4月1日
20240401月曜日 旧暦2月23日 赤口 乙未きのとひつじイツビ 月齢 21.7
年末まであと274日
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4月1日の出来事
1772年(明和9年/安永元年2月29日) – 明和の大火。
1912年 – 吉本吉兵衛・せい夫婦が寄席小屋「第二文芸館」の経営に参画。吉本興業創業。
1945年 – 第二次世界大戦・沖縄戦:米軍が沖縄本島に上陸。
1945年 – 阿波丸事件。
1976年 – Apple Computerがスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックにより設立される。
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1772年(明和9年/安永元年2月29日) – 明和の大火。
明和9年2月29日(1772年4月1日)に、江戸で発生し、明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火の1つといわれる。目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、目黒行人坂大火とも呼ばれる。
類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災した。
死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた。老中になったばかりの田沼意次の屋敷も類焼した。この火災をきっかけに元号が明和から安永に改められた。
1907年 – 樺太庁設置。
1907年 – 南満洲鉄道(満鉄)が営業を開始。
1912年 – 吉本吉兵衛・せい夫婦が寄席小屋「第二文芸館」の経営に参画。吉本興業創業。
概要
1912年(明治45年)の創業以来110年以上にわたり、古くは初代桂春団治、横山エンタツ・花菱アチャコ、柳家金語楼等から、笑福亭仁鶴、横山やすし、島田紳助・松本竜介等に、現在の明石家さんま、ダウンタウン、今田耕司、東野幸治、月亭方正、ナインティナイン、タカアンドトシ、NON STYLE、チョコレートプラネット、ニューヨーク、霜降り明星、令和ロマン等へと至るまで、東西南北の多くの超人気芸人や実力派芸人等を輩出してきたお笑い界・演芸界の名門。テレビ番組制作、劇場、芸人養成スクールを手がけ、お笑い芸人のマネジメントでは圧倒的強さを誇る。
また戦前は、巨人軍を他社と共同で設立して草創期のプロ野球界を支え、戦後は日本プロレス協会を立ち上げて力道山をスターにし、近年はスポーツ選手のマネジメントを数多く手がけるなど、スポーツ界とのつながりも深い。もともとは全国で寄席・劇場・映画館経営を手がける興行会社であり、戦前は松竹・東宝・吉本で三大興行資本と称された。東京の二大落語家団体のひとつ、落語芸術協会の創設者でもある。現在は芸能プロダクションを中心とし、テレビ番組制作会社、CS放送やケーブル・テレビ向けのテレビ局、不動産事業などを傘下に抱える業界最大手の複合企業である。「お笑いの総合商社」「日本最大の芸能プロ」と言われ、芸能界における絶対的な権威から今や「吉本なしでは、番組が作れない」とまで言われる。
1945年 – 第二次世界大戦・沖縄戦:米軍が沖縄本島に上陸。
概要
沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は4月2日に開始、6月23日に終了した。連合国軍の目的は、日本本土攻略のためのマリアナの基地と共同体制をとれる対日本本土爆撃のための航空基地確保と、日本本土進攻の補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営(主に日本海軍軍令部)[32] が特別攻撃隊を主力とする航空攻撃により連合国軍に大打撃を与えて、有利な条件で講和を結ぼうという『一撃講和』を目指していたのに対し[33]、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦[注釈 2] に向けた持久戦を意図するという不統一な状況であった[33]。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦(縦深防御)を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われた。
1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略と硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。ルソン島攻略の遅れによる輸送船不足と3月の悪天候により沖縄侵攻は2度にわたって繰り下げられ、当初計画からはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった[115]。投入される陸上戦力はアメリカ陸軍第10軍の陸軍5個師団・4個戦車大隊ほかとアメリカ海兵隊3個師団であった[116]。第10軍自体は新編成の組織であるが、主力の第24軍団と第3水陸両用軍団に属する師団はいずれも実戦経験を積んだ部隊であった[117]。
装備についても、陣地攻撃に絶大な威力を発揮してきた火炎放射器装備のM4中戦車の射程・火力強化型、暗視スコープ付きの狙撃銃、近接信管の野砲砲弾、対砲兵の音波探知機、M18 57mm無反動砲、M20 75mm無反動砲、M2 107mm迫撃砲などの新型兵器が多数配備された[118]。アメリカの軍需産業はフル回転しており、軍事資材の面では全く懸念はなかった。従って第10軍は装備、士気、武器、補給と、どの面から見ても、アメリカ軍史上最強の軍と見られていた[119]。
これらの部隊を沖縄に上陸させるため、アメリカ軍は太平洋戦争で最大規模の水陸両用作戦を準備した。沖縄攻略の為の統合遠征部隊は艦船1,213隻と支援艦載機564機で編成されていた。この部隊を第58任務部隊の高速空母部隊82隻、艦載機919機とイギリス太平洋艦隊22隻、艦載機244機が支援した。他にも第21爆撃集団と極東航空軍も直接支援を行った[120]。最大の問題はこれらの大部隊を養うだけの大量の物資を絶え間なく輸送する必要があることで、まずは当面の740,000トンもの物資をアメリカ本国やハワイなどから、沖縄上陸40日前から21回の輸送で、前線基地のあるレイテ島やウルシー環礁やマリアナ諸島に輸送した。その中には収容を見込んでいる沖縄の民間人の食糧として、米や大豆や魚の缶詰など70,000人分の食糧も含まれていた[121]。
ノルマンディー上陸作戦を含む多くのヨーロッパ戦線の激戦に従軍し、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルは沖縄攻略部隊の陣容を「我々は太平洋航海史上、最大・最強の軍隊だ」「海軍力・兵力・戦闘力の点でアメリカがヨーロッパに投入した全兵力に匹敵する規模だ」と記述している[122]。実際に、攻撃初日に投入された陸戦兵力は182,000名であり、これは史上最大の作戦といわれたノルマンディー上陸作戦のD-デイに投入された兵力を75,000名も上回っていた[123]。
アメリカ軍情報部は沖縄本島の日本軍の兵力を55,000人~65,000人、大口径火砲198門と推定しており、沖縄攻略作戦は1カ月前後の短期作戦と想定していたが、この戦力推定は大きく誤っており、迅速な勝利の希望はたちまちしぼんでいった[124]。
沖縄本島へのアメリカ軍の上陸
4月1日沖縄本島に上陸するアメリカ軍海兵隊
大量の軍需物資を揚陸するアメリカ軍揚陸艦
4月1日朝、アメリカ軍は守備の薄い本島中西部で、第7・第96歩兵師団と第1・第6海兵師団による上陸を開始した[152]。戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻が援護射撃をし、127mm以上の砲弾44,825発・ロケット弾33,000発・迫撃砲弾22,500発が撃ち込まれた[153]。北飛行場(読谷村・後の読谷補助飛行場)と中飛行場(後の嘉手納飛行場)の占領が第一目標とされた。第32軍が宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、日本側が中西部沿岸地域に置いたのは賀谷支隊(1個大隊基幹)と急造の特設第1連隊だけであった[154]。日本軍が水際作戦を放棄したため、アメリカ軍はその日のうちに6万人を揚陸して北・中飛行場を確保。
1945年 – 阿波丸事件。
阿波丸事件(あわまるじけん)は、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)4月1日にシンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船「阿波丸」が、アメリカ海軍の潜水艦「クイーンフィッシュ」の雷撃により撃沈され、2,000名以上の乗客乗員のほとんどが死亡した事件である。阿波丸は日米間の協定で安全航行を保障されていたものの、攻撃を受けた。
1976年 – Apple Computerがスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックにより設立される。
チャットgpt先生の4月1日のエッセイ
明和の大火や、1945年の沖縄戦の始まりなど、日本や世界の歴史に大きな影響を与えた出来事があります。
まず、1772年の明和の大火は、江戸で発生しました。この火災は江戸三大大火の1つとされ、甚大な被害をもたらしました。目黒行人坂を発端とする火災は、町や屋敷、寺院などを類焼させ、1万4700人以上の死者を出す大惨事となりました。この火災を契機に、元号が明和から安永に改められました。
1945年の沖縄戦は、第二次世界大戦の激戦の1つでした。この戦いは日本とアメリカの間で激しい戦闘が行われ、日本本土への最後の障害となりました。沖縄へのアメリカ軍の上陸は、多大な犠牲を伴う激戦となりましたが、最終的にアメリカ軍が勝利しました。
そして、1976年には、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックによってApple Computerが設立されました。この出来事は現代技術産業に革命をもたらし、Appleは世界的に有名な企業となりました。
これらの出来事はそれぞれに歴史的な重みを持ち、私たちの現代社会にも影響を与え続けています。歴史を振り返ることは、過去から学び、未来に向けて進むための重要な手段です。