kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日2月29日 1940第二次大本事件 写真wikipedia破壊された大本本部の一部

2月29日

20240229木曜日 旧暦1月20日 友引 癸亥みずのとのい キガイ 月齢 19.2

年始から60日目に当たり、年末まであと306日である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8829%E6%97%A5

2月29日の出来事

1936年 – 二・二六事件の反乱部隊に原隊復帰勧告(「兵に告ぐ」)が出され、事件が収束。

1940年 – 第二次大本事件: 不敬罪・治安維持法違反で検挙された大本教主・出口王仁三郎に対し、第1審で無期懲役の判決。

1960年 – モロッコで地震。3000人以上が死亡。

——————————————————   

1936年 – 二・二六事件の反乱部隊に原隊復帰勧告(「兵に告ぐ」)が出され、事件が収束。

1940年 – 第二次大本事件: 不敬罪・治安維持法違反で検挙された大本教主・出口王仁三郎に対し、第1審で無期懲役の判決。

第二次大本事件

背景

第一次大本事件が一応の収束を見せるのと前後して、王仁三郎はエスペラントの導入・ラマ教・道院(世界紅卍字会)・バハイ教等世界各国の宗教提携など様々な活動を展開する[54]。同時に国内における政治活動を活発化させ、昭和恐慌による不況にあえぐ国民の関心を集めた[55]。1932年(昭和7年)11月、大本は再び「皇道大本」と復名し第一次大本事件で頓挫した「大正維新」を「昭和維新」として実行しようとしていた[56]。王仁三郎は頭山満・内田良平ら右翼人士との交流を行い、1934年(昭和9年)7月22日に昭和神聖会を結成する[57]。東京九段会館で行われた発会式には陸海軍将校が多数出席し、後藤文夫内務大臣、秋田清衆議院議長が祝辞を述べるなど、政治・軍事への影響力を示した[58]。昭和神聖会の政策請願に署名した人数は800万人にのぼる[59]。神聖会はワシントン海軍軍縮条約の早期撤廃、皇族内閣の実現、天皇機関説への激しい批判、東北地方の困窮に対する援助など、数々の愛国的主張を行っている[60]。1935年(昭和10年)の時点で、大本は支部1990、信者100万 – 300万人(特高警察資料、大本教40万・人類愛善会25万人)、3割は大学卒業者という高学歴で、政治家・軍人を含む確固たる宗教勢力に成長している[61]。

第二次大本事件では第一次大本事件を遥かに凌駕する徹底した弾圧が行われた[91]。『霊界物語』などの諸著は安寧秩序紊乱との理由づけで発売頒布禁止処分となった[92]。当局もマスコミを利用、メディアも事件をセンセーショナルに書きたてた[93]。彼らは第一次大本事件と同様に大本と王仁三郎を妖教・怪物として非難[94]。検挙されなかった信者達も「反逆者」「非国民」というレッテルを貼られて精神的にも経済的にも追い詰められた[95]。厳しい境遇の中で信者達は隠れキリシタン同然の信仰を守り続けたという[96]。

当局は裁判前の時点で教団施設の全破壊を急いだ[97]。1936年(昭和11年)2月25日、「大本教ノ教義宣布衆庶参拝ノタメニ使用スル建物徹却ニ関スル件」で邪教撲滅の意思を確認する[98]。3月13日、林頼三郎司法大臣は不敬罪と治安維持法の嫌疑で起訴決定、潮恵之輔内務大臣は大本解散命令を決定した[99]。唐沢は「大本邪教の徹底的掃蕩を期する為め当局は今後あらゆる手段を尽くす積もりであります」と各府県警察部の特高課長に通達した[100]。同日、内務省警保局長から警視総監と各庁府県長官に対し、警保局保発甲第14号「大本教ノ神社ニ紛ラハシキ奉斎施設ノ撤去其他ニ関スル件」が出され、全国の教団施設・建物・碑石類の撤去が決定する[101]。当局は事前に綾部・亀岡の町議会に要請し、合計5万坪・時価80万円の土地を6000円(坪12銭。当時の煙草朝日12銭、敷島15銭)で王仁三郎・すみ夫妻から強制的に買収した[102]。なお、2月の時点ですみ(澄)は逮捕されていなかったが、土地・財産の強制譲渡を巡って拘束され、その後逮捕された[103]。作業は清水組が9万204円で請け負ったとされる[104]。破壊は5月11日から開始され、 1872年(明治5年)の大蔵省通達118号違反[105](1936年2月8日内務省警保局発甲第7号 無頼寺院仏堂創立禁制ノ件違反とも[106])を理由に亀岡の聖地をダイナマイトで跡形も無く破壊[107]。綾部・亀岡では、1ヶ月間延べ6785人を捜査に従事させ、9934人が破壊作業に従事、64点・240余棟の建造物を破却(個人財産を含む)、費用約3万円を大本側に請求した[108]。また王仁三郎一家の個人資産、教団の備品、土地といった財産も安価で競売にかけて処分[109]。石碑や信者の墓石に至るまで、大本の称号を削り落としている[110]。海外の拠点でも幹部の検挙や施設破却が行われた[111]。開祖・出口なおの墓に至っては柩を共同墓地に移し「衆人に頭を踏まさねば成仏できぬ大罪人、極悪人なり」として、腹部付近に墓標を立てている[112]。日本政府は、もはや人間の礼節すら配慮する余裕を失っていたと指摘される[113]。作家の坂口安吾は廃墟となった亀岡本部を訪れ、惨状を紀行文『日本文化私観』として残した[114]。

1960年 – モロッコで地震。3000人以上が死亡。

チャットgpt先生の2月29日のエッセイ

2月29日、1936年のこの日、日本は二・二六事件の反乱部隊に原隊復帰勧告が出され、事件が収束した日でした。この事件は日本の政治史において重要な出来事であり、軍部の影響力や国内の不安定さを浮き彫りにしたものでした。また、1940年には第二次大本事件で大本教主・出口王仁三郎が無期懲役の判決を受けたことも記録されています。

第二次大本事件は、当時の政治情勢や宗教的影響力を反映したものであり、弾圧の徹底ぶりがうかがえます。政府による大本教への弾圧や信者の迫害は、その後の日本の宗教政策や社会的風土にも影響を与えました。

この日のエッセイは、歴史の教訓を振り返ると同時に、宗教や政治が社会に与える影響や、弾圧がもたらす結果について考える契機となります。また、大本事件は日本の宗教的多様性や言論の自由に対する考察にも繋がる重要なテーマです。

歴史は繰り返すと言われますが、その中には学びと教訓があります。過去の出来事を振り返り、現在や未来にどのように活かすか、その視点からも考えてみることが大切です。