7月30日
20260730木曜日旧暦6月17日仏滅(42番乙巳きのとみイツシ)月齢 15.7
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 42番乙巳きのとみ日
吉方位 隠遁日 乙巳きのとみ日 北東 大吉 年末まであと154日
https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8830%E6%97%A5
7月30日の出来事
1570年(元亀元年6月28日) – 姉川の戦い。織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉義景連合軍を破る。戦争:織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との戦い
年月日:元亀元年6月28日(1570年7月30日)
場所:滋賀県長浜市姉川河原
北緯35.41606度 東経136.32217度
結果:織田・徳川連合軍の勝利
損害:織田徳川連合軍 40000人中 不明 浅井朝倉連合軍 30000人中 戦死1000人程度。
1629年 – イタリア・ナポリで地震。1万人が死亡。
1811年 – メキシコ独立運動の指導者ミゲル・イダルゴがスペインの植民地政府により処刑。
1945年-沖縄戦7月30日・【訳】日本への攻撃を終え戻ってきたコンソリデーテッドB-24を管制塔から見る。対空砲火を受けひどく損害を受けた。1人死亡、不時着の際の衝撃で1人重体、3人が軽傷。遺体と負傷者は第381基地病院へ護送された。さらに不時着の1時間後、離陸間近の海軍機コルセアがタイヤのパンクのせいで急に進路を外れ、滑走路の中央近くのへりから約30フィートのところで先のB-24に衝突、火事を引き起こした。B-24の爆弾格納庫に残っていた5つの爆弾が火事によって爆発し、近くにいた兵士のうち4人が死亡、9人が負傷した。沖縄。1945年7月30日撮影<写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館>・県立水産学校2年で通信隊として動員された瀬底正賢さん証言
昼は壕内に隠れ、夜は食料探し、時には浜辺で語らう瀬底正賢さんらの共同生活が1カ月余たった7月下旬のことだ。海岸を中心に求めていた食料も、そのころには戦闘もなくなったこともあり、かなり遠くまで行っていた。米軍のキャンプからの“戦果”や近くの畑からの“収穫”があり、食料事情もよくなっていた。
その日も6人でイモ畑まで出かけ、袋に詰められるだけの“収穫”を得た。瀬底さんは月に照らされたみんなの顔に白い歯が浮かんでいたことを今でも覚えている。だが、“収穫”が大きなことが不幸につながった。重いので帰りは近道を選んだ。そこは敗残兵が出没するということで地雷が埋められている。地雷に知識のあるという知念1等兵が先端になった。「次に私、当間、上前、夫婦連れと続いた」。10メートル間隔で進むことにした。慎重にしばらく進んだ瞬間、ものすごい爆発音。瀬底さんがおぼえているのはそこまでだ。爆風で5メートルほど吹っ飛ばされ意識を失った。知念1等兵は即死、肉片しか残らなかった。夫婦連れの女性の方も死んだ。腹わたがはみ出していたという。意識不明の瀬底さんを左足に傷を負った学友が30メートル余の断がいを背負って下まで運んでくれた。「当間嗣冠が背負ったが、今見ても1人で上り下りするのも難しい場所を、よく運んでくれたと感謝している」。
その当間さんも、地雷で受けた左足の傷がもとで亡くなる。死ぬ間際は顔が硬直、言葉もでない。体全体がけいれんする。けいれんを全員で押さえることぐらいしかできなかった。「生き残れば遺骨は渡してやるから」と瀬底さんが話しかけた時、目が安心した表情に変わったように思えた。遺体は米軍の毛布で二重三重に包み、壕内の割れ目に葬った。瀬底さんはすぐに、移動が割と自由だったCP(民警)を志願、遺骨を親元に手渡した。それとともにCPもやめてしまった。<沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還 – Battle of Okinawa>・沖縄県立水産学校では、動員された学徒48人のうち31名が、沖縄県立工業高校では、動員された生徒97名のうち、生徒88名が戦死した。<引用先原文>
1971年 – 岩手県雫石町上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突。162人が死亡。(全日空機雫石衝突事故)
1995年 – 八王子スーパー強盗殺人事件[6]。3人死亡。
2004年 – ベルギーの工具メーカーの敷地内で、ガスパイプラインから漏れたガスが爆発。死者16名、重傷約50名、軽傷約70名が発生した[8]。
2006年 – レバノン侵攻: イスラエルによってカナ空爆が行われる。
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1570年(元亀元年6月28日) – 姉川の戦い。織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉義景連合軍を破る。戦争:織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との戦い
年月日:元亀元年6月28日(1570年7月30日)
場所:滋賀県長浜市姉川河原
北緯35.41606度 東経136.32217度
結果:織田・徳川連合軍の勝利
損害:織田徳川連合軍 40000人中 不明 浅井朝倉連合軍 30000人中 戦死1000人程度。
1629年 – イタリア・ナポリで地震。1万人が死亡。
1811年 – メキシコ独立運動の指導者ミゲル・イダルゴがスペインの植民地政府により処刑。
前半生
1753年、メキシコのグアナフアト州に位置するペンハモ(Pénjamo)近くの農場でその管理人の長男として生まれた。いわゆるクリオーリョ(植民地生まれの白人)である。同農場で教育を受けたあと、1765年からこの地域の中心都市であるバリャドリッド(現モレリア:ミチョアカン州)に移り、最初イエズス会経営の聖フランシスコ・ザビエル校、イエズス会追放後(1767年)は聖ニコラス校で神学を中心に学んだ[1]。
イエズス会が経営する諸学校は、当時のメキシコとしては先進的な教育内容を提供しており、そこにはラテン語だけではなくフランス語などのヨーロッパ俗語や先住民言語の教育、さらには客観的な教会史、メキシコの古代の歴史なども含まれていた。こうした教育は、イダルゴにヨーロッパの先進的な文化や思想に関心を抱かせるだけでなく、幼い頃に農場で生活を共にした先住民やその混血民への愛情を育んだ[1]。
1778年に司祭の資格を獲得したあとも、母校の聖ニコラス校で教鞭をとり、1790年には同校の学長となり、教育改革に尽力した。 しかし、1792年には、学長職を辞している。辞職の理由は明らかではないが、推測される理由としては、学校財政に大幅な赤字をもたらしたこと、改革内容が保守派の反感を買ったこと、数人の女性と関係を持ち子どもを産ませていること、賭博好きであることなどが挙げられる[2]。
辞職後のイダルゴは、周辺地域のいくつかの教区司祭職を歴任し、やがてドローレス村の司祭に着任している。この間、彼の住居はフランスの文学が議論され、演劇や音楽、ダンスが披露される場所になり、「小さなフランス」と呼ばれるようになった[3]。
また、書物から学び取った実学の知識を活用して、陶芸・皮革加工・養蚕といった事業を推進している。ドローレス村が位置するバヒオ地方は、グアナフアトの銀生産を軸に経済成長をとげていたが、いっぽうで鉱山や農業に従事する労働者の賃金などの収入は減少し、度重なる凶作も重なって、彼らの生活水準は低下傾向にあった。したがって、イダルゴの推進する事業は、先住民や混血民を中心とした貧困者が多くを占める教区住民の経済状況を改善することを目的としていた[4]。
いっぽう、イダルゴの社交や議論を好む性格は時には周囲の人々との間に軋轢をもたらした。フランス革命以降、啓蒙思想などの進歩的思想に対する警戒心が高まっていたため、伝統的な神学の改革をはかる彼の議論は、しばしば保守的な思想を抱く人々の反発を招いた。彼らの中には、イダルゴを異端として告発するものもあらわれたため、異端審問所は1800年には彼の素行調査をおこなっている。ただし、裁判そのものは実行に移されていない[5]。
蜂起
1808年に、スペイン本国にナポレオン軍が侵攻し、国王フェルナンド7世を退位させ、ナポレオンの兄であるジョゼフ・ボナパルトを即位させると、スペイン各地では反フランス軍暴動がおこった(スペイン独立戦争)。このニュースがメキシコに伝わると、メキシコ市やバジャドリッド市などでは自治を目指す運動が起こっている。しかし、官僚などの本国出身者のなかには自治によって自分の権力が減退することを憂慮する勢力があり、彼らによって自治運動は武力的に阻止されている。
こうしたなかで、イダルゴは知己のあったイグナシオ・アジェンデの勧誘によって、ドローレス村にほど近いケレタロ市の政治サークルに関わるようになる。このサークルにはケレタロ市やその近郊のクリオーリョが参加しており、その職業は軍人や官僚、商人など多様であった。彼らは、自治運動に反対するスペイン本国出身者たちがナポレオンのスペイン領支配を支持するのではないか、という危機感をいだいていた。そのため、武装蜂起によって、本国出身者の排除を密かに画策するようになった。しかし、この計画は事前に漏れ、ケレタロ市ではメンバーが次々と逮捕された。
このニュースが1810年9月16日深夜にドローレス村に伝わると、イダルゴは演説を行い(「ドローレスの叫び」)、先住民や混血民を中心とする周辺住民を率いて武装蜂起を起こした。演説の正確な内容は伝わっていないが、ナポレオン支配を否定し、その代理である植民地政府を弾劾し、幽閉されているフェルナンド7世の復位を求めたようである。また、カトリックの擁護も演説内容に含まれていた。いっぽう、一般的に演説内容であると信じられている「ガチュピン(スペイン出身の白人の蔑称)に死を!」という表現はのちに付け加えられた可能性が高い[6]。
蜂起が始まり、貧しい先住民や混血民が多数参加して規模が大きくなると、これらの参加者に利する要求が掲げられるようになった。例えば、人頭税の廃止、奴隷制度の廃止、土地改革などがこうした要求にあたる。また、グアナフアト攻略にみられるように、裕福なスペイン人の虐殺が発生し、そのなかには本国出身者のみならず地元出身のクリオーリョも含まれていたことを考えると、反乱は本国からの独立というよりも、貧しい先住民や混血民の裕福なスペイン人に対する階級闘争の性格を帯びていたことが窺える。このため、クリオーリョ層のなかには、自分たちの立場や身の安全を危惧し、反乱軍を支持しない人びとも多かった。
やがて、イダルゴと盟友のイグナシオ・アジェンデとの意見は対立するようになり、メキシコシティの攻略に失敗して反乱軍が劣勢にたたされると、イダルゴはアメリカ合衆国への逃亡を図った。しかし、1811年にスペイン側に逮捕され、チワワでアジェンデら3人の同志と共に銃殺刑に処され、晒し首にされた。
1945年-沖縄戦7月30日・【訳】日本への攻撃を終え戻ってきたコンソリデーテッドB-24を管制塔から見る。対空砲火を受けひどく損害を受けた。1人死亡、不時着の際の衝撃で1人重体、3人が軽傷。遺体と負傷者は第381基地病院へ護送された。さらに不時着の1時間後、離陸間近の海軍機コルセアがタイヤのパンクのせいで急に進路を外れ、滑走路の中央近くのへりから約30フィートのところで先のB-24に衝突、火事を引き起こした。B-24の爆弾格納庫に残っていた5つの爆弾が火事によって爆発し、近くにいた兵士のうち4人が死亡、9人が負傷した。沖縄。1945年7月30日撮影<写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館>・県立水産学校2年で通信隊として動員された瀬底正賢さん証言
昼は壕内に隠れ、夜は食料探し、時には浜辺で語らう瀬底正賢さんらの共同生活が1カ月余たった7月下旬のことだ。海岸を中心に求めていた食料も、そのころには戦闘もなくなったこともあり、かなり遠くまで行っていた。米軍のキャンプからの“戦果”や近くの畑からの“収穫”があり、食料事情もよくなっていた。
その日も6人でイモ畑まで出かけ、袋に詰められるだけの“収穫”を得た。瀬底さんは月に照らされたみんなの顔に白い歯が浮かんでいたことを今でも覚えている。だが、“収穫”が大きなことが不幸につながった。重いので帰りは近道を選んだ。そこは敗残兵が出没するということで地雷が埋められている。地雷に知識のあるという知念1等兵が先端になった。「次に私、当間、上前、夫婦連れと続いた」。10メートル間隔で進むことにした。慎重にしばらく進んだ瞬間、ものすごい爆発音。瀬底さんがおぼえているのはそこまでだ。爆風で5メートルほど吹っ飛ばされ意識を失った。知念1等兵は即死、肉片しか残らなかった。夫婦連れの女性の方も死んだ。腹わたがはみ出していたという。意識不明の瀬底さんを左足に傷を負った学友が30メートル余の断がいを背負って下まで運んでくれた。「当間嗣冠が背負ったが、今見ても1人で上り下りするのも難しい場所を、よく運んでくれたと感謝している」。
その当間さんも、地雷で受けた左足の傷がもとで亡くなる。死ぬ間際は顔が硬直、言葉もでない。体全体がけいれんする。けいれんを全員で押さえることぐらいしかできなかった。「生き残れば遺骨は渡してやるから」と瀬底さんが話しかけた時、目が安心した表情に変わったように思えた。遺体は米軍の毛布で二重三重に包み、壕内の割れ目に葬った。瀬底さんはすぐに、移動が割と自由だったCP(民警)を志願、遺骨を親元に手渡した。それとともにCPもやめてしまった。<沖縄県立水産学校 22人の水産通信隊 たった一人の生還 – Battle of Okinawa>・沖縄県立水産学校では、動員された学徒48人のうち31名が、沖縄県立工業高校では、動員された生徒97名のうち、生徒88名が戦死した。<引用先原文>
1971年 – 岩手県雫石町上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突。162人が死亡。(全日空機雫石衝突事故)
全日空機雫石衝突事故(ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)は、1971年(昭和46年)7月30日(金曜日)に日本で発生した航空事故である。
岩手県岩手郡雫石町上空を飛行中の全日本空輸(全日空)の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が空中衝突し、双方とも墜落した。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡した。当時日本国内の航空事故としては最大の犠牲者数を出した事故であり、ANAの三大事故に数えられる。
1995年 – 八王子スーパー強盗殺人事件[6]。3人死亡。
概要
1995年7月30日21時17分頃、東京都八王子市大和田町のスーパー「ナンペイ大和田店」の2階事務所内で拳銃を持った何者かに女性従業員3人が射殺された。被害者はスーパーナンペイ大和田店のパート女性従業員A(47歳)、同アルバイト女子高生従業員B(17歳)、同アルバイト女子高生従業員C(16歳)の3人(年齢はいずれも事件当時)[3]。犯行時間は21時15分から数分間だったと推定されている(被害者Aの知人が事務所へ迎えに来た21時20分までの間)。パート従業員の女性は、体を縛られていなかったが、銃把で右顔面を殴りつけられたのちに金庫の隣に置かれた冷蔵庫脇の隙間に突き飛ばされたものとみられており、女子高生2人の殺害前に額と頭頂部に銃口を押し付けられて、それぞれの箇所に1発ずつ計2発を銃撃されて殺害された[4]。女子高生2人は粘着テープで口を塞がれた上で互いの右手と左手を縛られており、うつ伏せにされた状態で至近距離から後頭部に1発ずつ撃たれて殺害された。3人ともに即死の状態であった[5]。犯人は銃撃後に金品などを何も奪わずに逃走している。犯人が金庫を開けようとした形跡はなく、その他の現金や貴金属類、被害者の持ち物には手をつけておらず、事務所内を物色した形跡すらも無いことから、犯行は金銭目的ではない可能性もある[6]。犯行に使用された拳銃はフィリピン製のスカイヤーズビンガムとされる[7]。
特別捜査本部では、当初においては強盗説を重視して捜査していたが、現在では強盗説と怨恨説の両面で捜査を行っている。事件から15年となる2010年7月に公訴時効が迫っていたが、殺人罪・強盗殺人罪など最高法定刑が死刑の罪について、公訴時効を廃止した上で遡及適用する改正刑法及び刑事訴訟法が同年4月27日に施行され、長期捜査が続けられている。捜査特別報奨金対象事件の中で捜査機関が犯人を特定していない事件[注 1]としては最も発生時期が古い。本件は、未だに犯人検挙に至っておらず未解決事件となっており、警視庁八王子警察署特別捜査本部は、事件解決に向けて鋭意捜査を継続している。
それまでは、主に暴力団やテロリストのみが用いてきた銃器が「東京郊外の小さなスーパーで働く普通の市民」に向けられ、容赦なく殺害した事件の性格から日本警察は「日本における銃犯罪のターニングポイント」と位置づけている[8]。
ナンペイ大和田店は事件後「ひまわり」に改名したが、1998年に閉店した。その後、建物は解体され、跡地は現在、駐車場になっている[9]。
2004年 – ベルギーの工具メーカーの敷地内で、ガスパイプラインから漏れたガスが爆発。死者16名、重傷約50名、軽傷約70名が発生した[8]。
2006年 – レバノン侵攻: イスラエルによってカナ空爆が行われる。
チャットgpt先生の7月30日のエッセイ
7月30日――勝者の記録と、生存者の記録
7月30日という日を並べてみると、一つの共通点が見えてくる。
それは「事件そのもの」ではない。「構造が転換する日」である。
1570年、姉川の戦い。
この戦いは一度の会戦にすぎないが、実際には織田・徳川連合という新しい権力構造が機能することを証明した戦いだった。勝敗以上に重要なのは、「誰と組めば勝てるか」という政治の現実を全国へ示したことである。
歴史は英雄ではなく、連携できる組織が動かす。
1811年、ミゲル・イダルゴが処刑される。
独立運動の指導者として知られるが、彼は軍人ではなく司祭だった。
教育改革を進め、地域産業を育て、貧困層の生活改善を試みた人物である。しかし社会改革だけでは国家は変わらない。政治権力と軍事力の構造を動かさなければ革命は完成しない。
彼の蜂起は巨大になったが、統制は失われ、階級闘争の色彩を帯びる。支持基盤も分裂し、最後は敗北した。
理念は人を集める。
しかし国家を動かすのは組織である。
1945年7月30日の沖縄。
戦争はすでに終局へ向かっていた。
それでも人は死ぬ。
米軍基地では帰還したB-24が不時着し、その後の偶然の衝突によって爆弾が誘爆した。
沖縄では、生き残った少年たちが食料を探し、地雷で仲間を失っていく。
ここには戦略も作戦もない。
残っているのは「補給」と「地形」と「偶然」だけである。
戦争末期とは、国家同士の戦いではなく、生存条件との戦いへ変質する。
歴史の教科書は作戦を書く。
生存者は水と食料を書く。
この違いは大きい。
1971年、全日空機雫石衝突事故。
旅客機と自衛隊機が空中で衝突した。
個々の操縦技術だけでは説明できない事故だった。
訓練空域。
民間航空路。
航空管制。
情報伝達。
安全管理。
複数の仕組みが重なり、その隙間で162人が死亡した。
巨大事故の多くは、一つの失敗では起きない。
独立した小さな欠陥が同時に成立したとき、大事故になる。
これは航空だけではない。
社会全体にも当てはまる。
1995年、八王子スーパー強盗殺人事件。
事件は現在も未解決である。
重要なのは犯人像ではない。
この事件は「普通の場所は安全」という社会の前提を崩した。
住宅地。
スーパー。
女子高校生。
夕方の勤務。
そこには誰も戦場を想定していなかった。
犯罪は被害者を選ぶとは限らない。
環境を選ぶ。
そして社会は、その環境が安全だと信じた瞬間に隙を作る。
2004年ベルギーのガス爆発も同じである。
ガス漏れ。
着火源。
人の集積。
どれか一つでは事故は起きない。
条件が重なったときだけ災害になる。
構造とは、偶然を必然へ変える装置でもある。
7月30日を眺めると、「英雄の日」ではないことがわかる。
勝敗を決めるのは、一人の能力よりも構造だった。
革命は組織。
戦争は補給。
事故は管理。
犯罪は環境。
歴史を動かしているのは、人間の感情よりも、それを包み込む仕組みである。
個人は意思で動く。
しかし結果は構造が決める。
だから歴史を理解するには、誰が正しかったかよりも、「どんな条件がそろったのか」を見るほうが、多くの場合、現実に近づける。
7月30日は、そのことを静かに示している日である。

