kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月24日  1336箱根・竹ノ下戦、ほか写真wikipedia箱根遠景

1月24日

20260124土曜日旧暦12月6日大安(戊戌つちのえいぬボジュツ)月齢 5.2

乙巳きのとみ年 己丑つとのとうし月 戊戌つちのえいぬ日 年末まであと341日

吉方位 陽遁日 戊戌つちのえいぬ日 南東 大吉

https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8824%E6%97%A5

1月24日の出来事

41年 – ローマ帝国第3代皇帝カリグラがカッシウス・カエレア(英語版)率いる親衛隊将校により暗殺される。クラウディウスが第4代皇帝に即位。
1336年(正慶4年/建武2年12月11日) – 箱根・竹ノ下の戦いで 足利尊氏が建武新政府に反旗を翻す。
1848年 – カリフォルニアのアメリカン川(英語版)河底で砂金が発見される。カリフォルニア・ゴールドラッシュの始まり。
1911年 – 幸徳事件で幸徳秋水ら11名の処刑が行われる。
1915年 – 第一次世界大戦: ドッガー・バンク海戦。年月日:1915年1月24日
場所:北海 ドッガー・バンク 結果:イギリス海軍の戦術的な勝利 損害:英軍 戦死15人 独軍 戦死974人。
1951年 – 八海事件。1951年(昭和26年)1月24日に山口県熊毛郡麻郷村(おごうむら、現在の田布施町)八海で発生した強盗殺人事件。二度の差し戻しを経て、1968年(昭和43年)の最高裁判決で被告人5人のうち、犯人が共犯者として名指しし逮捕された4人が無罪となった。1956年(昭和31年)には本件を扱った映画『真昼の暗黒』が制作された。
1972年 – グアム島で元日本兵の横井庄一を発見。

2011年 – ロシア・ドモジェドヴォ空港で自爆テロ事件が発生。35人が死亡し、130人以上の負傷者が発生した[2]。

41年 – ローマ帝国第3代皇帝カリグラがカッシウス・カエレア(英語版)率いる親衛隊将校により暗殺される。クラウディウスが第4代皇帝に即位。

概要

短い在位期間に、カリグラは壮大な建設事業と領土の拡大に力を注いだ。また最高権力者としての威信を高めることに努め、彼を打ち倒そうと繰り返される陰謀から自身の地位を懸命に守りつづけたが、元老院も関与した陰謀により、41年にプラエトリアニ(親衛隊)の一部将校らによって暗殺された。その治世を通じてローマ市民からは人気が高かったが、現存する後代の史料ではいずれも、カリグラは狂気じみた独裁者であり、残忍で浪費癖や性的倒錯の持ち主であったとしている。しかし現存する一次史料の数は少なく、カリグラの治世の実態には不明な点が多い。

父との旅

カリグラは2歳ないし3歳の幼少時から、軍事作戦で北部ゲルマニアへ行く父ゲルマニクスに同行している。このときのカリグラは軍靴や甲冑まで含めた特別仕立てのミニチュアの軍装を身につけていたため、これを面白がった兵士たちのあいだでマスコット的存在となった[6]。ティベリウスがアウグストゥスの後を継ぐことに反対して暴動が起きたときも、危害の及ぶことのないようカリグラが安全な場所へ移されることになったと聞いただけで、首謀者の兵士たちはカリグラを自分たちから遠ざけないで欲しいと嘆願し、みずから暴動を鎮めたといわれるほど兵士たちから愛された[6]。ラテン語で「小さな軍靴」を意味するカリグラというニックネームは、この軍装の一部として彼の履いていた小さな靴にちなんで、兵士たちによってつけられたものである[7]。しかし彼自身はやがてこの渾名を嫌うようになったと伝えられている[8]。

即位してから最初の7か月間におけるカリグラの治世は、まったくの幸福に満ち溢れたものだったとフィロンは記している[36]。その多くが政治的な配慮によるものであったにせよ、カリグラの最初の施政は非常に寛大なものだった[27]。支持を得るために、プラエトリアニや都市部の兵士のみならず、イタリア国外の軍まで含めた軍隊の兵士たちに賞与を支給したり[27]、ティベリウスによって作成された反逆罪に関する書類を破棄し、これに関連した裁判はもはや過去のものだとして追放された者たちの帰国を赦したり[37]、さらには帝国の税制によって生活が逼迫した人々を保護したり、剣闘士による試合を復活させたりもしている。皮肉にも、この時には性犯罪者を帝国から追放する措置もとっている[38][39]。カリグラはまた、亡き母や兄弟の遺骨を集めて持ち帰り、アウグストゥス廟に安置することでその冥福を祈っている[40]。

醜聞

カリグラを象ったセステルティウス銅貨(38年ごろ)。裏面(写真右)はカリグラと近親相姦の関係にあったといわれる3人の妹、アグリッピナ、ドルシッラ、ユリア・リウィア

現存する数少ない資料には、カリグラの残忍さや放蕩ぶりや狂気を描いた奇怪な逸話が数多く書かれている。

フィロンや小セネカによる同時代の文献では、自分自身のこと以外には興味がなく、怒りに満ち、気まぐれで人を殺し、濫費とセックスに溺れた狂気の皇帝として描かれている[123]。他の男たちの妻と寝たことを自慢し[124]、面白半分に人を殺し[125]、自分の見世物用に橋を架けるために莫大な浪費をして飢餓を引き起こし[126]、挙句の果てには自分を崇めさせるために自身を模した神像をエルサレム神殿に建てさせる[100] など、カリグラはさまざまな悪行を非難されている。

スエトニウスやカッシウス・ディオによる文献では、古くから伝えられる風説の再録だけでなく、カリグラの狂気を伝える新しい逸話が加えられている。彼らは、カリグラが妹たちと近親相姦に耽っていたばかりか、彼女らを他の男たち相手に売春させていたと非難しているのである[127]。またカリグラが非合理的な演習に軍隊を派遣していたとも述べている[78][128]。さらには、宮廷を文字通りの売春宿にしたとさえ主張している[57]。こうした狂気染みたエピソードの中でも最も有名なものは、カリグラが自身の愛馬インキタトゥスを執政官や聖職者にしようとしたことであろう[129]。

ただし、カリグラの悪行には創作や誇張されたものが多分に含まれると考えられ、信憑性には大いに疑問の余地がある。また、ローマ帝国の政治文化において狂気や性的倒錯といったものは、権力の衰えと共にしばしば生じるものである[130]。

狂気の疑い

大プリニウスを除き、現存する資料のすべてがカリグラは狂っていたと主張している。しかし、それが比喩的なものであったのか、文字通りの意味で精神を患っていたと述べているのかは明らかでない。さらに残された資料におけるカリグラの不評に鑑みても、事実と創作を切り分けることはきわめて困難である。近代の文献では、カリグラの振る舞いに対して医学的な説明を試みるという傾向が見られ、脳炎やてんかん、あるいは髄膜炎の可能性を挙げているが、カリグラが精神異常であったか否かという問題は未解決のまま残されている。

セネカ、フラウィウス・ヨセフス、フィロンはカリグラが正気ではなかったと述べているが、この狂気は経験に由来する個人的な特性であったと主張している[46][131][132]。セネカはカリグラが皇帝となった後に尊大で気性が激しく、侮蔑的な性格になっていったとし、反面教師として読者が学ぶべき人格的欠陥の一例としている[133]。ヨセフスは、カリグラを途方もなく自惚れさせ、自身を神と考えるに至らせたのは権力であると主張している[46]。またフィロンは、39年に病気で死にかけたのちにカリグラは冷酷になったと報告している[134]。一方、カリグラは人を狂気へ駆り立てる魔法の薬を飲まされたのだとユウェナリスは述べている。

顛倒が基本の 表面評価がここまで低劣俗悪とされる人物の「実相」を「観る」のは楽しいね?

1336年(正慶4年/建武2年12月11日) – 箱根・竹ノ下の戦いで 足利尊氏が建武新政府に反旗を翻す。

箱根・竹ノ下の戦い(はこねたけのしたのたたかい)は、建武の新政時代の1336年1月24日(ユリウス暦)(建武2年12月11日)から、足利尊氏の呼びかけに応じた足利軍と、後醍醐天皇の宣旨を受けた新田義貞に参集した軍勢との間で行われた合戦。『太平記』には「箱根竹下合戦」と記されている[1]。後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために新田義貞を派遣したが失敗し、建武政権崩壊の第一幕となった。現在の静岡県小山町竹之下周辺で行なわれた。

なお、南朝方から書かれた『太平記』と北朝方から書かれた『梅松論』で戦いの経過の記述に違いがある[1]。

後醍醐天皇
概要
大覚寺統の天皇。天皇による親政を理想としクーデターにより武家政権の鎌倉幕府を打倒し建武の新政を行った。その後軍事力の中核であった実子を粛清した事と失政により失脚。一地方政権の主として生涯を終える。建武の新政は2年半で崩壊し、足利氏の武家政権に戻ることとなり、朝廷の支配力は鎌倉時代以上に弱まることとなる。

両統迭立により、実子に皇位を譲位できず、上皇になって院政を敷いて権力を握れなかった後醍醐天皇は、鎌倉幕府の両統迭立を壊すために、倒幕運動を行った[2]。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い(建武の乱)に敗れたため、大和吉野へ入り[3]、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱が勃発した。尊氏が征夷大将軍に就任した翌年、吉野で崩御した[4]。

先代の花園院は、後醍醐天皇を「王家の恥」「一朝の恥辱」と日記に書いている[5]。また、同時代の公卿からも否定的な評価を受けている。吉田定房は後醍醐天皇の討幕運動を否定し、「天嗣ほとんどここに尽きなんや(天皇の跡継ぎは尽きてしまうのではないか)」と諫めている[6]。北畠顕家は、後醍醐天皇の政策を諫める上奏を行っている[6]。また、同時代の中級実務貴族からの評判も悪く、後醍醐天皇は彼らの協力を得られず、政治的に厳しい立場に追い込まれることになる[2]。また、江戸中期を代表する政治家新井白石は「読史余論」で、「後醍醐中興の政、正しからず(建武の新政は正しいものでは無い)」と、後醍醐天皇に厳しい評価を与えており、同時代の三宅観瀾は「中興鑑言」で、頼山陽は「日本外史」で遊興に明け暮れ、私利私欲に走る後醍醐天皇を批判している[6]。一方で、優れた統治者の一人であると室町幕府・南朝の後継指導者から評される[注釈 4]。

室町幕府・南朝両政府の政策は、建武政権のものを多く基盤とした。特筆されるのは、氏族支配による統治ではなく、土地区分による統治という概念を、日本で初めて創り上げたことである[8]。裁判機構に一番一区制を導入したり[8]、形骸化していた国や郡といった地域の下部機構を強化することで統治を円滑にする手法は[9]、以降の全国政権の統治制度の基礎となった[8]。その他には、土地の給付に強制執行を導入して弱小な勢力でも安全に土地を拝領できるシステムを初めて全国的・本質的なものにしたこと(高師直へ継承)[10]、官位を恩賞として用いたこと[11]、武士に初めて全国的な政治権力を与えたこと、陸奥将軍府や鎌倉将軍府など地方分権制の先駆けでもあること[12]などが挙げられる。

学問・宗教・芸術の諸分野で高い水準の業績を残した[13][14]。儒学では宋学(新儒学)受容を進めた最初の君主である[15][16]。また、有職故実の代表的研究書『建武年中行事』を著した。真言宗では父の後宇多上皇と同様に真言密教の庇護者で阿闍梨(師僧)の位を持っていた。禅宗では禅庭の完成者である夢窓疎石を発掘したことは、以降の日本の文化・美意識に影響を与えた。伊勢神道を保護し、後世の神道に思想的影響を与えた。宸翰様を代表する能書帝で、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』(文観房弘真との合作)等4件の書跡が国宝に指定されている。二条派の代表的歌人で、親政中の勅撰和歌集は『続後拾遺和歌集』(撰者は二条為定)。『源氏物語』の研究者。雅楽では琵琶の神器「玄象」の奏者であり、笙の演奏にも秀でていた。茶道では、その前身である闘茶を最も早く主催した人物の一人ともいわれる。

結果的には敵同士になってしまった尊氏からも敬愛された。真言律宗の僧で、ハンセン病患者などの救済に生涯を尽くした忍性を再発見、「忍性菩薩」の諡号を贈って称揚した。また、文観房弘真らを通じて、各地の律宗の民衆救済活動に支援をした。正妃である中宮の西園寺禧子は才色兼備の勅撰歌人で、おしどり夫婦として、『増鏡』終盤の題材の一つとなっている。

一方で、大塚紀弘は、後醍醐天皇は密教や寺社重宝がもたらす呪術的な力にすがらざるを得ない追い込まれた事情があったと、記している[4]。

1848年 – カリフォルニアのアメリカン川(英語版)河底で砂金が発見される。カリフォルニア・ゴールドラッシュの始まり。

カリフォルニア・ゴールドラッシュ(英: California Gold Rush、1848年-1855年)は、カリフォルニア州(当時はまだ州になっていない)コロマのサッターズミルでジェームズ・ウィルソン・マーシャルが金を発見した1848年1月24日に始まった[1]。金発見の報せはたちまち広がり、アメリカの全国や海外からおよそ30万人もの男、女、子供がカリフォルニアに集まることとなった[2]。この30万人の中で約15万人は海路から、残りの15万人は陸路を伝って到着した。

これら初期の採掘者らは1849年にカリフォルニアに向かった者が多かったことから「フォーティナイナーズ」と呼ばれた。彼らは船、あるいは幌馬車で北アメリカ大陸を横断したが、旅の途中でしばしばかなりの困難さに直面した。これら新たに到着した者達の大半がアメリカ人だったが、このゴールドラッシュはラテンアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアおよびアジアなどの何万人もの人々をも惹きつけた。当初、採掘者達が選鉱なべのような単純な技術で小川や川床の砂金を探した。後に金探鉱のためのより洗練された技術が開発され、その技術が後に世界中で採用されていった。その最高潮に達した時、技術の進歩はそれなりの資金が必要となるまでになり、個人の採掘者よりも会社組織の探鉱の比率が増していった。今日の米ドルで数百億ドルにもなる金が発見され、極少数の者には莫大な富をもたらしたが、多くの者は来た時と大してかわらない資産のまま故郷に帰った。

ゴールドラッシュの影響は相当のものだった。サンフランシスコは1846年に人口200人ほどの小さな開拓地だったものが、1852年には約36,000人の新興都市に成長し、カリフォルニア中に道路、教会、学校および新たな町が建設された。1849年には州憲法が起草され、知事や州議会議員が選挙で選ばれ、1850年協定の一部としてこの年にカリフォルニアはアメリカ合衆国31番目の州として迎え入れられることになった。

新しい交通体系が発展し、蒸気船が定期運航され、鉄道が敷かれ、カリフォルニアの次の成長分野となった農業が州内で広く始められた。しかし、ゴールドラッシュは否定的な効果もあった。金の採掘で川や湖など環境は汚染された。またインディアン達が父祖の土地から追い出され、治安が悪化して銃を持った無法者が横行した。

正貨の準備が容易になってニューヨークの銀行も数を増やした。1849年のとき24行だったのが、1853年には57行に増えた。そこで1853年には、合衆国初の手形交換所であるニューヨーク資金決済機構が設立された。初日には2260万ドルを決済した。今日では日に平均200億ドル超を決済しているという。

1911年 – 幸徳事件で幸徳秋水ら11名の処刑が行われる。

概要

大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑「志を継ぐ」(和歌山県新宮市)
旧刑法でも現刑法でも大逆罪には死刑が法定刑として定められていた[3]。大逆罪を含む皇室に対する罪、および内乱罪は大審院(現・最高裁判所)が第一審にして終結審とされていた[4]。

これまでに知られている大逆事件には、

1910年(1911年) – 幸徳事件(検察によるでっちあげがあり、幸徳と面識があるだけの有罪者もいる)
1923年 – 虎ノ門事件(虎の門事件とも表記される)
1925年 – 朴烈事件(「朴烈、文子事件」とも呼ばれる)
1932年 – 桜田門事件(李奉昌事件とも呼ばれる)
の四事件がある。単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。虎ノ門事件と桜田門事件は現行犯の逮捕であるが、幸徳事件と朴烈事件は未遂犯の逮捕で、朴烈事件についてはテロ計画に具体性はなく検察・犯人の双方の政治的意図から大逆罪を犯す犯意があったとし有罪とされた。

1915年 – 第一次世界大戦: ドッガー・バンク海戦。年月日:1915年1月24日
場所:北海 ドッガー・バンク 結果:イギリス海軍の戦術的な勝利 損害:英軍 戦死15人 独軍 戦死974人。
1951年 – 八海事件。1951年(昭和26年)1月24日に山口県熊毛郡麻郷村(おごうむら、現在の田布施町)八海で発生した強盗殺人事件。二度の差し戻しを経て、1968年(昭和43年)の最高裁判決で被告人5人のうち、犯人が共犯者として名指しし逮捕された4人が無罪となった。1956年(昭和31年)には本件を扱った映画『真昼の暗黒』が制作された。
1972年 – グアム島で元日本兵の横井庄一を発見。横井 庄一[1](よこい しょういち、1915年〈大正4年〉3月31日 – 1997年〈平成9年〉9月22日)は、日本の陸軍軍人、評論家。

最終階級は陸軍軍曹、栄典は勲七等青色桐葉章。太平洋戦争終結から28年目、アメリカ領グアム島で地元の猟師に発見された残留日本兵として知られる。
2011年 – ロシア・ドモジェドヴォ空港で自爆テロ事件が発生。35人が死亡し、130人以上の負傷者が発生した[2]。

チャットgpt先生の1月24日のエッセイ


1月24日――顛倒の日

1月24日は、歴史の中でいつも「裏返る」。

暦の上では大安、陽遁日、南東が大吉とされる一方で、この日に刻まれた出来事は、皇帝の暗殺、政権の瓦解、冤罪の処刑、戦争、テロと、表層だけを見れば不吉な影が濃い。
だが、この日を貫く一本の糸は「秩序が崩れる瞬間」ではなく、評価が裏返る瞬間だ。

41年、カリグラは親衛隊に暗殺された。
後代史料は彼を狂気の暴君として描き尽くした。妹との近親相姦、愛馬の執政官任命、浪費、残虐。だが、一次史料の乏しさ、政治的敗者としての立場、元老院の怨念を思えば、その像はあまりにも整いすぎている。即位当初の寛政、兵士と民衆の支持、母と兄弟への敬意。
彼は本当に狂っていたのか。それとも「狂気」という言葉が、権力の正当性を回収するための便利な烙印だったのか。

顛倒は日本史でも起こる。
1336年1月24日、箱根・竹ノ下。足利尊氏が後醍醐天皇に背を向け、建武の新政は崩れ始める。後醍醐は「王家の恥」と罵られ、失政の象徴とされてきた。だが、その政治構想――土地区分による統治、裁判制度の刷新、地方分権の萌芽――は、皮肉にも室町幕府と南朝の双方に継承され、日本の統治構造の基礎となった。
失敗者の理想は、勝者の制度として生き残る。これほど歴史的な皮肉はない。

1848年のカリフォルニア・ゴールドラッシュも同じだ。
黄金は夢と自由の象徴として語られるが、その裏で環境は破壊され、先住民は追われ、暴力が横行した。それでも、この混乱が金融制度、交通網、州憲法を生み、アメリカの近代を加速させたのは事実である。
富を得た者は少数、だが構造を得た社会は持続した。

1911年、幸徳事件。
国家の名の下にでっち上げられた「大逆」は、思想を処刑し、沈黙を強制した。しかし後世、その冤罪性は明らかになり、碑文には「志を継ぐ」と刻まれる。
処刑されたのは人ではなく、当時の国家の想像力の貧困だったのかもしれない。

1972年、横井庄一が発見される。
「恥ずかしながら帰って参りました」という言葉は、敗戦を個人の倫理に引き受けた日本人の象徴として消費された。しかし28年のサバイバルは、命を繋ぐことそのものの執念でもあった。
忠誠か愚直か、その評価は見る角度で反転する。

1月24日は、いつも問いを投げかける。
誰が評価し、誰が記録し、誰が狂気とされるのか。
そして、私たちはその表面のラベルをどこまで疑えるのか。

顛倒が基本――。
俗悪と断じられた人物の「実相」を観ることは、過去を救うためではない。
それは、今この瞬間に私たちが貼り付けている評価の薄さを、静かに剥がすための作業なのだ。

だから1月24日は、不吉な日ではない。
思考が裏返る、稀有な吉日なのである。