kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日8月29日 1756欧州7年戦争勃発、ほか写真wikipediaフリードリヒ2世と士官たち

8月29日

20260829土曜日旧暦7月17日大安(12番乙亥きのといイツガイ)月齢 16.3

43番丙午ひのえうま年 33番丙申ひのえさる月 12番乙亥きのとい日

吉方位 隠遁日 乙亥きのとい日 北 大吉 年末まであと124日

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8月29日の出来事

759年(天平宝字3年8月3日) – 鑑真が唐律招提(後の唐招提寺)を建立。

1350年 – 百年戦争: ウィンチェルシーの海戦。イングランド王国50隻対カスティリヤ王国40隻の激突。損害 イングランド2隻沈没 カスティリヤ26隻拿捕喪失

1359年(延文4年/正平14年8月6日) – 筑後川の戦い。南北朝時代の九州合戦。南朝4万対北朝6万。損害 南朝1800人 北朝3600人。

1521年 – ベオグラード包囲戦が終了しオスマン帝国がハンガリーから同市を獲得。屠城甚大と思われるが損害不明。

1526年 – オスマン=ハンガリー戦争: モハーチの戦い。オスマントルコ6万対ハンガリー3万の激突。損害 オンスマントルコ2000人 ハンガリー20000人

1741年(寛保元年7月19日) – 渡島大島・寛保岳噴火に伴っての津波が発生(寛保津波)。対岸を中心に1,467人の死者を出す。

1756年 – プロイセン王フリードリヒ2世がザクセンに侵攻し、七年戦争が勃発。18世紀の実質世界大戦である。1756~1763 イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。7年での損害 1,358,000人戦死。

1911年 – 東京朝日新聞が「野球と其害毒」連載を開始、9月22日まで22回に渡って野球に対するネガティブ・キャンペーンを展開する。

1914年 – 静岡県に台風被害。約1,000戸が流失、約10,000戸が浸水し、死者45人、負傷者90人の被害[3]。

1944年 – 第二次世界大戦: スロバキアでナチス支配に反対するスロバキア民衆蜂起が始まる。ドイツ軍5万対スロバキア軍7万の激突。損害 ドイツ戦死捕虜4500+戦傷5000=死傷10000人 スロバキア軍戦死1700+戦傷3600+捕虜10000=15000死傷

1945年-沖縄戦8月29日・極秘で読谷飛行場に降り立ったマッカーサー元帥。マッカーサーは翌30日、専用機バターン号で日本に降り立つ。<引用先原文>・… 29日は到着する飛行機はない。先遣隊の将兵も基地からは出なかった。30日のマッカーサーと総司令部、進駐軍本体の受け入れ準備の仕上げに忙殺される1日であった。… 砂利を撒いて固める誘導路の作業も、この日午後には終了した。ただ要求された乗用車、バスが集まり始めたのはこの日の午後であった。日本には乗用車もバス、トラックも修理しなければ提供できない事情の車が多かった。…それでもトラックは陸海軍、軍需工場等で台数はかなりあったが、日本で少ないのはバス、乗用車であった。さらに乗用車があっても、それを運転し厚木基地に赴いてアメリカ軍の下で働くことに抵抗があり、拒否したり逃げ出す運転手が多かったのである。当時運転できる人は少ない。新しく探し厚木行きを説得する、これも政府関係者にとって大変な作業であった。乗用車50台、バス50台、トラック400台が、どうにか揃いだしたのは夕方であった。《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 208-209頁より》・第10軍司令官スティルウェル将軍は、8月28日、宮古、八重山や奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。<引用先原文>・8月29日、国吉の歩兵第32連隊が武装解除し投降した。主に山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成された陸軍歩兵第32連隊は、国吉の壕にいた第1大隊の伊東隊長が8月22日から投降交渉、八原高級参謀と面会し敗戦を確認、29日の武装解除で合意した。3000名の部隊で、この日まで残存し解除を受けたのはわずか300名であった。6月4日夜に歩兵第32連隊が大城森から国吉・真栄里に南下した際、多くの住民が壕から追いだされ、日本兵同士ですら壕の取りあいがあった。本部壕となっていた真栄里のウフ壕(田原屋取の壕)では連隊と民間人避難者500名余りが投降した。<引用先原文>・米軍の占領と基地建設は続き、住民生活の復興は困難をきわめました。農地や宅地が米軍用地として没収されており、収容所を出ても元の居住地に戻れず、生活を再建できない住民が多くいました。<土地と移民 – 沖縄県公文書館>・「私たちは沖縄県人で、沖縄は私たちの島なのに、アメリカの奴らは私が近づいただけで『Get away here! (ここから立ち去れ!)』と怒鳴ったんだ。自分の生まれ育った場所なのになんでそんなことを言われなくてはならないのか。本当に辛かった。きっとあなたにはわからんでしょう」と絞り出すような声で言った。<ニッケイ新聞「銃剣とブルドーザー ~ 米軍に美田奪われた伊佐浜移民」(2018年3月14日) – Battle of Okinawa>

1960年 – 前日、高知県に上陸した昭和35年台風第16号により京阪神地方が集中豪雨。西宮市の芦有ドライブウェイ建設現場では、土砂崩れが発生して作業員24人死亡するなどの被害[5]。

2003年 – イラクでナジャフ・モスク爆破事件。死者125名、負傷者500名[10]。

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759年(天平宝字3年8月3日) – 鑑真が唐律招提(後の唐招提寺)を建立。

1350年 – 百年戦争: ウィンチェルシーの海戦。イングランド王国50隻対カスティリヤ王国40隻の激突。損害 イングランド2隻沈没 カスティリヤ26隻拿捕喪失

戦闘

1350年8月10日、エドワード3世はカスティーリャ艦隊を帰国途上で攻撃するように号令をかけ、麾下の艦隊をウィンチェルシーに集結させた。エドワード3世は21歳のエドワード黒太子らを連れて陸路でウィンチェルシーに向かうと、28日にコグ船の旗艦「トマス号」に乗り込んだ。イングランド艦隊は投錨したままカスティーリャ艦隊の出現を待った。一方のラ・セルダは、沖合を進めばイングランド艦隊との接触を避けることもできたであろうが、敵艦隊との遭遇を予測しつつ沿岸を進んだ。艦隊の中核をなす40隻の大型艦があるためイングランド艦隊より優位に立てると考えていたし、更にはフランドルの港で石弓兵を中心とする傭兵団も雇い入れていた。29日午後4時、カスティーリャ艦隊は東からの風を背に受けてイングランド艦隊の前に大胆に姿を現し、戦闘が始まった。

当時の海戦の定石通り、両艦隊はお互いの艦船をぶつけ合って船上の白兵戦が始まった。[3]エドワード3世が乗る旗艦もカスティーリャ艦の体当たりを受けてたちまち海底に沈み、王や近衛兵はかろうじて体当たりしてきた敵艦に乗り移って難を逃れたという。ラ・セルダがフランドルで雇ってきた石弓兵は威力を発揮し、カスティーリャの大型艦から高さを生かして降り注ぐ攻撃はイングランド軍に大損害を与えた。しかし白兵戦となるとイングランド側に軍配が上がり、イングランド兵は乗り移ったカスティーリャのガレー船を次々と占拠していった。日没まで戦闘は続き、カスティーリャ艦隊は大半が拿捕されラ・セルダは戦場から離脱した。イングランド艦隊も、エドワード3世とエドワード黒太子の乗艦が共に沈められるなど損害は大きく、敗走するカスティーリャ艦隊への追跡は行われなかった。[4]

1359年(延文4年/正平14年8月6日) – 筑後川の戦い。南北朝時代の九州合戦。南朝4万対北朝6万。損害 南朝1800人 北朝3600人。

筑後川の戦い(ちくごがわのたたかい)は南北朝時代の正平14年/延文4年8月6日(1359年8月29日)に筑後川を境にしての南朝と北朝の戦。大保原の戦い・大原合戦とも言う。

南北朝時代の九州における合戦では最大。日本三大合戦[3]の一つとする説もある。

1521年 – ベオグラード包囲戦が終了しオスマン帝国がハンガリーから同市を獲得。屠城甚大と思われるが損害不明。

1521年のベオグラード包囲戦は、オスマン帝国による西方への大遠征中、ハンガリーとの戦争において、ハンガリーに対する3回目の攻撃で起こった戦闘である。

オスマン皇帝スレイマン1世は、先祖のメフメト2世が征服に失敗したロドス島とベオグラードを最初の軍事行動の目標に決めた(ロドス島は1522年のロドス包囲戦)。スレイマン1世は1521年5月中旬に軍を送り出し、この進軍の目的はベオグラード征服だった。ハンガリーは混乱し、オスマン軍に効果的に反撃することができなかった。過去の戦闘と違い、皇帝はサヴァ川から進軍することにした。そうすると、スレムを最初に征服する必要があり、最終的に行われた。ベオグラード軍は抵抗し続けたが、戦力と戦争物資の不足で、1521年8月28日、29日に降伏した

1526年 – オスマン=ハンガリー戦争: モハーチの戦い。オスマントルコ6万対ハンガリー3万の激突。損害 オンスマントルコ2000人 ハンガリー20000人

モハーチの戦い(モハーチのたたかい、ハンガリー語: Mohácsi csata、トルコ語: Mohaç Muharebesi)は、1526年8月29日にハンガリーのモハーチ平原で行われた、ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍による会戦。

1741年(寛保元年7月19日) – 渡島大島・寛保岳噴火に伴っての津波が発生(寛保津波)。対岸を中心に1,467人の死者を出す。

寛保津波(かんぽうつなみ)とは、1741年8月29日(寛保元年7月19日)未明に日本海で発生した大津波である。北海道・渡島半島の西方約50キロメートルの日本海に浮かぶ渡島大島の噴火(火山爆発指数4[1][2])に伴う山体崩壊(含む海面下部分)が原因とされる。津波は北海道道南地方日本海沿岸から島根県沿岸にかけて、また朝鮮・江原道にも到達し[3][4][5]、特に松前藩での死者数は2083人に上り、大災害であった。日本海側での津波としては史上最大級のものとされる。

1756年 – プロイセン王フリードリヒ2世がザクセンに侵攻し、七年戦争が勃発。18世紀の実質世界大戦である。1756~1763 イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。7年での損害 1,358,000人戦死。

概要

七年戦争(しちねんせんそう、英語: Seven Years’ War、ドイツ語: Siebenjähriger Krieg)は、1756年から1763年まで行われた戦争であり、18世紀の実質の世界大戦でもある。

ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因であったが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドではムガル帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。

この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ(外交革命)。しかし戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡に帰し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。

1911年 – 東京朝日新聞が「野球と其害毒」連載を開始、9月22日まで22回に渡って野球に対するネガティブ・キャンペーンを展開する。

新渡戸稲造 第一高等学校校長[1][2]1.8月29日 『野球は賤技なり剛勇の氣なし 日本選手は運動の作法に暗し 本場の米国既に弊害嘆ず 父兄の野球を厭へる實例』[1]

「野球という遊戯は悪くいえば巾着切りの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、ベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り神経を鋭くしてやる遊びである。ゆえに米人には適するが、英人やドイツ人には決してできない。野球は賤技なり、剛勇の気なし」[3]

1914年 – 静岡県に台風被害。約1,000戸が流失、約10,000戸が浸水し、死者45人、負傷者90人の被害[3]。

1944年 – 第二次世界大戦: スロバキアでナチス支配に反対するスロバキア民衆蜂起が始まる。ドイツ軍5万対スロバキア軍7万の激突。損害 ドイツ戦死捕虜4500+戦傷5000=死傷10000人 スロバキア軍戦死1700+戦傷3600+捕虜10000=15000死傷

1945年-沖縄戦8月29日・極秘で読谷飛行場に降り立ったマッカーサー元帥。マッカーサーは翌30日、専用機バターン号で日本に降り立つ。<引用先原文>・… 29日は到着する飛行機はない。先遣隊の将兵も基地からは出なかった。30日のマッカーサーと総司令部、進駐軍本体の受け入れ準備の仕上げに忙殺される1日であった。… 砂利を撒いて固める誘導路の作業も、この日午後には終了した。ただ要求された乗用車、バスが集まり始めたのはこの日の午後であった。日本には乗用車もバス、トラックも修理しなければ提供できない事情の車が多かった。…それでもトラックは陸海軍、軍需工場等で台数はかなりあったが、日本で少ないのはバス、乗用車であった。さらに乗用車があっても、それを運転し厚木基地に赴いてアメリカ軍の下で働くことに抵抗があり、拒否したり逃げ出す運転手が多かったのである。当時運転できる人は少ない。新しく探し厚木行きを説得する、これも政府関係者にとって大変な作業であった。乗用車50台、バス50台、トラック400台が、どうにか揃いだしたのは夕方であった。《「マッカーサーが来た日」(河原匡喜/光人社NF文庫) 208-209頁より》・第10軍司令官スティルウェル将軍は、8月28日、宮古、八重山や奄美大島の各島守備隊指揮官あての和英両文による降伏メッセージを空から投下させた。<引用先原文>・8月29日、国吉の歩兵第32連隊が武装解除し投降した。主に山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成された陸軍歩兵第32連隊は、国吉の壕にいた第1大隊の伊東隊長が8月22日から投降交渉、八原高級参謀と面会し敗戦を確認、29日の武装解除で合意した。3000名の部隊で、この日まで残存し解除を受けたのはわずか300名であった。6月4日夜に歩兵第32連隊が大城森から国吉・真栄里に南下した際、多くの住民が壕から追いだされ、日本兵同士ですら壕の取りあいがあった。本部壕となっていた真栄里のウフ壕(田原屋取の壕)では連隊と民間人避難者500名余りが投降した。<引用先原文>・米軍の占領と基地建設は続き、住民生活の復興は困難をきわめました。農地や宅地が米軍用地として没収されており、収容所を出ても元の居住地に戻れず、生活を再建できない住民が多くいました。<土地と移民 – 沖縄県公文書館>・「私たちは沖縄県人で、沖縄は私たちの島なのに、アメリカの奴らは私が近づいただけで『Get away here! (ここから立ち去れ!)』と怒鳴ったんだ。自分の生まれ育った場所なのになんでそんなことを言われなくてはならないのか。本当に辛かった。きっとあなたにはわからんでしょう」と絞り出すような声で言った。<ニッケイ新聞「銃剣とブルドーザー ~ 米軍に美田奪われた伊佐浜移民」(2018年3月14日) – Battle of Okinawa>

1960年 – 前日、高知県に上陸した昭和35年台風第16号により京阪神地方が集中豪雨。西宮市の芦有ドライブウェイ建設現場では、土砂崩れが発生して作業員24人死亡するなどの被害[5]。

2003年 – イラクでナジャフ・モスク爆破事件。死者125名、負傷者500名[10]。

チャットgpt先生の8月29日のエッセイ

8月29日――崩れる秩序と、次の秩序

8月29日の出来事を並べてみると、不思議なほど同じ構造が繰り返されている。

1350年のウィンチェルシーの海戦。1359年の筑後川の戦い。1521年のベオグラード陥落。1526年のモハーチの戦い。1741年の寛保津波。1756年の七年戦争。そして1944年のスロバキア民衆蜂起、1945年の日本の敗戦直後、1960年の台風被害、2003年のナジャフ・モスク爆破。

時代も場所も違う。戦争も災害も占領も政変もテロも違う。

しかし、構造として見ると、かなり似ている。

ひとつの秩序が、ある日突然壊れる。

その瞬間、人間が何を考えていたかより先に、軍隊、港湾、道路、食料、土地、輸送、通信、行政、資金といった「現実の装置」が動き始める。

歴史を動かしているのは、理念だけではない。

むしろ理念が勝敗を決める前に、物理的な条件が勝敗をかなり決めてしまう。

1350年の海戦は、その典型だ。

カスティーリャ艦隊には大型船と石弓兵があった。一方、イングランド側は接舷戦、つまり船をぶつけて乗り移る戦いで優位に立った。海戦という一つの言葉の中にも、武器、船体、風向き、船員の能力、接近戦の技術という複数の変数が存在する。

戦争は「強い国」と「弱い国」の戦いではない。

どの局面で、どの資源が有効になるかの競争である。

1526年のモハーチも同じだ。

数万人規模の軍隊が衝突し、一日の戦闘でハンガリー王国の政治秩序そのものが大きく揺らいだ。戦場で兵士が戦っているあいだに、別の場所では王権、外交、領土支配の構造が変わっていく。

戦争には二つの時間がある。

兵士が戦う時間と、国家の構造が変わる時間だ。

後者のほうが長く残る。

ベオグラードの陥落も同じである。

城塞が落ちるというのは、単に一つの都市の所有者が変わるという話ではない。そこを通過する軍隊、交易、人員、情報、税、物資の流れが変わる。

つまり、都市を奪うことは「点」を奪うことではない。

流れを奪うことだ。

歴史上の大国は、土地そのものより、土地を通過する流れを押さえることで強くなる。

これは現代でも変わらない。

港、空港、半導体工場、海峡、電力網、通信網、金融市場、物流拠点。

現代の戦略地図から城壁が消えても、重要地点そのものは消えない。

形を変えただけだ。

1741年の寛保津波になると、今度は軍隊が存在しない。

それでも構造は似ている。

火山活動によって地形が崩れ、海が動き、人間の生活圏を襲う。結果として家が流され、土地が使えなくなり、人が移動する。

ここで重要なのは、「自然災害」という言葉だけでは現実を説明しきれないことだ。

災害の大きさは、自然現象の規模だけでは決まらない。

人間がどこに住んでいたか。

どれだけ海に近かったか。

逃げる場所があったか。

情報が届いたか。

土地を失った後に生活を再建できたか。

つまり災害とは、自然現象と社会構造が接触したときに発生する。

同じ津波でも、社会の構造が違えば被害は変わる。

1756年に始まった七年戦争も、同じように「複数の構造が接続した結果」と見ることができる。

ヨーロッパの王朝政治、植民地競争、海軍力、貿易、インドでの勢力争い。

一つの原因から戦争が始まったわけではない。

複数の競争が接続し、一つの巨大なシステムになった。

だから七年戦争はヨーロッパだけの戦争ではなくなった。

戦争の規模は、敵意の強さだけでは決まらない。

接続されているネットワークの大きさで決まる。

そして1945年の8月29日には、日本という国家が戦争から占領へ移行する、その境目がある。

ここで興味深いのは、戦闘そのものではなく、その後に必要になった車両の数である。

乗用車50台、バス50台、トラック400台。

巨大な戦争が終わった直後、歴史の表面では「降伏」「占領」「進駐」という巨大な言葉が並ぶ。

しかし現場では、道路を走る車が必要だった。

運転できる人間が必要だった。

砂利を撒いて滑走路や誘導路を整える必要があった。

つまり、国家の転換という巨大な出来事は、最後には極めて小さな実務の集合体になる。

これは重要なことだ。

政治の言葉は大きい。

現実の運用は小さい。

「占領」という言葉の下には、車両、燃料、道路、宿舎、通信、食料、通訳、地図、労働力がある。

「復興」という言葉の下には、土地、住宅、農地、仕事、資材、輸送がある。

「独立」という言葉の下にも、税収、電力、港湾、軍事力、通貨、行政能力がある。

国家とは、理念だけで成立するものではない。

巨大な実務システムである。

だから1945年以後の沖縄を考える場合も、「戦争が終わった」という一点だけでは現実を捉えられない。

戦闘が終わっても土地の問題は終わらない。

占領が始まれば、土地の使われ方が変わる。

土地の使われ方が変われば、住民の生活圏が変わる。

生活圏が変われば、仕事、移動、住宅、農業、人口配置まで変わる。

戦争には終戦日がある。

しかし、戦争によって変更された構造には終戦日がない。

それは戦後にも残る。

1960年の台風被害も、同じ視点から見ることができる。

大雨や土砂崩れは自然現象だが、被害は社会の構造を通過して現れる。

道路がどこにあるか。

斜面をどう利用していたか。

工事現場がどこにあったか。

警戒情報がどう伝達されたか。

人間の配置がどうなっていたか。

自然は平等に作用する。

しかし被害は平等には現れない。

2003年のナジャフ・モスク爆破事件では、さらに別の構造が見える。

宗教施設が攻撃対象になるとき、破壊されるのは建物だけではない。

そこに集まる人間、地域社会の信頼、政治的象徴、宗派間の関係まで同時に傷つく。

つまり現代のテロは、物理的破壊と心理的・政治的効果を組み合わせた攻撃である。

少ない物理的コストで、大きな社会的反応を引き出す。

だからテロは、軍事力の弱い側が巨大な軍事力を持つ側に対して使える。

構造を理解すれば、その非対称性が見える。

こうして8月29日を眺めると、歴史上の出来事が「事件の一覧」ではなくなってくる。

そこに見えてくるのは、秩序の交換である。

勝者と敗者。

支配する側と支配される側。

土地を持つ側と土地を失う側。

輸送を握る側と輸送を依存する側。

情報を持つ側と持たない側。

安全な場所にいる側と危険な場所にいる側。

歴史は、しばしばこの非対称性によって動く。

そして、さらに現実的に考えるなら、「正しい側が勝つ」という保証はない。

勝つ側とは、理念的に正しい側ではなく、しばしばその時点で必要な資源を組み合わせる能力が高い側である。

兵站がある。

情報がある。

輸送力がある。

資金がある。

人員を動かせる。

土地を押さえている。

同盟がある。

敵より早く決断できる。

こうした条件が積み重なった結果として、歴史の勝敗が出る。

もちろん、人間の意志も重要だ。

しかし意志だけでは動かせない。

意志を実現するための装置が必要になる。

8月29日に起きた出来事の多くは、そのことを教えている。

海戦では船が必要だった。

城攻めでは兵站が必要だった。

大戦では同盟と産業力が必要だった。

占領には車両と道路が必要だった。

復興には土地と資源が必要だった。

災害への対応には避難場所と情報網が必要だった。

社会を変えるのは、歴史書に残る人物だけではない。

その人物が動かすことのできた装置の総量である。

だから現実を見るとき、理念より先に構造を見るほうがいい。

誰が何を言ったか。

誰が正しかったか。

誰が悪かったか。

それより先に、

誰が何を持っていたのか。

誰が何を動かせたのか。

どこがボトルネックだったのか。

何が失われるとシステム全体が止まったのか。

そして、何が残ったのか。

この視点で歴史を見ると、8月29日は単なる「過去の出来事の日」ではなくなる。

秩序は永続しない。

都市も国家も軍隊も土地利用も社会制度も、一定の条件が崩れれば別の形に移行する。

その変化は、必ずしも劇的な一瞬として現れるとは限らない。

戦場で決まることもあれば、港で決まることもある。

行政文書で決まることもあれば、トラック400台を集める作業の中で決まることもある。

歴史を現実として見るとは、英雄や悲劇を消すことではない。

むしろ、その背後にある装置を見ることだ。

そして装置を見ると、歴史の動きは少しだけ冷たく、しかしずっと明確になる。

8月29日に並んでいるのは、戦争と災害と占領と破壊の記録だけではない。

それは、人間社会が何度も同じ問題に直面してきた記録でもある。

秩序が崩れたとき、誰が次の秩序を作るのか。

結局、歴史の核心はそこにある。