kagamimochi-nikki 加賀美茂知日記
慶祝と美とグノ-シスの弥増す日々
日々の過去の出来事

今日という日1月3日  フラッシュ航空604便紅海墜落、ほかwikipedia在りし日の墜落機

1月3日

20260103土曜日旧暦11月15日先勝(丁丑ひのとうしテイチュウ)月齢 14

乙巳きのとみ年 戊子つちのえね月 丁丑ひのとうし日 年末まであと362日

吉方位 隠遁日 丁丑ひのとうし日 南 大吉

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1月3日の出来事

1521年 – ローマ教皇レオ10世が回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』を発行し、マルティン・ルターをカトリック教会から破門した[1]。
1614年(慶長19年12月4日) – 大坂冬の陣にて、真田丸の戦いが行われる[2]。損害 双方で3万人以上の軍勢が激突し、10000人以上が戦死。

1889年 – フリードリヒ・ニーチェが神経衰弱を発症。残りの人生を病人として過ごす[4]。

1929年 – 新潟県西頸城郡海岸で大暴風雪のため、30余人の死傷者が出る。

1959年 – 阪急電鉄上新庄駅北側の踏切で、大阪市営バスと阪急電車が二重衝突する事故。死者7人、重軽傷者13人[6]。

1962年 – ローマ教皇ヨハネ23世がフィデル・カストロを破門。
1964年 – 西口彰事件の犯人が逮捕される[7]。日付 1963年10月18日から1964年1月3日 概要 連続殺人犯が詐欺などを働きながら5名を殺害した。死亡者 5人
犯人 西口 彰 容疑 殺人5件、詐欺10件、窃盗2件 対処 死刑

2004年 – フラッシュ航空604便墜落事故: チャーター便のボーイング737機が紅海に墜落。乗客135人と乗員13人の計148人が死亡した[9]。

2009年 – イスラエル軍がガザ地区への侵攻を開始。

1521年 – ローマ教皇レオ10世が回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』を発行し、マルティン・ルターをカトリック教会から破門した[1]。

生涯

生い立ち

マルティン・ルターの父母の肖像画

1483年に鉱山業に従事していた父・ハンス・ルダー[3]と母・マルガレータの次男として、ドイツのザクセン地方の小村アイスレーベンで生まれた。洗礼を受けた日がトゥールのマルティヌスの祝日であったことに因んで、マルティンと名づけられた。農民から鉱夫、そして製錬所の経営者となり、一代にして身を起こした父は上昇志向が強く、子供たちにもさらに上を目指すよう常に要求していた[4]。教育において時に厳格を極めた父の姿は、後のルターが冷酷で厳格な神というイメージを持つ上で強い影響を及ぼすことになる。父の願いに沿う形で、マルティンは勉学に取り組んだ。

マルティンの生後半年ほどで、一家はマンスフェルトへと移住していたため、まずはマルティンはここの教会付属学校に通った。13歳になると自宅から離れ、マクデブルク、ついで15歳から17歳にかけては、アイゼナハにある聖ゲオルク教会付属の修道院校に通い、ここで学んだ[5]。その後、法律家になるべく1501年にエアフルト大学に入学する[5]。哲学を学び、成績優秀で父の期待するエリート・コースに乗るかに見えた。マルティンの人生に最初の転機が訪れたのは、ロースクールに入学した1505年のことであった。家を出て大学へ向かったマルティンは、エアフルト近郊のシュトッテルンハイムの草原で激しい雷雨にあった。落雷の恐怖に死すら予感したマルティンは、「聖アンナ、助けてください。修道士になりますから!」と叫んだという。両親は、修道院に入ることには大反対で、結婚して父の後を継ぐことを望んでいた。しかし、マルティンは、両親の願いを聞き入れるどころか父の同意すら得ずに大学を離れ、エアフルトの聖アウグスチノ修道会に入り、修道士に転進することとなった[5]。

*ヨーロッパの著名人に多い 強権の父のもとに育ち、生涯父を畏怖し続けた人物の典型とわかる。

1614年(慶長19年12月4日) – 大坂冬の陣にて、真田丸の戦いが行われる[2]。損害 双方で3万人以上の軍勢が激突し、10000人以上が戦死。

真田丸の戦い(さなだまるのたたかい)は、豊臣家と江戸幕府の間の大坂の陣(大坂の役)のうち、慶長19年(1614年)に発生した大坂冬の陣における戦いの一つ。戦闘は真田丸だけでなく、大坂城南側全面で発生した。

1889年 – フリードリヒ・ニーチェが神経衰弱を発症。残りの人生を病人として過ごす[4]。

概要

現代では実存主義の代表的な思想家の一人として知られる。古典文献学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル(英語版、ドイツ語版)に才能を見出され、スイスのバーゼル大学古典文献学教授となって以降はプロイセン国籍を離脱して無国籍者であった[1][2]。辞職した後は在野の哲学者として一生を過ごした。随所にアフォリズムを用いた、巧みな散文的表現による試みには、文学的価値も認められる。

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狂気と死

晩年のニーチェ。ハンス・オルデ撮影、1899年

1889年1月3日、ニーチェはトリノ市の往来で騒動を引き起し、2人の警察官の厄介になった。

数日後、ニーチェはコジマ・ワーグナーやヤーコプ・ブルクハルトほか何人かの友人に以下のような手紙を送っている。ブルクハルト宛の手紙では

「            

「私はカイアファを拘束させてしまいました。昨年には私自身もドイツの医師たちによって延々と磔にされました。ヴィルヘルムとビスマルク、全ての反ユダヤ主義者は罷免されよ!」

と書き、またコジマ・ワーグナー宛の手紙では、

「            

「愛しのアリアドネ姫へ。/私が人間であるというのは偏見です。しかし私はすでにしばしば人間の下で生きて、人間の体験できる最低のものから最高のものまで、すべてを知っています。私はインド人の下では仏陀であったし、ギリシアではディオニュソスでした、――アレクサンダーとシーザーは私の化身であり、同じものではシェイクスピアの作者ベーコン卿に。しまいには私はさらにヴォルテールとナポレオンでしたし、もしかしたらワーグナーでも……しかし今度は勝利に輝くディオニュソスとしてやってきて、地を祝祭日となすでしょう……私に多くの時間は無い……天は私がここいることを歓喜します……私は十字架にもかけられてしまった……」

というものであった。

1月6日、ブルクハルトはニーチェから届いた手紙をオーヴァーベックに見せたが、翌日にはオーヴァーベックのもとにも同様の手紙が届いた。友人の手でニーチェをバーゼルへ連れ戻す必要があると確信したオーヴァーベックはトリノへ駆けつけ、ニーチェをバーゼルの精神病院へ入院させた。ニーチェの母フランツィスカはイェーナの病院で精神科医オットー・ビンスワンガー(ドイツ語版))に診てもらうことに決めた。

1889年11月から1890年2月まで、医者のやり方では治療効果がないと主張したユリウス・ラングベーン(ドイツ語版)が治療に当たった。彼はニーチェの扱いについて大きな影響力をもったが、やがてその秘密主義によって信頼を失った。フランツィスカは1890年3月にニーチェを退院させて5月にはナウムブルクの実家に彼を連れ戻した。

エリーザベト・フェルスター=ニーチェ、1894年

この間にオーヴァーベックとガストはニーチェの未発表作品の扱いについて相談しあった。1889年1月にはすでに印刷・製本されていた『偶像の黄昏』を刊行、2月には『ニーチェ対ワーグナー』の私家版50部を注文する(ただし版元の社長C・G・ナウマンはひそかに100部印刷していた)。またオーヴァーベックとガストはその過激な内容のために『アンチクリスト』と『この人を見よ』の出版を見合わせた。

エリーザベトと『力への意志』

1893年、エリーザベトが帰国した。夫がパラグアイで「ドイツ的」コロニー経営に失敗し自殺したためであった。彼女は兄の著作を読み、かつ研究して徐々に原稿そのものや出版に関して支配力を揮うようになった。その結果オーヴァーベックは追い払われ、ガストはエリーザベトに従うことを選んだ。

1897年に母フランツィスカが亡くなったのち、兄妹はヴァイマールへ移り住み、エリーザベトは兄の面倒をみながら、訪ねてくる人々(その中にはルドルフ・シュタイナーもいた)に、もはや意思の疎通ができない兄と面会する許可を与えていた。

1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で亡くなった。エリーザベトの希望で、遺体は故郷レッケンの教会で父の隣に埋葬された。ニーチェは「私の葬儀には数少ない友人以外呼ばないで欲しい」との遺言を残していたが、エリーザベトは兄の友人に参列を許さず、葬儀は皮肉にも軍関係者および知識人層により壮大に行なわれた。ガストは弔辞でこう述べている。

「            

―「未来のすべての世代にとって、あなたの名前が神聖なものであらんことを!」[注 9]

エリーザベトは兄の死後、遺稿を編纂して『力への意志』を刊行した。エリーザベトの恣意的な編集はのちに「ニーチェの思想はナチズムに通じるものだ」とのイメージを定着させる原因となった(#思想参照)。決定版全集ともいわれる『グロイター版ニーチェ全集』の編集者マッツィーノ・モンティナーリ(英語版)は「贋作」と言っている。

1929年 – 新潟県西頸城郡海岸で大暴風雪のため、30余人の死傷者が出る。

1959年 – 阪急電鉄上新庄駅北側の踏切で、大阪市営バスと阪急電車が二重衝突する事故。死者7人、重軽傷者13人[6]。

1962年 – ローマ教皇ヨハネ23世がフィデル・カストロを破門。
1964年 – 西口彰事件の犯人が逮捕される[7]。日付 1963年10月18日から1964年1月3日 概要 連続殺人犯が詐欺などを働きながら5名を殺害した。死亡者 5人
犯人 西口 彰 容疑 殺人5件、詐欺10件、窃盗2件 対処 死刑

概要
前科4犯の西口 彰(にしぐち あきら、1925年〈大正14年〉12月14日、キリスト教カトリックの家庭に生まれる)が1963年10月に2人を殺害し、その後、1964年1月3日に逮捕されるまで逃亡を続け、大学教授や弁護士などを騙って計5人を殺害し、計80万円を詐取した。熊本では弁護士を装って教戒師・古川泰龍の家に押し入ったが、当時小学5年生(10歳とも11歳とも言われる)だった古川の娘が正体を見抜き、警察に通報することにより逮捕につながった。

古川 泰龍(ふるかわ たいりゅう、1920年〈大正9年〉8月23日 – 2000年〈平成12年〉8月25日)は、日本の真言宗の僧侶。死刑囚の冤罪撤回運動に尽力した。

2004年 – フラッシュ航空604便墜落事故: チャーター便のボーイング737機が紅海に墜落。乗客135人と乗員13人の計148人が死亡した[9]。

フラッシュ航空604便墜落事故(フラッシュこうくう604びんついらくじこ)は、2004年1月3日の午前4時40分(現地時間)にシャルム・エル・シェイク国際空港を離陸し、カイロ国際空港を経由してシャルル・ド・ゴール国際空港へ向かう予定だったフラッシュ航空604便(ボーイング737-3Q8、機体記号:SU-ZCF)が離陸後上昇中に操縦不能に陥り、海に墜落して乗員乗客148名全員が死亡した航空事故である。

2009年 – イスラエル軍がガザ地区への侵攻を開始。

ガザ[1]地区(ガザちく、アラビア語:قطاع غزة, 文語アラビア語発音:Qitāʿ GhazzahないしはQitāʿ Ghazza(キターウ・ガッザ)、口語アラビア語(現地方言)発音:Qitāʿ GhazzehないしはQitāʿ Ghazze(キターア・ガッゼ)、ヘブライ語: רצועת עזה, Retzuat ‘Azza)は、中東のパレスチナ国(パレスチナ自治政府)に属する行政区画である[2]。名称は中心都市であるガザに由来し、パレスチナ領域の一部を占めている。

チャットgpt先生の1月3日のエッセイ

一月三日という日は、暦の上ではまだ年の始まりにありながら、人類史のなかではしばしば「断絶」や「転換」が刻み込まれてきた日である。新年の静けさとは裏腹に、この日は秩序が揺らぎ、信念が破門され、理性が崩れ、そして大量の死が記録されてきた。

1521年1月3日、ローマ教皇レオ10世はマルティン・ルターを破門した。これは一個人への宗教的処分にとどまらず、ヨーロッパ世界の精神的統一が決定的に裂けた瞬間だった。父の強権のもとで育ち、厳格な神の像を内面化したルターが、教会という「父」に反旗を翻したこの出来事は、近代の夜明けを告げる雷鳴でもあった。雷雨の中で修道士になることを誓った青年は、やがて世界そのものを揺るがす存在となる。一月三日は、信仰が服従から問いへと転じた日でもある。

同じく「父」と「権威」の問題は、1889年のニーチェにも影を落とす。トリノの街頭で精神の均衡を失ったニーチェは、自らを神や英雄の化身として語り始めた。理性を極限まで突き詰め、「神は死んだ」と宣告した哲学者は、皮肉にもその先で理性そのものを失った。一月三日は、思想が肉体を超えようとして崩れ落ちる地点を示している。彼の狂気は単なる病ではなく、近代精神が背負った緊張の爆発のようにも見える。

日本史に目を向ければ、1614年の真田丸の戦いがこの日に起きている。三万を超える軍勢が激突し、一万人以上が命を落としたという数字は、もはや英雄譚の域を超え、戦争という装置の冷酷さを突きつける。城を守る知略と勇気が称えられる一方で、無名の死が夥しく積み重なった現実を、一月三日は黙って示している。

近代以降も、この日は惨事と隣り合わせだ。暴風雪に襲われた新潟の海岸、踏切で衝突した電車とバス、紅海に沈んだ航空機。さらには連続殺人犯の逮捕や、ガザへの侵攻開始といった暴力の連鎖も一月三日に重なる。年が新しくなっても、人間の営みは容易には刷新されないことを、歴史は冷静に告げる。

それでも一月三日は「先勝」であり、月は満ちゆく十四夜にある。光はほぼ円満に近づき、南は大吉とされる。破門も、狂気も、戦も、すべては終わりであると同時に始まりでもあった。ルターの破門は宗教改革を生み、ニーチェの沈黙は思想の余白を後世に残した。真田丸の敗北は、戦国の終焉と泰平への入口となった。

一月三日とは、年の初めに置かれた「境界の日」なのかもしれない。古い秩序がまだ影を落とし、新しい世界が完全には姿を現さない、その狭間。人はそこで、何かを失い、何かを決定的に変えてしまう。静かな正月の裏側で、歴史はいつも大きく息を吸い込み、次の時代へ踏み出す準備をしてきた。

この日を迎える私たちもまた、過去の重みを踏まえつつ、何を断ち、何を選び取るのかを静かに問われている。満ちかけた月の光の下で、一月三日は今日も、人間の弱さと可能性の両方を映し出している。