【台風進路予想】台風6号 東へ向きを変えて九州の南へ その後 北上して西日本直撃か 10日先までの気象庁&海外予報機関 ※随時更新
ヴィーガンの人気インフルエンサーが死去、39歳 6年間 水を飲まず、フルーツと野菜ジュースで過ごす
少年院「松山学園」が事実上収容終了 唯一の在院者が仮退院(愛媛)
【台風情報最新進路・8月4日(金)午前8時半更新】「大型で強い台風6号」宮古島付近でほぼ停滞 その後9日(水)ごろに西日本直撃のおそれも【主要エリア今後16日間予報・画像付き】
うっかり地雷を踏んでしまった!→頭のいい人が失敗を帳消しにする「締めの一言」とは?
☆「今日は、いいお話ができて楽しかったです。ありがとうございました!」
「すごく質の高いディスカッションができました。本当に感謝です」
あるいは、もっとダイレクトに同調をうながすのも効果的です。
「今日は本当に楽しかったですね」
「今回の議論は白熱しましたね」
自分の失言から始まったぎこちないやりとりへの後ろめたさを抱えるのではなく、しくじった会話はしくじった会話として切り替え、商談の最終盤のコミュニケーションに集中すること。そこで相手の印象に残る言葉を残すことができれば、次につなげることができたはずです。
たとえば、自ら不正会計のニュースを切り出し、それでもお世話になった上司への感謝を示していた相手に「今日は○○さんの誠実な人柄に感銘を受けました。ぜひご一緒にお仕事をできたらと思うので、もう一度、ご提案の機会をいただけますか」と伝えるのも一手です。
これを言うだけで相手からの好意が爆上がりする…日本人だけが口にする”感謝の念”を表す「パワーワード」
☆
どんなに能力がある人でも、部下や同僚の協力がないと仕事は成り立たないのですから、仕事をするうえで、常に意識のなかに、仲間に対する感謝の念を持っていなければ成功は望むべくもないのです。
にもかかわらず、なかにはどうしてもそれができない人(仲間への感謝の念を持てない人)がいます。
そして、何人か部下を抱えるようになったとたんに、「俺は部下に仕事を与えてやっている、面倒をみてやっている」と思い込む人が出てくるのです。
それは日ごろの態度に必ず出ます。部下に対して傲慢な態度で接し、プロジェクトがうまくいっても、それを当然のこととして、「ありがとう」のひとこともいえないのです。
「お疲れさまでした。ありがとうございました」
「お疲れさまだけでは足りない」と思っているからです。
「感謝の言葉も添えないと、自分の本心は伝わらない」と思っているからです。
私にできることは「お疲れさまでした」に加え、「ありがとうございました」と、心を込めたひとことを添えることくらいです。
日本の平均年収は本当に443万円?年収「500万円以下」の人口は何割?
い1年を通じて勤務した方5269万9000人について給与階級別分布を見ていくと、年収500万円以下の方は男女合わせて68.6%となっています。ここから、日本の大多数の方が、年収500万円以下であることが分かります。数にすると3610万7000人と、非常に多いようです。
なお、最も多い年収帯は300万円超400万円以下で、全体の17.4%となっています。人口にすると、914万5000人です。
男女別にみると、集計対象となる3060万8000人のうち年収500万円以下の男性の割合は55.1%であり、男性においても大多数の方が年収500万円以下となっているようです。人口にすると、1687万5000人となります。最も多い年収帯は400万円超500万円以下で全体の17.5%に当たり、人口としては537万人です。
女性の場合、集計対象の2209万1000人のうち、年収500万円以下の女性の割合は87.1%であり、人数にすると1923万2000人となっています。最も多い年収帯は100万円超200万円以下で、全体の22.5%、人口に換算すると497万1000人です。
◆第四日目(8月14日)–龍灯信仰と海洋信仰・熊野信仰と遍路 補陀落浄土とニライカナイ 宗教の秘める欲望無限地獄 『理趣釈経』をめぐる最澄と空海の相違 「生命分断史観」を刷り込む反日文化人の戦後責任
司馬もそうであるが、多くの専門家の語る空海論は男性的かつ父性的な空海像である。その理由はおそらく荒々しい山林修行を積んだ空海と、その後の彼の多岐にわたる社会的業績や天皇との親交、国家鎮護などの政治性を帯びた宗教活動などに目を奪われるためであろう。
だが、それらは空海の外面だと思う。私は、空海の本質はむしろ母性原理にもとづく宗教性にあると思われてならない。この感覚は遍路旅を続けていくうちに 確信に近づくのだが、このときは私は母性につなげて、空海の生誕地の方にこだわっていた。すなわち、善通寺ではなくもっと海辺のどこかである。
慶応四年(1868)三月に刊行された『和英通韻以呂波便』は基礎英語テキストである。同年十二月刊『藩論』は地方自治を論じたものである。ここまでは われわれの知る龍馬らしい啓蒙であるが、それらより先に慶応三年(1867)、海援隊が真っ先に出版した『閑愁録』は、キリスト教を排し、仏教を勧める啓 蒙書であったことは意外に注目されていない。開国論者龍馬は、決して自国の文化を否定した合理主義者ではなかったようである。
とすると、胎蔵曼荼羅は、最終的に大日如来の智慧(説法)に触れる道筋だと解すことができる。四国遍路は「南無大師遍照金剛」と唱えつつお大師さんに巡 り会う旅だといわれるが、遍照金剛とは弘法大師のことでもあり大日如来のことでもある。「金剛」とは、金剛(ダイヤモンド)のように堅固なる仏の知慧の世 界を言い表したもので、その智慧は常に遍く照り輝いているという意味が「遍照」である。
ゆえに、大悲胎蔵生界から生み出された諸仏諸菩薩は、大日如来が姿を変えたものであり、のみならず宇宙の存在すべてが母なる胎蔵界から生み出されたもの であるから、智法身大日如来(金剛界)の宇宙精神も、また遍く万物に行きわたっていることになる。遍照金剛とはそういう意味でもある。ちなみに、大日如来 の「大」は大きいという意味ではなく、絶対という意味である。
このようなところから、宇宙的存在の「理」を示す胎蔵界を母性原理、宇宙的精神の「智」を示す金剛界を父性原理と解釈されることもある。ただし、両界曼荼羅は相対的なものではなく、それ自体が一体であり、不二であるとされる。
私は、虚空蔵堂の前にある我拝師山の遥拝所に立って、苔むした石碑を見ていた。碑には絶壁から身を投げる幼い子どもと、それを両手を差しのべて受け止め ようとする天女と、その様子を空から見守る釈迦如来の姿が浮き彫りにされている。合掌したまま膝をそろえて無心に投身する稚児は七歳の真魚、のちの空海で ある。投身したのは目の前にそびえる480メートルの山頂付近にある絶壁である。そこを「捨身ヶ嶽」という。
18歳、空海は大学を捨てたとき、何と大胆にも大学での諸学問は先人の知識の残りカスであると言い、わが真の師は釈迦如来であると宣言して仏道に入った。寺の縁起は、仏道の志はすでに幼少のころから芽生えていたと伝える。
縁起は言う。弘法大師は7歳のとき仏道に入る証しを得ようとあの山に登り、「我れ、仏道に入りて一切の衆生を救わんと欲す。我が願いかなうものならば、釈迦よ現れて我れに霊現を、さもなくば賭したこの身を諸仏に捧げん」と言って断崖絶壁より飛び降りた。
そのとき紫雲たちまちたなびき、白光とともに釈迦如来が出現し、羽衣をまとった天女が大師を抱きとめたのである。ゆえにここは釈迦出づる寺「出釈迦寺」なのである。我拝師山とは、空海が我が師(釈迦仏)の影現を拝した山という意味である。
事実ならば、何という無茶をする子どもだろう。無邪気な子どもの身投げをお釈迦さんが看過ごせるわけがあるまい。いや、大胆不敵というべきか。無垢であ るがゆえに、この話にはどこか空海の底にある本質的な強さを感じる。ニーチェの「運命愛」「権力の意志」といった超人性のようなものを感じる。
だが考えてもみよ。高野山は空海の私有地であり金剛峯寺は空海の私寺である。その造営費用はすべて庶民の喜捨(施し)によるものである。国家からは一銭 も供出されていない。私たちは、空海の高野開創事業を国家権力の援助によって易々と成就したように考えがちだが誤解も甚だしい。あの寺は空海が一銭一粒一 本の釘の喜捨を庶民に乞うて建立したものである。
また造営の勧進を支援した高野聖とは無名の聖たちである。すなわちもとは律令体制外にあった山岳優婆塞の系列にあった。奈良時代から一所不在を旨として 全国を遊行しながら庶民信仰の要求に応えてきた沙門たちである。もっと言えば彼らの大先輩は役小角という国家が全国指名手配をした「おたずね者」である。 彼らは南都七大寺の官度僧からもぐりの坊主(私度僧)として迫害されていたにもかかわらず、空海は仏道を極めるにあたってまず彼らのなかに飛び込んだの だ。ということは空海ははなから庶民の側にいたということである。
よし下積み時代の空海はそうであったとしても、官僧就任後は違うというなら(空海は大僧都の高位につく)、天皇に奏上した書簡を読むとよい。それらの多 くは公用文書にもかかわらず官職の肩書はほとんどない。空海は常に自らを「沙門」と規定している。その書き出しは「沙門空海言うす」で始まり、「沙門空海 上表す」で締めくくられている。(私の知るかぎり肩書を大僧都空海としたのは一通、沙門空海が十六通)ここに空海の本質を見るべきであろう。
☆
近世はところ払いになった罪人や疫病持ち、乞食や難民が集まるようになった。彼らはみな遍路であった。山本和加子氏の『四国遍路の民衆史』によると、明 治の終わりころ、四国はハンセン病患者がもっとも多い地域であったことが報告されている。同書によると、明治、大正、昭和にかけて四国のいたる所に発生し ており、手のつくしようもなく蔓延していたとある。
☆どんな子どもでも最後まで棄てることをしない。それは妣の 心ではないか。妣の住む国は根の国である。遍路は黄泉路をたどる死国遍路である。だが一方、根の国巡礼は妣なる国への回帰であった。それは選別と効率と競 争原理に邁進する近代日本の裏側の思想である。四国の意識とは、中央の近代主義に対する隠れたレジスタンスであったとも言えるのである。「坂の上の雲」を 仰ぐあまりに、私たちは人間として失ってはならない何かを置き忘れてきてはいないだろうか。
「あら、それじゃ大岡信も司馬遼太郎も宗教が全然わかっていないわ。確かに空海のスタートは、恵まれた家庭環境から想像できるように明るくすくすく育った ことでしょう。でも、明るくて快活なだけの人間だったら、何で宗教の世界に飛び込む必要があるの。オバチャンにでもわかることだわ。もてる幸福条件をみん な投げ捨て、どうして乞食なんかになるの。やむにやまれぬ苦悩があったからでしょう」
「その通りだ。空海は儒教でも道教でも救われず、釈を唯一の師と仰いで仏教を求めて修行僧になり、その苦行の果てにあの大日如来の密教によって救われたんだ」
「空海はそこで再び明るさを取り戻したのよ。闇の中から光明を得る。それが信仰というものじゃない。空海の心の闇を見ずに、終始明るさや快活さばかりに共鳴していて、何で空海の心がわかりますか。ナショナルの蛍光灯じゃあるまいし」
毎年7月1日の山開きには、この寺に集合した行者や信者たちが先達の吹く法螺貝とともに30キロの道程を登るという。その数は数千人ともいわれている。この石鎚信仰を支える筆頭は病気平癒の現世私益である。まだまだ古い信仰を捨てない日本人も多いのだ。
年金40万円、貯金8,000万円で余裕の50代医師夫婦、老後と子の医学部受験のために始めた「マンション投資」で大失敗…目も当てられない絶望までの顛末【FPが解説】
敗戦直後の満州はソ連軍と八路軍(共産軍)、それに国府軍が怒濤のようになだれ込み、日本人街は混乱のるつぼと化した。特に軍人、軍属、元警官、新聞記 者、教師、満鉄職員などは日帝の奸賊とされ、次々と戦犯拘置所に送られた。裁判とは名ばかりの現地復讐裁判によって多くの日本人が処刑されていった。元領 事館警察の父は何度も連行され、そのたびに母は「今度こそ最期だ」と思ったという。最後に中国共産軍に連行された父は「新生中国のために働け」と言われ た。さもなくば銃殺刑に処すという二者択一を迫られ、自ら銃殺刑を選んだのである。「俺は共産主義は嫌いだ」と言って協力を断ってしまった。
家庭円満が母の生涯の夢だった。しかし、唯一の「あげいしさん参り」も家族は全員そろってはいなかった。修験者の真似事をする父親を嫌っていた兄たち は、すでに家を飛び出していた。家族の確執など語る気もないが、四国の寺ならどこにでも売っている遍路の金剛杖が、そんな我が家にはいつも二、三本床の間 に転がっていた。
妻が言い出さなければ、私は生涯遍路なんかしなかっただろう。うまく言えない滓のように沈む澱みが四国にはあり、遍路の心象風景はそれに重なっていた。 郷里に近づくほどに、埋めたはずの過去が顔を出し、それは父母の面影が揺れるつらい道である。そんな故郷の「へんろ道」が、亡き両親を弔う「菩提の道」で あることに、このとき私はまだ気づいていなかった。