2月20日
20260220金曜日旧暦1月4日仏滅(乙丑きのとうしイッチュウ)月齢 2.6
丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 乙丑きのとうし日 年末まであと314日
吉方位 陽遁日 乙丑きのとうし日
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2月20日の出来事
1564年(永禄7年1月8日) – 第二次国府台合戦で北条氏が里見氏を破る。
1582年(天正10年1月28日) – 天正遣欧少年使節が長崎港を出港。
1862年 – 南北戦争: ヴァルヴァードの戦い。
年月日:1862年2月20日 – 2月21日
場所:ニューメキシコ準州ヴァルヴァード
結果:南軍の勝利
損害:北軍 3000人中202人死傷 南軍2500人中187人死傷
1933年 – 築地署事件: プロレタリア作家・小林多喜二が特高警察の拷問により築地警察署で死亡[4]。
1949年 – 第一次能代大火: 秋田県能代市でストーブの残火の不始末が原因とする大火事が発生。死者3人、負傷者874人、住家1,296戸、非住家942棟を全焼する被害[6]。
1968年 – 金嬉老事件: 金嬉老が借金返済を求めた暴力団員2人を射殺。翌日、寸又峡の温泉旅館で経営者、宿泊客ら13人を人質に籠城した。2月24日、金は記者に変装した警察官に取り押さえられ、逮捕された。
2020年 – 新型コロナウイルスの集団感染が発生しているクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の乗客で、80代の日本人の男女2人が死亡した。同船での死者は初めて[14]。
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1564年(永禄7年1月8日) – 第二次国府台合戦で北条氏が里見氏を破る。
第二次国府台合戦(永禄6年・永禄7年/1563年・1564年)
158背景と経緯
第一次合戦後、国府台は千葉氏の重臣小金城主高城胤吉の所領になった。千葉氏が北条氏の傘下に入るとともに同地も事実上北条領となる。
永禄6年(1563年)、北条氏康と武田信玄が上杉謙信方の武蔵松山城を攻撃した際、謙信の要請を受けた里見義堯が嫡男義弘を救援に向かわせた際に、国府台でこれを阻止しようとする北条軍と衝突したとされる(後世この戦いが翌年のものと混同され、まとめて「第二次合戦」とされてしまっている)。この際は、里見軍が上杉派の太田資正らの支援を受けて武蔵には入ったものの、松山城が陥落したため両軍とも撤退している。
1582年(天正10年1月28日) – 天正遣欧少年使節が長崎港を出港。
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は、1582年(天正10年)にキリシタン大名である大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信らの名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団である。天正遣欧使節、天正少年使節とも呼ぶ。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した。
使節
伊東マンショ(主席正使) – 大友義鎮(宗麟)の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
千々石ミゲル(正使) – 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教。
中浦ジュリアン(副使) – 後年、司祭に叙階。1568年2月8日ころ(永禄11年正月)に肥前国中浦城主小佐々純吉の息子・小佐々甚吾として生誕。1633年、長崎で穴吊るしの刑により殉教。2008年、ローマ教皇により福者に列せられる。
原マルティノ(副使) – 後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。
千々和ミゲル
1590年、日本に戻ってきた彼らは翌1591年、聚楽第で豊臣秀吉に拝謁、秀吉は彼らに仕官を勧めたが、一様に神学の道を志してそれを断った。司祭叙階を受けるべく天草にあった修練院に入り、コレジオに進んで勉学を続け、1593年7月25日、他の3人とともにイエズス会に入会した。だがミゲルは次第に神学への熱意を失ってか勉学が振るわなくなり、また元より病弱であったために司祭教育の前提であったマカオ留学への出発も延期を続けるなど、次第に教会と距離を取り始めていた。欧州見聞の際にキリスト教徒による奴隷制度を目の当たりにして不快感を表明するなど、欧州滞在時点でキリスト教への疑問を感じていた様子も見られている。
棄教後
1601年、キリスト教の棄教を宣言し、イエズス会から除名処分を受ける。棄教と同時に洗礼名を捨てて千々石清左衛門と名を改め、伯父の後を継いだ従兄弟の大村喜前が大村藩を立藩すると藩士として召し出される。大村藩からは伊木力(現在の諫早市多良見地区の一部)に600石の領地を与えられる。
ミゲルは棄教を検討していた大村喜前の前で公然と「日本におけるキリスト教布教は異国の侵入を目的としたものである」と述べ、主君の棄教を後押ししている。また藩士としても大村領内での布教を求めたドミニコ会の提案を却下し、さらに領民に「修道士はイベリア半島では尊敬されていない」と伝道を信じないように諭したという。イエズス会の日本管区区長に推挙された原マルティノやマカオへ派遣された伊東マンショと中浦ジュリアンらが教会への忠誠を続ける中、共に欧州でキリスト教の本山を見聞きして来たミゲルが反キリストに転じたことは宣教師達の威信を失わせた。
ところが、喜前が治める大村藩内はバテレン追放令後も布教が盛んであったため、この方針はキリシタン派の反発を招き「大敵は喜前、その根源は清左衛門(ミゲル)」とされた。喜前はミゲルを藩政から遠ざけさせただけでなく、この騒動の鎮静化を図るために見せしめ的に処罰した。さらに島原の日野江藩に身を寄せるも、本家筋として肥前有馬氏を継いでいたもう一人の従兄弟で、やはりキリシタン大名であった有馬晴信の遺臣に瀕死の重傷を負わされる暗殺未遂が起きるなど、親キリシタン派からも裏切り者として命を狙われ、長崎へ移り住むに至る[1]。晩年については現在も謎に包まれているが、2003年に自らの領地であった伊木力で子息の千々石玄蕃による墓所と思われる石碑が発見されている(詳細後述)。
伊木力の伝承では、大村喜前に対する恨みを弔うため、伊木力から大村藩の方を睨むようにして葬られたという[要出典]。
1862年 – 南北戦争: ヴァルヴァードの戦い。
年月日:1862年2月20日 – 2月21日
場所:ニューメキシコ準州ヴァルヴァード
結果:南軍の勝利
損害:北軍 3000人中202人死傷 南軍2500人中187人死傷
1933年 – 築地署事件: プロレタリア作家・小林多喜二が特高警察の拷問により築地警察署で死亡[4]。
小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年(明治36年)12月1日[注釈 1] – 1933年(昭和8年)2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な小説家、共産主義者、社会主義者、政治運動家。日本プロレタリア作家同盟書記長。日本共産党党員。
4歳のとき、一家で北海道の小樽に移住、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に学ぶ。小樽で銀行に勤めてから、葉山嘉樹、ゴーリキーなどの作品を通じてプロレタリア作家の自覚を持ち、小樽の労働運動にも関わり始めた。
1928年、共産党関係者大検挙(三・一五事件)の小樽を題材にした『一九二八年三月十五日』をプロレタリア文学の機関誌「戦旗」に載せ、翌年には『蟹工船』を発表して評価を得た。また、大農場の小作人と小樽の労働者の共同闘争を描いた『不在地主』(1929年)が原因で銀行を解雇された。その後は投獄と保釈をくりかえし、1931年、非合法の共産党に正式に入党。しかし1933年、警察に逮捕・虐殺された。
知人の語る小林の死体の状況
「前歯は折れてる、首には細引きの跡、左のコメカミにはね、何でなぐったか十円硬貨ぐらいの傷あとがある。それから裸にしたところがね、身体中傷だらけで、オマケに腹の下から腿全体が紫色にふくれあがって、それがね、ふつうの人間の倍くらいあるんですよ。よく見ると、その両腿もには、釘か錐を打ちこんだような穴の跡が十五、六もあって、そこは皮が破けて青黒い肉がむきだしているんですよ。それで立会いの安田徳太郎博士が『これでは腸も膀胱も破けてますよ。腹の中は出血でいっぱいでしょう』と言ったんです。で、睾丸も、陰茎もね、普通の人の三倍くらい脹れあがって、やっぱり内出血で紫色になってるんです。指もね、人差し指が逆にヘシ折られてね、指の背中が手の甲へつくんですよ。」[14][15](他にも、作家の手塚英孝が『小林多喜二』に多くの築地署留置場での目撃者や遺体を見た者らの証言を詳細に記録、作家の手塚英孝が『小林多喜二』に遺体の凄惨さを描写詳細に記録している[16]。)
周りの者が着物を着せてから、母・セキが出てきた。セキは多喜二の遺体を抱きしめて、「息子は心臓がよかった、心臓マヒで死んだなんてウソだ[14]」「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか」と叫んだ[17]。
1949年 – 第一次能代大火: 秋田県能代市でストーブの残火の不始末が原因とする大火事が発生。死者3人、負傷者874人、住家1,296戸、非住家942棟を全焼する被害[6]。
1968年 – 金嬉老事件: 金嬉老が借金返済を求めた暴力団員2人を射殺。翌日、寸又峡の温泉旅館で経営者、宿泊客ら13人を人質に籠城した。2月24日、金は記者に変装した警察官に取り押さえられ、逮捕された。
2020年 – 新型コロナウイルスの集団感染が発生しているクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」の乗客で、80代の日本人の男女2人が死亡した。同船での死者は初めて[14]。
チャットgpt先生の2月20日のエッセイ
2月20日――出発と断絶のあいだで
2月20日は、歴史の中で何度も「境目」として現れる日だ。勝敗が決し、信仰が揺らぎ、思想が踏みにじられ、そして人が死ぬ。だが同時に、遠くへ向かう船が港を離れ、新しい世界を見ようとする意志もまた、この日に刻まれている。
1564年、国府台の地で北条氏は里見氏を破った。関東の覇権をめぐる戦いは、単なる一戦の勝利にとどまらず、誰が土地を支配し、誰が歴史を語る側に立つのかを決定づけた。戦国の合戦は常にそうだ。武勇の物語として語り直される一方で、名も残らぬ人々の生活や恐怖は、地層の奥に埋もれていく。
1582年の2月20日、長崎港を出港した天正遣欧少年使節は、まったく別の意味で「境界」を越えた。彼らは日本という世界の端から、当時のグローバルな権威の中心であるローマへ向かった。異文化への好奇心、信仰への希望、そして大人たちの政治的思惑を背負わされながら。
だが、その旅の結末は一様ではなかった。伊東マンショや中浦ジュリアンが信仰に殉じた一方で、千々石ミゲルは信仰から離れ、キリスト教そのものを批判する側へ回った。世界を見たからこそ、信じられなくなった人間がいたという事実は重い。理想は、現実を知った瞬間に必ずしも強化されるとは限らない。
1862年、アメリカではヴァルヴァードの戦いが起きている。奴隷制をめぐる南北戦争の一局面だ。数字で見れば、死傷者は数百人にすぎないかもしれない。しかしその背後には、「人は人を所有してよいのか」という問いがある。この問いは、銃声が止んだあとも、形を変えて今なお続いている。
1933年の2月20日、小林多喜二は築地署で殺された。拷問によって。国家が思想を恐れ、言葉を暴力で封じようとした結果だった。彼の身体に残された痕跡は、単なる個人の死を超えて、近代日本が抱えた暗部そのものを告発している。母が叫んだ「ウソだ」という言葉は、事実よりも深い真実を突いている。権力が語る“公式の死因”と、人々が目撃した現実との断絶だ。
1949年の能代大火、1968年の金嬉老事件、2020年のダイヤモンド・プリンセス。形は違えど、いずれも「管理されているはずのもの」が破綻した瞬間を示している。火、防犯、検疫――制度は完璧ではなく、その綻びはいつも人命という形で露呈する。
こうして並べてみると、2月20日は祝祭の日ではない。むしろ、人間が何かを信じ、何かを壊し、何かを見誤った記録が集中する日だ。それでも、この日は「出港の日」でもある。未知へ向かう船が確かに出た日だ。
歴史は希望と残酷さを同じ日付に刻む。だからこそ、私たちは日付をただ消費するのではなく、立ち止まって考える必要がある。この日に何が起き、何が奪われ、そして何が問いとして残されたのかを。
2月20日は、過去が静かにこちらを見返してくる日だ。
忘れるな、と。
簡単に信じるな、と。
そして、それでも考え続けろ、と。

