1月17日
20260117土曜日旧暦11月29日先負(辛卯かのとうシンボウ)月齢 28
乙巳きのとみ年 己丑つちのとうし月 辛卯かのとう日 年末まであと348日
吉方位 陽遁日 西 大吉 北東 中吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/1%E6%9C%8817%E6%97%A5
1月17日の出来事
1377年 – ローマ教皇グレゴリウス11世がアヴィニョンからローマに帰還し、アヴィニョン捕囚が終了。
1400年(応永6年12月21日) – 大内義弘が戦死して室町幕府方が勝利し、応永の乱が終結する。
1524年 – イタリアの探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが北西航路発見のための航海に出発。
1773年 – ジェームズ・クックらがヨーロッパ人で初めて南極圏に到達。
1893年 – ハワイ王国でアメリカ人サンフォード・ドールらが王政の廃止を宣言しハワイ臨時政府を樹立。女王リリウオカラニが退位しカメハメハ王朝が倒れる。
1781年 – アメリカ独立戦争: カウペンスの戦い。年月日:1781年1月17日
場所:サウスカロライナ、カウペンス 結果: アメリカ合衆国の勝利 損害:米軍 2000人中 戦死10人 英軍 1000人中 戦死100人。
1885年 – マフディー戦争: アブクレアの戦い。時 1885年1月17日 場所 ハルツーム 結果 イギリス軍の勝利 損害 英軍 1000人中 戦死72人 スーダン軍 12000人中 戦死 1100人。
1908年 – 北海道新夕張炭鉱でガス爆発。死者91人、負傷者21人[2]。
1961年 – 神奈川県横浜市戸塚区の秋葉踏切で、ダンプカーと東海道本線上り電車が衝突して脱線。そこへ横須賀線下り電車が侵入して脱線車両と衝突する二重衝突事故が発生。乗員乗客9人が死亡、13名が重傷、83人軽傷[6]。
1966年 – 水素爆弾を搭載したアメリカ空軍のB-52爆撃機がスペインのパロマレス沖でKC-135空中給油機と衝突、水爆を搭載したまま墜落。(パロマレス米軍機墜落事故)。総死亡7人。
1971年 – 精進湖で氷が割れ、スケート客9人が死亡。
1991年 – 多国籍軍のイラク空爆(砂漠の嵐作戦)開始により湾岸戦争が勃発。多国籍軍兵士の死者数: 約358人。クウェート市民の死者数: 1,000人以上、行方不明者が600人。メダクト(Medact)による推定では、1991年のイラク国内の反乱も含めたイラク全体の死者数は14万2,500人から20万6,000人に上る
1995年 – 阪神・淡路大震災: 午前5時46分に神戸市でマグニチュード7.3の地震が発生(兵庫県南部地震)、京阪神に大きな被害が出る。死者6400人超。
2002年 – コンゴ民主共和国東部のニーラゴンゴ山が噴火。45人が死亡し、近隣住民約35万人が避難。
2014年 – タイ反政府デモで爆発物がデモ隊に投げ込まれ男性1人が死亡し40人が死傷する。13日に「バンコク封鎖」が始まって以来、デモ関係で初の死者となった。
—————————————
1377年 – ローマ教皇グレゴリウス11世がアヴィニョンからローマに帰還し、アヴィニョン捕囚が終了。
概要
1303年にフランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世の対立からアナーニ事件(フランス軍がアナーニの別荘にいた教皇を襲撃した事件)が起こった。教皇はこの直後に病死。これ以降、教皇はフランス王の言いなりとなっていった。
フランス人枢機卿ベルトラン・ド・ゴが教皇クレメンス5世になり、フィリップ4世は1307年にテンプル騎士団を弾圧し、教皇は消極的な抗議を行うだけであった。1308年にはフィリップの意向で教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移され、1309年にクレメンス5世はアヴィニョンに座所を定めた。アナーニ事件の事後処理のためのヴィエンヌ公会議の準備に手間取る間に、イタリアは神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世によって侵略された(1310年 – 1313年)ため、教皇はイタリアに帰れず、フランス国内に滞在せざるを得なかった。
当時のアヴィニョンはフランス王家・カペー家の領内ではなくプロヴァンス伯領で、ナポリ王家であるアンジュー=シチリア家(カペー家分家)の所領であった。アヴィニョン捕囚期には多くのフランス人枢機卿が新たに任命され、教皇は全てフランス人である。1348年、クレメンス6世はナポリ女王兼プロヴァンス女伯ジョヴァンナからアヴィニョンを買収、教皇領に組み入れた(フランス革命で没収)。
当時のアヴィニョンは田舎同然の地であり、教皇庁という巨大な官僚機構、すなわち数千もの新たな住民が流入したことは、地元のインフラにとって大きな負担となった。
イタリア人の人文主義者ペトラルカがアヴィニョンに滞在しており、クレメンス6世からは聖職位や使節の地位を与えられたが、教皇庁の腐敗ぶりやローマを見捨てていることに憤りを感じていた。教皇にたびたびローマ帰還を訴え、詩や書簡の中でアヴィニョンを「西方のバビロン」と呼んでいる[1]。
また、当地の状況についても以下のように書き残している。
「現存する〔都市の〕なかで、最も陰気で、人口過密で、治安が悪く、世界の汚いものがすべて集まったゴミ溜めのようだ。鼻が曲がりそうな悪臭に満ちた路地、いやらしい豚と唸り声をあげる犬……壁が揺れるほどの車輪の騒音、荷車一台で塞がれてしまう曲がりくねった通り。これらに対する吐き気を催すほどの嫌悪感は、とても言葉にできない。あまりにも雑多な人種、見るも哀れな乞食、鼻持ちならない金持ち連中!」
— [2]
1400年(応永6年12月21日) – 大内義弘が戦死して室町幕府方が勝利し、応永の乱が終結する。
応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、守護大名の大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱である。
守護大名大内氏
大内氏は百済聖王(聖明王)の王子琳聖太子を祖と称し、周防に土着して武士となり、鎌倉幕府の御家人に連なった。南北朝の争乱では南朝に付くが後に北朝に帰順して九州の菊池氏らと戦い、幕府から周防・長門・石見の守護職に任じられた。
大内義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられた。明徳の乱では義弘は大いに奮戦して武功著しく、和泉・紀伊の守護職を与えられる。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになった。
義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていた。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていた。
周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6ヶ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘った。
1893年 – ハワイ王国でアメリカ人サンフォード・ドールらが王政の廃止を宣言しハワイ臨時政府を樹立。女王リリウオカラニが退位しカメハメハ王朝が倒れる。
1524年 – イタリアの探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが北西航路発見のための航海に出発。
1773年 – ジェームズ・クックらがヨーロッパ人で初めて南極圏に到達。
1781年 – アメリカ独立戦争: カウペンスの戦い。年月日:1781年1月17日
場所:サウスカロライナ、カウペンス 結果: アメリカ合衆国の勝利 損害:米軍 2000人中 戦死10人 英軍 1000人中 戦死100人。
カウペンスの戦い(英:Battle of Cowpens)は、アメリカ独立戦争中の1781年1月17日にサウスカロライナのカウペンスで、ダニエル・モーガン准将指揮の大陸軍とバナスター・タールトン大佐指揮のイギリス軍の間で戦われた戦闘である。
この戦闘の結果、一度イギリス軍に奪われていたサウスカロライナを大陸軍が取り返す転換点となった。モーガン将軍の採った戦術は独立戦争中の戦術的傑作と後世に言われている。
尚、“Cowpens”とは「牛の放牧場」「牛舎のあるところ」の意味である。
1885年 – マフディー戦争: アブクレアの戦い。時 1885年1月17日 場所 ハルツーム 結果 イギリス軍の勝利 損害 英軍 1000人中 戦死72人 スーダン軍 12000人中 戦死 1100人。
1908年 – 北海道新夕張炭鉱でガス爆発。死者91人、負傷者21人[2]。
1971年 – 精進湖で氷が割れ、スケート客9人が死亡。
1961年 – 神奈川県横浜市戸塚区の秋葉踏切で、ダンプカーと東海道本線上り電車が衝突して脱線。そこへ横須賀線下り電車が侵入して脱線車両と衝突する二重衝突事故が発生。乗員乗客9人が死亡、13名が重傷、83人軽傷[6]。
1966年 – 水素爆弾を搭載したアメリカ空軍のB-52爆撃機がスペインのパロマレス沖でKC-135空中給油機と衝突、水爆を搭載したまま墜落。(パロマレス米軍機墜落事故)。総死亡7人。
1991年 – 多国籍軍のイラク空爆(砂漠の嵐作戦)開始により湾岸戦争が勃発。多国籍軍兵士の死者数: 約358人。クウェート市民の死者数: 1,000人以上、行方不明者が600人。メダクト(Medact)による推定では、1991年のイラク国内の反乱も含めたイラク全体の死者数は14万2,500人から20万6,000人に上る
1995年 – 阪神・淡路大震災: 午前5時46分に神戸市でマグニチュード7.3の地震が発生(兵庫県南部地震)、京阪神に大きな被害が出る。死者6400人超。
2002年 – コンゴ民主共和国東部のニーラゴンゴ山が噴火。45人が死亡し、近隣住民約35万人が避難。
2014年 – タイ反政府デモで爆発物がデモ隊に投げ込まれ男性1人が死亡し40人が死傷する。13日に「バンコク封鎖」が始まって以来、デモ関係で初の死者となった。
チャットgpt先生の1月17日のエッセイ
1月17日――歴史が軋む音のする日
1月17日は、静かな冬の一日でありながら、歴史の深部では何度も大きな音を立ててきた日である。月齢28、終わりに向かう月の下で、人類はしばしば「引き返せない地点」を越えてきた。
1377年、ローマ教皇グレゴリウス11世がアヴィニョンからローマへ帰還し、約70年続いたアヴィニョン捕囚が終わった。これは単なる「移転の終了」ではなく、教皇権がフランス王権の影から抜け出そうとする、遅く重い一歩だった。ペトラルカが「西方のバビロン」と呼び、腐敗と過密に嫌悪を示したアヴィニョンの空気は、権威が土地に縛られ、人が権力に縛られることの象徴でもあった。1月17日は、腐敗に耐え続けた時間が、ようやく動き出す日でもあった。
同じ日、日本では1400年に応永の乱が終結する。大内義弘という一人の守護大名の死によって、幕府の中央集権は一時的な勝利を得た。しかしこの勝利は、地方の力を完全に封じたわけではなく、後の戦国時代へと続く緊張を内包したままだった。貿易によって富を蓄え、朝鮮と深く結びついた義弘の存在は、「外とつながる力」が常に中央権力を揺さぶることを示している。1月17日は、秩序が保たれたように見えながら、実は次の混乱の種が温存された日でもあった。
一方で、この日は人類の「前へ進もうとする衝動」も刻まれている。1524年、ヴェラッツァーノは未知の海へ船出し、1773年にはジェームズ・クックが南極圏へ到達した。寒さと危険を承知で境界線を越えようとする人間の姿は、権力闘争や戦争とは異なる、もう一つの人間の本性を映している。だがその探検の先には、植民地支配や衝突という新たな悲劇も待っていた。
そして1月17日は、圧倒的な「破壊」の記憶とも切り離せない。阪神・淡路大震災、炭鉱事故、列車事故、氷が割れた湖、水爆を積んだ爆撃機の墜落。1991年の湾岸戦争開始もまた、人為による破壊の極致だった。これらはすべて、技術や権力、油断や過信が一瞬で人命を奪うことを突きつけている。
とりわけ阪神・淡路大震災は、「日常が一瞬で失われる」という事実を日本社会に深く刻み込んだ。まだ夜の冷気が残る午前5時46分、都市は崩れ、人々は否応なく「生き延びること」と向き合わされた。1月17日は、祈りや追悼が未来への責任へと変わる日でもある。
振り返れば、1月17日は勝利の日でも、敗北の日でも、進歩の日でも、破滅の日でもある。しかし共通しているのは、「後戻りできない選択」がなされたという点だ。教皇の帰還、反乱の終焉、戦争の開始、地震後の復興――いずれも、前の日には存在しなかった現実を、この日が確定させている。
月が欠けきろうとする夜、私たちは問われている。歴史が何度も示してきたように、変化は突然やってくる。1月17日は、悲劇を悼む日であると同時に、次に何を選ぶのかを静かに考えるための日なのだ。

