kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日7月25日 1894日清戦争勃発豊島海戦、ほか写真wikipedia小林清親画

7月25日

20260725土曜日旧暦6月12日大安(37番庚子かのえねコウシ)月齢 10.7位

43番丙午ひのえうま年 32番乙未きのとひつじ月 37番庚子かのえね日

吉方位 隠遁日 庚子かのえね日 東 南東 大吉 年末まであと159日

https://ja.wikipedia.org/wiki/7%E6%9C%8825%E6%97%A5

7月25日の出来事        

306年-「大帝」コンスタンティヌス1世、ローマ皇帝に即位。

1261年 – ニカイア帝国がラテン帝国からコンスタンティノポリスを奪回し、東ローマ帝国が復活。 

1883年 – 前右大臣・岩倉具視の葬儀を日本初の国葬として実施。

1894年 – 日清戦争:豊島沖海戦。朝鮮半島の豊島沖で日本軍と清軍による海戦が行われる。日清戦争の始まり。日本死傷なし。清国 巡洋艦等2隻沈没 商船1隻沈没 

戦死者1100名

1908年 – 池田菊苗が「グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法(後の味の素)」の特許を取得[1]。

1933年 – 山形市で気温摂氏40.8度の最高気温を記録。2007年に更新されるまで長らく日本の最高気温記録となる。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲:保戸島空襲が行われる。児童124人死亡教師1死亡—大分県保土島国民学校の悲劇

1945年-沖縄戦7月25日・1945年4月。沖縄に上陸したアメリカ軍が侵攻を続けていたころ、第33代アメリカ大統領に就任したトルーマン。それから3カ月後の7月。生き残った人々が収容所で混乱した生活をおくるなか、アメリカ本国ではある計画がトルーマン大統領を中心に進められていました。… 7月21日、トルーマン大統領はアメリカが4年の研究の末、開発した新兵器・原子爆弾を日本に投下することを許可します。軍への投下命令は極秘の内、25日に下されました。「戦争を早く終結させ兵士たちの命を守る」という名目のもと、アメリカが取った恐ろしい選択を、そのとき沖縄の人々もアメリカ兵たちも知る由もありませんでした。<65年前のきょうは1945年7月22日(日) – QAB NEWS Headline>・沖縄陸軍病院の第3外科で軍医見習士官として務めた長田紀春さん証言

捕虜の病院から解放されて石川地区病院に赴任した私は、毎朝病院の前に列をなして受診を待つ多数の患者の数とその姿に、敗戦の民の悲哀さを見たが、また患っている感染症の種類の多さに一驚した。肺炎やマラリア、赤痢、結核などの新患が毎日来るし、今では珍しい疫痢(激症赤痢)やジフテリア、日本脳炎が流行して死亡者を出した。そしていつの時代でも、真っ先に犠牲になる老人や子供が、危険な戦争から幸福にも逃れて来たのに、無念にも亡くなられるのを多数見たのである。 <長田紀春「米軍医療と沖縄の医療」 – Battle of Okinawa>・… 本部 (本部半島) では早い時期から米兵によるレイプなどの性犯罪がおこなわれていた。それらは海兵隊員によるものだった。後の時期になると補充要員としてやってきた兵士の質が悪かったというような言い訳もあるが、すでに沖縄戦の最初の段階から海兵隊員によって犯罪がなされている。

米軍の憲兵隊では、島にたくさんの女性がいたので、軍政地域から部隊を引き離そうとする努力はおこなったようだ。比較的少数のケースであるがレイプをされたという訴えがあり、いくつかのケースが捜査されたという(Action Report, 11-XXII-6)。しかし、6月30日までに検挙された人数はレイプが12件前後、レイプ(男色)が5件前後にすぎず、実際におきた事件のほんの一握りにすぎない(この数字はグラフから読み取った数字なので概数である、11-XXII-17)。

米軍の慰安所が設けられたところもあった。本部(もとぶ)の仲宗根で日本軍用の慰安所を経営していた人が区長に相談し、米軍の許可を得て、「S屋」慰安所を開設した。女性は5、6人で、アメリカ兵が行列をつくっていたという。この慰安所は数週間後にはなくなったという(宮里真厚『少国民のたたかい 乙羽岳燃ゆ』105〜107頁)。

これ以外にも、日本軍の慰安婦だった朝鮮人女性を住民から引き離して米兵の性的な相手をさせた例がいくつかあったようだ(『第二次世界大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告書』13、18頁)。

辻の遊郭で働き、その後日本軍慰安婦になったジュリたち12人が、南部で米軍に捕まるが、そのとき3人が米兵に連れて行かれてレイプされた(川田文子『戦争と性』170頁)。

米兵の犯罪に関して、米海軍艦隊の第9軍事警察大隊が45年12月10日から沖縄での警察活動に従事した。この部隊は多いときには727人のスタッフがいた。46年5月25日に任務を終えて、責任を別の軍事警察部隊に代わるが、その間、検挙あるいは捜査した米軍人軍属の数は1754人、うち「沖縄女性に対するレイプならびにレイプ未遂」で逮捕した者30人(件)である。この数字は氷山の一角にすぎないだろう(Report of Military Government Activities from 1 April 1945 to 1 July 1946, p72.)。

軍政府の公安局長を務めたポール・スキューズ Paul Skuse のファイル資料には、こうした関係のものが含まれている(ポール・スキューズ文書、沖縄県公文書館所蔵)。45年11月29日に、少女を拉致した黒人を追跡した警官が射殺された事件がおきている。《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 362-363頁より》・あっちこっちでそれに似たような事件はたびたびあって、若い娘が外に出ると、すぐつれて行かれました。つれて行かれた後、どうなったか、ほとんど判りません。どうなったことか。帰ってこない娘もいます。その頃はもう、桃がなっていましたけれど、桃を取るために木に登っていると、アメリカーは下でおりてくるのを待っているくらいでした。だから娘たちは、屋根裏に隠れていました。あとからは年寄りだけが出歩くようになっていました。私はいつも子供をおんぶして、狙われないよう気をつけていました。一か月二か月と経っと、言葉の少し通じる沖縄の中年男が、アメリカーから物資やら金を貰って、墓の中などで、女の人たちを説得させてアメリカーに替わるがわるやらせて、儲っているようでした。

それでも、夜など寝ているところへ、女はいないかと、尋ねてきていました。また、シード (北谷村の字勢頭) の人の二十歳になる娘が、昼間、もとの壕に親と一緒に荷物を取りに行った帰り、親の見ている前で、○○○○ー(黒人) に引張られて行ったそうです。その娘はそれっきり帰ってきませんので、多分死んだんだろうとみんな噂していました。

島袋には三か月以上古いて、毎日食糧探しをして、共同生活をしていました。食べることはなんとかできたのに、アメリカーのやることはどうにもできませんでした。いちどは、解剖の前に、強姦されて死んでいる若い娘が臥かされているのを、私は見ました。その傍には、母親らしい人が泣きくずれていました。私が見たのはほんの一例にすぎません。強姦事件は数えきれないほどあったんです。白人よりも黒人の方が多かったようです。*3

<沖縄戦証言 北谷町砂辺 – Battle of Okinawa>

1946年 – ビキニ環礁で史上5回目の核爆発。(クロスロード作戦)

1995年 – パリ市内の鉄道RERで武装イスラム集団(GIA)による爆弾テロ発生。死傷者60人以上。8月17日、8月26日にも発生する(en:1995 Paris Metro bombing)。

1998年 – 和歌山毒物カレー事件発生。死亡者 4人[3] 負傷者                                                63人[3]

2000年 – コンコルド墜落事故。死者109名(全員)。

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306年-「大帝」コンスタンティヌス1世、ローマ皇帝に即位。

ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス(古典ラテン語:Gaius Flavius Valerius Constantinus ガーイウス・フラーウィウス・ウァレリウス・コーンスタンティーヌス、270年代前半の2月27日-337年5月22日[1])は、ローマ帝国の皇帝(在位:306年-337年)。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムス(Maximus、偉大な/大帝)の称号を与えられた。

ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の1人であり、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会など、主要な宗派において聖人とされている。また、コンスタンティヌス1世が自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープル(現:イスタンブル)は、その後東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした。

クリスプス処刑とファウスタの変死

クリスプスのコイン

ファウスタ像

326年、コンスタンティヌス1世は妻ファウスタと息子のクリスプス(ファウスタの子ではない)を処刑した[92]。この謎の事件について知ることができることは限られている[93]。偉大な皇帝の家庭内で発生したこの事件は同時代の著作家たちに「注意深く無視」(ジョーンズ)されており、現代に残された記録は後世に書かれたゴシップのようなものばかりのためである[93]。はっきりしていることは、この年に充分にその能力を認められていた長子クリスプスが処刑され、その後間もなく皇后ファウスタが変死したことである(ある噂では浴場で窒息死したという)[93][92]。

残されたそうした噂の記録では、義理の息子クリスプスの人気に嫉妬したファウスタは、彼が自分との姦通を試みたとコンスタンティヌス1世に訴え出たためにクリスプスが処刑され、これに怒ったコンスタンティヌス1世の母ヘレナは、お気に入りの孫クリスプスの仇を討とうと、この醜聞で問題があったのはファウスタの方だとコンスタンティヌス1世に主張し、その結果としてファウスタも殺害されたのだという[93][92]。また、ファウスタが官吏との間で姦通したという噂も残されている[93]。

326年4月25日の勅法でコンスタンティヌス1世が姦通を告発する権利を夫に限るという手を加えていることや、あるいはソレントの碑文からファウスタとクリスプスの名前が削り取られていることなどの状況証拠が存在するため、現代の学者はこうしたゴシップめいた情報の史実性を完全に否定できるわけでもない[94][92][注釈 7]。

1261年 – ニカイア帝国がラテン帝国からコンスタンティノポリスを奪回し、東ローマ帝国が復活。 

1883年 – 前右大臣・岩倉具視の葬儀を日本初の国葬として実施。

12月25日、孝明天皇が天然痘により崩御。政治混乱期の突然の崩御であったため、この崩御には古くから毒殺説があり、岩倉が容疑者として疑われたが、真偽は不明[注釈 8](詳細は孝明天皇#崩御にまつわる疑惑と論争参照)。

慶応3年1月9日(1867年)、明治天皇が15歳にして即位。新帝即位に伴う大赦により1月15日及び25日に文久3年(1863年)の政変・禁門の変にかかわった者が赦免され、九条尚忠はこの際に赦免されたが、岩倉・久我・千種・富小路ら列参関係の公卿は赦免されず、11月に赦免された。なおこの間、10月14日に二条城で大政奉還が行われ、翌15日には二条斉敬から徳川慶喜に対して奉還の勅許が与えられ、公式には朝廷に政権が返上された。

孝明天皇毒殺説

孝明天皇は前述の通り悪性の痔(肛門脱)に長年悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の『中山忠能日記』にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)」との感想が記されている。なお、御所を警護していた江戸幕府による声明は無く、孝明天皇の没後に即位した明治天皇の摂政には、徳川慶喜の従兄弟である二条斉敬が就任した為、幕府上層部では毒殺説が唱えられることは無かった。

その後、明治維新を経て、皇室に関する疑惑やスキャンダルの公言はタブーとなり、学術的に孝明天皇の死因を論ずることも長く封印された。一方で、1909年(明治42年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇殺害をあげたり[注 6]、大正天皇・貞明皇后に仕えた元女官・坂東登女子が宮中でも孝明天皇殺害説が語られていたことを示唆する発言をしている[注 7]など、噂は消えずに流れ続けていた。また1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している[14]。ただし、堀河紀子は1862年(文久2年)には霊鑑寺に出家しており、孝明天皇が没した年には御所にいなかった。

第二次世界大戦後に、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、変死説が論壇に出てくるようになった。最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した歴史学者・禰津正志(ねずまさし)[注 8]である。禰津は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も戦前の佐伯説と同様に、岩倉首謀・堀河実行説を唱えた。

次いで1975年(昭和50年)から1977年(同52年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した伊良子光孝は、断定こそ避けているものの、禰津と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した[注 9]。

孝明天皇暗殺説を唱えるもののごく一部(鹿島曻など)はさらに睦仁親王暗殺説を唱えることがある。即ち明治天皇は睦仁親王に成り代わって即位した別人(大室寅之祐)であるという説である(天皇すり替え説を参照)。当初この論を主張した鹿島の説では、大室は南朝の末裔であるなどとし、いくつかの理由が示されたが、いずれも事実無根であり、学会では議論の対象にすらなっていない。現在、この説は陰謀論の一つとなっている。すり替え論の論議が進むと、鹿島のあずかり知らぬままに、根拠もなく大室は長州(山口県)の田布施地区出身であるなど唱えられ、この陰謀論は迷走を続けている。

1894年 – 日清戦争:豊島沖海戦。朝鮮半島の豊島沖で日本軍と清軍による海戦が行われる。日清戦争の始まり。日本死傷なし。清国 巡洋艦等2隻沈没 商船1隻沈没 

戦死者1100名

概要

1894年(明治27年)7月25日、日本艦隊と清国艦隊が、朝鮮半島西岸の牙山湾の入口に浮かぶ豊島(朝鮮語版、英語版)(現 京畿道安山市檀園区内)沖で戦った海戦。宣戦布告直前に双方の艦隊が遭遇して起き、大日本帝国海軍が圧勝した。

1908年 – 池田菊苗が「グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法(後の味の素)」の特許を取得[1]。

1933年 – 山形市で気温摂氏40.8度の最高気温を記録。2007年に更新されるまで長らく日本の最高気温記録となる。

1945年 – 第二次世界大戦・日本本土空襲:保戸島空襲が行われる。児童124人死亡教師1死亡—大分県保土島国民学校の悲劇

保戸島空襲(ほとじまくうしゅう)は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月25日午前10時頃、大分県北海部郡保戸島村(現・津久見市保戸島)に対して行われたアメリカ軍による空襲。

保戸島国民学校の悲劇

当時の保戸島には豊後水道を通って瀬戸内海へ侵入する連合国軍の潜水艦を阻むため、これを探知する海軍の施設(レーダー受信基地・潜水艦聴音施設・見張り所)が置かれていた。アメリカ軍の攻撃目標はこれらの軍事施設であり保戸島国民学校への爆撃は誤認とされる。なお、織田祐輔氏の研究によれば、空母「ベロー・ウッド」を発艦した第31戦闘飛行隊が悪天候のため、保戸島国民学校を佐賀関にあった銅製錬所と誤認して爆撃した可能性が指摘されている。

本空襲で、米海軍の艦上機であるグラマンF6F戦闘機が投下した3発の爆弾の1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)の西側校舎を直撃し、児童124人(1年生と5年生の全員と他学年生数名)・教師2人(高橋ミヨ子訓導、林シゲ子訓導)・幼児1人が即死し(死者数は田邉國光『忘れ得ぬ保戸島の惨劇』による)、75人の児童が重軽傷を負った。なお、資料によっては投下された爆弾は4発、死者 教師2,学童124,其の他1とされることもある[1]。

さらに戦闘機により児童に対し機銃掃射も加えられた[2]。現在、同校体育館入口には慰霊碑が建立され、毎年慰霊祭が執り行われている。

1945年-沖縄戦7月25日・1945年4月。沖縄に上陸したアメリカ軍が侵攻を続けていたころ、第33代アメリカ大統領に就任したトルーマン。それから3カ月後の7月。生き残った人々が収容所で混乱した生活をおくるなか、アメリカ本国ではある計画がトルーマン大統領を中心に進められていました。… 7月21日、トルーマン大統領はアメリカが4年の研究の末、開発した新兵器・原子爆弾を日本に投下することを許可します。軍への投下命令は極秘の内、25日に下されました。「戦争を早く終結させ兵士たちの命を守る」という名目のもと、アメリカが取った恐ろしい選択を、そのとき沖縄の人々もアメリカ兵たちも知る由もありませんでした。<65年前のきょうは1945年7月22日(日) – QAB NEWS Headline>・沖縄陸軍病院の第3外科で軍医見習士官として務めた長田紀春さん証言

捕虜の病院から解放されて石川地区病院に赴任した私は、毎朝病院の前に列をなして受診を待つ多数の患者の数とその姿に、敗戦の民の悲哀さを見たが、また患っている感染症の種類の多さに一驚した。肺炎やマラリア、赤痢、結核などの新患が毎日来るし、今では珍しい疫痢(激症赤痢)やジフテリア、日本脳炎が流行して死亡者を出した。そしていつの時代でも、真っ先に犠牲になる老人や子供が、危険な戦争から幸福にも逃れて来たのに、無念にも亡くなられるのを多数見たのである。 <長田紀春「米軍医療と沖縄の医療」 – Battle of Okinawa>・… 本部 (本部半島) では早い時期から米兵によるレイプなどの性犯罪がおこなわれていた。それらは海兵隊員によるものだった。後の時期になると補充要員としてやってきた兵士の質が悪かったというような言い訳もあるが、すでに沖縄戦の最初の段階から海兵隊員によって犯罪がなされている。

米軍の憲兵隊では、島にたくさんの女性がいたので、軍政地域から部隊を引き離そうとする努力はおこなったようだ。比較的少数のケースであるがレイプをされたという訴えがあり、いくつかのケースが捜査されたという(Action Report, 11-XXII-6)。しかし、6月30日までに検挙された人数はレイプが12件前後、レイプ(男色)が5件前後にすぎず、実際におきた事件のほんの一握りにすぎない(この数字はグラフから読み取った数字なので概数である、11-XXII-17)。

米軍の慰安所が設けられたところもあった。本部(もとぶ)の仲宗根で日本軍用の慰安所を経営していた人が区長に相談し、米軍の許可を得て、「S屋」慰安所を開設した。女性は5、6人で、アメリカ兵が行列をつくっていたという。この慰安所は数週間後にはなくなったという(宮里真厚『少国民のたたかい 乙羽岳燃ゆ』105〜107頁)。

これ以外にも、日本軍の慰安婦だった朝鮮人女性を住民から引き離して米兵の性的な相手をさせた例がいくつかあったようだ(『第二次世界大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告書』13、18頁)。

辻の遊郭で働き、その後日本軍慰安婦になったジュリたち12人が、南部で米軍に捕まるが、そのとき3人が米兵に連れて行かれてレイプされた(川田文子『戦争と性』170頁)。

米兵の犯罪に関して、米海軍艦隊の第9軍事警察大隊が45年12月10日から沖縄での警察活動に従事した。この部隊は多いときには727人のスタッフがいた。46年5月25日に任務を終えて、責任を別の軍事警察部隊に代わるが、その間、検挙あるいは捜査した米軍人軍属の数は1754人、うち「沖縄女性に対するレイプならびにレイプ未遂」で逮捕した者30人(件)である。この数字は氷山の一角にすぎないだろう(Report of Military Government Activities from 1 April 1945 to 1 July 1946, p72.)。

軍政府の公安局長を務めたポール・スキューズ Paul Skuse のファイル資料には、こうした関係のものが含まれている(ポール・スキューズ文書、沖縄県公文書館所蔵)。45年11月29日に、少女を拉致した黒人を追跡した警官が射殺された事件がおきている。《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 362-363頁より》・あっちこっちでそれに似たような事件はたびたびあって、若い娘が外に出ると、すぐつれて行かれました。つれて行かれた後、どうなったか、ほとんど判りません。どうなったことか。帰ってこない娘もいます。その頃はもう、桃がなっていましたけれど、桃を取るために木に登っていると、アメリカーは下でおりてくるのを待っているくらいでした。だから娘たちは、屋根裏に隠れていました。あとからは年寄りだけが出歩くようになっていました。私はいつも子供をおんぶして、狙われないよう気をつけていました。一か月二か月と経っと、言葉の少し通じる沖縄の中年男が、アメリカーから物資やら金を貰って、墓の中などで、女の人たちを説得させてアメリカーに替わるがわるやらせて、儲っているようでした。

それでも、夜など寝ているところへ、女はいないかと、尋ねてきていました。また、シード (北谷村の字勢頭) の人の二十歳になる娘が、昼間、もとの壕に親と一緒に荷物を取りに行った帰り、親の見ている前で、○○○○ー(黒人) に引張られて行ったそうです。その娘はそれっきり帰ってきませんので、多分死んだんだろうとみんな噂していました。

島袋には三か月以上古いて、毎日食糧探しをして、共同生活をしていました。食べることはなんとかできたのに、アメリカーのやることはどうにもできませんでした。いちどは、解剖の前に、強姦されて死んでいる若い娘が臥かされているのを、私は見ました。その傍には、母親らしい人が泣きくずれていました。私が見たのはほんの一例にすぎません。強姦事件は数えきれないほどあったんです。白人よりも黒人の方が多かったようです。*3

<沖縄戦証言 北谷町砂辺 – Battle of Okinawa>

1946年 – ビキニ環礁で史上5回目の核爆発。(クロスロード作戦

1946年7月1日のエイブル実験では、核爆弾を高度158m、7月25日のベーカー実験では水深27mの海中で爆発させている。3番目としてチャーリー実験(Charlie)が予定されていたが、ベーカー実験において生じた放射能が予想よりも激しかったため中止された。クロスロード作戦は1945年7月のトリニティ実験、8月の広島、長崎に続く史上4番目と5番目の核爆発である。またマーシャル諸島で行われた、および事前に実施通告がなされた最初の核実験であった。なお本作戦の後には、1948年にサンドストーン作戦が実施されている。

1995年 – パリ市内の鉄道RERで武装イスラム集団(GIA)による爆弾テロ発生。死傷者60人以上。8月17日、8月26日にも発生する(en:1995 Paris Metro bombing)。

1998年 – 和歌山毒物カレー事件発生。死亡者 4人[3] 負傷者                                                63人[3]

事件の概要

本事件は、1998年(平成10年)7月25日夕方に和歌山県和歌山市園部地区で開催された夏祭り[注 1]において、提供されたカレーライスに毒物が混入されていたことから、67人が急性ヒ素中毒となり、うち4人が死亡した毒物混入・無差別殺傷事件である[注 2][15]。

現場の近所に住んでいた主婦の林 眞須美(以下「眞須美」という)が被疑者として逮捕され、カレー毒物混入事件・保険金殺人未遂事件・保険金詐欺事件の合計9件で起訴された[4]。被告人となった眞須美は刑事裁判で無罪を訴えたが、第一審の和歌山地裁で死刑判決を受け[16]、控訴・上告も棄却されたため[17][18]、2009年(平成21年)5月19日に最高裁判所で死刑が確定[9][10]、眞須美は戦後日本で11人目の女性死刑囚となった[19]。2020年(令和2年)9月27日時点で[20]、眞須美は死刑囚(死刑確定者)として大阪拘置所に収監されている[21]。冤罪の可能性を指摘する声もあり、眞須美は事件から25年となる2023年(令和5年)7月時点で第2次再審請求中である(詳細は後述)[22]。

地域の夏祭りでの毒物混入事件であり、不特定多数の住民らを殺傷するという残忍性、当初の「集団食中毒」から、「青酸化合物混入[注 3]」、「ヒ素混入」と原因の見立てや報道が二転三転したこと、住民らの疑心暗鬼や犯人に関する密告合戦、さらには住民の数を上回るマスメディア関係者が2か月以上も居座り続けるという異常な報道態勢などが連日伝えられた[23]。

2000年 – コンコルド墜落事故。死者109名(全員)。

コンコルド墜落事故(コンコルドついらくじこ)、ないしエールフランス4590便墜落事故(エールフランス4590びんついらくじこ、英:Air France Flight 4590)とは、2000年7月25日に発生した航空事故[1][2][3]。

当時世界で唯一運航されていた商業用超音速旅客機「コンコルド」で運行されていたエールフランスのチャーター便が、離陸直後にエンジン火災を起こして墜落した事故である[1]。コンコルドの人身死亡事故としては唯一の事例であるが、安全性に重大な疑念が生じたため当局により耐空証明が取り消され、コンコルドはこれ以降長期にわたり運航停止となった[4]。コンコルドは2001年11月7日に運行の再開が認められたが、直前に発生したアメリカ同時多発テロによる世界的な航空不況に加え、元々高コストな割に収益性が低い機体であったため、2003年10月までにコンコルドは退役し、これが最初にして最後の墜落事故となった。

また、2000年にはエールフランスを含む4社が航空連合スカイチームを創立しており、この事故はスカイチームの歴史上、初めての死亡事故となった[要出典]。

チャットgpt先生の7月25日のエッセイ

7月25日を、道徳的評価ではなく「国家・技術・権力・戦争」という構造で俯瞰すると、共通して現れるのは**「転換点における不可逆性」**です。

7月25日総評 ― 「不可逆な転換を決定する日」

7月25日に並ぶ出来事を俯瞰すると、偶然の年代の羅列ではなく、一つの共通構造が見えてくる。

それは、「技術・政治・軍事・制度が臨界点を超え、以後は元へ戻れなくなる日」である。

306年、コンスタンティヌスの即位は、一人の皇帝の誕生ではなく、ローマ帝国の政治秩序と宗教秩序を再編する出発点となった。帝国は軍事力だけでは維持できず、理念による統合へと舵を切る契機となる。

1261年のコンスタンティノープル奪回も同様である。都市を取り戻したこと自体より、「正統性」を奪還したことに意味があった。国家は領土だけでなく、正統性によって維持されることを示す歴史的事例である。

1894年の豊島沖海戦は、宣戦布告に先立って実質的な戦争が始まったことを象徴する。外交は軍事行動の追認となり、近代国家における「政治が戦争を開始する」のではなく、「軍事的既成事実が政治を拘束する」という構造を示した。

1945年7月25日は、その構造が極限に達する日である。沖縄では戦闘そのものは終息段階に入りつつあったが、軍政・収容・掃討・衛生管理という占領体制への移行が本格化していた。一方、同日に原子爆弾投下命令が下達され、戦争は「都市を占領する時代」から「一撃で国家意思を破壊する時代」へと移行した。沖縄戦そのものも、米軍にとって予想以上の損耗を強いられた戦役であり、その経験は本土侵攻や戦争終結の意思決定に影響を与えたと考えられているが、原爆投下の決定を沖縄戦のみで説明することはできず、複数の軍事・政治要因を総合して理解する必要がある。

1946年のビキニ環礁核実験は、核兵器が「戦争を終わらせる兵器」から「平時に保有・実験・抑止される兵器」へ変質したことを示す。核は戦術ではなく、国際政治そのものを規定する存在となった。

保戸島空襲は、近代航空戦が標的識別の限界を抱えながら実施され、軍事目標と民間被害を完全には分離できなかった現実を示している。総力戦では、前線と後方の境界は急速に失われる。

1908年の池田菊苗によるグルタミン酸調味料特許は、一見戦争史とは無関係に見える。しかしこれは、日本が天然資源ではなく知識・化学・特許によって競争力を獲得する国家へ向かう象徴でもあった。技術は軍事にも民生にも転用され、近代国家の基盤を形成する。

こうして7月25日を眺めると、この日は単なる「出来事の日」ではない。国家が新たな秩序を選び、技術が社会を変え、軍事が政治を拘束し、一度始まった流れが容易には元へ戻らない「不可逆な転換点」の集積として歴史に現れている。

7月25日の歴史は、「決定そのもの」よりも、「その決定が後の世界をどのような構造へ固定したか」を読み解く日に値するのである。

まあ この前後のgptの記述はおそろしく一般論に傾き始めてますね。オモシロいほどです。