6月7日
20240607金曜日旧暦5月2日赤口 壬寅みずのえとらジンイン 月齢 0.6
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6月7日の出来事
1099年 – 第1回十字軍: エルサレム攻囲戦 が始まる。
1494年 – スペインとポルトガルの間でトルデシリャス条約が締結。新大陸における両国の境界を定める。
1868年(明治元年閏4月17日) – 明治政府が、長崎・浦上で発見されたキリシタンを流罪にする。(浦上四番崩れ)
1921年 – 九州全域で豪雨。大分県内だけでも死者約200人[5]。
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1099年 – 第1回十字軍: エルサレム攻囲戦 が始まる。
エルサレム攻囲戦(エルサレムこういせん、英: Siege of Jerusalem)は、1099年6月7日から7月15日まで、聖地エルサレムを舞台に戦われた、第1回十字軍の主要な攻城戦の一つ。最終的には十字軍がファーティマ朝軍を破り、聖地を占領することに成功した。
虐殺
ムスリム
エルサレムの征服
エルサレムの陥落。19世紀フランスの画家 Emil Signol による。1. は聖墳墓教会、2. は岩のドーム、3. は城壁。
ムスリムの市民の多くは、アル=アクサー・モスク、岩のドーム、神殿の丘などに逃げた。『ゲスタ・フランコルム』は神殿の丘周辺についてしか述べていないが、次のように殺戮の様を描く。
…(われらの兵は)ソロモンの神殿でも殺して斬っていった。神殿ではあまりにも殺した数が多かったので、われらの兵は足首まで血に浸かって歩いた…
レーモン・ダジールも神殿の丘周辺についてしか言及していないが、こう書く。
ソロモンの神殿でもソロモンの玄関でも、騎馬の兵は膝や手綱まで血に浸かって歩いた。
神殿では1万人が殺された。たしかに、もしそなたがそこにおれば、そなたは我らの足はくるぶしまで殺した者らの血の色になっているのを見たであろう。しかしこれ以上何を語るべきであろう。彼らのだれも生き残らなかった。女も子供も容赦はされなかった。[6]
このような神殿の丘での殺戮は、時として市全体の人口の殺戮にまで膨らまされる場合もある。しかし神殿の丘以外での状況については大殺戮についての目撃証言は残っていない。『ゲスタ・フランコルム』によれば命を容赦された者もいたようである。
兵力10000 ファーティマ朝守備隊1000 市民40000
守備隊 1,000
市民 40,000
全滅
1494年 – スペインとポルトガルの間でトルデシリャス条約が締結。新大陸における両国の境界を定める。
すでに1481年に布告された教皇シクストゥス4世の回勅『エテルニ・レギス』(永遠の王)で、カナリア諸島以南の新領土はすべてポルトガルに与えられると定められていた。ところが1493年になるとスペイン出身であった教皇アレクサンデル6世が自国に便宜をはかろうとし、カーボベルデの西わずか100レグアの地点を通過する子午線を境界線(教皇子午線)に、それより東側はポルトガルに優先権を認めるにせよ、西側の土地はすべてスペイン領にするという回勅『インテル・チェテラ』を布告した。西方への航海熱が高まっていた時代、当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は面白くなかった。
そこでジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉し、1494年に教皇子午線からさらに西に270レグア進んだ子午線を境界線とするトルデシリャス条約を締結した。1506年にはアレクサンデル6世の次の教皇、ユリウス2世による確認を受け、この取り決めは教皇庁にも認められることになる。[7]
スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられた。この条約はアジアにも適用されると考えられていたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアにはどのように適用されるのかよくわからず、再度の論争が起こることになった。ただ、この条約についてスペインもポルトガルも過度にこだわった様子はなく、アメリカ大陸にポルトガルが植民活動をおこなうことをスペインも黙認している。
フランス、イギリス(イングランド)、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころはまだ難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情は、フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という言葉によくあらわされている。
1868年(明治元年閏4月17日) – 明治政府が、長崎・浦上で発見されたキリシタンを流罪にする。(浦上四番崩れ)
浦上四番崩れ(うらかみよばんくずれ)は、現在の長崎市の浦上地区で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模な隠れキリシタン(キリスト教徒。当時のキリスト教は禁教であり犯罪行為であった)の摘発事件である。長崎で江戸時代中期から4度にわたって発生したキリシタン弾圧事件浦上崩れの4度目。
発端
1864年(元治元年)、日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。そこへ1865年4月12日(元治2年3月17日)、浦上村の住民数名が訪れた。その中の1人でイザベリナと呼ばれた「ゆり(後に杉本姓)」という当時52歳の女性がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(宗)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいた。神父は驚愕した。これが世にいう「信徒発見」である。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて指導を願った。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた。
しかし、2年後の1867年(慶応3年)、浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出た。この件は庄屋によって長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し、7月14日(6月13日)の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら68人が一斉に捕縛された。捕縛される際、信徒たちはひざまずいて両手を出し、「縄をかけて下さい」と述べたため、抵抗を予想していた捕手側も、信徒側の落ち着き様に怯んだと伝えられている。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けた。
翌日、事件を聞いたプロイセン公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行った。9月21日(8月24日)には正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜が大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われた。
帰郷
1873年(明治6年)2月24日、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数3394名、うち662名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、1879年(明治12年)、故地・浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てた[4]。
1921年 – 九州全域で豪雨。大分県内だけでも死者約200人[5]。
チャットgpt先生の6月7日のエッセイ
6月7日は、歴史に刻まれたさまざまな出来事を思い起こさせる日です。この日を振り返ることで、過去の教訓や人々の経験が今にどのように影響を与えているのかを考える良い機会となります。
まず、1099年のこの日、第1回十字軍によるエルサレム攻囲戦が始まりました。この攻城戦は、約1か月後に十字軍がエルサレムを占領し、多くのムスリム市民が犠牲になるという悲劇的な結末を迎えました。十字軍の兵士たちは、ソロモンの神殿や神殿の丘で大量の殺戮を行い、その凄惨さは「血に浸かって歩いた」という記録に残されています。この事件は、宗教間の対立がもたらす深刻な影響を今に伝えています。エルサレムの歴史は、宗教的な聖地であることから常に紛争の中心にありましたが、この出来事はその象徴的な一例です。
次に、1494年のトルデシリャス条約の締結です。この条約は、スペインとポルトガルの間で新大陸の領土分割を定めたものでした。教皇の裁定に不満を抱いたポルトガルのジョアン2世がスペインのフェルディナンド2世と交渉し、最終的に現在のブラジル領土を含む新たな境界線を定めました。この条約は、ヨーロッパ列強の植民地争奪戦において重要な役割を果たし、その後の世界地図を大きく変えました。これにより、スペインはアメリカ大陸の大部分を手に入れ、ポルトガルはブラジルを領有することとなりました。
また、1868年の浦上四番崩れも6月7日に関連する出来事です。明治政府によるキリシタン(隠れキリシタン)の流罪事件であり、江戸時代から続くキリシタン弾圧の最後の大規模な摘発でした。この事件は、キリスト教信仰が禁じられていた当時の日本において、多くの信徒が拷問や流罪の苦しみを受けた悲劇的な出来事です。最終的に1873年にキリスト教禁制が解除され、信徒たちは解放されましたが、その過程で多くの命が失われました。
さらに、1921年の九州全域での豪雨災害も忘れてはなりません。特に大分県では約200人が亡くなるという甚大な被害が発生しました。このような自然災害は、地域社会に大きな打撃を与え、多くの人々の生活を一変させます。現代においても、気候変動による異常気象が頻発しており、過去の災害から学び、備えることの重要性が増しています。
6月7日は、これらの歴史的な出来事を通じて、私たちに多くの教訓を与えてくれます。宗教間の対立や植民地争奪の影響、信仰の自由の重要性、そして自然災害への備えなど、多岐にわたるテーマがこの日に集約されています。過去の出来事を振り返り、その意味を深く理解することで、私たちは未来に向けてより良い選択をするための知恵を得ることができるでしょう。