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4月17日
20240417水曜日旧暦3月9日大安 辛亥かのといシンガイ 月齢 8.4
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4月17日の出来事
1912年(ユリウス暦4月4日) – レナ虐殺事件。シベリアのレナ川付近でストライキを行っていた金鉱労働者をロシア帝国軍が射殺。
1975年 – カンボジア内戦: カンプチア民族統一戦線がプノンペンを制圧。ロン・ノル率いるクメール共和国が崩壊し、ポル・ポト率いるクメール・ルージュが実権を掌握。
2007年 – 長崎市長射殺事件。長崎駅前で、長崎市市長の伊藤一長が山口組系暴力団員に銃撃される。翌18日未明に胸部大動脈損傷等による大量出血により死亡。
2022年 – パキスタン空軍がアフガニスタンの集落を爆撃。ホースト州とクナル州で47人以上が死亡[5]。
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1912年(ユリウス暦4月4日) – レナ虐殺事件。シベリアのレナ川付近でストライキを行っていた金鉱労働者をロシア帝国軍が射殺。
レナ虐殺事件(レナぎゃくさつじけん、Ленский расстрел, Lena massacre, Lena execution)とは、1912年4月17日(ユリウス暦4月4日)に、ロシア帝国のシベリアのレナ川付近でストライキを行っていた金鉱労働者をロシア帝国軍が無差別に射殺した事件[1]。ロシアの政治や労働運動に衝撃を与え、革命家ウラジーミル・ウリヤノフが自身のペンネームを「レーニン」(レナ川の人)にするきっかけになった事件とする説もある(実際にはレーニンはこの事件よりも前から「レーニン」という偽名を使っている[2])。
概要
事件はバイカル湖の北方、ボダイボの町から離れたレナ川沿岸にあるイギリス系企業レナ金鉱株式会社(ロシア語版)(Lena Gold Mining Joint Stock Company、通称レンゾロト Lenzoloto)の鉱山多数で起こった。1853年にイルクーツク商人が設立したレナ金産業会社(略してレンゾロト)はレナ川流域に多くの金山を開発してロシアの金の4分の1を生産していたが、20世紀初頭に英露協商が結ばれたことによりロシア帝国は英国資本を受け入れ、レンゾロトも英国の金鉱企業の傘下に置かれた。当時、レンゾロトの株主にはセルゲイ・ヴィッテ伯爵、ロシア皇太后マリア・フョードロヴナなどロシアの上流階級も多く、彼らには巨額の利益が入ったが、その源になったのは金鉱労働者の過酷な労働であった。労働者は1日に15時間から16時間働き、労働者1000人ごとに700件以上の割合で後遺症の残るような事故が起きていた[3]。労働者は、安い給料の中から会社に対する罰金を払わざるを得ない場合もあったほか、給料の一部は会社が経営する商店でしか使えないクーポンの形で払われていた(トラック・システム)。こうした劣悪な労働条件に対する不満が高まり、1912年2月29日(新暦3月13日)にアンドレイエフスキー金鉱で偶発的にストライキが起こった。ストの直接の原因は、商店の一つが配給した肉が腐っていたことだった。
3月4日(新暦3月17日)、労働者たちは次のような要求を行った。一日8時間労働、賃金の30%値上げ、罰金の撤廃、食糧配給の改善などである。しかし経営側の回答はそのどれをも満たさなかった。ストライキ中央委員会(P.N.Batashev, G.V.Cherepakhin[4], R.I.Zelionko, M.I.Lebedev ら)はレンゾロト所有の全鉱山にストを拡大し、3月中旬には6,000人がストに入った。帝国政府はキレンスクとボダイボに軍を送り、4月4日(新暦4月17日)の夜、ストライキ中央委員会の全メンバーが逮捕された。翌朝彼らの即時釈放を求めて労働者が集まり、昼からは2,500人ほどが、検察官に経営側の専横への告訴を求めるためナデジディンスキー金鉱へ向かって行進を始めた。しかし途中で行進は軍と鉢合わせになり、兵士らがトレシチェンコフ大佐の命令で労働者に対し発砲し、多数の犠牲者を出した。地元紙ズヴェズダーの報道では270人死亡、250人負傷であり、後のソビエト連邦時代にはプロパガンダにこの数字が使われたが、鉱山からの4月5日付の報告の一つでは死者150人負傷者100人とある。
これに対しロシアの大衆は怒り、中央政府に事件調査のための委員会を金鉱へ送るよう要求した。事件後すぐ、経営側は労働者に新たな労働契約を提案したが、労働側の要求からはなおも遠かった。虐殺の報道は全ロシアでのストライキを呼び、30万人以上が抗議集会に参加した。4月には700件の政治的ストライキが起こり、5月1日にはサンクトペテルブルク地域だけで1,000件のストライキが起こった。レナ川の金鉱のストライキは8月12日(新暦8月25日)まで続いたが、残った労働者が鉱山を引き払ったことで終結した。一連の事件でおよそ9,000人の労働者と家族がレナ川の金鉱から去っている。
1975年 – カンボジア内戦: カンプチア民族統一戦線がプノンペンを制圧。ロン・ノル率いるクメール共和国が崩壊し、ポル・ポト率いるクメール・ルージュが実権を掌握。
カンボジア内戦(カンボジアないせん、クメール語: សង្គ្រាមស៊ីវិលកម្ពុជា)は、第二次インドシナ戦争の中の戦いの一つで、1970年にカンボジア王国が倒れてから、1993年にカンボジア国民議会選挙で民主政権が誕生するまでカンボジアで展開した内戦である
カンボジア紛争ともいう[7]。
クメール・ルージュの支配
詳細は「民主カンプチア」を参照
1972年1月、アメリカはロン・ノル政権支援のために南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させ、この内戦に直接介入した。これによってベトナム戦争はインドシナ戦争に拡大した。ロン・ノルは10月に軍事独裁体制を宣言し、翌1972年3月に大統領に独裁的権力をもたせた新憲法を公布した。
中華人民共和国からの密接な支援を受けたクメール・ルージュは戦闘を続ける。1973年1月にパリでベトナム和平協定が調印されアメリカ軍がベトナムから撤退すると、後見を失ったロン・ノル政権は崩壊に向かう(カンポットの戦い(英語版)1974年2月26日 – 4月2日)。
1975年4月、ロン・ノルは国外へ亡命、隣国ベトナムでは南ベトナムのサイゴンが陥落し、北ベトナムが勝利をおさめてベトナム戦争が終結した。この13日前、クメール・ルージュが首都プノンペンを陥落させ、1976年1月に「カンボジア民主国憲法」を公布し、国名を民主カンプチアに改称した。
プノンペン陥落後、クメール・ルージュの指導者であるポル・ポトは、「都市住民の糧は都市住民自身に耕作させる」という視点から、都市居住者、資本家、技術者、学者・知識人などから一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。病人・高齢者・妊婦などの弱者に対しても、クメール・ルージュは全く配慮をしなかった[17]。ポル・ポトの目的は原始社会(原始共産制)の理想的な自給自足の生活を営んでいると自ら考えたカンボジアの山岳民族を範として資本主義はおろか都市文明を徹底的に廃絶することであった[18]。これは世界で動員が繰り返されてきた20世紀の歴史から見ても例のない社会実験だったとされる[19]。高度な知識や教養はポル・ポトの愚民政策の邪魔になることから医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、別の場所へ連れ去った後に殺害した。やがて連れ去られた者が全く帰ってこないことが知れ渡るようになると、教育を受けた者は事情を察し、無学文盲を装って難を逃れようとしたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者、時計が読める者など、少しでも学識がありそうな者は片っ端から殺害された[20]。この政策は歴史的にも反知性主義の最も極端な例とされる[21][22][23][24]。また、ポル・ポトは「資本主義の垢にまみれていないから」という理由で親から引き離して集団生活をさせて幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた10代前半の無垢な子供を重用するようになり[25][26]、少年兵を操り、子供の衛生兵も存在した[27][28]。
ポル・ポト時代の飢餓と虐殺による死者は総人口の21%から25%とされ[29][30][31]、そのうち60%は大量殺戮[32]によるものでカンボジアは人口の3分の1を失ったともされるが[33]、カンボジアでは1962年を最後に国勢調査は行われておらず、そのうえポル・ポト以前の内戦・空爆による犠牲や人口の難民化により、元となる人口統計が不備であり、こうした諸推計にも大きく開きが出ている。
*カンボジアでは1975〜79年まで恐怖政治が敷かれた。 ポル・ポト率いるクメール・ルージュによる組織的虐殺の犠牲者は、カンボジア特別法廷によると少なくとも170万人。 当時の人口の約2割だ。 多くの人が国外への脱出を余儀なくされた。2023/07/04
2007年 – 長崎市長射殺事件。長崎駅前で、長崎市市長の伊藤一長が山口組系暴力団員に銃撃される。翌18日未明に胸部大動脈損傷等による大量出血により死亡。
2022年 – パキスタン空軍がアフガニスタンの集落を爆撃。ホースト州とクナル州で47人以上が死亡[5]。
チャットgpt先生の4月17日のエッセイ
4月17日は歴史上様々な出来事が起きた日ですね。その中でも特に注目される出来事を振り返ってみましょう。
まず、1912年のレナ虐殺事件は、ロシア帝国軍が金鉱労働者を無差別に射殺した悲劇です。この事件は、労働者の過酷な労働条件や不満が高まり、ストライキが拡大した結果起きました。その後のロシアの政治や労働運動に大きな影響を与えた出来事であり、革命家ウラジーミル・ウリヤノフ(レーニン)にも関連があるとされています。
また、1975年にはカンボジア内戦でクメール・ルージュがプノンペンを制圧し、ロン・ノル率いるクメール共和国が崩壊しました。クメール・ルージュの支配下では、都市住民や知識人などが強制移住させられるなど、過酷な政策が行われました。その結果、数百万人もの人々が虐殺や飢餓で犠牲になりました。
そして、2007年の長崎市長射殺事件や2022年のパキスタン空軍によるアフガニスタンの集落爆撃など、現代においても暴力や紛争が続いています。
これらの出来事を振り返ることは、歴史から学び、同じ過ちを繰り返さないために重要です。過去の悲劇や苦難から学び、より平和で公正な社会を築いていくために、私たちは努力を惜しむことなく取り組むべきです。