7月27日
20260727日月曜日旧暦6月14日先勝(39番壬寅みずのえとらジンイン)月齢 12.7
43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 39番壬寅みずのえとら日
吉方位 隠遁日 壬寅みずのえとら日 南 大吉 年末まであと157日
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7月27日の出来事
1549年(天文18年7月3日) – フランシスコ・ザビエルの船が鹿児島沖に到達し錨を降ろす。8月15日(旧暦7月22日)に上陸。
1656年 – バールーフ・デ・スピノザが破門される。
1890年 – オランダの画家・ゴッホがピストルで自殺を図る。2日後の7月29日に病院で死亡。
1916年 – 香港を出港した布哇丸(ハワイ丸)に神戸港から乗船した船客が、横浜港に入港する際にコレラを発症。2日後に死亡したため、同船は長濱検疫所へ回航され乗員・乗客全員が収容(乗員133人、乗客189人等多数収容)された。8月9日の停留解除までの間、患者44人、死者10人を出す[1]。
1945年-沖縄戦7月27日・太平洋戦争末期に米軍が、占領した沖縄を出撃拠点に日本本土を大規模攻撃していた実態が7日、機密指定を解除された米公文書で明らかになった。終戦までの約3カ月間に、南部上陸を見据えていた九州など計13県の65カ所以上が標的となり、約7千トンの爆弾が投下された。<沖縄から本土に大規模攻撃 米軍、終戦前に爆弾7千トン – 日本経済新聞>・第二次世界大戦中、ホノウリウリ日系人収容所に捕らえられた人々の多くは、コミュニティのリーダーや先生、教職者、日系人社会の有識者でした。<引用先原文>・国への忠誠を表す為に、アメリカ軍に入隊する若者も多かった
本土に住んでいた12万人もの日系人は収容所に送られましたが、ハワイでの日系人は総人口の約3分の1を占めていたため、一部の日系人の収容に留められました。ハワイでは日系アメリカ人の労働力がなければ、生活が成り立たなかったからです。… 何の罪もない民間人が、自国政府からこのような仕打ちを受けたホノウリウリ日系人収容所。1988年、ロナルド・レーガン大統領はこの事実を謝罪し、2015年2月バラク・オバマ大統領は、ホノウリウリ日系人収容所跡地を国定史跡に指定しました。<今だから考えたい、日系人収容所ホノウリウリから学ぶこと。『戒厳令の怖さ』 | ハフポスト>・この(八原博通の)尋問調書を担当したのが、後に高名な日本文学者となるドナルド・キーンである。検問所の沖縄県民を「犬」と呼んだ八原は、CIC の尋問には協力的であった。<引用先原文—沖縄県民を「犬」と読んだ云々は引用先原文記述者の牽強付会 加賀美茂知注>・八原大佐は、7月27日に対敵情報隊の基礎尋問を受け、8月6日には戦闘情報収集課(CIC) 所属のドナルド・キーン中尉の長時間にわたる尋問を受けている。尋問に際して、「帝国の安危存亡に関わる問題については話をしない、といいつつも、沖縄作戦については存分に話した。その話に虚偽があるとは思えない。八原の話で注意すべき事は、首里の安全な洞窟陣地から観た沖縄作戦であり、細部では、前線兵士と話が食い違うことである」とキーン中尉は述べている。《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版 (2015年) 34頁》・首里市大名出身25歳女性の証言
主人が死んでからは死にたい、死にたいとその事ばかり考えていました。ふと気がつくと私も相当やられているし、抱いている子供の頭から背中から全身血でまっ赤になっていたので子供もやられたと思い、調べて見てもどこといってけがもしてなくて、私の頭から流れた血でした。子供を殺して私達も死のうといって私の母も手にしたカマを、首のところまで持ってきていました。…
作業に行く時は班長として「赤帽」と呼ばれていた私達のめんどうをみてくれる人が一緒でしたが、アメリカ兵が女達をおいかけまわして大変でした。私達は顔にすみや泥をぬっていてもごまかせずに海にいても畑にいてもおいかけてくるので一人では何も行動しませんでした。班長といっても、捕虜の身ですから何も出来ないので、金や物で女達を自由にしようとするアメリカ兵におびえ通しでした。私達の身を守る為についてくれる男はせいぜい一~二人でしたから、どうにもならず、棒をブンブンふっては逃げるよりしかたありませんでした。
その時分でしたが玉城村でいもほり作業をしていた主婦が、黒人兵につかまえられたのを助けようとした人が、その黒人兵に射殺されるという事件がおきていました。沖縄の女性は何か月もの長い間、爆弾の恐怖から逃げ回りやっとの思いで解放されたら今度はアメリカ兵から身をまもるのに必死にならなくてはならず、本当に苦労の連続でした。…
もうメイドをしてからでも何十年になりますが、今では娘も結婚して孫まであるし、毎日が楽しく、幸せだと思っていますが、(ブログ註=本土復帰後) 自術隊が沖縄に入って来ていていろいろの話を聞いたりすると、やはりあの悲惨な思い出がよみがえって来て不安になります。「あの戦争だって本土をまもる為にとこの小さな沖縄に兵隊が一杯入ってきて、その為にあんなにも激しい戦いになったのですから、そしてこの私だって戦争さえなかったら主人と不自由なく暮せただろうし、ケガもする事なく又あんなにみじめな思いをしたり見たりする事もなかったのにと自分をふり返ってみるといつも、戦争の一番の被害者は女だと思っているのです。<沖縄戦証言 首里 (2) – Battle of Okinawa>
1950年 – 広島県佐伯郡にある長島の近くで漁船が操業していたところ、付近に浮遊していた大型磁気機雷が爆発。漁船4隻が大破、2隻が損壊。死者・行方不明者46人[2]。
1953年 – 東京・新橋のバー『メッカ』の天井裏からしたたり落ちてきた血がきっかけとなり、証券ブローカーの刺殺体が発見される(バー・メッカ殺人事件)。
1989年 – 大韓航空803便着陸失敗事故。大韓航空機がリビア・トリポリ国際空港の手前の住宅地に墜落。乗員乗客199名のうち74名と地元住民6名が死亡。
2002年 – リヴィウ航空ショー墜落事故。地上での死者数 77 地上での負傷者数 543
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1549年(天文18年7月3日) – フランシスコ・ザビエルの船が鹿児島沖に到達し錨を降ろす。8月15日(旧暦7月22日)に上陸。
1656年 – バールーフ・デ・スピノザが破門herem
される。
バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza [baːˈrux spɪˈnoːzaː]、1632年11月24日 – 1677年2月21日[1])は、オランダの哲学者である。ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。
スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。
herem
ヘーレム(ヘブライ語:חֵרֶם)とは、ח-ר-ם (IPA : χ–ʁ-m)という語根から派生した名詞である。現代ヘブライ語では「破門;追放;没収;禁制」などを意味している[1][2]。ヘーレムを用いた熟語には「ヘーレム・カルカリー」(経済制裁)、「ヘーレム・ツァルハニーム」(ボイコット)、「ヘーレム・メディニー」(国交断絶)などがある。しかし、聖書ヘブライ語(古代ヘブライ語)の時代においてはその語義に変遷があったとされており、現在ではおおむね下記のごとく3種類に分類されている[3][4]。
神や祭司のために人や家畜や財産を聖別すること。(奉納物)
戦争時における異民族の虐殺、および破壊行為。(宗教的迫害)
ある人物を共同体から排斥し、公共社会と接触しないよう遠ざけること。(懲罰)
以上は歴史に準じた序列である。本項ではミシュナーやタルムードの記述に基づいたユダヤ教における懲罰(3)である「破門」を中心に解説し、奉納物(1)についても「祭司のヘーレム(ハラミーム)」にて触れておく。宗教的迫害(2)についての詳細は「聖絶」を参照のこと。また、ヘーレムのギリシア語訳であるアナテマについても当該記事を参照のこと。
1890年 – オランダの画家・ゴッホがピストルで自殺を図る。2日後の7月29日に病院で死亡。
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ[注釈 1](オランダ語: Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 – 1890年7月29日)は、オランダのポスト印象派の画家。37歳没。
死因諸説
病因
ファン・ゴッホが起こした「耳切り事件」や、その後も引き続いた発作の原因については、次のようなものを含め、数多くの仮説がある(数え方により100を超える[289])。このうち、てんかんもしくは統合失調症とする説が最も有力である[290]。しかし、医学的・精神医学的見解は混沌としており、確定的診断を下すには慎重であるべきとの指摘がされている[291]。
てんかん説
アルルの病院の上層部による診断は「全般的せん妄を伴う急性躁病」であったが、若いフェリクス・レー医師だけが「一種のてんかん」と考え、ファン・ゴッホもその説明に納得している。当時、伝統的に認められてきたてんかんとは別に、発作と発作の間に長い安定期間があり比較的普通の生活を送ることができる類型があること、日光、アルコール、精神的動揺などが発作の引き金となり得ることなどが分かってきていた。ペロン医師も、レーの診断を支持した[292]。
統合失調症説
カール・ヤスパースは、てんかんのうち強直間代発作における典型的症状である強直痙攣が見られないことから、てんかん説に疑問を呈し、統合失調症か麻痺であるとした上で、2年間も発作に苦しみながら判断能力を失わなかったことから見て統合失調症との判定に傾いている[293]。
梅毒性麻痺説
ファン・ゴッホは、アントウェルペン滞在中に梅毒と診断されて水銀剤治療と座浴療法を受けている。ランゲ・アイヒバウムは、「急性梅毒性分裂・てんかん様障害」との診断を下している[294]。
メニエール病説
メニエール病とは内耳の病気で、ひどい目まい、吐き気、強い耳鳴り、難聴を伴うものである。ファン・ゴッホは「目まいに襲われている間、痛みと苦しみの前に自分が臆病者になってしまった思いだ」と書いており、こうした手紙の詳細な調査からメニエール病の症状に当てはまるとする研究がある[295]。
1916年 – 香港を出港した布哇丸(ハワイ丸)に神戸港から乗船した船客が、横浜港に入港する際にコレラを発症。2日後に死亡したため、同船は長濱検疫所へ回航され乗員・乗客全員が収容(乗員133人、乗客189人等多数収容)された。8月9日の停留解除までの間、患者44人、死者10人を出す[1]。
1945年-沖縄戦7月27日・太平洋戦争末期に米軍が、占領した沖縄を出撃拠点に日本本土を大規模攻撃していた実態が7日、機密指定を解除された米公文書で明らかになった。終戦までの約3カ月間に、南部上陸を見据えていた九州など計13県の65カ所以上が標的となり、約7千トンの爆弾が投下された。<沖縄から本土に大規模攻撃 米軍、終戦前に爆弾7千トン – 日本経済新聞>・第二次世界大戦中、ホノウリウリ日系人収容所に捕らえられた人々の多くは、コミュニティのリーダーや先生、教職者、日系人社会の有識者でした。<引用先原文>・国への忠誠を表す為に、アメリカ軍に入隊する若者も多かった
本土に住んでいた12万人もの日系人は収容所に送られましたが、ハワイでの日系人は総人口の約3分の1を占めていたため、一部の日系人の収容に留められました。ハワイでは日系アメリカ人の労働力がなければ、生活が成り立たなかったからです。… 何の罪もない民間人が、自国政府からこのような仕打ちを受けたホノウリウリ日系人収容所。1988年、ロナルド・レーガン大統領はこの事実を謝罪し、2015年2月バラク・オバマ大統領は、ホノウリウリ日系人収容所跡地を国定史跡に指定しました。<今だから考えたい、日系人収容所ホノウリウリから学ぶこと。『戒厳令の怖さ』 | ハフポスト>・この(八原博通の)尋問調書を担当したのが、後に高名な日本文学者となるドナルド・キーンである。検問所の沖縄県民を「犬」と呼んだ八原は、CIC の尋問には協力的であった。<引用先原文—沖縄県民を「犬」と読んだ云々は引用先原文記述者の牽強付会 加賀美茂知注>・八原大佐は、7月27日に対敵情報隊の基礎尋問を受け、8月6日には戦闘情報収集課(CIC) 所属のドナルド・キーン中尉の長時間にわたる尋問を受けている。尋問に際して、「帝国の安危存亡に関わる問題については話をしない、といいつつも、沖縄作戦については存分に話した。その話に虚偽があるとは思えない。八原の話で注意すべき事は、首里の安全な洞窟陣地から観た沖縄作戦であり、細部では、前線兵士と話が食い違うことである」とキーン中尉は述べている。《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版 (2015年) 34頁》・首里市大名出身25歳女性の証言
主人が死んでからは死にたい、死にたいとその事ばかり考えていました。ふと気がつくと私も相当やられているし、抱いている子供の頭から背中から全身血でまっ赤になっていたので子供もやられたと思い、調べて見てもどこといってけがもしてなくて、私の頭から流れた血でした。子供を殺して私達も死のうといって私の母も手にしたカマを、首のところまで持ってきていました。…
作業に行く時は班長として「赤帽」と呼ばれていた私達のめんどうをみてくれる人が一緒でしたが、アメリカ兵が女達をおいかけまわして大変でした。私達は顔にすみや泥をぬっていてもごまかせずに海にいても畑にいてもおいかけてくるので一人では何も行動しませんでした。班長といっても、捕虜の身ですから何も出来ないので、金や物で女達を自由にしようとするアメリカ兵におびえ通しでした。私達の身を守る為についてくれる男はせいぜい一~二人でしたから、どうにもならず、棒をブンブンふっては逃げるよりしかたありませんでした。
その時分でしたが玉城村でいもほり作業をしていた主婦が、黒人兵につかまえられたのを助けようとした人が、その黒人兵に射殺されるという事件がおきていました。沖縄の女性は何か月もの長い間、爆弾の恐怖から逃げ回りやっとの思いで解放されたら今度はアメリカ兵から身をまもるのに必死にならなくてはならず、本当に苦労の連続でした。…
もうメイドをしてからでも何十年になりますが、今では娘も結婚して孫まであるし、毎日が楽しく、幸せだと思っていますが、(ブログ註=本土復帰後) 自術隊が沖縄に入って来ていていろいろの話を聞いたりすると、やはりあの悲惨な思い出がよみがえって来て不安になります。「あの戦争だって本土をまもる為にとこの小さな沖縄に兵隊が一杯入ってきて、その為にあんなにも激しい戦いになったのですから、そしてこの私だって戦争さえなかったら主人と不自由なく暮せただろうし、ケガもする事なく又あんなにみじめな思いをしたり見たりする事もなかったのにと自分をふり返ってみるといつも、戦争の一番の被害者は女だと思っているのです。<沖縄戦証言 首里 (2) – Battle of Okinawa>
1950年 – 広島県佐伯郡にある長島の近くで漁船が操業していたところ、付近に浮遊していた大型磁気機雷が爆発。漁船4隻が大破、2隻が損壊。死者・行方不明者46人[2]。
1953年 – 東京・新橋のバー『メッカ』の天井裏からしたたり落ちてきた血がきっかけとなり、証券ブローカーの刺殺体が発見される(バー・メッカ殺人事件)。
概要
1953年7月27日、営業中の東京・新橋のバー・メッカの天井から血が滴り落ちてきて騒ぎになる。屋根裏を調べると証券ブローカー(当時40歳)の撲殺された遺体が発見され、現金41万円が奪われていることが判明した。
犯人として元証券会社社員だった正田昭(当時24歳)とボーイB(当時20歳)、Bの仲間C(当時22歳)の計3人が浮上。警察は正田を主犯として3人を全国指名手配にする。7月29日Cが出頭、8月4日にBが出頭した。警察は残る正田を追い、10月12日、京都で正田を逮捕。
正田は当初は「ただナット・ギルティ(無罪)を主張するだけです」と英語交じりに語っていたが、犯行を自供。犯行の動機は「義理のある人から預かった株券を無断で売却処分してしまい、その金を返したい一念でやった」と語った。
正田は女遊びや麻雀、ダンスと浪費癖が激しかったことから、マスコミはアプレゲール犯罪として取り上げる。
1956年(昭和31年)、東京地裁は正田に死刑、Bに懲役10年、Cに懲役5年を言い渡した。BとCは判決を受け入れた一方、正田は控訴した。1960年(昭和35年)に東京高裁控訴棄却、1963年(昭和38年)に上告棄却で死刑が確定した。その一方で、正田は獄中で小説を書くようになる。
上記の判決が下された理由は、犯行自体の悪質性に加え、主犯とされた正田が被害者及びその遺族に対して一切の謝罪を行わなかったことが、検察官や裁判官らの心象を悪くしたことも影響したとされる[1]。
1969年(昭和44年)12月9日、東京拘置所において正田に死刑が執行された。享年40。
1989年 – 大韓航空803便着陸失敗事故。大韓航空機がリビア・トリポリ国際空港の手前の住宅地に墜落。乗員乗客199名のうち74名と地元住民6名が死亡。
2002年 – リヴィウ航空ショー墜落事故。地上での死者数 77 地上での負傷者数 543
リヴィウ航空ショー墜落事故は、2002年7月27日にウクライナのリヴィウにあるスクヌィーリウ空軍基地(リヴィウ国際空港)で行われていたウクライナ空軍の航空ショーで発生した墜落事故。
77人が死亡、543人が負傷し、航空ショーにおいて発生した事故としては、1988年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)のラムシュタイン空軍基地で発生したラムシュタイン航空ショー墜落事故(空中衝突事故でパイロット3人を含む死者70名に重傷者346人、ほか軽傷者多数の大惨事となった)を上回る航空ショー史上最悪の惨事となった。
チャットgpt先生の7月27日のエッセイ
7月27日――境界線が引き直される日
7月27日を眺めると、一つの共通した構造が浮かび上がる。それは「境界線の変更」である。
1549年、フランシスコ・ザビエルの船が鹿児島沖に到達した。日本にとって重要なのは一人の宣教師が来たことではない。海が防壁ではなく通路になったという事実である。思想は武器や商品と同じく、海を越えて入ってくることが証明された日だった。
1656年、スピノザは共同体から破門された。これは宗教上の事件というより、共同体が「内」と「外」を定義し直す作業だった。共同体は自由な思想そのものを恐れるのではない。共同体の存続を揺るがす存在を排除することで、自らの輪郭を維持しようとする。破門とは、思想への反論ではなく所属資格の剥奪である。
1890年、ゴッホは自ら命を絶とうとし、二日後に亡くなる。生前ほとんど評価されなかった画家は、死後に芸術史の中心人物となった。評価とは作品だけで決まるものではない。社会の側が見る目を変えた時、価値は一変する。価値とは固定されたものではなく、市場や文化が後から再構成する情報でもある。
1916年の布哇丸では、一人の感染者が船全体を隔離へ導いた。近代国家は病人個人ではなく、感染経路全体を管理対象にする。検疫とは個人を診る制度ではない。ネットワークを遮断する制度である。現代のパンデミック対策にも通じる発想が、すでにそこに現れている。
1945年の沖縄戦後もまた境界線の話である。戦闘は終わっても、人々は占領者と被占領者、捕虜と管理者という新しい秩序へ組み込まれた。尋問、収容所、労働、生活再建。そのどれもが「戦後」という言葉より現実的だった。戦争は戦闘終了で終わるのではなく、支配構造が切り替わることで次の段階へ移る。
同じ時期のハワイの日系人収容も同様である。国家は個人の行為ではなく属性で分類する。安全保障が最優先となれば、自由や権利は後順位へ退く。これは特定の国家だけの性質ではなく、多くの国家が非常時に見せる行動様式である。
1950年の磁気機雷事故は、「戦争の終わり」と「危険の終わり」が一致しないことを示している。兵器は講和条約を知らない。残された爆発物は平時の漁民を襲い、戦争のコストは何年も民間社会へ残留する。
1953年のバー・メッカ殺人事件では、一滴の血が屋根裏の死体へ警察を導いた。犯罪捜査は劇的な名推理より、小さな異常の積み重ねから始まる。完全犯罪が難しい理由は、犯人が大きな証拠ではなく、小さな矛盾を制御できないからである。
1989年の大韓航空803便事故、2002年のリヴィウ航空ショー墜落事故は、ともに高度な技術が一瞬で災害へ転化する現実を示す。航空機は極めて高い安全性を持つが、その安全性は多数の条件が同時に満たされることで成立している。一つの判断、一つの操作、一つの環境要因が重なれば、大規模事故へ連鎖する。技術は万能ではなく、複雑系である。
こうして7月27日を並べると、歴史は英雄や悪人ではなく「構造」が動かしていることが見えてくる。
海は境界を越え、共同体は境界を引き、国家は境界を管理し、戦争は境界を書き換え、病気は境界を封鎖し、事故は安全と危険の境界を崩す。
人間は出来事の主人公であるように見える。しかし実際には、制度、市場、国家、共同体、技術といった大きな構造の中で行動している場合が多い。一人の宣教師、一人の哲学者、一人の画家、一人の患者、一人の兵士。それぞれの人生は異なるが、歴史に刻まれる理由は、彼ら個人よりも「時代の構造変化」がそこへ集中して現れたからである。
7月27日は、そのことを静かに教えている日である。歴史は事件の集合ではない。境界線がどのように引き直され、そのたびに社会の仕組みがどう組み替えられたかという、構造変化の記録なのである。

