7月29日
20260729水曜日旧暦6月16日先負(41番甲辰きのえたつコウシン)月齢 14.7
43番丙午ひのえうま年 32番乙巳きのとみ月 41番甲辰きのえたつ日
吉方位 隠遁日 甲辰きのえたつ日 北東 東 中吉 年末まであと155日
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7月29日の出来事
1014年 – クレイディオン峠の戦い。ブルガリア帝国軍が東ローマ帝国軍に敗れる。ブルガリア皇帝サムイルは逃げ延びるが、10月に目を潰された大量の捕虜が帰ってきたのを見てショック死する。
1156年(保元元年7月11日) – 保元の乱: 後白河天皇方の平清盛・源義朝らが、崇徳上皇らの籠る白河御所を夜襲し、上皇方が敗退。
1894年 – 日清戦争: 安城渡の戦い。ラッパ手木口小平が被弾し、死んでも口からラッパを離さなかったとして教科書にも載る。
1937年 – 通州事件。冀東防共自治政府保安隊が日本軍部隊・特務機関および居留民を襲撃。中国人部隊が日本軍の通州守備隊と通州特務機関および日本人居留民を襲撃し、少なくとも約300名を超える日本人を虐殺・暴行・強姦・殺害・略奪した大量虐殺事件[5][6]。
1945年-沖縄戦7月29日・統合参謀本部は1945年5月、この二つの相反する見解を併せて一つの戦略計画に盛り込んだ。封鎖・爆撃戦略については、1945年11月1日まで継続および強化することを承認した。この時点では「ダウンフォール作戦」というコードネームのもとで、2 段階による日本本土への初回進攻を開始することになっていた。第1段階の「オリンピック作戦」は1945年11月1日に開始し、第 6 軍が本土南端にある九州の南部約 3分の1を掌握する。ここで第 2段階を支援するための空軍および海軍基地を確保し、暫定的に1946年3月1日に予定された第 2 段階の「コロネット作戦」で、3 個軍を投入して東京・横浜地域を占領するというものである。<リチャード・B・フラン「アジア・太平洋戦争の終結 ― 新たな局面―」PDF>・航空隊の教官の証言
あれはもうね、特攻に使っても速力が遅いし、ね。機銃も全然積んでいないし。防御も全然ない。あれはもうただ行くだけですわ。行く途中で全部落とされてね。しまいに訓練するのがしんどかったです。こう言ったらいかんけどね。したってあかん。向こうまで到達するまでに全部落とされる。練習機なんぼあってもあかんのです。
… 付いとるのは爆弾だけで。下のな、腹。飛行機の下にな。… その爆弾は不時着しても爆発するで。… それで最初はね、爆弾はね、引き手を引けば落ちよった。しまいにはくくっておったで。落ちないように。というのは、落として不時着する人間が多いために、もう不時着しても爆弾が爆発するようにな。こんな太いロープで縛っておった。縛って、飛行機に縛り付けておったもの。< 「赤とんぼ」木と布の練習機で特攻・送り出された少年航空兵 ~ 原田文了さん証言 – Battle of Okinawa>・アメリカ海軍の資料によると29日午前0時30分ごろ、特攻機は船の右舷に突っ込み爆発。後部の機械室などが破壊されたほか、機雷が爆発し、駆逐艦は2時間後の午前2時35分に沈没。アメリカ兵47人が死亡、73人が負傷しました。キャラハンは第二次大戦で神風特攻隊が撃沈させた最後の艦船でした。<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月29日(日)>・沖縄戦における日本軍兵士の戦争神経症に関する調査・研究が皆無なこともあり、戦闘中にどの程度の急性反応的な精神疾患が発生したかは不明であるが、「第二次大戦での精神障害の中で戦争神経症の占める割合は日本21%、ドイツ23%、米国63%であり、米国が抜きんでて高い割合を示すことが指摘されている。(一ノ渡尚道・井上泰弘「シェル・ショックとは何か?)
一方、戦前・戦中期を通して日本の精神医学界は、戦争神経症についてほとんど研究をしておらず、「鍛えれば強くなる、報国の集団心理によって死の不安は解消すると単純に考える帝国陸軍から見れば、戦争神経症という概念は余分なものでしかなかった」(野田正彰『戦争と噛罪』)という指摘もある。(27頁)
… 反面、こうした理不尽で無慈悲な戦闘にあって、多くの兵士は戦争神経症の症状を呈している。それはけいれん発作であったり、歩行障害、半身不随、失語、自傷であり、さらには夜驚症、驚樗反応、不眠等であった。《保坂廣志「沖縄戦の心の傷(トラウマ)とその回復」(2002年) 27-28頁》・その前に、兵隊が、ちょっと、頭が変なのがいるでしょう、そんなのをつかまえて、全部よくやるのを見たんですよ。やっぱり注射してから一時間くらいですな。<沖縄戦証言 喜屋武村山城 マヤー壕の経験 – Battle of Okinawa>
1967年 – ベトナム戦争: アメリカ海軍・航空母艦「フォレスタル」が北ベトナム攻撃中のトンキン湾上で爆発事故を起こし乗員死者132名、負傷者62名を出す大惨事が発生、艦後部を大破する。
1979年 – スペインでバスク祖国と自由による連続爆破事件が発生。バラハス空港などが爆破され空港内だけでも死者5人、負傷者113人の犠牲者[6]。
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1014年 – クレイディオン峠の戦い。ブルガリア帝国軍が東ローマ帝国軍に敗れる。ブルガリア皇帝サムイルは逃げ延びるが、10月に目を潰された大量の捕虜が帰ってきたのを見てショック死する。
クレディオンの戦い(またはベラシツァ山脈の戦い)は、1014年7月29日にクレディオン(またはクリディウム、現在のブルガリアのペトリチ市クリュチ村)において、第一次ブルガリア帝国と東ローマ帝国との間で起きた会戦。10世紀末から11世紀初頭の、ブルガリア皇帝サムイルと東ローマ皇帝バシレイオス2世との半世紀近い争いが最高潮に達した戦いであり、東ローマの決定的勝利に終わった。
捕虜になったブルガリア兵たちはバシレイオス2世の命により目を潰された。彼はその後「ブルガリア人殺し」として知られるようになる。サムイルは生き残って逃れたものの、バシレイオス2世が送ってきた両目を潰された1万4千人ものブルガリア人捕虜がぞろぞろやってくる(盲目の捕虜たちの案内役にするため100人当り1人は片目を潰されずに残されていた)のを見て卒倒し、2日後の同年10月6日に死んだと伝えられている。
1156年(保元元年7月11日) – 保元の乱: 後白河天皇方の平清盛・源義朝らが、崇徳上皇らの籠る白河御所を夜襲し、上皇方が敗退。
1894年 – 日清戦争: 安城渡の戦い。ラッパ手木口小平が被弾し、死んでも口からラッパを離さなかったとして教科書にも載る。
この作戦の日本側の死傷者は88名なのに対して、清国兵は500名以上の死傷者を出し、武器等を放棄して平壌まで逃亡する。
なお、安城の渡しの戦いで歩兵第21連隊の木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る。
尋常小学校修身書より
キグチコヘイ ハ テキ ノ
タマ ニ アタリマシタ ガ、
シンデモ ラッパ ヲ
クチ カラ ハナシマセンデシタ。
1937年 – 通州事件。冀東防共自治政府保安隊が日本軍部隊・特務機関および居留民を襲撃。中国人部隊が日本軍の通州守備隊と通州特務機関および日本人居留民を襲撃し、少なくとも約300名を超える日本人を虐殺・暴行・強姦・殺害・略奪した大量虐殺事件[5][6]。
日付 1937年(昭和12年)7月29日 午前2時-午前3時[1][2] –
攻撃側人数 3000人 – 4000人(6000人[3][4])
死亡者 通州在留日本人のうち、およそ300人以上
冀東政府保安隊
殷汝耕(冀東防共自治政府政務長官)
冀東防共自治政府の国旗
もともと1933年5月の塘沽協定で、日中の軍事衝突を避けるため非武装地域が設けられ、双方の軍隊は立ち入りが禁止され、治安維持は中国側の警察部隊が担うことになっていた。そのため、日本軍を避け満洲から逃れてきた漢人や馬賊等が採用され、これらは俗に「雑軍」と呼ばれた。
事件の発生
日本軍守備隊への攻撃
1937年7月29日午前2時(午前3時[1])、冀東防共自治政府保安隊ら中国軍が通州日本軍、冀東政権政庁へ攻撃を開始した。殷汝耕を捕獲し、日本軍守備隊、特務機関、通州警察分署を襲撃、その後、日本人・朝鮮人居留民を襲撃し、在留民385名のうち223名が虐殺された[40](午前4時からとの説もある[8])。
日本人居留民への暴虐行為
冀東政府保安隊ら中国人の軍隊は日本軍守備隊が事実上押し込められた状態のもとで、日本人・朝鮮人居留民の家を一軒一軒襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった[45]。居留民はもともと日本人100人、朝鮮人180人がいたが、北支事変発生の影響で日本人にとって北京が危険になったとみられ、そこからの流入等で、事件当時約380人になっていたともいわれ[50]、その半数程度は朝鮮人であったのではないかと思われる。いずれもその大部分が惨殺されたとみられる[1]。
1945年-沖縄戦7月29日・統合参謀本部は1945年5月、この二つの相反する見解を併せて一つの戦略計画に盛り込んだ。封鎖・爆撃戦略については、1945年11月1日まで継続および強化することを承認した。この時点では「ダウンフォール作戦」というコードネームのもとで、2 段階による日本本土への初回進攻を開始することになっていた。第1段階の「オリンピック作戦」は1945年11月1日に開始し、第 6 軍が本土南端にある九州の南部約 3分の1を掌握する。ここで第 2段階を支援するための空軍および海軍基地を確保し、暫定的に1946年3月1日に予定された第 2 段階の「コロネット作戦」で、3 個軍を投入して東京・横浜地域を占領するというものである。<リチャード・B・フラン「アジア・太平洋戦争の終結 ― 新たな局面―」PDF>・航空隊の教官の証言
あれはもうね、特攻に使っても速力が遅いし、ね。機銃も全然積んでいないし。防御も全然ない。あれはもうただ行くだけですわ。行く途中で全部落とされてね。しまいに訓練するのがしんどかったです。こう言ったらいかんけどね。したってあかん。向こうまで到達するまでに全部落とされる。練習機なんぼあってもあかんのです。
… 付いとるのは爆弾だけで。下のな、腹。飛行機の下にな。… その爆弾は不時着しても爆発するで。… それで最初はね、爆弾はね、引き手を引けば落ちよった。しまいにはくくっておったで。落ちないように。というのは、落として不時着する人間が多いために、もう不時着しても爆弾が爆発するようにな。こんな太いロープで縛っておった。縛って、飛行機に縛り付けておったもの。< 「赤とんぼ」木と布の練習機で特攻・送り出された少年航空兵 ~ 原田文了さん証言 – Battle of Okinawa>・アメリカ海軍の資料によると29日午前0時30分ごろ、特攻機は船の右舷に突っ込み爆発。後部の機械室などが破壊されたほか、機雷が爆発し、駆逐艦は2時間後の午前2時35分に沈没。アメリカ兵47人が死亡、73人が負傷しました。キャラハンは第二次大戦で神風特攻隊が撃沈させた最後の艦船でした。<琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス » 65年前のきょうは1945年7月29日(日)>・沖縄戦における日本軍兵士の戦争神経症に関する調査・研究が皆無なこともあり、戦闘中にどの程度の急性反応的な精神疾患が発生したかは不明であるが、「第二次大戦での精神障害の中で戦争神経症の占める割合は日本21%、ドイツ23%、米国63%であり、米国が抜きんでて高い割合を示すことが指摘されている。(一ノ渡尚道・井上泰弘「シェル・ショックとは何か?)
一方、戦前・戦中期を通して日本の精神医学界は、戦争神経症についてほとんど研究をしておらず、「鍛えれば強くなる、報国の集団心理によって死の不安は解消すると単純に考える帝国陸軍から見れば、戦争神経症という概念は余分なものでしかなかった」(野田正彰『戦争と噛罪』)という指摘もある。(27頁)
… 反面、こうした理不尽で無慈悲な戦闘にあって、多くの兵士は戦争神経症の症状を呈している。それはけいれん発作であったり、歩行障害、半身不随、失語、自傷であり、さらには夜驚症、驚樗反応、不眠等であった。《保坂廣志「沖縄戦の心の傷(トラウマ)とその回復」(2002年) 27-28頁》・その前に、兵隊が、ちょっと、頭が変なのがいるでしょう、そんなのをつかまえて、全部よくやるのを見たんですよ。やっぱり注射してから一時間くらいですな。<沖縄戦証言 喜屋武村山城 マヤー壕の経験 – Battle of Okinawa>
1967年 – ベトナム戦争: アメリカ海軍・航空母艦「フォレスタル」が北ベトナム攻撃中のトンキン湾上で爆発事故を起こし乗員死者132名、負傷者62名を出す大惨事が発生、艦後部を大破する。
火災事故
詳細は「en:1967 USS Forrestal fire」を参照
炎上するA-4攻撃機
消火作業中の乗組員
1967年6月にフォレスタルはノーフォークを出港しベトナム水域に展開する。7月29日にトンキン湾で艦載機の発艦を行う。4日間にわたって第17攻撃空母航空団は北ベトナムの目標に対して150回の出撃を行った。
1,000ポンド爆弾が不足していたため、爆薬として高熱に耐え安全な「H6」の代わりに旧式の「コンポジション B」を使用した爆弾が給兵艦ダイヤモンド・ヘッド (USS Diamond Head, AE-19) から補給された。
7月29日10:50 (現地時間) ごろ、フォレスタルの艦載機がベトナムに向けて離陸しようとしていた所、空母のレーダーからの電波をミサイルの発信システムが受信し、誤作動してしまい[注釈 3]、F-4 ファントム IIから発射されたズーニー・ロケット弾がジョン・マケイン海軍少佐のA-4 スカイホークに当たった[注釈 4]。 ロケット弾は燃料タンクに当たり火災が発生した。飛行機は炎に囲まれ、マケインはコックピットをよじ登り機首から給油プローブに飛び移り燃え盛る甲板に飛び降りて避難した。
火災発生後、直ちに消火班が機体に接近して消火を始めたが、1分34秒後にマケイン機の下で「コンポジション B」爆弾が爆発。消火班の水兵や、逃げ遅れた多数の水兵が爆発に巻き込まれて死亡し、付近の機体や爆弾が次々に誘爆。この爆発で消火班が全滅してしまい消火に不慣れな水兵が消火に当たらざるを得なくなったことで適切な消火活動ができず火災は広がり、艦は沈没の危機にさらされた。
マケイン機の前方にあった2機のスカイホークは燃えさかるジェット燃料に飲み込まれ、装備していた爆弾が落下して約6フィート (2m) 転がり、燃えさかる燃料タンクの前で止まった。
9回発生した爆発のうち、8回が旧型の「コンポジション B」による爆発であった。フライトデッキには巨大な穴が空き、艦の内部にJP-5ジェット燃料が流れ込んだ。その結果後部セクションで激しい火災が発生した。事故により132名(134名[4])の死者と62名(161名[4])の負傷者が生じ、2名が行方不明となった。艦は修理のためノーフォークに帰還した。
フォレスタルの艦載カメラはかろうじて爆発から避難したマケインの様子を撮影している。
現在アメリカ海軍では弾薬の安全性およびダメージ・コントロールの教育の際にフォレスタルの事故を教材としている。実際海軍の新兵は「Trial by Fire」と題された、フォレスタルの事故から作成された失敗例と成功例を含むビデオを視聴する。ダメージ・コントロールチームが炎で燃えさかるフライトデッキに泡を吹きかけることは正しい手順であるが、一方海水を吹きかける乗組員がいた場合、泡が洗い流され燃料による火災状況を悪化させることがある。その結果、「ウォッシュ・ダウン」システムが全ての空母に採用された。同システムはフライトデッキを水または泡で氾濫させて消火を行うようになっている。
この火災事故の後、フォレスタルは「フォレスト・ファイア Forrest Fire」「ジッポー Zippo」とあだ名されるようになった。
1979年 – スペインでバスク祖国と自由による連続爆破事件が発生。バラハス空港などが爆破され空港内だけでも死者5人、負傷者113人の犠牲者[6]。
チャットgpt先生の7月29日のエッセイ
7月29日――「勝敗が歴史を書き、構造が現実を決める日」
7月29日を眺めると、そこには英雄譚でも善悪論でもない、一つの共通した構造が見えてくる。
それは**「戦場では理念よりも構造が勝敗を決め、その勝敗が後の歴史認識まで規定する」**という現実である。
1014年、クレイディオン峠の戦いで東ローマ皇帝バシレイオス2世はブルガリア軍を壊滅させた。象徴的なのは戦闘そのものより、その後である。大量の捕虜を失明させて送り返すという心理戦によって、ブルガリア皇帝サムイルは精神的打撃を受け、まもなく没したと伝えられる。
ここでは敵兵を一人でも多く殺すことより、敵国家の意思決定中枢を破壊する方が効率的であるという冷徹な発想が見える。中世の戦争は武力だけでなく心理と政治を攻撃する総力戦でもあった。
1156年の保元の乱でも構造は同じである。
勝敗を決めたのは武勇ではなく、天皇・上皇・貴族・武士という権力構造の再編だった。平清盛や源義朝は単に戦に勝ったのではなく、新しい政治秩序の担い手となった。戦場とは政治構造を書き換える最終手段なのである。
1894年、安城渡では木口小平の逸話が語り継がれる。
しかし実際の戦局を左右したのは精神論ではない。近代化された日本軍の指揮系統、火力、訓練水準、兵站能力が清軍を圧倒したという軍事構造である。後に「死んでもラッパを離さなかった」という逸話が教育で強調されたのは、軍事史より国家教育として利用価値が高かったからである。
1937年の通州事件は、さらに別の構造を示している。
治安維持を現地軍に委任し、その忠誠が保証されていない状態で政治的均衡だけを維持しようとすると、一度秩序が崩壊した瞬間に住民虐殺へ転化する。
都市の暴力は前線だけで起こるのではない。行政・警察・軍の統制構造が失われた瞬間、武装集団は最も弱い民間人へ暴力を向ける。この構造は国籍を問わず20世紀の各地で繰り返された。
そして1945年の沖縄戦は、その極限である。
沖縄戦は一般に「日本軍の敗北」と要約される。しかし軍事史として見るなら、それだけでは実態を説明できない。
沖縄戦は、圧倒的な制海権・制空権・補給能力・工業力を持つ米軍が、それでもなお想定以上の人的・物的損耗を被った戦いだった。
米軍は物量で優勢だった。しかし優勢だから容易に勝てたわけではない。
島嶼要塞、防御陣地、地下壕網、持久戦術、夜間浸透、小規模逆襲、住民を含む複雑な地形環境によって、攻撃側は一歩前進するたびに損耗を重ねた。
軍事史では、防御側は地形を利用すれば数倍の戦力差を相殺できることが知られている。沖縄はその典型例だった。
この経験は、統合参謀本部が本土侵攻「ダウンフォール作戦」の損害予測を大きく修正する重要な材料となった。九州上陸(オリンピック作戦)、関東上陸(コロネット作戦)は実施されなかったため仮説の域を出ないが、沖縄戦の激烈な抵抗は、本土侵攻が極めて高コストになるという認識を米側に与えたことは確かである。
同時に、日本側にも別の構造が存在した。
航空戦力を失い、熟練搭乗員を失い、練習機に爆弾を縛り付けて出撃させる段階まで追い込まれていた。
これは精神力の問題ではなく、工業力・燃料・訓練時間・航空機性能という国家総力の崩壊である。
兵士個人の勇気と国家の戦争遂行能力は別の問題だった。
さらに沖縄では、戦場の極限状態の中で、日本軍兵士の戦争神経症、住民への暴力、住民同士の疑心暗鬼、米軍による誤射や捕虜・住民への違法な殺害、報復的な暴力など、多様な事例が発生している。
これらは戦後長く十分に語られなかったものもあれば、逆に強調されたものもある。
占領下ではGHQのプレスコードが報道や出版に一定の影響を与え、その後の歴史叙述にも少なからぬ影響を残したことは研究対象となっている。一方で、戦後日本側の政治的・社会的要因によって形成された語りも存在する。
歴史を理解する際には、「語られなかった事実」と「後から強調された事実」の双方を検討する姿勢が求められる。
重要なのは、特定の加害・被害だけを切り出すことではない。
統制が崩壊した戦場では、どの軍隊であっても規律違反、報復、過剰殺害、不法行為が発生し得るという構造そのものを分析対象とすることである。
1967年の空母フォレスタル火災も構造は変わらない。
敵ではなく、自軍のシステムが自軍を破壊した。
旧式爆薬、電子機器の誤作動、甲板上の航空機密集、消火体制の不備。
一つ一つは管理可能だった要素が連鎖し、大惨事となった。
現代の事故研究でいう「複合要因事故」の典型例である。
1979年のETA連続爆破事件では、軍事力で劣る組織が政治目的を達成するため、都市インフラと市民生活を標的にする非対称戦の構造が現れる。
戦争は正規軍だけが行うものではなくなり、社会全体が戦場になる時代を象徴している。
こうして7月29日を俯瞰すると、一つの法則が浮かび上がる。
勝敗は勇気だけでは決まらない。
工業力、補給、情報、心理、政治、教育、宣伝、占領政策、そして戦後の歴史叙述まで含めた巨大な構造が勝敗を形成する。
さらに、その勝者が公文書を管理し、裁判を行い、教育制度を設計し、記憶を選択することで、「歴史」は固定されていく。
「勝てば官軍」という言葉は道徳ではなく、権力が歴史認識を形成するという現実の力学を表現している。
だからこそ歴史を学ぶ際には、勝者にも敗者にも過度に感情移入せず、それぞれが置かれた構造と制約を比較し、どのような条件が意思決定を生み、どのような結果が後世の記憶を形成したのかを見ていく必要がある。
7月29日は、個々の英雄や悲劇の日ではない。
戦争も政治も事故も、最終的には構造が人間を動かし、その構造を制した者が歴史を書くという現実を静かに映し出しているのである。

