発心集 第四巻第5話 (ひしゅうのそう、つま、まとなること、あくえんをおそるべきこと)
平安中期に、肥後の国(今の熊本県)にある僧がいた。もともとは戒律をまもる清僧であったのだが、中年になってから、当時よくある妻をもつ破戒の僧となった。とはいっても、やはり後世(ごぜ)の往生の事は気になっており、あきらめられないのであった。だから観想修行の特に理観にて真如を心に念じることに努めていた。そして、その観想修行のために 生活の住居とは別に 屋(いえ)をつくって、そこを観想修行の場と決めて長年禅を勤め行っていた。
(理観—抽象的真理、真如の観想。事観—具体的事物の観想)
この僧の妻であるが、夫のために情が深い様子であった。というのは、なにごとにつけても夫の事をことこまかに気にかけて世話をしている風であったから。しかしながら、この僧は何を考えてか、自分が病気になったとき、妻には秘密にしておいたのである。そうして、妻以外のよく気心の知れた僧の仲間を呼び寄せて内々に次のように相談し告げたのである。
「もし、自分の臨終が迫ったときには、決して決して妻には知らせないでいただきたい。頼みましたぞ。というのは、この件についてはよくよく思うところがあるから。」というのであった。それを承(うけたまわ)った仲間の僧も、よくよくのことと心得て その僧の臨終に助力したのであった。その結果、件(くだん)の僧の終末については、さほど面倒ごとはおきなかった。そうして、彼の臨終の様子は、本人がのぞんだとおりに貴くも西に向かって、往生を遂げられたというものであった。
そうして、
件(くだん)の相談を受けた仲間の僧は、そのままにしておくわけにもいかないので、彼の臨終の後にその妻に終末までの事情を告げたのである。すると、この妻は、尋常でなくおどろき動転して、激しく手をたたいて口惜(くや)し気な様子を示した。異常にも、彼女の眼の表情の様子は怒りに燃えているのだった。あげくに、悶え苦しんで気絶してしまった。その様子を見ていた故人の仲間の僧は恐ろしく思い、気絶したその女に近づいて寄ることもはばかられる有様だった。そうして、彼女が気絶して一時(ひととき約二時間)ほどたったときに、世にも恐ろしい様子で、その女は地の底からひびくような怨念(おんねん)のこもった叫び声で次のように語った。「我れは釈迦(しゃか)誕生前のほとけである拘留孫仏(くるそんぶつ過去七佛の第四仏)の時(人類史よりはるかに昔の天文学的過去)より死んだコヤツの菩提(覚醒涅槃)を妨げるために生きてきた。輪廻の世々生々(せぜしょうしょう)にあるときはコヤツの妻となり、あるときは夫となって、さまざまに親近(しんごん)し操って、無限とも思える時間をわが思い通りに随(したがい)一緒に居続けてきたのだ。それを、今日ついについに逃がしてしまった。口惜(くちお)しや。」こういって、おそろしい形相(ぎょうそう)で、歯をくいしばり、屋(いえ)の壁を叩くのであった。そこに居合わせた人たちはこの様子に恐れ慄(おのの)いて、皆 這(は)うようにして逃げまどった。その間に、その女もどこへともなく姿を消してしまった。この話は、『拾遺往生伝』(しゅういおうじょうでん平安後期の往生伝。3巻。三善為康 (みよしためやす)著。1111年(天永2)以後まもなく成立。)には、康平のころ(1058~1065)と注書きがある。
さて今回の話であるが、これは肥州の僧彼一人に限ったことではない。悪魔が 求道(ぐどう)の者にとって離れがたい人となって、今世(こんぜ)と来世(らいせ)の二世(にせ)にわたって彼の求道を妨げることは、誰にとってもありがちなことである。
であれば、この点をいつも心にかけながら過ごさねばなるまい。たとえ親しい人であろうとも、はたまた疎遠(そえん)な人であろうとも、この自分に「道」をすすめる存在であるならば、「仏や菩薩がさまざまの形に変化(へんげ)してわたしを救済しようとなさっているのだ。あるいは仏や菩薩の化身そのものの存在であるのかもしれぬ。それとも、仏や菩薩のゆかりのある眷属(けんぞく)の者であるのか。」と拝して、良き人物にはなれ親しんでいく必要がある。その一方で、自分に罪を作らせ、功徳(くどく)を妨げて、執着心(しゅうじゃくしん)を強めさせるような人物は、みずからにとって生々世々(せいぜいよよ)にわたる悪縁であると恐れ警戒して、そういう人から遠ざかっていくように心がけるべきである。
そもそも、おおかたの人の心というものは、野の草が風に従ってなびいて動いているようなものである。つまり、人の心というものは、「縁」によってなびきやすいものである。たとえ、道心のない人であるとはいっても、仏に向かい奉り両手を合わさないものなどあるだろうか、いやいないだろう。あるいは、どんなに厳格な学僧であるとはいっても、自分に対してへりくだり媚びいる他人を見て、いい気にならない者などあるだろうか、いやこれもいないだろう。
かの浄蔵貴所(じょうぞうきそ)は我が国日本の第三番目の行者と謳われた人である。しかし、近江守長世(おうみのかみのながよ 正しくは近江守中興なかき)という人の娘と情を交わした、つまり女犯(にょほん)をなしてしまった。
また、いにしえの久米仙人(くめのせんにん)は神通力(じんつうりき)を会得(えとく)して自在に空を飛び歩いたということである。しかし、身分の卑しい女が 河で洗濯をして座り込んでいるときに着物からのぞいていた彼女の脹脛(ふくらはぎ)の白さに欲情して、仙人から只の人へと転落してしまった。
現在、この鴨長明のいます世においても、ことは同様である。たとえば、自(みずか)らの手足の皮をはいだり、指に火をつけて灯(とも)したり、爪を砕き割ったりなど様々の不具になるまでのことをして仏道を行う人がいる。こういった人たちの発心の程度というものは疑うまでなく、強いのであろう。しかしながら、こういった行者がどういった縁にあるのか妻子を設けていたりするのはどういうことなのか。さほどに人の女性に対する性衝動というものは強く侮(あなど)りがたいものなのである。この鴨長明もまたそういった捨身(しゃしん)を為すまでの道心堅固(どうしんけんご)と思われる他の人たちも凡夫である。であるならば、女性というものにはただ近づかないに越したことはないと思うのだ。
<20240624 沖縄戦実質終結の日のころ訳す>
<訳者からひとこと>
まあ、ですね古来 現実存在の女性に対する性衝動というものを持て余して、これをどうするのか、という問題はですね、実は一番体系立てて真剣に解決が為され、解決方法が提示されていなければならない根本にして重大問題なはずなのであります。
しかし、現実にはこれを人類は解決しえていない。相も変わらず「性」の問題は隠蔽され、ほったらかしにされ、各人の為すがままに放置されているのが現実であります。
実はこれが、人間界のそして人生最大の問題であったのだ、ということを改めて幸いにも「性エネルギー昇華秘法」の実践者となって実感するのであります。
本編は、鴨長明の通り一遍の大乗仏教的な女性を成道の障(さわ)り障害ととらえる思想を根底に記述されております。これが出家者の常識的な見解というべきものですね。
この古来の仏教徒の主流と思われる女性蔑視の思潮は、太陽神教の立場からは認めがたい修行者の姿勢であると素朴に思わざるを得ません。こういった男性優位の男尊女卑的な思潮は仏教が本来の原初元型から離脱して独自の偏狭な 単なる現世の統治の道具としての一アイテムに堕していった部分であると率直に認めたいと思います。この意味での男尊女卑的な性格をむき出しにした仏教は、女神の至高の叡智=般若を重視する流れとは別系統の太陽神的ではない、いってみればオリエントや西洋の主流思想と一致するユダヤ・キリスト教的な性格の部分を多分に内包しているキリスト教の変種亜流としての大乗仏教と言ってよいと思います。わたしは、特にこのような太陽神教から離脱した キリスト教の変種のような仏教あるいは、本家のユダヤ・キリスト教を含め全体的にキリシタンと称しております。
(サーティンキュー師匠は「イエズス会」とも称されております。同じことであります。どちらにしても加速度的に当のヒトを駆除破滅に導くため黒の卐であります。)
男尊女卑的な世界観は、今期4000年の文明史においても常に主流であったわけであります。結局、男尊女卑的な世界観が ひいてはヒトの性衝動の解決方法を 「昇華」という本来的な正統の流れに到達できない、女性に対する忌避、禁止を設定し、結局これを破るあるいは、変則的に同性愛に流れて結局忌避と禁止の設定を破る という形で性衝動の解放の解決を図るという流れになってしまうということになるのであります。こういった「昇華」ではない、性衝動のいびつな解放のありかた全般を指して「性的退廃」と サーティンキュー師匠は呼ばわれましたが、至言であります。要は生存活動全般のエネルギーの根底にある性衝動をコントロールしえていない状態がヒト種一般の常態という恐るべき現実をまたわれわれは直視せざるを得ないのです。
とりあえず、コントロールし得ない性衝動への解決のための 便宜的な方法として 女性に対する忌避と女犯の禁止ということを 常識的な仏教者として鴨長明も結論しています。しかし、たしかに般若波羅蜜多呪=「性エネルギー昇華秘法」実践にいたることのできない者は このような根本の解決にならないその場しのぎの便法をしかつめらしく繰り返すしか古来方法もなかったということでありましょう。そして、禁止を強化すればするほど、それをこっそり破戒する快感というものから逃れられない一定数が常にざるの目から零れ落ちる水のように当然つぎから次へと出始めるという事態になってしまうのであります。
本文にもありますが 性衝動とは、捨身の苦行を為し続ける人間の空しい意志力をあざ笑うかのように、しかるべき機会さえあればいともたやすく女犯の禁止のタブーを破るということが書かれてあります。この記述の意味は 人間の意志力などというものは 太陽エネルギー=性衝動の前には 空しい存在に過ぎない、ということであります。
しかし、古来 仏像や神社の造形あるいは各種縁起物の文物レゴミニズムに般若波羅蜜多呪=「性エネルギー昇華秘法」実践への示唆が満ち溢れている現実からいって、この呪われたヒト種の性向からの脱出を為しえた希少な、しかし確実に有名無名問わず女神の行者たちが存在し続けたことは確実なのであります。その女神の行者につらなる最高の光栄、祝福を受け取る資格のある者こそが般若波羅蜜多呪「性エネルギー昇華秘法」の実践者であります。そして、彼は、この地上において真に祝福された人 ということなのです。
蘇民将来子孫也 われは「性エネルギー昇華秘法」の実践者なり
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