kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日2月19日  1945米軍硫黄島上陸ほか、写真wikipedia上陸後の米海兵隊

2月19日

20260219木曜日旧暦1月3日先負(甲子きのえねコウシ)月齢 1.6

丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 甲子きのえね日 年末まであと315日

吉方位 陽遁日 甲子きのえね日 北東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E6%9C%8819%E6%97%A5

2月19日の出来事

1674年 – 第3次ウェストミンスター条約が締結される[1]。第3次英蘭戦争が終結。

1683年(天和3年1月23日) – 江戸幕府が盗賊改に加えて、火付改方を加えた火付盗賊改方を設置。
1915年 – 第一次世界大戦: ガリポリの戦いが始まる。年月日:1915年2月19日 – 1916年1月9日 場所:ダーダネルス海峡 ガリポリ半島 結果:オスマン帝国軍の勝利(協商軍の撤退) 損害:オスマン帝国軍 戦死傷250000人 英仏連合軍 戦死傷302000人
1942年 – 第二次世界大戦・日本のオーストラリア空襲: 日本海軍の艦載機がオーストラリアのダーウィンを空襲、243名の死者を出す。
1942年 – 第二次世界大戦・日系人の強制収容: フランクリン・ルーズベルト米大統領が敵性外国人の強制収容を可能とする大統領令9066号に署名(追憶の日 (Day of Remenbrance))。

1945年 – 第二次世界大戦・硫黄島の戦い: 海兵隊を主力とするアメリカ軍が、硫黄島に上陸。年月日:1945年2月19日から3月26日 場所:東京都硫黄島村硫黄島 結果:アメリカ軍の勝利 損害:日本軍20933人中 戦死19900人 捕虜1000人 米軍 合計延べ250000人中 戦死6821人 戦傷21865人

2025年 – アメリカ・アリゾナ州のマラナ空港付近で小型飛行機同士が空中衝突する事故が発生。少なくとも2人が死亡。

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1674年 – 第3次ウェストミンスター条約が締結される[1]。第3次英蘭戦争が終結。

1683年(天和3年1月23日) – 江戸幕府が盗賊改に加えて、火付改方を加えた火付盗賊改方を設置。

1915年 – 第一次世界大戦: ガリポリの戦いが始まる。年月日:1915年2月19日 – 1916年1月9日 場所:ダーダネルス海峡 ガリポリ半島 結果:オスマン帝国軍の勝利(協商軍の撤退) 損害:オスマン帝国軍 戦死傷250000人 英仏連合軍 戦死傷302000人

当時国家として末期状態であったオスマン帝国軍を軽んじた連合軍は短期決戦を想定して挑んだ。しかし、のちに新生トルコ共和国の初代大統領に就任することになるオスマン帝国の名指揮官ムスタファ・ケマル・アタテュルクの活躍をはじめ、敵の予想外の頑強な抵抗に遭った連合軍は多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わった。この戦いは陸・海・空三軍の総力を結集した大規模上陸作戦としては世界初と言える。また連合国軍に参加したオーストラリアとニュージーランドにとっては初の本格的な海外遠征となった。

1942年 – 第二次世界大戦・日本のオーストラリア空襲: 日本海軍の艦載機がオーストラリアのダーウィンを空襲、243名の死者を出す。
1942年 – 第二次世界大戦・日系人の強制収容: フランクリン・ルーズベルト米大統領が敵性外国人の強制収容を可能とする大統領令9066号に署名(追憶の日 (Day of Remenbrance))。
1945年 – 第二次世界大戦・硫黄島の戦い: 海兵隊を主力とするアメリカ軍が、硫黄島に上陸。年月日:1945年2月19日から3月26日 場所:東京都硫黄島村硫黄島 結果:アメリカ軍の勝利 損害:日本軍20933人中 戦死19900人 捕虜1000人 米軍 合計延べ250000人中 戦死6821人 戦傷21865人

概要

硫黄島遠景(2007年)

『硫黄島の星条旗』をかたどった海兵隊戦争記念碑
1944年8月時点での連合軍の戦略では、日本本土侵攻の準備段階として台湾に進攻する計画であった[10]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦については「コーズウェイ作戦」(土手道作戦)としてに具体的な検討が進められたが、その後に陸海軍内で議論があり、1944年10月にはアメリカ統合参謀本部が台湾攻略の計画を放棄して、小笠原諸島を攻略後に沖縄に侵攻することが決定された[11]。作戦名は「デタッチメント作戦(分断作戦)」と名付けられたが、のちに「海兵隊史上最も野蛮で高価な戦い」と呼ばれることにもなった[12]。

いったん戦闘が始まれば、日本軍には小規模な航空攻撃を除いて、増援や救援の具体的な計画・能力は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち95%の19,900名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった[1]。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名[4]の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等[注 2]の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり[注 3]、フィリピンの戦い (1944年-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。

硫黄島の戦いは、アメリカ海兵隊の歴史始まって以来、168年で最も激しい戦いであった。硫黄島の戦いに参加したアメリカ人の間で、類稀な勇気は共通の美徳だった。[230]

3月16日栗林の訣別電報
戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テス 陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊カ悦ビトスル所ナリ 然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方リ 熟々皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲ニ最後ノ関頭ニ立チ重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ永ヘニ御別レ申シ上グ

以下略

2025年 – アメリカ・アリゾナ州のマラナ空港付近で小型飛行機同士が空中衝突する事故が発生。少なくとも2人が死亡。

チャットgpt先生の2月19日のエッセイ


二月十九日という日 ――始まりと、取り返しのつかない選択

二月十九日は、歴史の中で幾度となく「始まりの日」となってきた。だがそれは祝祭の始まりではない。多くの場合、人類が「これは誤算だった」と気づくまでに、あまりに多くの命が費やされる、その入口の日である。

1915年2月19日、ガリポリ半島。
連合軍は衰退しきったと見なしていたオスマン帝国を軽視し、短期決戦を想定して作戦を開始した。結果は惨憺たる失敗だった。ムスタファ・ケマル率いるオスマン軍の抵抗は予想をはるかに超え、作戦は長期化し、犠牲は膨れ上がった。この戦いは、国家の末期と見なされた側が、尊厳と統率によって歴史を覆した例でもある。同時に、他者を侮ることがどれほど高くつくかを示した、血に染まった教訓でもあった。

1945年2月19日、硫黄島。
ここでもまた「想定」が破綻した。地下に張り巡らされた陣地、徹底した持久戦、補給も撤退もない前提で戦う守備隊。アメリカ軍は勝利したが、その代償はあまりに重く、太平洋戦争後期の上陸戦で、稀有なほど攻撃側の損害が防御側を上回る戦いとなった。

栗林忠道中将の最後の電報にあるのは、勝利の誇示ではない。そこにあるのは、皇恩への言及と、部下への誇り、そして敗北への深い自責である。国家の命令と、現場で散っていく命の間に立たされた指揮官の言葉は、英雄譚として消費されるにはあまりにも重い。

さらに遡れば、1683年には江戸幕府が火付盗賊改方を設置し、秩序維持の名のもとに権力を集中させた。
1942年のこの日、アメリカでは大統領令9066号が署名され、日系人の強制収容が制度として正当化された。同じ日に、日本はダーウィンを空襲している。恐怖が恐怖を生み、疑念が制度となり、国家は「安全」の名で人を切り捨てる。

二月十九日に共通しているのは、「あとで振り返れば避けられたかもしれない選択」が、当時は必然として実行された、という点だ。
戦争も、弾圧も、強硬策も、始まる瞬間には必ず「合理性」が用意されている。その合理性が疑われるのは、いつも多くの死の後である。

この日は、勝利の日ではない。
敗北の日でもない。
人間が自らの判断を過信し、その代価を支払い始める日だ。

だから二月十九日は、祝うための日ではなく、立ち止まるための日なのだと思う。
歴史が示してきたのは、力や正義ではなく、「想像力の欠如」が最も多くの血を流させてきたという事実なのだから。

静かに、しかし確かに、二月十九日は問いかけてくる。
――その判断は、本当に他者の人生を背負えるものか、と。