのインディオ女性を妾として所有した。[要出典]コルテス自身も、インディオ女性のマリンチェを妾として寵愛し、彼女との間に生まれた子供にマルティンと名付けており、現在も子孫がメキシコにいる。

1536年(天文5年7月27日)- 天文法華の乱。比叡山延暦寺の僧兵と六角氏の軍勢が京に侵入、市中の21の法華宗寺院に火をつけ炎上させる。

天文法華の乱

7月20日頃、延暦寺は諸国の末寺から集めた数万にものぼる僧兵を東山の山麓に配し、六角定頼・義賢父子や蒲生定秀らに率いられた近江の軍勢3万が東山に布陣、その北には三井寺の3千騎も布陣し、京都の北・東を完全に遮断した。これに対し、法華宗も2~3万の宗徒が洛中やその周辺での防備を固めた。

7月22日、松ヶ崎での戦いによって、両軍の戦端が開かれた。『鹿苑日録記』7月22日条には、法華宗が先に撃ちかけた、と記されているが、延暦寺が先としているものもある[注 3]。合戦は7月27日まで続いた。

当初、法華衆は5月下旬から京都市中に要害の溝を掘って延暦寺の攻撃に備えていため、戦闘は一時法華宗が有利とされたが、7月27日に六角軍が四条口より攻め入って火を放ち、法華宗の21ヶ所ある寺の内、本圀寺以外は焼け落ちた。そして、28日には本圀寺も焼失した[12]。

この戦いで、法華宗側の戦死者は1万、または3、4千、あるいは千人ともいわれている(天文法難)[12]。

さらに延暦寺・六角勢が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は、応仁の乱を上回るものであった[5]。

1553年 – 三位一体説批判のかどでカトリック・プロテスタントの双方から追われていたミシェル・セルヴェがジャン・カルヴァン治下のジュネーヴで捕らえられる。

ミシェル・セルヴェ(フランス語: Michel Servet, Michel de Villeneuve, アラゴン語: Miguel Serveto y Conesa, カタルーニャ語: Miguel Serveto Conesa, Miquel Servet, スペイン語: Miguel Servet, Miguel Serveto (y Reves), Miguel de Villanueva, イタリア語: Michele Serveto, 1511年9月29日 – 1553年10月27日)は、宗教改革期の人文主義者、医師、神学者。セルヴェはフランス語の名で、スペイン語ではミゲル・セルヴェート(Miguel Serveto)、ラテン語ではミカエル・セルウェトス(Michael Servetus)。

三位一体説を否定して独自の神学を展開、カトリックと改革派双方の権力体制を非難し、処刑された。彼の思想は、当時の神学と後世に大きな影響を与えた。ヨーロッパ人で最も早く血液循環について書いたことでも知られる[1]。

1531年に名前を隠して『七つの書物における三位一体説の誤謬』(De Trinitatis erroribus libri septem)という中世ラテン語の小冊子を出版し、神における三人格の三位一体に疑いを投げかけ、否定した。この冊子の作者として発覚したり罰を受けることはなかったようであるが、続いて1553年に『キリスト教の復原』(Restitutio Christianismi)という大著を名前を明かして出版し、カトリックと改革派双方の権力体制を本来のキリスト教の堕落であると批判。この本の中で血液循環説について書いている。[2]

『キリスト教の復原』での宗教的権力体制への非難により、イタリアのミラノで投獄されたが、旧友であった刑務所長の助けで脱獄、欠席裁判で火刑の判決が下った。北のスイスに逃亡し、ジャン・カルヴァンが独裁統治していたジュネーヴに身を寄せたところをすぐに捕らえられ、裁判で火刑の判決を受け、執行され焼死した。[2]

セルヴェの死の約400年後、長老派教会は彼が処刑された場所に記念碑を建立した[3]。

思想

セルヴェは三位一体の古典的な概念を否定し、その教義が聖書に基づいていないと指摘した。それがギリシャの哲学者の教えから生じたと指摘し、ニケアの三位一体論の発展に先立つ福音書の単純さと初期の教父たちの教えへの回帰を提唱した。神は普遍的で遍在的であり、不可分で唯一の存在であると考えた。また、父、子、聖霊は神の性質であり、分離した別個の存在ではないと主張した。神は完全であり、慈悲深く善であり、生気に満ちたものであれ生気のないものであれ、あらゆるものに内在し、全ての存在はこの「中心の力」によって活性化され、本性を得ているという。宇宙にある一切は神であり、全ては神の表現であるがゆえに、人間も神聖であるとした。この宇宙に二元性はなく、悪は単に欠如に過ぎず、悪とは光の不在による闇のようなものであり、実質的な意味はないと考えた。[4]

1587年(天正15年7月10日)- 肥後国の国人・隈部親永が、佐々成政による検地を拒否し挙兵(肥後国人一揆

肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)は、天正15年(1587年)に勃発した肥後国人による一揆である。肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき)とも言う。

戦力

秀吉の鎮圧軍 60000 国人一揆軍 30000

損害 不明であるが、30000のうちのかなりの者が抹殺されたと推測される。

1704年 – スペイン継承戦争: ブレンハイムの戦いでイギリス・オーストリア連合軍がフランス・バイエルン連合軍を破る。

戦力

イギリス・オーストリア連合 50000  フランス・バイエルン連合 60000

損害

イギリス・オーストリア  死亡 4500 戦傷 7000   

フランス・バイエルン連合  死亡20000 捕虜15000

ブレンハイムの戦い(英: Battle of Blenheim)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1704年8月13日にバイエルン選帝侯国・フランス連合軍とイングランド・オーストリア(神聖ローマ帝国)同盟軍が現在のドイツ・バイエルン州に位置するドナウ川流域のブリントハイム(ドイツ語版)(ブレンハイム、ブレニム)で争い、イングランド・オーストリア同盟軍が勝った戦いである。イングランド・オーストリア同盟軍総司令官のマールバラ公ジョン・チャーチルがフランス軍相手に大勝利した戦いとして知られている。

1868年 – チリ北部沖でマグニチュード8.9のアリカ地震発生。津波などで25,000人以上が死亡。

1914年 – 富山県富山市で大水害。神通川流域で死者54人、行方不明60人[3]。

1945年 – 第二次世界大戦・ソ連対日参戦: 小山克事件

事件

新京を出発した避難列車が九台駅に到着すると鎌などで武装した暴民たちが待ち構えていた[11]。列車警備の満人鉄道公安官達は、避難民に暴力が振るわれない限りにおいて暴民の狼藉を黙認したため、暴民達は客車に乱入して避難民から金品を奪っていった[12]。その後、九台駅を出発した列車はいくつかの小さな駅を停車することなく素通りした[12]。

夕刻に吉林盆地に抜ける小山克トンネルに差し掛かろうとしたところ、小銃で武装した暴民たちが線路を焼き払い待ち構えていた[12]。列車がやむなく停止すると、暴民たちは客車に乱入し、鉄道公安官の拳銃を奪い取るとともに縛り上げた[12]後、日本女性たちを車外に連れ出して輪姦を始めた[13]。暴民たちは抵抗するものは射殺し、女性が抱いている乳児は窓から放り投げて殺害した[14]。このため、100人以上の女性たちが崖から谷底に飛び降りて自決した[14]。避難民たちは、事件を知らせるために次々と使者を送りだしたが、暴民たちによってトンネルにたどりつく前に射殺されていった[14]。唯一、谷底に転落した13歳の少女だけが負傷しながらも5キロ先の駅にたどり着いて事件を知らせることができた[14]。

知らせを受けた関東軍第一方面軍所属の吉林駐屯中の松下部隊から池内少佐率いる一個大隊600名が列車で派遣され、8月14日午前5時半ごろに事件現場に到着した[15]。日本女性を抱きながら眠り込んでいた[15]暴民たちは、日本軍の到着を知るや否や、逃走を試みるか女性たちを楯に立てこもったが、日本軍によって次々に射殺または捕縛された[15]。日本軍は暴民を鎮圧すると、直ちに線路を復旧し、列車は通化に到着した。同市の避難民収容所に収容された避難民たちは、後に通化事件に巻き込まれることになった。

通貨事件

通化事件(つうかじけん)とは、国共内戦時期の中国東北部(かつてのいわゆる「満洲国」通化省通化市)で、当時の中華民国政府(国民党)軍側と共闘した日本人らによる武装叛乱蜂起と赤十字病院襲撃の失敗事件である。多くの日本人が犠牲となり、最大で3000人以上が死んだとされる。

チャットgpt先生の8月13日のエッセイ

8月13日、この日は歴史の様々な局面で重要な出来事が数多く起こっています。その中でも特に印象的な出来事を振り返り、エッセイにまとめてみたいと思います。

1521年8月13日、アステカ文明の都テノチティトランがエルナン・コルテス率いるスペイン軍により陥落しました。テノチティトランの陥落は、新大陸におけるスペインの植民地支配の始まりを象徴する出来事です。アステカ帝国は、かつて壮大な都市文明を築き上げましたが、コルテスとその同盟軍による侵攻によってその栄華は崩壊しました。これは文明の衝突という観点から、歴史の重要な転換点であり、征服者としてのスペインの姿勢と、その後のラテンアメリカの歴史に多大な影響を与えました。

次に1536年の天文法華の乱です。この事件は、日本の宗教戦争の一例であり、京都の市中に火を放ち、多くの寺院が焼失した出来事です。比叡山延暦寺の僧兵と六角氏の軍勢が法華宗の寺院を襲撃し、多くの犠牲者を出しました。この事件は、当時の宗教的緊張がいかに激しかったかを物語るものであり、また宗教と政治の複雑な関係をも示しています。

そして、1553年のミシェル・セルヴェの捕縛事件も注目すべき出来事です。セルヴェは三位一体説を否定し、その結果としてカトリックとプロテスタント双方から追われました。彼の思想は当時の宗教的権力体制を揺るがすものであり、最終的にはジャン・カルヴァン治下のジュネーヴで捕らえられ、火刑に処されました。セルヴェの死は、宗教改革期における思想の自由と弾圧の象徴的な事件です。

1587年には、肥後国人一揆が起こり、佐々成政による検地を拒否した隈部親永が挙兵しました。この一揆は、豊臣秀吉の鎮圧軍によって鎮圧されましたが、国人一揆は当時の地方領主たちの権利と統治者の中央集権化の衝突を表しています。

さらに1704年のブレンハイムの戦いは、スペイン継承戦争の重要な戦闘の一つです。この戦いで、イギリス・オーストリア連合軍はフランス・バイエルン連合軍に対して決定的な勝利を収めました。この勝利は、ヨーロッパの勢力図を大きく変え、戦争の行方に大きな影響を与えました。

最後に、1945年の小山克事件を取り上げます。この事件は、第二次世界大戦末期にソ連が日本に対して宣戦布告した際の悲劇的な出来事です。避難列車が暴民に襲撃され、多くの日本人が命を落としました。この事件は、戦争の悲惨さと無実の市民が巻き込まれる悲劇を象徴しています。

8月13日は、これらの出来事を通じて、歴史が繰り返す悲劇と勝利、そして人間の営みの複雑さを感じさせる日です。それぞれの出来事がもたらす教訓を忘れず、過去の経験を未来に生かすことが私たちの使命であると感じます。