2月11日
20260211水曜日旧暦12月24日大安(丙辰ひのえたつヘイシン)月齢 23.2
丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 丙辰ひのえたつ日 年末まであと323日
吉方位 陽遁日 丙辰ひのえたつ日 南西 大吉
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2月11日の出来事
55年 – ローマ皇帝ネロが義弟ブリタンニクスを暗殺。
200年(建安5年1月9日) – 曹操打倒のクーデター計画が発覚して捕らえられた、董承ら一派とその三族が処刑。
1858年 – ルルドの聖母: フランス南西部ルルドのマッサビエル洞窟に聖母マリアが出現する[1]。
1889年 – 伊勢神宮で不敬な態度をとったと報じられた文部大臣森有礼が、国粋主義者の士族・西野文太郎に刺される。翌日死亡。
1950年 – 熊本県松尾村で路線バスが養殖池に転落。乗員乗客22人が死亡、重傷10人[1]。
1951年 – 居昌良民虐殺事件。韓国軍が共産主義パルチザンを殲滅するための堅壁清野作戦として、民間人719人を虐殺した[1][2][3][4]。
1969年 – 江藤小三郎(憂国烈士、江藤新平の曾孫にして衆議院議員江藤夏雄の三男)が国会議事堂前で遺書「覚醒書」を残して焼身自殺。
1986年 – ホテル大東館火災。死者24人。
1995年 – 安房峠道路水蒸気爆発事故。4人死亡。
2018年 – サラトフ航空703便墜落事故が発生[3]。死亡71名全員。
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55年 – ローマ皇帝ネロが義弟ブリタンニクスを暗殺。
生涯
クラウディウスの息子「ゲルマニクス」として41年に生まれる。3歳の時の44年に父クラウディウスはブリタンニアを属州とし、ローマで凱旋式を挙行した。このブリタンニア遠征の戦勝を記念して「ブリタンニクス」の名が与えられ、以後この名で呼ばれる。
48年10月に母メッサリナは、クラウディウスがローマを留守とした際に浮気相手であったガイウス・シリウスと正式の結婚式を行った。この結婚は皇帝への反逆と考えられたため、2人はすぐに拘束され、母は父によって処刑された。
一人身となったクラウディウスは49年に姪である小アグリッピナと結婚し、ブリタンニクスは新しい母と共に、小アグリッピナの連れ子で3歳年上の義理の兄ルキウス・ドミティウス・アヘノバブルスを迎えることになった。それまで皇帝の唯一の男子の地位は帝位の継承を約束していたが、継母とその連れ子の存在はその帝位継承を危うくさせるものであった。
事実、息子を皇帝にと望む小アグリッピナは、ブリタンニクスの姉オクタウィアと息子を婚約させ、さらに50年2月25日には息子をクラウディウスの養子とした。このときから小アグリッピナの息子は「ネロ」と呼ばれるようになる。法的地位でネロはブリタンニクスと同格となったが、51年に皇帝の公式相続人となるなど、徐々に帝位の継承者としてブリタンニクスを凌駕するようになっていった。そして54年に父クラウディウスが死去すると、皇帝位にはブリタンニクスではなく義理の兄ネロがついた。
ネロが皇帝になると、先帝の血を引いていたブリタンニクスの立場は非常に危ういものとなっていった。55年、ブリタンニクスはネロによって晩餐の最中に暗殺された。その際ネロはてんかんの発作であると語ったという。13歳で、あと1日で14歳を迎えるはずであった。遺体は皇帝廟に祀られたが、ユリウス=クラウディウス朝ではブリタンニクスが最後に祀られた人物となった。
200年(建安5年1月9日) – 曹操打倒のクーデター計画が発覚して捕らえられた、董承ら一派とその三族が処刑。
一族の最期
建安元年(196年)正月、献帝を迎え入れようとした曹操が、曹洪に兵を与えて派遣してきた。董承は[7]、袁術軍の萇奴と共に要害を守備し、曹洪の進軍を阻んだ[8]。またその翌月、今度は献帝一行に付き従っていた将軍たちの間で争いが発生し、韓暹が董承を攻撃した。このため董承は張楊を頼って逃れ、張楊の指示により洛陽へ先行して向かい、宮殿を修繕した。
同年7月、献帝が洛陽へ到着すると、董承は韓暹と共に宿衛の任に就いた。しかし、韓暹の専横を恐れた董承は、密かに曹操を召し寄せ、その威を借りて韓暹・楊奉・張楊らを追い落とすことに成功している。同年8月、董承は列侯に封じられた。建安4年(199年)3月、董承は車騎将軍に任命され、車騎将軍府を開いた[9]。
董承は、次第に権力を強大化させる曹操を恐れた献帝により下賜された服の帯に忍ばせた曹操を誅殺せよとの密勅を受け[10]、同志(王子服・呉碩(中国語版)・呉子蘭(中国語版)[11]・种輯・劉備など)を集めて謀議を図った。しかし建安5年(200年)正月、計画は事前に発覚し、董承一族やその一派は捕らえられ処刑された。彼の娘の董貴人も妊娠中だったが、それでも曹操は彼女をも殺した。
1858年 – ルルドの聖母: フランス南西部ルルドのマッサビエル洞窟に聖母マリアが出現する[1]。
1889年 – 伊勢神宮で不敬な態度をとったと報じられた文部大臣森有礼が、国粋主義者の士族・西野文太郎に刺される。翌日死亡。享年41歳。
西野 文太郎(にしの ぶんたろう、慶応元年9月9日(1865年10月28日) – 1889年(明治22年)2月11日)は、日本の不平士族、国粋主義者。森有礼の暗殺犯である。
経歴
長州藩士、西野義一の長男として山口に生まれる。山口黒城塾、山口中学校(現・山口県立山口高等学校)を卒業した後、三浦梧楼を頼って上京するが職が見つからず、一旦帰郷して山口県庁に就職した。東京では講道館に通い、本田増次郎の教え子だった[1]。1886年(明治19年)、県庁を退職して再び上京し、山口黒城塾時代からの友人・玉井喜作が開いた私塾「東京速成学館」で総務と漢文教師を務める。しかし、東京速成学館はドイツ語を主に教える学校であり、その学生は西洋志向が強い者が多かったため、国粋主義思想が強い西野は生徒からの評判が悪く、まもなく西野は退職して内務省土木局に務めることとなった。なお、玉井もドイツ志向が強い人物であり、西野と思想は異にしていたが、特にそれで衝突するようなことはなく二人は親友であった。
1887年(明治20年)、文部大臣森有礼が伊勢神宮において不敬な態度をとった(伊勢神宮不敬事件。伊勢神宮に参拝した際、拝殿に掛かる布の簾をステッキで払い除けて中を覗いた[1])という報道が行なわれる。この事件については、事実ではないという説も強く真偽は不明であるが、当時伊勢神宮造営掛であった西野はこれを信じ、森を許せないと考えるようになった。こうして西野は、1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法発布式典の出席準備をしていた森を訪ね、出刃包丁でその腹部を刺すという犯行に及ぶ。森は出血多量で翌日死亡したが、西野もまたその場で森の護衛に台所まで追い詰められ、仕込み杖により斬られて死亡した。23歳であった。
暗殺の当日に所持していた斬奸状には、「天皇を頂く我が国の基礎を破壊し、我が国を亡滅に陥れようとした」などと記載されていた。
1950年 – 熊本県松尾村で路線バスが養殖池に転落。乗員乗客22人が死亡、重傷10人[1]。
1951年 – 居昌良民虐殺事件。韓国軍が共産主義パルチザンを殲滅するための堅壁清野作戦として、民間人719人を虐殺した[1][2][3][4]。
1969年 – 江藤小三郎(憂国烈士、江藤新平の曾孫にして衆議院議員江藤夏雄の三男)が国会議事堂前で遺書「覚醒書」を残して焼身自殺。
人物
1945年(昭和20年)、神奈川県横浜市金沢区六浦に生まれる。父は維新の元勲江藤新平の孫で衆議院議員の江藤夏雄。祖父は新平の二男の江藤新作。新作は犬養毅の側近だった[2]。
1969年(昭和44年)2月11日の建国記念の日、国会議事堂前 (憲政記念館脇、井伊掃部頭邸跡の碑南) で遺書「覚醒書」を残して世を警め同胞の覚醒を促すとしてガソリンをかぶって焼身自殺する[1]。享年23歳。その行為は後の新右翼・民族派運動に多大な影響を及ぼし、翌年の三島由紀夫の自決の決意にも繋がったことが看取される[1]。
「覚醒書」
混沌たる世界、暗雲立籠む皇国。自然科学におかされ地獄道に落ちし民族。
これを救う道、一事に極む。これ大自然に沿いし無私の心なり。無私の心、真我に通ず。真我集へば破るる事なし。国の大事、すべて無私より始まる。
ここに気付き行えばあとは康し。
一皇万民、天皇の許に真我が集う時、皇国毅然として興る。皇子皇民、一丸となり熱鉄玉を呑む勢いにて行えば世界万民を救う道をなすこと難くなし。
我、神命により不生不滅の生を得む。ここに肉体を放棄し永遠の生命を得む。
我「建国の日」に魂魄となりて、民族の危機にあたるものなり。
昭和四十四年二月十一日
辞世の句
「あらあらし 空にこみとり大楠の 大御心を誰ぞ知るらん」
「かくすれば かくなるものと知りつつも やむにやまれぬ 大和魂」
1986年 – ホテル大東館火災。死者24人。
1995年 – 安房峠道路水蒸気爆発事故。4人死亡。
2018年 – サラトフ航空703便墜落事故が発生[3]。死亡71名全員。
チャットgpt先生の2月11日のエッセイ
二月十一日――祝祭と血の記憶のあいだで
二月十一日は、日本では「建国記念の日」として語られる。だが歴史の層を一枚ずつ剥いでいくと、この日は祝祭の光よりも、むしろ影の濃さによって刻印されてきた日であることに気づかされる。
この日、紀元一世紀のローマでは、十三歳の少年ブリタンニクスが、皇帝ネロの晩餐の席で毒を盛られ命を落とした。血統と正統性をめぐる権力闘争のなかで、幼さは免罪符にはならなかった。彼の死は、帝国がすでに「法」ではなく「恐怖」によって統治され始めていたことを静かに示している。
二世紀後の中国でも、二月十一日は粛清の日となった。董承らが密勅を帯びて曹操打倒を企て、失敗し、一族三族に及ぶ処刑を受けた。ここには忠義と現実政治の残酷な断絶がある。正統を守ろうとした者が、秩序の名のもとに抹殺される。この逆説は、東西を問わず繰り返されてきた。
近代に入っても、この日は血を吸い続ける。
1889年、伊勢神宮不敬事件の報道を信じた西野文太郎は、文部大臣・森有礼を刺殺した。近代国家が制度として整えられていく最中、「国体」や「神聖」をめぐる感情は、理性よりも鋭利な刃となった。彼の斬奸状に書かれた言葉は、正義を自任する者がいかに容易に他者の生を断ちうるかを示している。
そして1969年、同じ二月十一日。
江藤小三郎は国会議事堂前で焼身自殺した。「覚醒書」に綴られた言葉は、政治的主張である以前に、時代への絶望と焦燥の告白であった。彼は敵を殺さず、自らを燃やした。その行為は、暴力でありながら、同時に問いでもあった――「この国は、いま何を失っているのか」と。
一方で、二月十一日は意図なき死も数多く記憶している。
バスの転落事故、ホテル火災、道路の水蒸気爆発、航空機墜落。思想も信条も介在しない、ただ日常が断ち切られる瞬間。歴史は、英雄や烈士だけでなく、名を残さぬ人々の死によっても形づくられている。
さらにこの日、ルルドでは「聖母の出現」という救済の物語が語られた。奇跡は、苦しみのただなかでこそ希求される。二月十一日が悲劇の記録で埋め尽くされているからこそ、人はそこに超越的な救いの像を重ねたのかもしれない。
こうして眺めると、二月十一日は「国家」や「正義」や「信仰」といった大きな言葉が、人間の生死と最も激しく衝突してきた日だと言える。祝うこともできる。だが、同時に思い出さねばならない。理念が人を救うこともあれば、理念が人を殺すこともあるという事実を。
二月十一日とは、問いの日である。
私たちはいま、何を正義と呼び、何のために生き、何を他者に強いようとしているのか。
祝日の静けさの裏で、この日は今日も、そう問い続けている。

