kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日4月8日 217カラカラ帝暗殺される29歳死去、写真wikipediaカラカラ浴場

4月8日

20240408月曜日旧暦2月30日先勝 壬寅みずのえとらジンイン 月齢 28.7

年末まではあと267日

https://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%888%E6%97%A5

4月8日の出来事

217年 – ローマ皇帝カラカラが近衛隊長マクリヌスにより暗殺される。

1767年 – アユタヤ王朝がビルマの侵攻により滅亡。

1986年 – アイドル歌手の岡田有希子が、所属事務所が入居する東京都新宿区のビル屋上から飛び降り自殺[3]。

——————————————————–  

217年 – ローマ皇帝カラカラが近衛隊長マクリヌスにより暗殺される。

ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス(ラテン語: Lucius Septimius Bassianus[1]、188年4月4日 – 217年4月8日[2])は、ローマ帝国の皇帝で、セウェルス朝の君主としては第2代当主となる。本名よりもカラカラ(Caracalla)という渾名で呼ばれる場合が多く、歴史学者達もこのように呼称している[3]。

セウェルス朝の初代君主セプティミウス・セウェルスの長男であり、ローマ史上に残る暴君の一人として記憶される[4]。一方で全属州民にローマ帝国の国民としての権利と義務(市民権)を与えるアントニヌス勅令を決定し、結果的にローマ領内における民族・人種による出自差別を撤廃したことで知られる。他に銀貨の改鋳(銀の含有量を減らした)、大浴場(カラカラ浴場)の建設などを肯定的に評価する歴史家も存在する。

即位と粛清

セプティミウス・セウェルス帝はカレドニア遠征中に属州ブリタニアのエボラクム(現:ヨーク)で病没した。父の遠征に同行していたカラカラは同じ立場であった弟ゲタと共に実権を掌握して、本格的な統治を開始した。カラカラ帝とゲタ帝は父の始めた戦争を早々と切り上げると、帝都ローマに帰還した。

しかしローマに戻った兄弟はそれぞれ独自に統治を行うことを望み、激しく帝国の主導権を争った。あまりの争い振りに内乱すら起こりえる有様であり、二人は帝国を二分して統治する計画を立てた。しかし帝国領の分裂に危機感を抱いた母ユリア・ドムナに反対され、宮殿内での兄弟の諍いは続いていった。211年、遂にカラカラ帝はゲタを殺す決意を固めて近衛兵隊を抱き込み、母が用意した和解の場で弟を殺害するという凶行に及んだ。ゲタ帝は駆けつけた母親の腕の中で息絶えたと伝えられている。カラカラは厚顔無恥にも「弟から身を守った」と嘯いたが、カラカラの側が先に仕掛けたのは誰もが知る事実であった。

暴政

歴史家エドワード・ギボンはカラカラの治世を「人類共通の敵」とまで痛罵しているが、その暴政が本格化するのは東方属州へ移住した213年からとなる。従って彼の横暴を一身に受けたのは殆どが東方属州の諸都市・諸地域であり、カラカラの残りの治世はこれらの地域に対する略奪と虐殺に費やされたと言って過言ではない。ギボンは『ローマ帝国衰亡史』で「カラカラ帝は近衛兵を従えて不満を押さえ込み、元老院議員達は粛清を恐れて皇帝の気分を損ねないように機嫌をとる日々を送っていた。巨費を投じて街中に自分の別荘や劇場を建て、資金が足りなくなると裕福な商人や貴族に言いがかりをつけて財産を没収したり、法外な重税を強いたりといった行動に出た」と辛辣に批判している[11]。

東方属州最大の都市であるアレクサンドリアでは、カラカラが実の弟を殺害したことを正当防衛だと主張したことを揶揄する詩が流行した。この噂を聞きつけたカラカラ帝はアレクサンドリアへと赴き、民衆の誤解を解く場を持ちたいと提案した。意外に寛大な行動を見せたカラカラ帝に民衆は感心して皇帝の弁明を聞くために集まったが、カラカラは集まった無抵抗の民衆を兵士に命じて虐殺させた。集会に集まった民衆を殺し尽くしただけでは満足せず、カラカラ帝は更に数日間にわたってアレクサンドリア市内を徹底的に破壊して民衆を殺戮した。カッシウス・ディオの記録によれば凄惨な殺戮劇の中、2万名以上の住民が殺害されたという。

暗殺

216年の夏にパルティアへの親征を開始しティグリス川沿いの都市を占領したカラカラは、エデッサまで戻って軍団とともに越冬し、翌年のパルティア遠征を準備した。翌217年4月8日、カラカラ帝は護衛を務めていたユリウス・マルティアリス(Julius Martialis)という近衛兵に刺殺された。カラカラはエデッサを出て南のカルラエ近郊の神殿に向かおうとする途中、軍列を止め、道端で放尿している所を後ろから刺されて絶命したとされている。暗殺理由は個人的なもので、数日前に同じ近衛兵であった親族が無実の罪で処罰されたことに対する復讐であったとされる。

隊列から離れて一人で用を足していたカラカラはその暴政から考えれば呆気ない最期を迎えた。マルティアリスは馬を奪って逃げようとしたが、他の衛兵が放った矢に倒れたと伝えられる。

1767年 – アユタヤ王朝がビルマの侵攻により滅亡。

アユタヤ王朝(アユタヤおうちょう、1351年 – 1767年)は、現タイの中部アユタヤを中心に展開したタイ族による王朝。創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)。王統は一つではなく、隣国の征服や重臣の簒奪で、5つの王家にわかれる。三番目の王家(1569-1629)は、スコータイ朝の王家の末裔である[1]。

滅亡

詳細は「泰緬戦争 (1759年-1760年)」、「清緬戦争」、および「泰緬戦争 (1765年-1767年)」を参照

1767年にコンバウン王朝のシンビューシン(英語版)によって滅亡する。このときアユタヤの町は徹底的に破壊されていたため、コンバウン軍が退却した後、新たに王となったタークシンはアユタヤ再興をあきらめトンブリーへと遷都する。

思想

1986年 – アイドル歌手の岡田有希子が、所属事務所が入居する東京都新宿区のビル屋上から飛び降り自殺[3]。

チャットgpt先生の4月8日のエッセイ

4月8日は歴史上いくつかの重要な出来事が起こった日です。217年にはローマ皇帝カラカラが暗殺され、彼の暴政や内紛の歴史が明らかになりました。一方、1767年にはアユタヤ王朝がビルマの侵攻によって滅亡し、タイの歴史に影響を与えました。そして、1986年にはアイドル歌手の岡田有希子が自殺したことが記録されています。

これらの出来事はそれぞれ時代や文化の異なる背景を持ち、人々に深い影響を与えました。カラカラの暗殺はローマ帝国の政治不安定さを象徴し、アユタヤ王朝の滅亡はタイの歴史の転換点であり、岡田有希子の自殺は芸能界の闇や精神的な苦しみに対する警鐘となりました。

これらの出来事は私たちに歴史を振り返り、過去から学び、将来に向けて進むための示唆を与えています。暴政や内紛、精神的な苦しみは時代を超えて存在し、私たちが理解し、対処する必要がある問題です。歴史は私たちに教訓を与え、同じ過ちを繰り返さないようにするための指針を提供しています。