3月12日
20240312火曜日旧暦2月3日仏滅 乙亥きのとい イツガイ 月齢 1.7
年末まであと294日
https://ja.wikipedia.org/wiki/3%E6%9C%8812%E6%97%A5
3月12日の出来事
1507年 – チェーザレ・ボルジア、政治家(* 1475年)享年32歳。
1910年 – 暴風雪により千葉県銚子沖で漁船83隻が遭難。1055人死亡。
2011年 – 東日本大震災・福島第一原子力発電所事故: 福島県にある東京電力福島第一原子力発電所の1号機が水素爆発[6]。
—————————————————–
1507年 – チェーザレ・ボルジア、政治家(* 1475年)享年32歳。
ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジア(イタリア語: Cesare Borgia, duca di Valentino 発音: [ˈtʃɛzare ˈbɔrdʒa]、スペイン語: César Borgia(セサル・ボルヒア)またはCésar Borja(セサル・ボルハ)、バレンシア語:Cèsar Borja、1475年9月13日(14日説有) – 1507年3月12日[1])は、アラゴン(スペイン)系[2]イタリア人[3][4]の枢機卿、傭兵隊長(コンドッティエーレ)[5][6]であり、その権力闘争はニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』に大きなインスピレーションを与えた。教皇アレクサンデル6世の庶子であり、スペイン・アラゴン系のボルジア家の一員であった[7]。
当初は教会に入り、父の教皇選出により枢機卿の地位を得たが、兄の死後である1498年には枢機卿を初めて辞任した人物となった。1500年頃からフランス国王ルイ12世のコンドッティエーレを務め、イタリア戦争ではミラノとナポリを占領した。同時に、中央イタリアに自らの国家を切り開いたが、父の死後、長く権力を維持することはできなかった。マキャヴェッリによれば、それは彼に先見の明がなかったからではなく、新たな教皇の選択を誤ったためであった[8]。
評価
ニッコロ・マキャヴェッリはフィレンツェ共和国から派遣され、チェーザレとの交渉の最前線に立ち、チェーザレの行動をつぶさに観察していた。マキャヴェッリは、チェーザレの死後、外国に蹂躙されるイタリアの回復を願い、統治者の理想像をフィレンツェのメディチ家に献言するため『君主論』を執筆した。マキャヴェッリは『君主論』の中で、「チェーザレは高邁な精神と広大な目的を抱いて達成するために自らの行動を制御しており、新たに君主になった者は見習うべき」[30]とし、「野蛮な残酷行為や圧政より私達を救済するために神が遣わした人物であるかのように思えた」[41]と記した。
チェーザレ・ボルジアは冷酷、残忍だと思われていたが、その冷酷さによってロマーニャに秩序を形成して、平和と忠誠をもたらす事となった。(中略)……愛情と恐怖を兼ね備えるのが最も理想的であるが、愛情は自らの利害によって簡単に破られるのに対して、恐怖は必ず降りかかる処罰の為に破られる事は無い……(後略)
— マキャヴェッリ 『君主論』 第17章
上記は、マキャヴェッリによるチェーザレの評であると共に「マキャヴェリズム」を表す文章となる。チェーザレはマキャヴェリズムを具現化した代表格として位置づけられており、これがチェーザレの印象にもつながっている。
1910年 – 暴風雪により千葉県銚子沖で漁船83隻が遭難。1055人死亡。
2011年 – 東日本大震災・福島第一原子力発電所事故: 福島県にある東京電力福島第一原子力発電所の1号機が水素爆発[6]。