発心集 第三第5話 或る禅師、補陀落山に詣づる事、賀東上人の事
(あるぜんし、 ふだらくさんにもうずること、 かとうしょうにんのこと)
割合と最近のことである。讃岐の三位(さぬきのさんみ おそらく藤原俊盛1177年五十八歳で出家没年不詳)という人がおいでになった。その讃岐の三位の乳母(うば)の夫で長い間往生を願ってきた出家の入道がいた。彼は次のように思い至るようになった。
「自分の身のありさまや、種々様々のことは思いに任せず、自分が願う通りになることはまずない。たとえば、もしよくない病気にでもなって、最期が思うようにならないのであれば、私の本願である往生覚醒の願いを果たすことは極めて難しくなる。病気になどかからずに死ぬ場合に限って、臨終の際に心の安定が保てるであろう。」とかの入道は考えたのである。その結果、身灯供養(しんとうくよう法華経薬王菩薩品の一切衆生喜見仏の故事にちなみ平安期に流行があったという焼身自殺)をしようと思い立った。
「しかし、この私に身灯は耐えられるだろうか。」とかの入道は考えた。そこで、鉄の鍬(くわ)を二つ高温で焼いたものを 自分の左右の脇(わき)にはさんで試してみた。しばらくの時間を苦痛に耐えて鉄の鍬を脇に挟んでみたが、我が身が焼け焦げてやけどになっている様子は、痛みもあり、目も当てられないさまとなってしまった。しかしながら、耐えられないというほどのものではない気がした。
これについて、かの入道は、「思ったほど、たいしたことはなかった」と自らに言い聞かせて、身灯の用意を為し始めた。(身灯の用意—香油を飲んだり、決行時に切る衣服や身に振りかける油を準備するということ)しかしながら、準備しながら次のようにまた考えた。
—身灯は思いのほか容易にできそうである。けれども、この世で自分の生を断って極楽へ行っても仕方ないよな。おれも出家したとはいっても普通のおとこだし、今はたやすいと思っても、いざ本番というときにやはり焼身という行為に疑いの気持ちも起こるかもしれんしな。やっぱ、やめとくか。ああ、身灯よりも 補陀落山(ふだらくさん)に行くのはどうかな!補陀落山なら、現世のこの身のままで詣でることができるのではないかな。そうと決まれば、補陀落山を目指そう。—-と。
(*補陀落渡海:平安期にはやった、観音菩薩の住むとされる山への 厭世の自殺的渡海。熊野や四国から補陀落渡海が流行した。)
そこで、すぐに両脇のやけどの治療もやめてしまって、土佐の国(現在の高知県)に補陀落渡海で有名な知っている場所があったので、たずねて行った。そして、渡海用の新しい小舟を一艘準備して、舟を漕ぐ技を舵取り(かじとり職業的船頭)からまなんだ。
その後、その舵取りに頼んで、「北風が絶え間なく吹き強まる時が来たら、その時は私に知らせてくれ。」と 約束したのだった。
そして、ついに待ち望んだ北風の吹く日が来た。彼は、自分の小舟に帆を掛けて、ただ一人で乗り込んだ。そして、補陀落山を目指して南の方にこぎ出で去っていった。彼には、妻子がいたのであるが、これほどまでにして思い立ったことであったので、もはや留めても決意を変えることは出来なかった。妻子やその場の人たちが、小舟が虚しく海のかなたに消えていく方角を見つめて、泣き悲しんだ。
また、このことを当時聞いた人たちは、かの入道の決意は並大抵のものではないのだから、必ず補陀落山に参ることができたであろうと噂し合った。
その昔、一条院の治世の時に(986―1011)賀東聖(かとうひじり)というお方が、弟子を伴って、かの入道と同じようにして、補陀落山目指して足摺岬(あしずりみさき土佐高地の半島)から旅立ったという話が有名である。かの入道は、その語り伝えられているその例に倣(なら)って渡海したのではないだろうか。
(20231205訳す)
*訳者のメモ
教典の文言表面解釈に拘束される顕教主義だと身灯供養とか補陀落渡海とかを現実にそのまま実行するこういった悲喜劇が発生する。実際に平安時代中期 現実に自殺ブ-ムがあったのである。賛否はともかく この時代の文化の雰囲気 捨身供養という自殺供養について知っておくのも 人間という生き物の生態を考えるうえで必要なことかと思う。
書かれた文字や文章というもの自体が貴重で情報を情報として適切に取り扱えない者がでてきてしまう、ということであるかと思う。所詮、情報なのである。よりよい生き方のための文字情報なので、そこに必要以上の神聖さや権威を置きすぎた時、文字情報が歪んだ嘘神化をして狂信や、本末転倒の人間行動を生んでしまうということである。
太陽神崇拝 魂崇拝 おてんとうさまのもとの道理に基づく思考、天道是か非かといったシンプルな思考が基本かと思う。
結局 性エネルギ-昇華の生き方が いつの時代にも王道ということである。