7月28日
20260728火曜日旧暦6月15日友引(40番癸卯みずのとうキボウ)月齢 13.7
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 40番癸卯みずのとう日
吉方位 隠遁日 癸卯みずのとう日 北東 東 大吉 年末まであと156日
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7月28日の出来事
1794年(フランス革命暦II年テルミドール10日) – フランス革命: 前日のテルミドールのクーデターで失脚したジャコバン派メンバーに死刑判決が下され、同日のうちにロベスピエールら22人が処刑される。
1889年 – 熊本市の西を震源とする熊本地震。死者20人。
1942年 – 第二次世界大戦: ヨシフ・スターリンが敵前逃亡を禁止するソ連国防人民委員令第227号を発令。
1945年 – エンパイアステートビルにB-25爆撃機が激突。乗員3人を含む14人死亡。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 青森大空襲。死傷者は1767名。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 大山口列車空襲。死者44名、負傷者31名以上
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 呉軍港空襲。24日分と合わせ、燃料不足により停泊していた多くの艦が大破・着底する。
1945年-沖縄戦7月28日・米軍が沖縄に侵攻したのは、日本本土上陸作戦に向けての軍事拠点の確保が目的だった。沖縄攻略作戦は「アイスバーグ作戦」と呼ばれているが、この「アイスバーグ作戦の目的」は、「日本本土ならびに周辺海域から接近する敵海軍及び航空隊を攻撃する」、「東シナ海海上を挟む地域における今後の作戦を支援する」、「大日本帝国、アジア大陸、台湾、マレー半島、オランダ領東インド諸島の間で行われている日本軍の海上及び航空通信を遮断する」という3つの事項を遂行し、「軍事基地を確立する」ことだった(『沖縄県史資料編12』46頁)・私たちの幕舎の担当になっていたレインボウという赤毛の衛生兵は親切な男であった。幕舎内のすべての患者に対して気をつかってくれた。彼はガダルカナル、ブーゲンビルから南太平洋の島々とフィリピンを経て沖縄戦に参加した。衛生兵とはいっても、一般の歩兵同様に完全武装をして上陸作戦にも参加したと話していた。それでも病院勤務の「コーア・メン」と呼ばれていた衛生兵たちはおとなしい人柄のものが多かった。
… いまひとりシィヴァソンという口髭をはやした衛生兵がいた。… あるとき、一つ星の将軍が病院を視察にきたらしく、私たちのテントの前を通った。入口の支柱に手をかけて将軍一行の通るのを見ていたシィヴァソンは挙手の礼をしなかった。変だと思ってあとできいてみると、「ここは戦場だ。将軍もないさ。おれは彼の部下ではないよ」といって彼は大げさにぺっとつばをはいた。私はおどろいた。アメリカの軍隊は変わっている。とても日本の軍隊では想像もできないことである。日本では将軍のご入来となると、まるで皇帝でも迎えるような騒ぎになる。ところが、アメリカの民主主義というものか。
病院内での将校とコーア・メンとの間がらも日本の軍隊では考えられないことばかりであった。古参兵らしいのと新兵と、年配のものと若いものと、将校たちと、兵卒と、その関係は友だち仲間のようであった。いくら戦友といっても、日本の軍隊では「階級」がものをいった。このアメリカ軍ではそのような気配がまるでみえない。学校のクラスメート同士のつき合いのようである。《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 188-189頁》・上官の命令は、そのいかんを問わず、天皇の命令も同じことですから、服従しなくてはなりません。沖縄戦についての本の中に、渡嘉敷で集団自決があったとか、虐殺があったとか、書かれていますが、それは間違いです。軍隊には、法というものがあります。それを犯すと罰しなくてはなりません。罰して殺す場合もありません。私は支那で四年も戦争して来ましたからよく知っています。敵に捕虜になることも、今いう法に触れることになります。前線では、夜間、誰何して、三回呼んでも返事がない場合殺してもよいことになっています。これも法です。渡嘉敷では、勝てば官軍で敗ければ賊軍のとおり、日本軍は、何をやっても賊軍の扱いです。実際は法を施行したにすぎません。<「渡嘉敷島で起ったこと」沖縄戦証言 慶良間諸島 (3) 渡嘉敷島 – Battle of Okinawa>・(読谷村の住民だけで) 7月には、国頭村、大宜味村、東村などの北部で主に住民が129人亡くなっている。そのうち84人が栄養失調だった。山中をさまよい、7月になっても爆撃によって亡くなった人もいる。米軍による敗残兵の掃討に巻き込まれた可能性もある。ほかにも、読谷村近くの金武や宜野座、石川の収容所でも亡くなっている。こちらも病死、栄養失調が多い。<第2章 米軍は読谷を目指した - 沖縄戦デジタルアーカイブ「戦世からぬ伝言」>
1955年 – 三重県津市中河原海岸にて、水泳訓練中の津市立橋北中学校生徒が遭難する水難事故が発生(橋北中学校水難事件)。女子生徒36名が死亡。
1976年 – 中国河北省でMw7.5-7.8の唐山地震発生。死者24万名以上、住宅全壊率94%の被害。
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1794年(フランス革命暦II年テルミドール10日) – フランス革命: 前日のテルミドールのクーデターで失脚したジャコバン派メンバーに死刑判決が下され、同日のうちにロベスピエールら22人が処刑される。
テルミドール9日のクーデター (テルミドールここのかのクーデター、Coup d’état du 9 Thermidor) は、1794年7月27日(フランス革命暦II年テルミドール9日)に起きた、フランス革命を主導していたマクシミリアン・ロベスピエールが率いる山岳派(ジャコバン派)独裁に対立する勢力によるクーデターである。「テルミドール9日のクーデタ」、「テルミドールのクーデター」とも呼ばれ、フランス語版では「ロベスピエールの失脚」(La chute de Robespierre)」と呼ばれる
翌7月28日、かつてロベスピエールの指示に従って反対派を断頭台に送り込んでいた革命裁判所の検事アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルはロベスピエールらに死刑の求刑を求め、裁判長より死刑判決が下された。午後6時、ロベスピエール兄弟、サン・ジュスト、アンリオら22人は革命広場でギロチンにより処刑された。翌日には70人のコミューンのメンバーが処刑され、その翌日には12人が同じ罪状で処刑された。
さらに、ジャン=バティスト・カリエやフーキエ=タンヴィルらジャコバン派の生き残りは、同年から翌年にかけて次々に逮捕され、死刑に処せられた。クーデターに加わっていたビョー=ヴァレンヌやコロー・デルボワも公安委員として恐怖政治を推進した責任を問われ、ギュイヤンヌへ流罪となった。
1889年 – 熊本市の西を震源とする熊本地震。死者20人。
1942年 – 第二次世界大戦: ヨシフ・スターリンが敵前逃亡を禁止するソ連国防人民委員令第227号を発令。
国防人民委員令第227号(こくぼうじんみんいいんれいだいにひゃくにじゅうななごう、ロシア語: Приказ № 227)とは、第二次世界大戦(独ソ戦)中の1942年7月28日、ソビエト連邦の国防人民委員部(陸軍省に相当)が、赤軍に対して発した命令である。「一歩も下がるな!(露:Ни шагу назад!、ラテン文字:Ni shagu nazad!)」の一節が特に有名であり、ソ連の反独抵抗のスローガンともなった。
概要
いかなる指揮官も命令無しに後退してはならず、これに逆らった者は、みな先任順位に応じて軍法会議にかけられる事を明記している。
第227号令は各方面軍に1つから3つの懲罰大隊を編成するよう命じている。これは規律違反で起訴された将兵によって構成され、最前線のもっとも危険な箇所に投入された。同時に兵卒と下士官で構成された懲罰中隊も編成された。1942年から1945年にかけて427,910名の将兵が懲罰大隊に組み入れられた。
これら2つの手段は、前年12月のモスクワ前面でのドイツ軍の後退の際に、ドイツ軍によって規律を維持するために用いられてプラスの効果が見られたとして、引用されている。
軍に督戦中隊を編成せよとの命令は、3ヵ月後の1942年11月29日に取り下げられた。苦戦している赤軍の士気を奮い立たせ、愛国心を喚起させるつもりだったが、却って兵士の士気を下げた上、督戦隊員が人的資源を浪費するのを見た指揮官がこれを用いないこともあったりしたことなどから、1942年10月より赤軍内の正規の督戦隊はひっそり姿を消した。ただし内務人民委員部(NKVD)やスメルシはその後も継続して督戦活動にあたった。1944年11月29日、督戦隊は公式に解散した。
1945年 – エンパイアステートビルにB-25爆撃機が激突。乗員3人を含む14人死亡。
1945年エンパイア・ステート・ビルディングB-25爆撃機衝突事故(英語:1945 Empire State Building B-25 crash)は、1945年7月28日、アメリカ陸軍航空軍所属のB-25爆撃機が濃霧の中を飛行中に、ニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングに衝突した航空事故。
この事故により、14人(3人の乗組員全員と建物内の11人)が死亡し、推定被害額は当時の100万ドル(2019年の価値換算で約1,400万ドルに相当)と算出された。この事故で建物の構造の安全性は損なわれなかった[1]。
詳細
午前9時40分、機体はエンパイア・ステート・ビルディングの北側、79階に衝突し、18 × 20フィート(5.5m × 6.1m)の大きさの穴を建物に開けた[7]。衝突した階には、戦争扶助協会と全国カトリック福祉評議会(英語版)の事務所が入居していた。機体に二つ装備されているエンジンのうち、片方が建物の南側(衝突したのと反対側)の壁も突き破り、道路を挟んだ隣の区画まで270m落下し、ペントハウスのアートスタジオを破壊する火災を引き起こした。もう一方のエンジンとランディングギアの一部がエレベーターシャフトから落下した[7]。エレベーターシャフトから伝わって燃え広がったこの火災は、当時としてはまれだった高層ビルで起きた火災として唯一消防士によって鎮火が成功した物であった[7]。火災は40分で消火された[7]。
スミス中佐、クリストファー・ドミトロヴィッチ二等軍曹、海軍航空機整備助手のアルバート・ペルナ(移動のため便乗)、衝突階にいた民間人が犠牲となった[1](墜落が起こったとき、50人から60人の観光客が86階の展望台にいた)。ペルナの遺体は2日後、捜索隊がエレベーターのシャフトの底で発見した。他の2人の乗組員の遺体は見分けがつかないほどに燃えていた[8]。
エレベーターガールのベティ・ルー・オリバーは、エレベーターシャフトを伝わった火災で80階においてエレベーターのカゴから投げ出され、重度の火傷を負った。救急隊員が彼女を別のエレベーターに乗せて1階に運ぼうとしたが、そのエレベーターのカゴを支えるケーブルも事故の影響で損傷し、75階から落下し、地下階に到達した[9]。オリバーはこの落下を生き延びたが、救助者が瓦礫の中に彼女を見つけたとき、骨盤、背骨、首が折れていた[5]。これは、最も長い距離をエレベーターで落下し生き残った世界記録となった[6]。エレベーターシャフト内部の空気がクッションになって落下スピードを弛めたと考えられている[6]。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 青森大空襲。死傷者は1767名。
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 大山口列車空襲。死者44名、負傷者31名以上
1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲: 呉軍港空襲。24日分と合わせ、燃料不足により停泊していた多くの艦が大破・着底する。
1945年-沖縄戦7月28日・米軍が沖縄に侵攻したのは、日本本土上陸作戦に向けての軍事拠点の確保が目的だった。沖縄攻略作戦は「アイスバーグ作戦」と呼ばれているが、この「アイスバーグ作戦の目的」は、「日本本土ならびに周辺海域から接近する敵海軍及び航空隊を攻撃する」、「東シナ海海上を挟む地域における今後の作戦を支援する」、「大日本帝国、アジア大陸、台湾、マレー半島、オランダ領東インド諸島の間で行われている日本軍の海上及び航空通信を遮断する」という3つの事項を遂行し、「軍事基地を確立する」ことだった(『沖縄県史資料編12』46頁)・私たちの幕舎の担当になっていたレインボウという赤毛の衛生兵は親切な男であった。幕舎内のすべての患者に対して気をつかってくれた。彼はガダルカナル、ブーゲンビルから南太平洋の島々とフィリピンを経て沖縄戦に参加した。衛生兵とはいっても、一般の歩兵同様に完全武装をして上陸作戦にも参加したと話していた。それでも病院勤務の「コーア・メン」と呼ばれていた衛生兵たちはおとなしい人柄のものが多かった。
… いまひとりシィヴァソンという口髭をはやした衛生兵がいた。… あるとき、一つ星の将軍が病院を視察にきたらしく、私たちのテントの前を通った。入口の支柱に手をかけて将軍一行の通るのを見ていたシィヴァソンは挙手の礼をしなかった。変だと思ってあとできいてみると、「ここは戦場だ。将軍もないさ。おれは彼の部下ではないよ」といって彼は大げさにぺっとつばをはいた。私はおどろいた。アメリカの軍隊は変わっている。とても日本の軍隊では想像もできないことである。日本では将軍のご入来となると、まるで皇帝でも迎えるような騒ぎになる。ところが、アメリカの民主主義というものか。
病院内での将校とコーア・メンとの間がらも日本の軍隊では考えられないことばかりであった。古参兵らしいのと新兵と、年配のものと若いものと、将校たちと、兵卒と、その関係は友だち仲間のようであった。いくら戦友といっても、日本の軍隊では「階級」がものをいった。このアメリカ軍ではそのような気配がまるでみえない。学校のクラスメート同士のつき合いのようである。《「沖縄の戦場に生きた人たち」(池宮城秀意/サイマル出版会) 188-189頁》・上官の命令は、そのいかんを問わず、天皇の命令も同じことですから、服従しなくてはなりません。沖縄戦についての本の中に、渡嘉敷で集団自決があったとか、虐殺があったとか、書かれていますが、それは間違いです。軍隊には、法というものがあります。それを犯すと罰しなくてはなりません。罰して殺す場合もありません。私は支那で四年も戦争して来ましたからよく知っています。敵に捕虜になることも、今いう法に触れることになります。前線では、夜間、誰何して、三回呼んでも返事がない場合殺してもよいことになっています。これも法です。渡嘉敷では、勝てば官軍で敗ければ賊軍のとおり、日本軍は、何をやっても賊軍の扱いです。実際は法を施行したにすぎません。<「渡嘉敷島で起ったこと」沖縄戦証言 慶良間諸島 (3) 渡嘉敷島 – Battle of Okinawa>・(読谷村の住民だけで) 7月には、国頭村、大宜味村、東村などの北部で主に住民が129人亡くなっている。そのうち84人が栄養失調だった。山中をさまよい、7月になっても爆撃によって亡くなった人もいる。米軍による敗残兵の掃討に巻き込まれた可能性もある。ほかにも、読谷村近くの金武や宜野座、石川の収容所でも亡くなっている。こちらも病死、栄養失調が多い。<第2章 米軍は読谷を目指した - 沖縄戦デジタルアーカイブ「戦世からぬ伝言」>
1955年 – 三重県津市中河原海岸にて、水泳訓練中の津市立橋北中学校生徒が遭難する水難事故が発生(橋北中学校水難事件)。女子生徒36名が死亡。
橋北中学校水難事件(きょうほくちゅうがっこうすいなんじけん)または津海岸集団水難事件(つかいがんしゅうだんすいなんじけん)は、1955年7月28日に三重県津市の津市立橋北中学校の女子生徒36人が、同市中河原海岸(文化村海岸)で水泳訓練中に溺死した水難事故。
1976年 – 中国河北省でMw7.5-7.8の唐山地震発生。死者24万名以上、住宅全壊率94%の被害。
唐山地震(とうざんじしん, 拼音: tángshān dìzhèn, タンシャン・ディーヂェン)は、1976年7月28日3時42分(現地時間、UTC+8)に中華人民共和国河北省唐山市付近を震源として発生したマグニチュードMw7.6の直下型地震である。市街地を北北東から南南西に走る断層に沿って大きな右横ずれが発生し、当時有数の工業都市であった唐山市は壊滅状態となった。死者数は中国発表で24.2万、アメリカの地質調査所の推計では65.5万人となっている[3]。
当時の中国は文化大革命の真っ只中で、毛沢東政権の最晩年の時期[5]でもあった。このため、中国政府は「自力で立ち直る」と外国からの援助を拒否した。このことが犠牲者の拡大をもたらした一因だといわれている。また、政府の方針により被害実態の多くが伏せられたとも言われ、死者の数についても非公式には60万から80万人、もしくはそれ以上とも言われている。この地震の情報もすぐには公表されず、日本に地震発生が伝えられたのは、地震発生の21時間後であったと報道されている。
チャットgpt先生の7月28日のエッセイ
7月28日エッセイ 「勝者が歴史を書く。しかし、戦場はもっと冷徹である」
7月28日という日を眺めると、一つの共通点が浮かぶ。
国家や組織が、生存のために平時の倫理を捨てる瞬間である。
1794年のテルミドール。
1942年のスターリン第227号令。
1945年の沖縄、日本本土空襲。
そして1976年の唐山地震。
これらは一見無関係に見えるが、構造は非常によく似ている。
歴史は理念ではなく、**「組織が極限状態でどう振る舞うか」**の記録なのである。
恐怖政治は「悪人」が作るのではない
ロベスピエールは自由・平等を掲げた革命家だった。
しかし革命政府は次第に、
「革命を守るためなら敵を殺してよい」
という論理へ変質した。
そして最後には、その制度を作った本人が同じ制度で処刑される。
重要なのは善悪ではない。
非常時に権力へ例外を認める制度は、最後には制度の設計者自身を飲み込む。
これは革命だけではない。
戦争でも同じ構造になる。
「一歩も下がるな」は軍事合理性だった
スターリンの第227号令はしばしば狂気の命令として語られる。
しかし1942年当時のソ連から見れば事情は違う。
南方ではドイツ軍がコーカサスへ迫り、
スターリングラードも危機だった。
国家そのものが崩壊しかねない。
その状況で
「後退禁止」
「懲罰部隊」
「督戦隊」
を導入した。
後年、督戦隊は士気低下や人的資源の浪費から縮小・廃止されるが、この命令が示すのは国家存亡の局面では兵士個人の生命より前線維持が優先されるという現実である。
軍隊は本質的に個人ではなく組織として勝つために存在する。
沖縄戦──「物量だけでは勝てなかった戦い」
沖縄戦はしばしば
「圧倒的物量で米軍が勝利した」
という一文で片付けられる。
しかし軍事史として見るなら、それでは実態が見えない。
米軍は制海権・制空権・補給能力・火力のすべてで日本軍を圧倒していた。
それでも戦闘は想定を超えて長期化した。
首里防衛線を中心とした縦深陣地は、艦砲射撃だけでは崩れない。
地下陣地は航空攻撃でも破壊しきれない。
歩兵が一つ一つ攻略するしかなかった。
結果として米軍は戦死約1万2千人以上、負傷者を含めれば数万人規模の損害を受け、太平洋戦争で経験した上陸戦の中でも極めて激しい消耗戦となった。
この経験は後の本土決戦予想にも強く影響した。
沖縄一島でこれほど苦戦したなら、本土ではさらに莫大な損害になる。
その計算は、原爆投下や対日戦略の判断材料の一つになったと考えられている。
つまり沖縄戦は単なる地方戦ではなく、戦争全体の終結過程にも影響した戦いだった。
戦場では「正義」より「統制」が優先される
沖縄戦では日本軍だけではなく、米軍側にも規律違反や捕虜・民間人への違法行為、報復的な殺害などが各種証言や研究で指摘されている。一方で、日本軍側にも住民への強制、処刑、住民犠牲を伴う事例など、多様な記録が残されている。事案ごとの事実認定や規模については研究上議論があるものもあり、個別の検証が必要である。
重要なのは、一方だけを善悪で固定してしまうと構造が見えなくなることである。
戦場では、
- 情報漏洩を恐れる
- 敵への協力を疑う
- 報復を恐れる
- 味方の士気維持を優先する
という力学が同時に働く。
その結果、
平時では到底許されない行動が、組織内部では合理化される。
これは日本軍だけの特徴でも、
米軍だけの特徴でもない。
極限状態の組織一般が持つ危険性なのである。
「勝てば官軍」は歴史学ではなく政治学である
敗戦国は裁かれる。
戦勝国は裁く側になる。
これは第二次世界大戦でも例外ではなかった。
だから戦後史には、戦勝国側の行為が相対的に軽く扱われたり、敗戦国側の責任がより詳細に追及されたりする傾向が生まれることがある。一方で、その後の研究の進展により、連合国側・枢軸国側を問わず、戦時中の違法行為や民間人被害について検証が進められてきた。
歴史資料そのものも、
誰が保存し、
誰が公開し、
誰が教育へ反映するか
によって見え方が変わる。
そのため史料批判は不可欠である。
戦後日本ではGHQの占領政策やプレスコードが言論環境に影響を与えたことは事実であり、それが占領期の報道や出版に一定の制約を与えたことも研究されている。ただし、今日の歴史研究は占領期資料だけでなく、日本・米国双方の公文書や証言、各国の研究成果を組み合わせて再検討が進められている。したがって、占領期の制約を踏まえつつも、現在はより多面的な分析が可能になっている。
エンパイア・ステート・ビルが示したもの
1945年7月28日。
B-25爆撃機は霧の中で超高層ビルへ衝突した。
しかし建物は倒れなかった。
これは偶然ではない。
巨大建築とは、
一部が破壊されても全体は機能を維持するよう設計される。
国家も同じである。
一人の指導者が倒れても国家が続くなら制度は強い。
逆に一人が倒れただけで崩壊する組織は脆弱である。
唐山地震が示したもの
1976年。
唐山市は一夜で壊滅した。
自然災害そのものは止められない。
しかし被害は政治体制によって変わる。
情報公開。
救援受け入れ。
統計の透明性。
これらは災害そのものではなく、制度の問題である。
自然は平等でも、被害は制度によって拡大も縮小もする。
終わりに
7月28日に並ぶ出来事を貫く共通項は、英雄でも悪人でもない。
組織は極限状態になるほど、理念より存続を優先する。
革命政府は恐怖政治へ傾き、軍隊は規律を強化し、戦場では統制が倫理を上回り、災害では制度の強弱が生死を左右する。
歴史を理解する鍵は、「誰が正しかったか」を急いで裁くことではない。
むしろ、極限状態に置かれた国家や軍隊、社会が、どのような制度・情報・権力・軍事・補給・心理の構造によって意思決定し、その結果としてどのような帰結を生んだのかを観察することにある。
7月28日は、その冷徹な構造が、一日の中に凝縮して現れている日なのである。

