2月9日
20260209月曜日旧暦12月22日先負(甲寅きのえとらコウイン)月齢 21.2
丙午ひのえうま年 庚寅かのえとら月 甲寅きのえとら日 年末まで、あと325日
吉方位 陽遁日 甲寅きのえとら日
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2月9日の出来事
1860年(安政7年1月18日) – 日米修好通商条約批准書交換のため新見正興を正使とする遣米使節団が浦賀を出港。
1931年 – 兵庫県神戸港付近で尼崎汽船の「菊水丸(トン数不詳)」とフランスの汽船(船名不詳)が衝突。両船が沈没して28人が死亡[3]。
1932年 – 井上準之助前蔵相が失政を問われて血盟団員・小沼正により射殺される。(血盟団事件)
1980年 – 元尾道市長夫妻殺害事件: 広島県尾道市の前市長・佐藤勲(当時55歳)が、市内の自宅で妻(当時45歳)とともに殺害される。事件発生から15年後の1995年2月に公訴時効が成立、未解決事件となった。
1982年 – 日本航空350便墜落事故。機長が飛行機のエンジンを逆噴射させ、機体は羽田空港沖に墜落。乗員・乗客174人中24人が死亡。機長は業務上過失致死傷容疑で逮捕されたが、心神喪失として不起訴処分になった。
2001年 – えひめ丸事故。ハワイ沖で愛媛県立宇和島水産高等学校の実習船「えひめ丸」が米海軍の原子力潜水艦グリーンヴィルと衝突して沈没、9人が行方不明に。(現地時間。日本時間では翌日)
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1860年(安政7年1月18日) – 日米修好通商条約批准書交換のため新見正興を正使とする遣米使節団が浦賀を出港。
1931年 – 兵庫県神戸港付近で尼崎汽船の「菊水丸(トン数不詳)」とフランスの汽船(船名不詳)が衝突。両船が沈没して28人が死亡[3]。
1932年 – 井上準之助前蔵相が失政を問われて血盟団員・小沼正により射殺される。(血盟団事件)
血盟団事件(けつめいだんじけん)は、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺)事件。
血盟団と呼ばれる暗殺団によって政財界の要人が多数狙われ、井上準之助と團琢磨が暗殺された。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることが多い。
「血盟団」「血盟団事件」の名前の由来
一般に「血盟団事件」と呼ばれているが、正式名称を「血盟団」とした集団が存在したわけではなく、厳密にいえば俗称である。
1930年末に、当時井上日召が利用しようと考えて関係を深めていた日本国民党が開いた忘年会の席での党委員長寺田稲次郎による発言が発端である[1]。
「君たちは南アにおけるダイヤモンドのようなものだ。しかも、血のつながりのあるものだ。血盟された五人だ。(中略)血盟五人組だ。」
これ以後、井上の周囲に集まったグループを指して、一部の国家主義者たちがひそかに「血盟団」と呼ぶようになった[1]。しかし、井上たちが自称したものでも正式名称でもなく、彼らは自分達に名前を付けることを拒み続けた[1]。
また、事件の新聞報道では当初「血盟五人組」と呼ばれ、その後は「血盟団暗殺団」「血盟団」が使われた[2]。
「血盟団事件」という名称は担当検事だった木内曾益による命名である[3]。井上が後年出版した獄中手記『梅乃実』の中には「吾々は団体として何の名目も付けて居なかったが、官憲の方で事件発生後勝手に命名した」と書かれている[4]。しかし、井上はこの呼び名を受け入れたという[3]。
血盟団・血盟団事件の性格
血盟団のメンバーは、井上日召以下、大洗組注釈 1、東京帝大グループ (四元義隆〈法学部〉、池袋正釟郎〈文学部〉、田中邦雄〈法学部〉、久木田祐弘〈文学部〉)、京都グループ (田倉利之〈京都帝大文学部〉、森憲二〈法学部〉、星子毅〈法学部〉) とその他 (須田太郎・國學院大學神学部生) の計16名である[5][注釈 2]。
血盟団員の中で重要な役割を果たしたのは、大洗グループ内の古内と東京帝大グループの四元の2人である。また、血盟団員ではなく事件にも直接の関与はできなかったが海軍将校の藤井斉は重要な役割を果たした人物である。藤井は、元来実力行使に慎重だった日召をテロリストに仕向けた張本人であり、東京帝大グループや京都グループ、海軍将校と井上を結びつけ、大洗の小さなグループに過ぎなかった血盟団をより広域に活動するグループへ変貌させることに大きく寄与した。
血盟団は井上の思想に強く感化されたカルト集団だと言える[6][注釈 3]。また、井上の思想の底流にあるのは、ある種の仏教的神秘主義である[7]。田中智学が創始した日蓮主義を基本として、仏教的神秘主義と、皇国思想・国家改造に対する熱望が合わさって、井上日召が独自に思想形成したものであると言える[8]。
井上の思想には、田中智学からの影響が明白である[9]。実際、井上の思想形成の初期段階で大きな影響を与えたのが、田中による『日蓮上人乃教義』であり、この書物は井上だけでなく古内栄司にも大きな影響を与えた[10]。
ただ、井上の思想の論理が粗雑であることは否定しがたい。井上は若いときから、代表的な国家主義者 (田中智学、北一輝) の著書を読み、主唱者 (例えば、北一輝、上杉慎吉、大川周明、安岡正篤) のもとを訪ねている[11]。例えば、井上は1924年に1度上京していた時期に北一輝の『日本改造法案大綱』を読んで、北に会いたいと思い北のもとを訪ねている[12]。また、大川周明のもとを訪ねた時には、人はいくらでもいるから、国家革新には金が一番重要だ、と言われて腹を立てたこともあった[13]。大川の大アジア主義が、白人を追放してアジアを解放するという考えであり、差別主義的であると思われたので、大川からも得るところはなかった[13] [注釈 4]。
結局は彼らの主張に共感できず、最終的に自身の思想を理論化することを放棄した[14]。井上の興味の中心は実力行動であって、理論的な話は空虚であると考えて興味を持たなかった。
1980年 – 元尾道市長夫妻殺害事件: 広島県尾道市の前市長・佐藤勲(当時55歳)が、市内の自宅で妻(当時45歳)とともに殺害される。事件発生から15年後の1995年2月に公訴時効が成立、未解決事件となった。
1982年 – 日本航空350便墜落事故。機長が飛行機のエンジンを逆噴射させ、機体は羽田空港沖に墜落。乗員・乗客174人中24人が死亡。機長は業務上過失致死傷容疑で逮捕されたが、心神喪失として不起訴処分になった。
2001年 – えひめ丸事故。ハワイ沖で愛媛県立宇和島水産高等学校の実習船「えひめ丸」が米海軍の原子力潜水艦グリーンヴィルと衝突して沈没、9人が行方不明に。(現地時間。日本時間では翌日)
概要
調査で判明したえひめ丸のダメージ。
アメリカ海軍所属のロサンゼルス級攻撃型原子力潜水艦グリーンビルが浮上中に、愛媛県立宇和島水産高等学校に所属する漁業練習船えひめ丸(499トン)と衝突し、損傷したえひめ丸は、衝突後5分程度の間に沈没した[5]。えひめ丸側35名の乗組員・教員・生徒の内9名が死亡し、衝突の際に海上に投げ出された26名は救出されたがその内の1名が鎖骨骨折、11名が軽傷を負い、9名が後にPTSDと診断された。
この事故の際、グリーンビルは浮上以前からソナーでえひめ丸の存在に気付いてはいたが、グリーンビルには民間人16名が搭乗しており、グリーンビルのクルー等はこの民間人の対応に追われ、ソナーによる確認作業がなおざりになっていたとされている。事故後にグリーンビルは現場海域に留まったものの同乗の民間人に配慮して積極的な救難活動を行わなかったとする非難の声がある。一方で衝突当時周辺の海はかなり荒れており(波高3-6フィート)、潜水艦が積極的な救助活動を行うことは難しかったとアメリカ海軍は主張している[6]。アメリカ海軍側が早々に捜索を打ち切ろうとした際に現場に派遣されていた桜田義孝外務大臣政務官が「捜索を打ち切ると言われたから断ると言ってやった」と報道陣の前で啖呵を切ったシーンが話題になった。[7][8]
同年2月16日には水深600mの地点で沈んでいたえひめ丸の船体が発見された。引き上げを希望する行方不明者家族側と、引き上げコストを理由に難色を示すアメリカ海軍側の意見のすれ違いもあった。しかし、2001年10月16日、一旦船体をダイバーが潜行して調査できる水深35mの位置まで移動させ、ダイバー等による1か月以上の捜索を実施後、船体は水深1800mの海底に移動された[4]。
当時の森喜朗首相は事故発生時に休暇を取得、ゴルフをしていたが、事故の一報ののちもそのままゴルフ場に留まったことが大きな問題となり、内閣総理大臣を辞任した(森喜朗#えひめ丸事故を参照)[9]。
捜索と引き上げの是非
えひめ丸は600mもの海底に沈んだため、船体引き上げは困難であり、当初はアメリカの慣習に従い船体は放置される予定だった。
しかし、事故発生時から行方不明者家族らにより沈没した船体の引き上げが強く望まれたこと、日本の火葬による葬儀の風習、また日本人の感情などに配慮したアメリカ側は、代行案として船体の浅瀬への曳航を提示、行方不明者家族側もこれを了承した。日本政府は2001年8月に愛媛県からの要請により潜水艦救難艦ちはやを災害派遣し、遺体捜索作業を行った[4][10]。日本側の支援のもと、船体を浅海底に移送し、アメリカ海軍のダイバーが11月7日までに行方不明者9名の内8人の遺体を収容した[4]。
この引き上げ・曳航作業の資金として、アメリカは6,000万ドルを投入した。このことはアメリカ国内で議論を呼び、拠出の事実のみを批判するアメリカ人も存在した。英語圏のマスコミ報道ではえひめ丸について「漁船」 (fish boat)と紹介され、高校生が乗っていた実習船であることを報道した記事は少なかった。
アメリカ民主党寄りのワシントン・ポスト紙は「日本にはもう十分に謝った」という論説で「そもそも日本人は自らの問題について謝罪していない。一部の日本人は謝ろうとしないどころか、それらの戦争犯罪(従軍慰安婦や南京大虐殺)が行われたことすら認めていない」「それに比べてわれわれのアメリカは、世界で最もきちんと謝っている国だ。クリントン前大統領はアフリカに行って黒人を奴隷にしたことを謝罪したし、アメリカインディアンなど差別を受けた人々にも、すでにきちんと謝った」として日本側の対応を批判した[11][12]。
引き上げ後の調査で、えひめ丸は船底のフレーム21から54にかけて「くの字」状の亀裂が入っていたことが判明し、下から突き上げられたことによる衝撃で沈没したことが確認された。
事故後
当時のグリーンビルの艦長であるスコット・ワドル中佐(当時)は事故の責任について軍法会議で審議されることはなく、司令官決裁による減俸処分を受けただけで、後に軍を名誉除隊した(懲戒免職に相当する不名誉除隊ではなく、軍人年金などの受給資格のある一般退職となった。退職後、ただちに海軍関連の企業に再就職した)。2002年12月には愛媛県の宇和島市を訪れ、同市内にあるえひめ丸慰霊碑に献花した。
2002年11月30日、5代目えひめ丸が建造され愛媛県に引き渡されている[13]。また、ホノルルと宇和島に慰霊碑が建立されている[4]。
2003年、全国水産高校長協会が2月10日を「海の安全祈念日」に制定した。
ハワイの航海カヌーホクレアはえひめ丸の犠牲者追悼の意味も込めて、2007年5月に宇和島市を訪問した。ナイノア・トンプソン船長は水産高校をクルーと共に訪れ慰霊碑の前で献花、同校等でワークショップを開催した。
2006年2月10日より和歌山県の高野山高等学校の宗教科生が高野山の奥之院燈籠堂にてえひめ丸慰霊法会を毎年厳修している。
NTSB(アメリカ国家運輸安全委員会)は、2005年10月19日にこの事故に関する報告書を出している。この報告書では、グリーンビルのワドル元艦長の責任を含めアメリカ海軍による内部調査の多くの部分を認めている。ワドル元艦長は2003年にThe Right Thing(ISBN 1591450365)と題した著書を出版し、この事故にどのように対応したかを述べている。
えひめ丸事故の追悼歌・鎮魂歌として、以下の楽曲が制作された。
「えひめ丸」(作曲・演奏:ジェイク・シマブクロ)
「あゝえひめ丸」(作詞:沖良雄、作曲:玉井知湖、歌:田中幸子[注釈 1]、沖美恵子[14])
「海よ 鴎よ 島々よ」(作詞:宮内たけし、作曲:町田真理子、歌:町田真理子[15]、多田周子[16])
事故から10年経った2011年から(2020年を除く)、宇和島市では「うわじまハワイアンフェスティバル」が行われている。事故を風化させないために、また、もともと宇和島市の姉妹都市であったホノルル市との友好を深めることを目的とする。
発生から20年目の2021年、グリーンビルのワドル元艦長が、遺族に謝罪するとともに「事故の責任は自分にある」とする遺族宛ての書簡をまとめ、公表した[17]。また2021年のホノルルでの慰霊式典は新型コロナウイルス感染拡大及び日本国内一部地域にて改正・新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づいて発令された緊急事態宣言の影響を受け、日本からの遺族の参加を中止した[18]。
チャットgpt先生の2月9日のエッセイ
2月9日――海と政治と、取り返しのつかなさ
2月9日は、日本史を眺めると静かな日付には見えない。むしろ、海の向こうと結ばれ、海の上で失われ、そして人の思想が暴走した痕跡が、同じ日付に沈殿している。
1860年、新見正興を正使とする遣米使節団が浦賀を出港した。日米修好通商条約の批准書交換という、国家としての「約束」を携えての航海だった。鎖国から開国へと向かう日本が、否応なく世界と向き合わされる象徴的な一歩である。海はこのとき、未来へ渡る通路だった。
だが、その海は常に希望だけを運んでくれるわけではない。
1931年、神戸港沖で起きた衝突事故。尼崎汽船の菊水丸とフランス汽船が沈み、28人が命を落とした。技術や国際航路が発達しても、人為と偶然が重なれば、海は容赦なく命を奪う。国境を越えるはずの船が、国籍を超えて同時に沈むという事実は、皮肉なほど象徴的だ。
1932年には、血盟団事件の一つとして井上準之助が暗殺された。これは自然災害でも事故でもない。「思想」が人を殺した日である。血盟団は正式な団体名すら持たず、理論を突き詰めることよりも、実力行使を選んだ。国家を良くしたいという大義が、個人の命を奪う免罪符になった瞬間だった。ここには、海の事故とは異なる、取り返しのつかなさがある。人は止まれたはずだったからだ。
時代が下っても、2月9日は悲劇を繰り返す。
1982年、日本航空350便墜落事故。機長自身の行為によって機体は海へ落ち、24人が亡くなった。技術も制度も整ったはずの時代に、個人の内面が制御不能になったとき、組織はそれを止めきれなかった。この事故は、「心」という目に見えない要素が、最先端の機械すら無力化することを突きつけた。
2001年、えひめ丸事故。原子力潜水艦グリーンビルと高校生たちの実習船が衝突し、9人が帰らなかった。ここでも海は舞台だったが、問題は海そのものではない。気づいていながら確認を怠ったこと、民間人対応を優先したこと、そして事故後の対応をめぐる日米の温度差。これは単なる衝突事故ではなく、「強者の論理」と「弱者の現実」が正面衝突した出来事だった。
興味深いのは、これらの出来事が一貫して「後からではどうにもならない」性質を持っていることだ。船は沈み、人は撃たれ、飛行機は墜ちる。一度起きてしまえば、どれほど謝罪しても、どれほど金をかけても、失われた命は戻らない。
2月9日は、祝日でも記念日でもない。しかし、歴史を通して見ると、この日は問いを投げかけてくる。
――国家とは何か。
――思想はどこまで人を正当化できるのか。
――技術と責任は、本当に釣り合っているのか。
海を渡る勇気も、国家を変えたいという情熱も、本来は前を向く力だったはずだ。それが悲劇に転じるのは、人が「確認すること」「立ち止まること」「疑うこと」を手放した瞬間なのかもしれない。
2月9日は、未来を夢見て出港した日であり、同時に、その未来が一瞬で崩れ去った日でもある。だからこそこの日付は、声高に祝われることなく、静かに思い出されるべきなのだろう。
人間の選択が、どれほど重い結果を連れてくるのかを、忘れないために。

